Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

妻の風邪

2012-02-16 21:43:34 | Weblog

 昨日夕食後「頭が痛いし、熱っぽいのでこれから寝る。母のことをお願いします」と言って妻は二階に上がった。妻は昨年末に肺炎で1カ月ほど寝込んだ。この時医師は風邪という処方で薬を呑んでいたが、良くならないので再度検診に行ったら、肺炎であると言われた。それは母が下血して済生会病院に入院した後のことであった。その時母の看護等大変であったことが原因なのかも知れない。熱が下がらず1カ月近く寝込んだが、この時は母と妻の介護、看護でてんてこ舞いであった。その時からは、妻に無理なことはさせないようにしてきた。私に比べ体質的に弱いので、その後は、夜も母の近くに寝て、その介護をするようにして来た。

 しかし妻がまた風邪を引いてしまった。長引くとまた肺炎になるのでないかと心配であり、食事、洗濯等も私が行うようにした。それでも今朝の食事は妻が起きて作ったが、食べずにそのまま寝た。食欲がない様子であった。私は母と朝食を取ったあと母と居間で過ごした。そして午後2時から、「TOの家」でボランティアに行くことになっていた。その前に昼食をマートに買いに行った。妻からは「私はバナナだけでいいから」と言われた。2階にバナナとおにぎり、それに野菜ジュースを買って持っていくと、妻は「今度の風邪は、早めに寝たので、酷くならないで済みそうだ」と言って私を安心させた。

 妻にホランティアに行くことを言い「TOの家」に向かった。今日も施設利用者が40人ほどきていた。しかし準備不足であったこと、それに今日は声が出なかった。高音はかすれるし、低音は聞き取れないほどであった。介護疲れと寝不足によるものなのかと思った。それでも何とか終わった。家に帰ると妻が起きていて、居間で母の面倒を見ていた。寝巻の上に綿入れ褞袍を着て、タオルを首に巻いていた。もちろんマスクもしていた。それでも以前の風邪を引いた時より軽そうに感じた。このまま直ってくれればと思った。しかしそんな訳にはいかないのかもしれない。妻はその間に、ご飯を炊く準備をしていて「夕食はおかずだけを買ってきて」と言ってまた床に入った。

 その後午後5時に鉄道OB会の事務局長と会う約束をしていたので、駅コンコースに向かった。次期OB会役員の話を詰める必要があったからだ。彼に今までの経過を話し、私の考えを話したが、承諾するところまではいかなかった。まだ時間があり、互いに検討しようと言うことで別れた。帰ったら、母のことで、妻が奮闘していた。母を直ぐ風呂(シャワー)に入れてから、夕食を食べた。そこでも妻はバナナだけしか食べなかった。風邪がぶり返さないことを願った。 


「ノクターン9-2」から

2012-02-15 23:43:33 | Weblog

 4月22日(日)はS学苑ピアノ教室の発表会がある。しかしあまり練習してないし、今回はキャンセルしようと思っていた。2月9日のレッスン日もその時間犬の散歩に出かけていた。その留守にS学苑から電話があり、出た妻に「先生からの伝言ですが、4月に発表会があるので、レッスンに出てくるようにと言ってください」との伝言があった。時間を見ると6時10分を過ぎていた。私のレッスン時間は午後6時から30分間である。行って断ろうと自動車で出かけた。家から近くにあり3分ほどで着いた。

 先生曰く「前回出た男性4人は全員出ますし、貴方も出てほしい」そしてプログラムの原稿を見せてくれた。そこには私の名前があった。この状態では断るわけにもいかないかと思った。15分ほど「ノクターン9-2」弾いてみた。この曲に決めてから半年ほど経つが家ではまず練習してないし、レッスンも休みがちであったので、上手く弾けなかった。それでも「これから休まずにレッスンを受ければ。ここまで弾けたのだから、本番までには間に合いますよ」と言った。そこまで言われたらやらざるを得ない。そんな訳で、この5日ほどは、短時間であるが毎日弾いてきた。この曲は原曲ではなく、初級者用に編曲してある。この5日ほどの練習で、少し上達したかと思い、YOU TYUBEで原曲を聞いてみた。まるで別の曲を弾いているようで、私が弾くのと全然違った。改めて自分の未熟さを思った。とは言え発表会まで何日もあり、それに近づけたい。

