Mokeihiki 模型飛機 いのちを最優先にする日本をめざす。

日本沈没をストップさせたい。
そのためには日本に民主主義確立を

地球と人類の未来を切り開きたい

貴方の❤ヒーロー誰?

2019年11月16日 | 歴史
ヒーローはスサノオ・ヤマトタケルだった
教科書にはない
婆の「昔話」と「子供雑誌」が 主な情報源だ


{画像2,009年4月撮影;河内恩智神社頓宮素戔嗚尊=牛頭天王社
恩智神社の元々の場所 ここから朝日を拝んでいたと推察
2万年前から人々が住み着き現在に至る=重要な場所
現大鳥居は船着き場だった
難波の海が岸壁を洗っていた)

女の子の癖に白雪姫・シンデレラじゃない
スサノオのヤマタノオロチは、イメージだけでも凄い
キングギドラ・ゴジラの原型?が、はや、神話に登場する
文学性も高いと思っている

最初の公害を告発するようなヤマトタケル
明らかに水銀中毒?
膝が三重に折れ曲がるその地 三重の名前の語源

吾妻の語源も、ヤマトタケル
焼津・・も、そうでしたっけ

【神話】と纏められてても、
その底辺に「story」が成立する歴史を秘めていること
多くの神話が
各地の風土記を意識的・体系的に取り込んでいること

特に「風土記が存在しない」と言われる河内こそ
記紀に最も多くを取り込まれた「逆説の証明」だと考える

ヤマトタケルも
気の毒に次から次と難題を与えられ
苦労しながら、結果、ふるさと大和にも帰れず。
悲劇である。
白い鳥になって~ふるさと大和を目指す。

胸を打たれたものだ。
白が高貴であることは
中国・朝鮮・アイヌ・日本ともに共通している。

私が教育を受けたのは、
敗戦後の世界民主主義と平和主義の潮流の中であった。
国旗掲揚もなければ、神話も教科書にはない。
小学二年生のサンフランシスコ平和条約により
初めて「日の丸」を手にした。
親たちは「おてんとさま」と教えた。
赤い丸は、
こどもにも強烈な太陽をイメージできる。

連合軍の主力がアメリカであり、GHQだった。
沢山の子どもたちが、並べられて
頭上からDDTをぶっ掛けられた。
いまなら大騒ぎになろうね。

私は、一度も掛けられた事はない。
風呂屋の親友と毎日風呂で泳いでいたから。

神話が好きだったから、私は変になったのか?
神話の素晴らしい部分を尊敬しているから私は、右翼なのか?

「神話」を「踏み絵」にして良いのか?

神話とは、そんな薄っぺらなものではない
八百万の神々のご登場は、
日本が「自然崇拝」と
「多民族文化を裾に持つ」証明の一つではないかと考えている

少なくとも二万年まえから
河内に住み着いた祖先よ

神々の名前に
沢山のヒントを残してくれた祖先よ

ひも解いてゆこう
日本の神様は、目の前に居られる

あぁ!日本よ
元気を取り戻してほしい

美しい自然を守り伝えたい
私に・・何が出来るのだろう

2010.04記事👆が今も変わらぬ 祖国は壊滅的打撃を受けつつある

トランプの米軍基地5倍化要求は 日本国民へのパンチとなろうか?
怒って国民が米軍を拒絶するだろうか?
ダラダラと安倍を許し ダラダラと明治維新体制を許すのか?

ええ加減 醒めたいものだ🔥🗻

守りたいもの❤有りますか?

