明治維新演出者たち(今言うDeep State) の<国民洗脳戦略>の一つに過ぎない
土下座写真、演出だった?
土下座写真、演出だった?
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「朝日新聞の捏造01」より重要ですので転記転載賜ります<(_ _)>👇以下転記転載
「捏造された「宮城前号泣記事」
(文藝春秋、平成17年2月号)
加瀬英明(外交評論家)
私は昭和四十九年五月から翌年四月にかけて「週刊新潮」に、
昭和天皇を中心として先の大戦の景後の年の元日から、
マッカーサー元帥が離日する日まで、皇居を主な舞台とした
ノンフィクションを連載した。
敗戦の日の八月十五日の原稿を書くことになった時に、
私は朝日新聞の縮刷版を見て、奇妙なことに気づいた。
昭和二十年八月十五日の朝日新聞の一面は、
「戦争終結の大詔渙発さる」という見出しが横切っている。
二面には二重橋の写真の下に
「玉砂利握りしめつゝ宮城を拝したゞ涙 嗚・胸底挟る八年の戦ひ」
と見出しが、組まれている。
記事は「溢れる涙、とどめなく流れ落ちる熱い涙、
あゝけふ昭和二十年八月十五日」と始まっている。
記者は「歩を宮城前にとゞめたそのとき、
最早や私は立つてはをられなかつた、
抑へに抑へて来た涙が、いまは堰もなく煩を伝つた、
膝は崩れ折て玉砂利に伏し、私は泣いた、声をあげて泣いた、
しやくり上げ、突き上げて来る悲しみに唇をかみ得ず、
激しく泣いた」と筆を進めている。
「泣けるまで泣け、涙ある限り涙を流せ、
寂として声なき浄域の中に思はず握りしめる玉砂利、
拳を握つて私は『天皇陛下……』と叫び、
『おゆるし…・・・』とまでいつて、その後の言葉を
続けることが出来なかつたのである」
「・・…・すゝり泣く声あり、身を距たる数歩の前、
あゝそこにも玉砂利に額づいて大君に不忠を
お詫び申し上げる民草の姿があつた」
「私は立ち上つて『皆さん……』と呼んだ、
『天皇陛下に申し訳ありません……』
それだけ叫んで声が出なかつた、
だが私は一つの声を聞き、二つの声を耳にした
『わかります』『私も赤子の』人です』『この上とんなことが起らうとも・・・・・・』
この声はそれだけ言つて、もうあとは鳴咽にかき碎かれた、
日本人、あゝわれら日本人」(ルビの一部は、筆著による)
なぜ玉音放送の翌日ではなく、当日の朝刊にこの記事が載ったのか。
当時の新聞は物資が窮乏していたから、裏表二ページだった。
当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、
この日の新聞は正午前にすでに刷りあがって、
玉音放送が終ったころには、都内の販売店や、
地方へ積み出しが始められていた。
地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。
この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから
配達することに、決っていた。
この記事は玉音放送の前に書かれていた。
捏造記事だったのである。
翌日の朝日新聞の朝刊には、十五日の午後の皇居前広場の光景を
描写した記事がもう一度、載っている。
「二重橋前に赤子の群、立ち上がる日本民族、苦難突破の民草の声」
という、見出しがある。
「……すべての者に共通なことは、この群衆の一人一人が泣いて
ゐるといふことだつた、(略)すべての者が声をあげて
泣きじやくつてゐるのだつた、(略)天皇陛下、お許し下さい
天皇陛下! 悲痛な叫びがあちこちから聞えた、
一人の青年が起ち上つて『天皇陛下萬歳』とあらん限りの声を
ふりしぼつて奉唱した(略)」
この記事は「大御心を奉載し 苦難の生活に突進せんとする
民草の声である、日本民族は敗れはしなかつた」と、結ばれている。
しかし前日の記事の三分の二くらいの量しかなく、前日の記事のほうが
はるかに臨場感があるし、胸を打つ。
記事を捏造する時のほうが、想像力が働くから、力がこもるのだろう。
