核と人類は共存できない▼2年近く寝たきりだった
▼その後、14回入院し、皮膚の移植を重ねた少年
▼核も原発も、「核戦争」という「分母」の上に立つ双生児!
画像http://blog.livedoor.jp/hanbenokamon42/archives/cat_45036.html
2013/08/09 「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」 ~岩上安身による谷口稜曄(すみてる)長崎原爆被災者協議会会長インタビュー http://iwj.co.jp/wj/open/archives/95640
岩上安身氏↑より 転記↓
遡ること68年前、郵便局に勤務していた谷口氏は、
長崎市住吉町の路上で集配中、
轟音とともに襲来した爆風で吹き飛ばされた。
「自転車に乗ったまま、後ろから焼かれ、飛ばされた。
『ここで死んでしまうのか』という思いが頭をかすめた」。
気がつけば、
左手は肩から指先まで皮膚がべろりと垂れ下がっており、
そばには、ぐにゃりと曲がった自転車と
黒こげになった子どもの死体があったという。
「私の体からは血は一滴も流れず、痛みを感じることもなかった。
ムチで叩かれたように、一瞬だけ、すごく痛かったように覚えている」
と説明し、こう続けた。
「『死んでたまるか』と自分で自分を励ましながら、
木の陰で2晩を過ごし、3日目の朝にようやく救助された」。
その後は、うつ伏せ状態で寝たきりの生活に。
「日がたつにつれ、焼けた部分がどんどん腐り始め、
腐ったものが体の外に流れ出るのがわかった。
1日に何度もボロ布でふき取られた。
苦しくて苦しくて、たまらなかった。
ペニシリンを使ったが、ほとんど効き目はなかった。
しばらくして、
特殊な飲み薬を服用するようになり、ようやく改善へと向かった」。
自力でベッドから抜け出せたのは、
1947年5月のことだったが、その折の痛みたるや
尋常ではなかったという。
「2年近く寝たきりだったのだ。
頭から足の方向へと血液が流れる感覚を、
私の体が完全に忘れており、
立った時は
針で刺すような激痛が全身を走った。
目を閉じてこらえるほかなかった」。
また、谷口氏は
「寝たきりから開放されても喜べなかった。
『こんな体で、社会復帰できるのだろうか』
という不安が大きかった。
戦争を憎み、原爆を憎んだ」
と振り返った。
退院後、谷口氏は郵便集配の仕事に復帰する。
岩上が「体に無理はなかったのか」と尋ねると、
「自分を鼓舞して必死に働いたのだが、
背中の具合はずうっと悪く、
その後、14回入院し、皮膚の移植を重ねた」
と明かした。
岩上が、さらに
「健康被害と対峙しながら、社会復帰を果たした時、戸惑いはなかったか」と問うと、
谷口氏は
「戦時中は『国のために』という言葉をさんざん聞いた。
それに対し、
『本当は国のためではなく、一部の人たちのために、
兵士のみならず、われわれ一般国民も戦わされたのではないか』
と疑問を感じるようになった」
と話した。
現在、長崎原爆被災者協議会の会長を務める谷口氏は、
「核廃絶」を訴える活動に尽力中である。
長崎を訪れた修学旅行生に
被爆体験を語る「語り部」を、
ライフワークとして長年続けている。
岩上が
「核の平和利用、という宣伝文句で始まった原発事業が、
福島であれだけの事故を起こしたにもかかわらず、
再開されるムードが高まっている。
一方では、日本に軍国主義が再来する兆候も見られるが」
と水を向けると、谷口氏は
「核と人類は共存できない。
核には、きれいな核も、汚い核もない」
と明言。次のように力説した。
「私が長崎で浴びた放射能も、
福島の事故で広がった放射能も、まったく同じ放射能だ。
だから、われわれ被爆者は
『核兵器をなくさなければいけない』
と訴えるし、
それと同時に
『原発もなくさなければいけない』と訴えるのだ」。
谷口氏は
「原発の廃絶を訴える機運は、広島より長崎の方が強いのではないか」
との見方を示す。
長崎に投下されたプルトニウム型爆弾は、
現代の核兵器の主体であり、
原発の技術は軍事転用されるためだ。
「長崎では、福島の原発事故が起こる前から、
原発反対を表明していた」とした谷口氏は、
「日本政府がインドに原発を輸出するという話が伝えられているが、
『何を考えているのか』
と安倍晋三首相に抗議したい。
長崎の被爆者は、そういう思いだ」
と力を込めた。
この日、長崎市の田上富久市長は平和祈念式典で、
「NPT(核拡散防止条約)に加盟しないインドへの原子力協力は、
NPTの形骸化につながる」
と平和宣言を読み上げている。
【IWJテキストスタッフ・富田/奥松】.