2019年11月14日 | 歴史
国境なんて・・はじめ、無かった

お隣との境界線なんて 野暮ね
静かなクラブ🍷バーの~黙ってグラス傾ける

・・・適当で思いやりある
・・・自然な距離だけ で 良かったのにね🍷


秋田には
田の神様が祀られていることは
ホムペ友ご取材で知った=画像秋田のブログ友尻尾氏撮影<(_ _)>

どこだっけ?報道番組で流れた

田の神様の屋根には「水」

いのちの「みなもと」の「水」文字も祀られている

「水守」は大切なお仕事だ
鳥海山の雪解け水を集め、田を
み巡りなさる水の神様の道「水路」


遥かな昔より
石垣を組み水の氾濫を避けて
交差・カーブなど
現代に通じるハイテクで灌漑設備されています


わたしたち祖先の智恵と愛を感じるます
感動です
自然から学ぶ、智恵を得る
遠つ世の祖先がいかに生き 研究と努力を重ねてきたか

その想いが籠められている

ましてや大阪中河内高安信貴連山の一角
2万年前から人が住み着き~現在に至る場所3か所の2つは
一つは
恩智牛頭天王社=土地の人が通称<天の森>=恩智神社もともとの場所
現在大鳥居がある場所は もともと船着き場だったという
山の上から流れ来る恩智川が
大阪の海に流れ込むのは 天の森の南側
今でも2000年以上前の地形が想像できるポイントにある

でもう一つはその恩智川上流の水源地である

歩いてみた
今は柏原?この山自体が大阪湾の潮にどっぷり浸かっていたころ

想像してください
ワクワクします

画像は大阪府ボーリング調査結果
私が知ったのは40年以上前だったと思う
なぜ?歴史に地政学を結合しないのか?
真実がバレるから?

いわゆる日本神話が何故?神武東征で始まるか?
逆説的にも河内が日本歴史の始まりと伝えている🔥

この恩智神社には安閑天皇支社がある
秋田の金峰神社こそ安閑天皇本社である
大阪河内と秋田は血を分けた一族ではないか?







そ👺天狗もいる🌲その水量のとどろむさま

2019年10月30日 | 歴史
女人高野~と呼ばれ親しまれる 室生寺

美しい五重塔で有名です

その少し、奥・・・・水乞いの神様の場所がある

室生龍穴神社  
そのお参りする道は、許可なく立ち入られませぬ
清められた特別の聖なる地

今の時代です
🚗車で~びゅんと祭礼の地に行けます
それは、許されているのです

きっと、許可なくては行けない道には、いまも
古代の神様が居られると思います(礼)



下手な写真、しかも何十年も前のものです。知らない間に年月がたっていました。
いつもそうです。ぼよよん~している間に~時代がへんげしてしまふ。
やだぁ~。
ここね。ご神木が凄いの。何百年か解らない。
昼間も暗い。大樹の枝が~思いっきり空中を駆け巡る



そ・天狗もいる

風の子も笑ってる

河童も居ると思ふ

ダムの無い大昔
大岩の甌穴(おうけつ)のまろさ 大きさを拝見

その水量のとどろむさま・・・眼に浮ぶ

日照りが続くと~人々はここに集まった

タカオカミの神に祈りを捧げる

水は命である
全ての命の源である神

日本の信仰は、自然崇拝 エコ民族です


ここへ訪ねて御覧なされ
祖先の
自然を敬う心
地球を愛する~科学的認識の深さを感じ取れます

祈りは高度な認識と
教育であったかもしれませぬ(拝礼)2010年8月17日記事




君たちにとっては 私は侵略者

物見の 斥候が直ちに 報告する

敵~来襲だっ! 一頭しか見当たらぬ




変なもので狙われている 
そいつは「カシャ!カシャ!」音を立てる📷

さぁ、みんな命と暮らしを守ろう!
いざや いざっ! 

出でたまえェ~♪



つわものの 面構え で ハサミを奮う!
その肉体は、胴体10mmあろうか?

団体で 一歩も引かぬ 気構えの~行進☆
お見事でござりました。
勿論、負けた私は・・道を


遠回りにござります
一生残る
出会いにございます

自然が守られていることに 感謝申し上げます

伊勢街道の「鷲家(わしか)」

・・・歴史の重みの場所にござりました(黙祷)2010年8月29日記事


遊覧船の~閉ざされたガラス戸越しの撮影です
揺れるぅ~どっぷん!どっぷん!