 パソコンで開いて、ショパンや、「ノクターン9-2」について調べてみた。『ショパンは「ピアノの詩人」と言われるように、ピアノ独奏曲を多く残している。その中でもノクターンは全21曲あり、作者は20歳の時から晩年に至るまでほぼ均等に創作されている。ピアノ独奏曲としてのノクターンは、アイルランド出身のジョン・フィールドの影響を受け、完成させたと言っていい。その中でもこのノクターン9-2は大変有名な曲で、ロマンチックなメロディーが修飾されながら繰り返されるだけで、音楽的にはそれほど深みはない。ただ基本になるメロディがあまりに美しいこと、しかし様々な修飾が入るにもかかわらず演奏難度が低いのがポイントである』このようなコメントがあった。

 ショパンは39歳で結核で亡くなったとある、その間理解者に恵まれ短い生涯を閉じている。彼の曲を聴くと心が洗われるような気持ちになるが、私もこの曲を選んだのも、そうした心境に浸りかったからなのかもしれない。今まで発表会の都度失敗している。今回も自信がないが、やるだけやろう。 


半月ぶりのデーサービス

2012-02-14 17:33:50 | Weblog

 母が風邪を引いたのは、1月31日夕方からであるから、半月ぶりにデーサービスに行くことになった。最初のころはベットで寝ていることの多い生活で、足こしが弱くなり、立ち上がったり、手すりで動くことが出来なくなった。食べるものもお粥が少々で、好きであったお茶も、与えるが直ぐ嫌がった。それに喉の奥がゼイゼイと鳴って苦しそうであった。そして2月9日には体が衰弱し、このまま回復できないのではないかと思った時があった。直ぐ救急で済生会病院に行ったが、医師からは「肺炎にはなっていないし、血液検査でもほぼ正常であることから、脱水症状による症状ではないか」と言われた。3時間ほど点滴をしたあとは入院することなく、夕方には家に帰ることが出来た。

 その後は、嫌がるが水分を多くとるようにし、段々食事も進むようになった。2月13日には、姿勢が斜めに沈みがちになる今までの車いすを取り替えた。その結果姿勢よく座るようになり落ち着いた感じになった。まだゼイゼイとすることもあり、風邪を引く前の状態には戻っていないが、弱々しかった言葉も、少し力が出て、声も出るようになった。しかしこのまま刺激の少ない家にいると、病気や認知症も進むような気がした、そこでケアーマネージャーと相談し、今日からデーサービスに行くことにした。

 朝9時過ぎデーサービスの車がきた。母に「今日からデーサービスに行くからね」と言うと、嫌な顔もしなかった。そして迎えに来た介護士にも「おはようございます」と言った。覚束無い足取りであったが、私が後ろから脇の下に手をやり歩かせると、何とか自動車のところまで歩いた。妻は連絡簿に、今の母の症状等書いたものを渡し、母は迎えの自動車に乗っていった。家にいる間は風邪によるものなのか便が緩くなったことなど介護士に伝えた。

 午後4時過ぎ母は帰ってきた。迎えに出ると車いすに乗っていた。そして介護士は「足が弱くなっていたので、車いすで過ごした以外は、食事等普通に食べたこと。便は出なかったこと等話し、困ることはなかった」と言った。車椅子から降りて、玄関の上りかまちでは、何時もは手すりを持って上がっていたが、後ろから支えてやらないと上がれなかった。それでも新しい車椅子に乗って、ダイニングのテーブルのところに行くと、食べるものはないかと、手で仕草をした。妻の実家から贈ってきたマンゴーを出すと、さじで美味しそうに食べた。あと熱が出なければよいが、取りあえずデーサービスに行ったことは良かった。


「支部だより」の編集準備

2012-02-13 21:16:24 | Weblog

 鉄道OB会の情報誌として、四半期ごとに「支部だより」を発行している。次回は4月1日発行のもので、その準備にそろそろ取り掛からなければならない。紙面のレイアウトから、記事の内容、広告、印刷から配布までOB役員が手分けして行っている。まず2月の月例部会までに、大まかなレイアウトを決め、その各々の編集担当を決める。そして3月の月例部会には「支部だより」の素案をつくり、多少の修正の後印刷する。そして4月1日に各会員の手元にに届けるようにしている。