もっとも、皇居前広場で人々が土下座している、“やらせ”の写真を、
十四日の段階で撮っていたところもあった。
私の連載誌が発行されて、すぐに青森市の花田省三氏から、
この件について経緯を説明した手紙をいただいた。
花田氏は学校教員だということだったが、当時は学生で、
工場動員によって福島市にある航空無線機工場で働いていた。
そして上司からいわれて、東京に外注部品を催促するため上京した。
花田氏、の手紙から、引用しよう。
「十四日、何時ものように栄養失調の足を引き摺りながら、
宮城前の明治生命館六階にあった日立製作所の事務所へ、
ネオン管の催促に行った。(略)
そこを出て、『宮城前に来たから拝んでいこう』という気持で
二重橋の方へ歩いていったところ、丁度『写真』の位置で、
腕章を巻いたカメラマンに呼びとめられ、
『写真を撮りたいので、そこに土下座してほしい』と云われた。
他に写真のように多くの人々が座らされ、
『撮しますからお辞儀して下さい』と云われて撮られたのです。
後で振り向くと、件のカメラマンが腕で涙を拭っていたので、
『何か様子がおかしい』と思い、又、何かの記念になるかもしれぬ』
と思って、『写真ができたら譲って欲しい』と頼んでみた。
すると、『この写真は特別なものだから呉れる訳にはいかない。
しかし、明日正午過ぎたら社に来てみれば、
或いはあげられるかもしれぬ』と云って、又涙を拭った。
妙な気分で、その場を去ったが、そでも、まだ敗戦終戦ということは
思い浮ばなかった。翌十五日、大変暑い日であった。(略)」
花田氏は都内で玉音放送をきいた直後に、占領軍が上陸すれば、
「男子は皆去勢され(略)女子は連合軍の用に供される」ということを、
人々が.「真面目に」いうので、「一刻も早く東京から逃れる」ために、
「福島までの切符を探した」のだった。
それにしても、私が取材したところでは、玉音扱送の数時間後に
都内でこの日の朝日新聞を手にした読者のなかで、
不思議に思った者がなかった。
当時も今も、従順な読者が多いのだ。
ルビは世界で日本語にしかないが、新聞には「やらせ」、とルビを振るべきだと、思う。
(注、文中に適宜ルビが付いていますが、ブログでは表示していません)
転記転載終わります<(_ _)>
出典http://ameblo.jp/mun166/entry-11589365542.html
「はだしのゲン」は戦争を告発する 戦争を企む者たちには目の上のたんこぶ
「はだしのゲン」を守りましょう!
あの日はもう2度と
http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/bun-ariki.html
↑より抜粋引用↓
有木 一郎(元 都島中学校)
恐怖の一瞬
後ろから追いかけてきた機銃掃射の弾痕が、
逃げまどうぼくの足もとを、砂煙をあげて追いぬいていく。
頭上には、不気味でけたたましい音を立てながら、
小さな機体があざ笑うように舞っている。
2機、3機、4機…。
米軍の艦載機(当時、関西だけを襲う関西機と思っていた)である。
山へ友達と、しば刈りに行った時のことだ。
米兵の顔が見える。
笑っている。
ジャレているみたいだ。
屋根の猫も撃った。
揺れる洗濯物も撃った。
動いているものは、何でも撃った。
行ったかと思うとまた戻ってくる。
「助かった。」と思うのは 甲高いプロペラ音が完全に消えた時だ。
海に潜って貝を採っているときにも、こいつに狙われた。
発射音とともに、岩の破片が煙を残して飛び散る情景は、思い出しただけでも身の毛がよだつ。
石臼で、きな粉やはったい粉を引く時のような音、
五臓六腑に響きわたる鈍重な音、今も忘れることのできないB29の爆音だ。
この音が聞こえてから 警戒警報や空襲警報が出たものだ。
その次に聞こえてくるのが、ぼくらを地面にはいつくばらせた。
爆弾や焼夷弾の呪いのような落下音だ。
その音で、さく裂地点の遠近が分かる。緊張の一瞬だ。
こうして村の何軒かが焼失し何人かが犠牲になった。