名前は忘れた。記憶では「牛」?
スフィンクス☆と、おもうた♪ ↓ 自然は優れた☆アート


蟹が美味しい季節なのに
一人のわびしさ
何処にも寄らず ただ撮影だけで とんぼ返り


そんだけしても撮影の腕アカンアカンと波・・・・笑ふ♪

この美しい自然を 汚さないでくれ!
核戦争を必ず回避せよ!!(祈らずには・・居られない)
2010年8月記事 日本を出発する寸前のup
ここでは核戦争と書いているけど テロによる原発攻撃が恐怖だった
阪神淡路あの恐怖からずっと続く緊迫感

予感的中メルトスルーに足元が崩れる思い
ロスで腰抜けてその場で座り込みました🔥と
祖国滅亡を何としても防ぎたいと願っています


秋田の尻尾さま🌸田の神様安閑天皇神社ありがとうございました<(_ _)>

2019年10月17日 | 歴史
はじめに秋田の田の神様画像

ブログ友秋田の<しっぽ>さま撮影です<(_ _)>

秋田の「田の神様」の夕日 
この大樹の根元に祠があり
祠には、【田の神様】と、別に【水の神様】を讃えた文字がある

いかに水が大切であるかを諭されています


源流の滝は有名だったと記憶します 確か鳥海山の賜物


灌漑設備は、相当な古代よりのものが、今に生きています


美しい水での稲は、美味しいお米の元となります


水の中の共生です。人間だけの社会・地球ではないことを悟ります
 

ハナカジカは、美しい水の中しか生きられませぬ

人間だけの地球ですか? 日本は自然そのものの恩恵とともに繁栄しました

地球に優しい「再生可能エネルギー」に早くから着目し
世界に先駆けた太陽光発電も 実は古代からの日本の風土が、影響を与えていませんか?

秋田と中河内=特に恩智との関係を推察できる

秋田の田沢湖近くと記憶するが 金峰神社
この主祭神は明治維新が変な名前を付けた<安閑天皇>である
河内恩智神社には<安閑天皇支社>がある

秋田のブログ友しっぽ氏には大変お世話になった
秋田金峰神社の調査及び撮影と画像まで頂戴いたしました
この場をお借りして 心より感謝申し上げます(お辞儀)


安閑って 必要な時に居なかった?
つまり良い意味でつかわれる言葉には思われない

秋田では農耕具も一緒に祀られていた
中河内恩智の山続き~今柏原と記憶するが たたら製鉄あとも展示されていた


明治維新が焚書にしたろう河内風土記が 世に出ると都合が悪いからなのでしょうね

2010年8月17日にアップしたものですが アメリカへ出発の2週間前ですね



呪の洗脳🔥呪の轟音

2019年10月16日 | 日本支配カラクリ

明治維新演出者たち(今言うDeep State) の<国民洗脳戦略>の一つに過ぎない
土下座写真、演出だった?
土下座写真、演出だった?
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/191171/?page=2


https://w.atwiki.jp/masukomi/pages/30.html
「朝日新聞の捏造01」より重要ですので転記転載賜ります<(_ _)>👇以下転記転載

「捏造された「宮城前号泣記事」
(文藝春秋、平成17年2月号)

加瀬英明(外交評論家)

私は昭和四十九年五月から翌年四月にかけて「週刊新潮」に、
昭和天皇を中心として先の大戦の景後の年の元日から、
マッカーサー元帥が離日する日まで、皇居を主な舞台とした
ノンフィクションを連載した。