 この作業は、大きな労力が必要であり、役員の負担になっている。しかし10年ほど続いたものであり、これが活動の原点であり、何とか続けようとしているのが現状である。2月22日がOB会の月例部会であり、午前中大凡のレイアウトをつくった。その紙面に、OB会員で「地域で活躍している人」を紹介する欄がある。その個人に約1000字程の、原稿を書いてもらい掲出すことになっている。それと「JRの関連会社」を紹介する欄もある。これも800字程度で纏め写真など添付するものである。これについては前もって、掲出について依頼しなかればならない。この依頼文作成して届けることにした。

 依頼するのは「地域で活躍している人」は駿河区の某町内会長のMIさんと「JRの関連会社」は某不動産の静岡支社である。事前に電話を入れると大筋了解をもらった。午後5時ごろ、訪ねて行くと、MIさんは「これから町内の集会があるので、丁度良い時来てくれた」と、書面を受け取ってくれた。3月15日に受け取りに伺うことを話し、次の某不動産に向かった。この所在地は今まで分からなかったが、我家から歩いて15分ほどの近くで、APITAグルメ館の3階にあった。JR関連企業は、駅周辺にあるものと思っていたが、静岡地区の関連不動産が集中するこの場所にあった。

 支社長に会って話したが、気さくな方で直ぐ引き受けてくれた。彼はJR時代静岡に在住したのは、ほんの一時期であり大阪地区が長かったと言った。JR時代関連事業関連が長く、鉄道の本業からは離れたところで仕事をしていた。それ故私と同類の仕事をしていたが、互いに知らないで来た。そんな話になり、現在は静岡に在住し、且つJRを退職していることから、OB会に入ることを進めた。即答はもらえなかったが、原稿が出来た3月15日までには、はっきりすろことを約束した。私と一回り程離れていて若いが、仕事をしているので目が輝いていた。


TO大学卒業演奏会を聴く

2012-02-11 22:30:31 | Weblog

 午後1時に鉄道OBのSUさんと静岡駅改札で会った。駅構内にある喫茶店で、次年度以降のOB会役員のことで話した。しかし話しは良い方向には行かなかったが、今後も彼に骨を折ってもらうことを約し、30分ほどで別れた。ここまで来たので静岡音楽館AOIの一回のパンフレッドコーナーに何か良い催し物がないか見に行った。そこでTO大学教育学部音楽専攻の卒業演奏会が今日行われていることを知った。開演午後1時からで、既に過ぎていたが8階にコンサートホールに行った。そこで案内スタッフに聞くと「1部は終わりましたが、2部は今から始まります」とのことであった。直ぐ会場に入った。

 この卒業演奏会は昭和55年春、大学が開学とともに入学した初等教育課程音楽専攻学生の手で始められた卒業演奏会で今日まで続いていて、今回29回目を迎えたと聞いた。この音楽専攻科は、小学校・中学校の音楽教育の指導者養成を目的として学んだ生徒であり、音楽を通し、子供達を育てる任務に就くことになる。そしてこの4年間の成果を発表する機会に出くわせたもので、期待して聴くことにした。

 会場には、家族や、関係者の人等が来ていて、約8割の入りであった。演奏者は11名であリ、声楽とピアノに分かれて演奏した。声楽はオペラのアリアが主体であり、ピアノの作曲者もショパン、シューマン、ドビュシー、グラナドスといったクラシックの名曲ばかりであった。2部からであり、最初はソプラノ独唱であった。高音がスムースに出る人で、オペラのアリアであったが、初めて聞くとプロの歌手と言っても分からないほど、良く伸びた声であった。その後もピアノの独奏があった。これも素晴らしいと思った。その後も何人かが演奏したが、前の人と比較するとその特徴が分かった。

 最後から2番目にメゾ・ソプラノ独奏があったが、これを聞くと、彼女の良さが引き立った。多分皆さん同じ年ごろと思うが、この人の声の質が違うほどよかった。しかも舞台慣れした堂々とした貫禄すら感じた。そして最後に弾いたピアノ独奏も上手かったし、私には日本を代表するピアニストと変わらないように思えた。学校の先生を目指すこの方たちにも感動したが、音楽のプロを目指す東京芸大とか、国立音大等で勉強している人はもっと高レベルの質が求められているものと思うと、プロの音楽家として生計を立てることの難しさを感じた。 