2013/08/09 「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」 ~岩上安身による谷口稜曄(すみてる)長崎原爆被災者協議会会長インタビュー http://iwj.co.jp/wj/open/archives/95640
岩上安身氏↑より 転記↓
遡ること68年前、郵便局に勤務していた谷口氏は、
長崎市住吉町の路上で集配中、
轟音とともに襲来した爆風で吹き飛ばされた。
「自転車に乗ったまま、後ろから焼かれ、飛ばされた。
『ここで死んでしまうのか』という思いが頭をかすめた」。
気がつけば、
左手は肩から指先まで皮膚がべろりと垂れ下がっており、
そばには、ぐにゃりと曲がった自転車と
黒こげになった子どもの死体があったという。
「私の体からは血は一滴も流れず、痛みを感じることもなかった。
ムチで叩かれたように、一瞬だけ、すごく痛かったように覚えている」
と説明し、こう続けた。
「『死んでたまるか』と自分で自分を励ましながら、
木の陰で2晩を過ごし、3日目の朝にようやく救助された」。
その後は、うつ伏せ状態で寝たきりの生活に。
「日がたつにつれ、焼けた部分がどんどん腐り始め、
腐ったものが体の外に流れ出るのがわかった。
1日に何度もボロ布でふき取られた。
苦しくて苦しくて、たまらなかった。
ペニシリンを使ったが、ほとんど効き目はなかった。
しばらくして、
特殊な飲み薬を服用するようになり、ようやく改善へと向かった」。
自力でベッドから抜け出せたのは、
1947年5月のことだったが、その折の痛みたるや
尋常ではなかったという。
「2年近く寝たきりだったのだ。
頭から足の方向へと血液が流れる感覚を、
私の体が完全に忘れており、
立った時は
針で刺すような激痛が全身を走った。
目を閉じてこらえるほかなかった」。
また、谷口氏は
「寝たきりから開放されても喜べなかった。
『こんな体で、社会復帰できるのだろうか』
という不安が大きかった。
戦争を憎み、原爆を憎んだ」
と振り返った。
退院後、谷口氏は郵便集配の仕事に復帰する。
岩上が「体に無理はなかったのか」と尋ねると、
「自分を鼓舞して必死に働いたのだが、
背中の具合はずうっと悪く、
その後、14回入院し、皮膚の移植を重ねた」
と明かした。
岩上が、さらに
「健康被害と対峙しながら、社会復帰を果たした時、戸惑いはなかったか」と問うと、
谷口氏は
「戦時中は『国のために』という言葉をさんざん聞いた。
それに対し、
『本当は国のためではなく、一部の人たちのために、
兵士のみならず、われわれ一般国民も戦わされたのではないか』
と疑問を感じるようになった」
と話した。
現在、長崎原爆被災者協議会の会長を務める谷口氏は、
「核廃絶」を訴える活動に尽力中である。
長崎を訪れた修学旅行生に
被爆体験を語る「語り部」を、
ライフワークとして長年続けている。
岩上が
「核の平和利用、という宣伝文句で始まった原発事業が、
福島であれだけの事故を起こしたにもかかわらず、
再開されるムードが高まっている。
一方では、日本に軍国主義が再来する兆候も見られるが」
と水を向けると、谷口氏は
「核と人類は共存できない。
核には、きれいな核も、汚い核もない」
と明言。次のように力説した。
「私が長崎で浴びた放射能も、
福島の事故で広がった放射能も、まったく同じ放射能だ。
だから、われわれ被爆者は
『核兵器をなくさなければいけない』
と訴えるし、
それと同時に
『原発もなくさなければいけない』と訴えるのだ」。
谷口氏は
「原発の廃絶を訴える機運は、広島より長崎の方が強いのではないか」
との見方を示す。
長崎に投下されたプルトニウム型爆弾は、
現代の核兵器の主体であり、
原発の技術は軍事転用されるためだ。
「長崎では、福島の原発事故が起こる前から、
原発反対を表明していた」とした谷口氏は、
「日本政府がインドに原発を輸出するという話が伝えられているが、
『何を考えているのか』
と安倍晋三首相に抗議したい。
長崎の被爆者は、そういう思いだ」
と力を込めた。
この日、長崎市の田上富久市長は平和祈念式典で、
「NPT(核拡散防止条約)に加盟しないインドへの原子力協力は、
NPTの形骸化につながる」
と平和宣言を読み上げている。
【IWJテキストスタッフ・富田/奥松】.