敗戦の日の八月十五日の原稿を書くことになった時に、
私は朝日新聞の縮刷版を見て、奇妙なことに気づいた。

昭和二十年八月十五日の朝日新聞の一面は、
「戦争終結の大詔渙発さる」という見出しが横切っている。
二面には二重橋の写真の下に
「玉砂利握りしめつゝ宮城を拝したゞ涙 嗚・胸底挟る八年の戦ひ」
と見出しが、組まれている。

記事は「溢れる涙、とどめなく流れ落ちる熱い涙、
あゝけふ昭和二十年八月十五日」と始まっている。
記者は「歩を宮城前にとゞめたそのとき、
最早や私は立つてはをられなかつた、
抑へに抑へて来た涙が、いまは堰もなく煩を伝つた、
膝は崩れ折て玉砂利に伏し、私は泣いた、声をあげて泣いた、
しやくり上げ、突き上げて来る悲しみに唇をかみ得ず、
激しく泣いた」と筆を進めている。

「泣けるまで泣け、涙ある限り涙を流せ、
寂として声なき浄域の中に思はず握りしめる玉砂利、
拳を握つて私は『天皇陛下……』と叫び、
『おゆるし…・・・』とまでいつて、その後の言葉を
続けることが出来なかつたのである」

「・・…・すゝり泣く声あり、身を距たる数歩の前、
あゝそこにも玉砂利に額づいて大君に不忠を
お詫び申し上げる民草の姿があつた」

「私は立ち上つて『皆さん……』と呼んだ、
『天皇陛下に申し訳ありません……』
それだけ叫んで声が出なかつた、
だが私は一つの声を聞き、二つの声を耳にした
『わかります』『私も赤子の』人です』『この上とんなことが起らうとも・・・・・・』
この声はそれだけ言つて、もうあとは鳴咽にかき碎かれた、
日本人、あゝわれら日本人」(ルビの一部は、筆著による)

なぜ玉音放送の翌日ではなく、当日の朝刊にこの記事が載ったのか。
当時の新聞は物資が窮乏していたから、裏表二ページだった。
当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、
この日の新聞は正午前にすでに刷りあがって、
玉音放送が終ったころには、都内の販売店や、
地方へ積み出しが始められていた。
地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。
この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから
配達することに、決っていた。

この記事は玉音放送の前に書かれていた。
捏造記事だったのである。

翌日の朝日新聞の朝刊には、十五日の午後の皇居前広場の光景を
描写した記事がもう一度、載っている。
「二重橋前に赤子の群、立ち上がる日本民族、苦難突破の民草の声」
という、見出しがある。

「……すべての者に共通なことは、この群衆の一人一人が泣いて
ゐるといふことだつた、(略)すべての者が声をあげて
泣きじやくつてゐるのだつた、(略)天皇陛下、お許し下さい
 天皇陛下! 悲痛な叫びがあちこちから聞えた、
一人の青年が起ち上つて『天皇陛下萬歳』とあらん限りの声を
ふりしぼつて奉唱した(略)」

この記事は「大御心を奉載し 苦難の生活に突進せんとする
民草の声である、日本民族は敗れはしなかつた」と、結ばれている。

しかし前日の記事の三分の二くらいの量しかなく、前日の記事のほうが
はるかに臨場感があるし、胸を打つ。
記事を捏造する時のほうが、想像力が働くから、力がこもるのだろう。
もっとも、皇居前広場で人々が土下座している、“やらせ”の写真を、
十四日の段階で撮っていたところもあった。

私の連載誌が発行されて、すぐに青森市の花田省三氏から、
この件について経緯を説明した手紙をいただいた。
花田氏は学校教員だということだったが、当時は学生で、
工場動員によって福島市にある航空無線機工場で働いていた。
そして上司からいわれて、東京に外注部品を催促するため上京した。
花田氏、の手紙から、引用しよう。