社会福祉協議会に出席して

2012-02-10 21:59:54 | Weblog

 町内には町内会とは別組織であるが、社会福祉協議会(社協)がある。この社協は町内会と連携を取りながら運営している。よって町内役員は両方の役員をしていることが多い。この社協の平成23年度事業報告と年度末までの事業計画について午後6時から集会があった。メンバーは13人であるがその内町内会役員が9名占めている。

 最初に会長から今年度実施したことの報告があった。大きく分けて4つの項目について説明があった。『① 「ふれあい広場」は、地域の触れ合いを大切にし、互いに助け合う意識を養うことを目的として、2回/年公民館に集まり、体操をしたり、輪投げ、ダーツ大会、菓子作りを行った。参加人員が昨年より増え浸透している。②「独居高齢者(70歳以上)慰問」 これも2回実施してきた。高齢者の孤独感解消のため、社協会員が手分けして、20人近くいる独居者の悩み等を聞いた。③ 「花壇の管理、花植え」 町内を美化し住みやすい環境をつくる目的で、町内の一角に花壇をつくり、1年を通して、整備された花が咲いているところをつくった。その花植え、花の管理、水撒き、草取りを会員が実施してきた。④ 「町内会等との共催事業」として、町内運動会の実施、敬老会、登呂祭り協賛、子供部との清掃事業、自主防災との合同会議等実施し、昨年度以上の実績を残すことが出来た。皆さんの協力に感謝する。そして今後も弱者の視点に立って誰もが住みやすいと思えるような地域作りをして行きたい』こんな話があった

 その後、意見交換があり、『町内にはいろいろな技量をもった人が多い。その人達の作品の展示会等行ったらどうかといった意見や、ふれあい広場で行うことがマンネリ化しないよう、工夫が必要とかの意見があった。会長からは「町内の社協のあり方は、地区によって違うが、斬新的方法で成果を上げている地域もあるので、そうしたところを参考にして今後に生かしたい」と話し、打合せは終わった。

 後は夕食を食べながら、雑談になった。こうした席で本音が出るもので、いろいろな意見が出た。その中で社協の重要な仕事は高齢者に対するホローが大きい。しかし高齢者をまとめる寿会との連携が上手くいっていない。今回の集会も寿会へ参加を呼び掛けたが出てこなかったと聞いた。どのような組織でも長い年月が経つと、そこにしがらみができ、外から見るとおかしいと思入れ事も、修正することが大変となる。住民福祉のためとの認識を持って3会が話し合うことで、改善できると考えた。 


OB会役員説得、その他

2012-02-09 20:35:59 | Weblog

 午前10時に後輩と会う約束をした。彼はKENN君で国鉄、JRと同じ道に進み、関連会社でも同じN社で働き、私を助けてくれた。そこを退職した後は、同業の会社に乞われ、現在はそこの責任者として働いている。年齢は70歳近くでそろそろ自由の身になると聞いていた。彼に、鉄道OB会の役を引き受けてもらいたいと、駅の喫茶店に呼び出した。

 彼にOB会の実態や活動状況を説明し、役員として手伝ってほしいことを伝えた。しかし彼は「1つ、現職として勤めていること。2つ、奥さんが糖尿病を患い、家事の全てを彼がやっていること、それに本人も病気を持っていることから、これ以上のことはできない。よって勤めが終わったなら協力するが、今はできない」とのことであった。この話に反論することは出来ても、ボランティア的活動であり、信頼の上に成り立っていることから、私もこれ以上話はしなかった。1時間ほどの話であったが「状況が好転したら協力してほしい」と言うしかなかった。現職時代は、きつい仕事にも耐えて頑張ってくれた。人間的にも誰からも好かれ、彼の周りには人が集まる仁徳があった。自己を顧みないで、尽くす人間であると思っていた。しかしそれを許さない事情があるのだと思った。残念であるが諦めた。

 昔の鉄道OB会は、全国組織で大規模であった。それ故「寄らば大樹の陰」に守られた感覚があり、その発言力も強かった。その流れは今も継いでいるが、各地区ごとに分かれた組織は、発言力も弱まり、しりつぼみの感は否めない。故に率先して役員になろうと言う人はまずいない。しかし100年近く続いた組織が衰退していくことを黙って見ているわけにはいかない。それを何とか食い止め、相互に助け合う組織にしたい。