ぼくの脳裏には、今もあの、異様な、黒い物体と、4発の妖しげな怪音がはっきり残っている
国防色
昭和11年、ぼくは、和歌山の片田舎の小学生となった。
そこには、美しい海と山とがあった。
2年生のころから学校や村の行事が急に多くなった。
なんでも戦争に勝って日本軍が中国(当時、ぼくたちは支那といっていた)の市や町を占領したかららしい。
昼は旗行列、夜は提灯(ちょうちん)行列と
ことあるごとに、村中が湧き立った。
愛国行進曲「見よ東海の空明けて…。」という日本賛歌を得意そうに歌ったのもこのころだ。
年を追うに従って「わが大君に召されたる」出征兵士を送る行事が頻繁になる。
赤紙を手にした若者が村の神社で武運長久の祈願を受け、
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国」の赤子となったこの若者達を、ぼくたちは、
村のはずれの田んぼ道に並んで、見えなくなるまで小旗を振って見送った。
やがて、まもなく同じように村のはずれの田んぼ道に並んで、
遺族の胸に抱かれた白木の箱を「殉国勇士」と賛美して迎えた。
しばらくして、村の2つのお寺には、星のついた長い墓標がいくつも建った。
ぼくはこの数年、毎日のように家で日の丸の旗を作った。
当時、ことある度に、この旗が顔を出した。
日の丸用のお皿は縁が赤インクや色鉛筆で真っ赤になった。
このようにして「ぼく」という国防色の虚像がつくられたのである。
配給と供出
華々しく行われた紀元2600年の行事のあと、昭和16年、ついに太平洋戦争(当時、大東亜戦争といった)が始まった。
12月8日は大詔奉戴日として記念の日とされ、ぼくは、国民学校を卒業して町の中学校(旧制)に入った。
このころには既に物資不足が深刻になり、家では、売り食いの竹の子生活が始まっていた。
上物好きで、ためこんだ祖母の着物が毎日のように2枚3枚と衣装びつやたんす・長持ちの中から消えていった。
「銀シャリを食うやつは非国民だ。」といわれ、中学の弁当も麦主体、芋主体、海草主体のものになり、
それを梅干しとともに黒ずんだ竹行李の弁当箱に遠慮がちに詰め、
昼食時には、揺られて片側に冷たく寄り添っている米や麦を探したものだ。
配給制度も厳しくなる。
隣組の人が集まって、マッチの棒やきざみたばこの葉を指でつまんで、古新聞の上で分けていた。
炭やロウソク、塩、味噌などもあったが、砂糖の配給は全く記憶にない。
しかも配給された品は少量なのですぐなくなった。
当時、家の中では、火の気は絶やせない。
マッチも炭もないので、火鉢に小さい生木を埋めて火を確保した。カラケシも貴重品だ。
やがてつけ木(マッチ棒の火薬のかわりに硫黄を塗ったもの)の配給があった。
塩の代わりに海の水を汲んできて使った。
愛煙家だった祖母と母はよもぎや松葉をたばこの代わりに吸っていた。
太陽の光のある間は電気は来なかった。
家には、電球のほかには電気製品(ラジオ・アイロン・こたつなど)は何もなかったから、
別に不便は感じなかったが、灯火管制には少々まいった。
20ワットの団らんも、警報による黒布の極度の減光で、不安のひとときに一変した。
ラジオはなかったが、新聞はとっていたように思う。
町へでる飛脚が帰ってきてから届けてくれるのだから、毎日夕方になる。
飛脚が休むと丸一日遅れる。
記事は皇軍の戦果ばかりだ。「陥落・占領・撃墜・撃沈」等の言葉だけが、やけに印象的だった。
配給と対照的なものに、供出があった。
貴金属や銅製品をお上に出せというのである。
細かいことは覚えていないが、家で大切にしていた物は、
ほとんど役場の人が持って行ったらしい。
5、6個あった宣徳の火鉢、
毎日使っていた銅のバケツ・鍋・やかん、果てはたんすの引き手から仏具まで持っていかれた。
金の時計、金縁の眼鏡、金張りの総入れ歯など、
祖母は涙しながら「お国のためなら」と、いとおしながら手放してしまった。
半年ほどして、東条英機名義の感謝状が届いた。
それは、ぼくが大人になったとき、破って捨てた。
(引用終)あとは転載元でご覧ください