「十四日、何時ものように栄養失調の足を引き摺りながら、
宮城前の明治生命館六階にあった日立製作所の事務所へ、
ネオン管の催促に行った。(略)
そこを出て、『宮城前に来たから拝んでいこう』という気持で
二重橋の方へ歩いていったところ、丁度『写真』の位置で、
腕章を巻いたカメラマンに呼びとめられ、
『写真を撮りたいので、そこに土下座してほしい』と云われた。
他に写真のように多くの人々が座らされ、
『撮しますからお辞儀して下さい』と云われて撮られたのです。

後で振り向くと、件のカメラマンが腕で涙を拭っていたので、
『何か様子がおかしい』と思い、又、何かの記念になるかもしれぬ』
と思って、『写真ができたら譲って欲しい』と頼んでみた。
すると、『この写真は特別なものだから呉れる訳にはいかない。
しかし、明日正午過ぎたら社に来てみれば、
或いはあげられるかもしれぬ』と云って、又涙を拭った。

妙な気分で、その場を去ったが、そでも、まだ敗戦終戦ということは
思い浮ばなかった。翌十五日、大変暑い日であった。(略)」

花田氏は都内で玉音放送をきいた直後に、占領軍が上陸すれば、
「男子は皆去勢され(略)女子は連合軍の用に供される」ということを、
人々が.「真面目に」いうので、「一刻も早く東京から逃れる」ために、
「福島までの切符を探した」のだった。

それにしても、私が取材したところでは、玉音扱送の数時間後に
都内でこの日の朝日新聞を手にした読者のなかで、
不思議に思った者がなかった。

当時も今も、従順な読者が多いのだ。

ルビは世界で日本語にしかないが、新聞には「やらせ」、とルビを振るべきだと、思う。

(注、文中に適宜ルビが付いていますが、ブログでは表示していません)
転記転載終わります<(_ _)>



出典http://ameblo.jp/mun166/entry-11589365542.html


「はだしのゲン」は戦争を告発する 戦争を企む者たちには目の上のたんこぶ
「はだしのゲン」を守りましょう!

あの日はもう2度と
http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/bun-ariki.html
↑より抜粋引用↓

有木 一郎(元 都島中学校)

恐怖の一瞬

後ろから追いかけてきた機銃掃射の弾痕が、
逃げまどうぼくの足もとを、砂煙をあげて追いぬいていく。

頭上には、不気味でけたたましい音を立てながら、
小さな機体があざ笑うように舞っている。

2機、3機、4機…。
米軍の艦載機(当時、関西だけを襲う関西機と思っていた)である。

山へ友達と、しば刈りに行った時のことだ。
米兵の顔が見える。

笑っている。
ジャレているみたいだ。
屋根の猫も撃った。
揺れる洗濯物も撃った。
動いているものは、何でも撃った。

行ったかと思うとまた戻ってくる。

「助かった。」と思うのは 甲高いプロペラ音が完全に消えた時だ。

海に潜って貝を採っているときにも、こいつに狙われた。
発射音とともに、岩の破片が煙を残して飛び散る情景は、思い出しただけでも身の毛がよだつ。

石臼で、きな粉やはったい粉を引く時のような音、
五臓六腑に響きわたる鈍重な音、今も忘れることのできないB29の爆音だ。

この音が聞こえてから 警戒警報や空襲警報が出たものだ。

その次に聞こえてくるのが、ぼくらを地面にはいつくばらせた。

爆弾や焼夷弾の呪いのような落下音だ。

その音で、さく裂地点の遠近が分かる。緊張の一瞬だ。

こうして村の何軒かが焼失し何人かが犠牲になった。

ぼくの脳裏には、今もあの、異様な、黒い物体と、4発の妖しげな怪音がはっきり残っている


国防色
 昭和11年、ぼくは、和歌山の片田舎の小学生となった。

そこには、美しい海と山とがあった。
2年生のころから学校や村の行事が急に多くなった。

なんでも戦争に勝って日本軍が中国(当時、ぼくたちは支那といっていた)の市や町を占領したかららしい。

昼は旗行列、夜は提灯(ちょうちん)行列と
ことあるごとに、村中が湧き立った。

愛国行進曲「見よ東海の空明けて…。」という日本賛歌を得意そうに歌ったのもこのころだ。

年を追うに従って「わが大君に召されたる」出征兵士を送る行事が頻繁になる。

赤紙を手にした若者が村の神社で武運長久の祈願を受け、
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国」の赤子となったこの若者達を、ぼくたちは、
村のはずれの田んぼ道に並んで、見えなくなるまで小旗を振って見送った。