 今まで2人に話し、今後もOB活動を継承してくれることを話したが駄目であった。むなしさが残った。しかし何とかしなければならない。これから2月末までに、5人の人に会って、次年度の体制を作っていこうと思う。めぐりあわせで、このようになったが、自分が前向きに進めるなら、閉ざされた道でも開けるものと思う。

 蛇  足 (午後1時ごろ家に帰ってくると、母の様子がおかしい。手をだらっと下げて、身体に力が入らない。目も閉じ、弱々しく「ありがとう」「さようなら」といった言葉を言う。そぐ行きつけのSU病院に電話すると、午後は休みであった。それでも看護師が出てくれた。医師と代わり、母の様子を伝えると、直ぐ救急病院に行くよう話された。済生会病院に行くと、検査をしてくれたが、所見は悪いものはなかった。脱水症状ではないかと言われた。入院するつもりで行ったが、点滴を打ったら少し元気になったので、そのまま帰った。)   


マッジク教室に行く

2012-02-08 22:25:23 | Weblog

 マッジク仲間でつくる「あすなろ会」は月一回午後7時から勉強会を行っている。今日はその日であり夕食を食べた後、南部生涯教育センターに出かけた。最近寒いこともあってか、私が行ったとき、まだ2名の方がいるだけであった。最近出席率は悪くなったことを感じた。以前は先生がいて、毎月テーマを決め、みんなに教えてくれていた。それ故授業料も高かったが活気があった。しかし最近は熟練しているTOさん、SUさんの2人が新しいことを教えてくれる。それだけでは物足りないと思う人もいるのかと思う。しかし一生懸命に教えてくれる。これが毎月行っている保育園や介護施設での実技を行うことで、現状は維持できていると思う。

 教室には私の後、一人が来て4人であった。会長のTOさんは、1月に実施した2回の保育園のでの演技の報告があり「一月の実演ありがとうございました。保育園での子供達は頭も柔軟であるし、吸収力もある。その上疑問に思っていることを率直に言うので、演技が大変であったが、皆さん良い出来であった。それに子供が分るよう、色彩に富んだものが多かったので、子供達も喜んだ。園長先生からは今年中には再度来てほしいと言われた」等の話しがあった。

 3月までのスケジュールは2月12日、3月6日、老人介護施設に一回ずつ行くことになった。その後リング(10cm)と紐を使った演技を会長のTOさんが教えてくれた。実技をやっていると時間の経つのも早いもので、2時間ほどの時間は直ぐ過ぎた。この実技は、その場で出来るようになったが、すぐ忘れてしまう。自分なりにメモをしておくことが必要であり、家に帰ってから整理することにした。

 家に着いたのは午後9時を回っていた。まだ犬の散歩に連れて行ってないので、そのまま自転車で出かけた。家に入ると妻が待っていて「直ぐ母を風呂に入れるから」といった。風邪で熱が続いたので8日間も入っていない。まだ咳を時たまするが、熱は36℃台になったことから、私が帰ってから風呂に入れることを決めて置いた。入れるときは妻と2人掛である。母を背中から抱えるようにして、浴槽に入れたが、以前に比べ足が弱っていることを感じた。浴槽もまたげなくなっていたし、身体がふらふらしていた。浴槽に15分ほど入っていたが、気持ち良い顔をしていた。出した後は妻にバトンタッチして、直ぐ寝かせたが風邪がぶり返さないことを願っている。


一回目の説得

2012-02-07 21:51:02 | Weblog

 昨夜から今朝に掛けて発達した低気圧が通過し、強い雨と風が吹いた。これも午後にはおさまり、上着を一枚脱いでも過ごせるような暑さになった。2月とは言え17℃近く上がると言っていた。今朝は9時に予約してある歯医者に行った。先日入れた入れ歯が歯茎を傷め痛かったので、少し削ってもらった。その後は痛みも和らいだようなきがした。今日は意中の人を説得する日であり、歯が痛いと考えもまとまらないし、話も上手く出来ないと思い治療した。