やがて、まもなく同じように村のはずれの田んぼ道に並んで、
遺族の胸に抱かれた白木の箱を「殉国勇士」と賛美して迎えた。

しばらくして、村の2つのお寺には、星のついた長い墓標がいくつも建った。

 ぼくはこの数年、毎日のように家で日の丸の旗を作った。
当時、ことある度に、この旗が顔を出した。
日の丸用のお皿は縁が赤インクや色鉛筆で真っ赤になった。

 このようにして「ぼく」という国防色の虚像がつくられたのである。

配給と供出
 華々しく行われた紀元2600年の行事のあと、昭和16年、ついに太平洋戦争(当時、大東亜戦争といった)が始まった。

12月8日は大詔奉戴日として記念の日とされ、ぼくは、国民学校を卒業して町の中学校(旧制)に入った。

 このころには既に物資不足が深刻になり、家では、売り食いの竹の子生活が始まっていた。

上物好きで、ためこんだ祖母の着物が毎日のように2枚3枚と衣装びつやたんす・長持ちの中から消えていった。

「銀シャリを食うやつは非国民だ。」といわれ、中学の弁当も麦主体、芋主体、海草主体のものになり、
それを梅干しとともに黒ずんだ竹行李の弁当箱に遠慮がちに詰め、

昼食時には、揺られて片側に冷たく寄り添っている米や麦を探したものだ。

 配給制度も厳しくなる。
隣組の人が集まって、マッチの棒やきざみたばこの葉を指でつまんで、古新聞の上で分けていた。

炭やロウソク、塩、味噌などもあったが、砂糖の配給は全く記憶にない。
しかも配給された品は少量なのですぐなくなった。

当時、家の中では、火の気は絶やせない。
マッチも炭もないので、火鉢に小さい生木を埋めて火を確保した。カラケシも貴重品だ。
やがてつけ木(マッチ棒の火薬のかわりに硫黄を塗ったもの)の配給があった。

塩の代わりに海の水を汲んできて使った。
愛煙家だった祖母と母はよもぎや松葉をたばこの代わりに吸っていた。

 太陽の光のある間は電気は来なかった。
家には、電球のほかには電気製品(ラジオ・アイロン・こたつなど)は何もなかったから、
別に不便は感じなかったが、灯火管制には少々まいった。

20ワットの団らんも、警報による黒布の極度の減光で、不安のひとときに一変した。

ラジオはなかったが、新聞はとっていたように思う。
町へでる飛脚が帰ってきてから届けてくれるのだから、毎日夕方になる。
飛脚が休むと丸一日遅れる。

記事は皇軍の戦果ばかりだ。「陥落・占領・撃墜・撃沈」等の言葉だけが、やけに印象的だった。

 配給と対照的なものに、供出があった。

貴金属や銅製品をお上に出せというのである。
細かいことは覚えていないが、家で大切にしていた物は、
ほとんど役場の人が持って行ったらしい。

5、6個あった宣徳の火鉢、
毎日使っていた銅のバケツ・鍋・やかん、果てはたんすの引き手から仏具まで持っていかれた。
金の時計、金縁の眼鏡、金張りの総入れ歯など、
祖母は涙しながら「お国のためなら」と、いとおしながら手放してしまった。

半年ほどして、東条英機名義の感謝状が届いた。

 それは、ぼくが大人になったとき、破って捨てた。

(引用終)あとは転載元でご覧ください