 今日は午後5時に、鉄道OB会のNA君に次期支部長を打診することにしている。私も1期2年の任期が3月末終わること。それに93歳になる母の介護が、日に日にきつくなり、これ以上続けることは耐えられないところまで来ている。そんなことから事前に正式に話しではないが、何とか頼むと言った程度の話をした。しかし彼からは良い返事はもらってない。そこで昨日連絡し、彼が都合が良い午後5時に支部事務所で会うことにした。

 午後5時少し前に事務所に行くと、彼は既に来ていた。前に話してあるので、直ぐ話し合いに入った。私から「一期2年の任期が3月で終わるので、その後は貴方にバトンタッチをしたい。この様になったのは、家庭的問題であるが、母の病気とその介護で、妻も寝込んでしまっている。実質私が母の介護を行っている状態である。このような状態では支部長のような重責は務まらないので、今回で降りたい」と話した。彼は、紙に書いた5人ほどの候補者を示し「私より適任者と思える人は、ここに書いたような人がいる。この人の内から誰かがやってほしい。私のようなものが支部長になるのはおかしい。それに支部長は一期だけでは任期途中で、二期やるのが今までの通例である。もう一期行ってほしい」その後も同様の話が続いたが、平行線であった。1時間ほど話したが良い返事は貰えなかった。「再度考えてくれ」と言って別れた。

 近日中に再度話し合ってみるが、今日の時点では受けるとの感触は全然得られなかった。この活動はボランティアであり、当人がその気にならない限り、無理押しすることが出来ない。しかし誰かがやらなければならない。彼は支部のためよく動いてくれた。それにボランティア精神も旺盛であり、OB会の事務局長として、鉄道への恩返しの気持ちを持っていることは伝わってくる。それ故彼を説得したが。まだ一回目であり、今後も、めげずに彼を説得したいと思う。 


雨の日の雑感

2012-02-06 22:15:49 | Weblog

 朝から静かに雨が降っている。庭の枝から垂れる滴を見て降っていることが分れ程度の雨である。乾燥した寒い日が続いていたので、この雨は恵みの雨と言えるのか。厚い雲に覆われていることもなく、明るさを感ずるような天気である。静岡では雪が降ることはないが、内陸部や日本海に面した地方は大雪で困っていたが、これで少し解消されるのではないかと私なりに思った。飼い犬の「モモ」も雨が嫌いで、犬小屋の一番奥にうずくまっている。

 母は風邪を引いて高熱を出したが、今は熱が下がってきている。しかしまだ平熱より高い状態が続いている。5日ほど寝ているので、足が弱って、自分でベットから出ることが出来ず寝ている。便所に連れて行くときは、後ろから脇の下に手を入れ支えてやらないと、一歩も前に進まなくなった。ときどきベットの中で、うわごとを言い幻想の中で会話している。それも弱々しい声であり心配である。ふと、このまま起きれなくなるのでないかと思ってしまう。この5日間で急激に老いていることを感じた。それでも「ご飯を食べるか」と聞くとうなずく、しぐさをする。ベットの頭を立てて、お粥を食べさせても、眠ったような目をして食べている。良くなったら、リハビリをしないと伝い歩きも出来なくなってしまうような気がした。

 新聞受けに、ふれあい音楽運営委員会事務局から、DVDが送られてきた。これは昨年末清水市民文化センターで行われた「歓喜の歌市民大演奏会」の様子を収録されたビデオであった。今までこのビデオは買ったことがなかったが、市民文化センターで行うのは最後であって、来年は清水駅近くに新築したところで行うことになっている。2時間ほどの収録であったので、最初から見てみた。ここで歌ったのも5回目であり、概ね暗譜で歌えた。今までの内一番は力強く歌えたと思った。しかし270名の中の一人であり、そうしたことが分るわけがなかった。それでも全体としての調和のとれた大合唱となっていた。一緒に歌った仲間に見せてやろうと思う。

 午後7時から町内の2月定例会があった。今回は平成23年度の区長、班長に加え平成24年度の区長、班長も一緒に来ていた。それは、この2月に新役員を決め、引き継ぎを行うことが通例となっている。そして今回は町内会長も変わった。新会長も鉄道OBであり、これで2代続けて鉄道出身者が就く。年齢は私より若いし、これからもサポートしていくつもりでいる。又この席で婦人部の役員と体育部の役員も決めなければならない。この役員を決めるのに1時間程かかった。その後恒例となっているSAさんの碁会所に集まることになっていたが、母のこともあり私は失礼した。