Mokeihiki 模型飛機 いのちを最優先にする日本をめざす。

日本沈没をストップさせたい。
そのためには日本に民主主義確立を

地球と人類の未来を切り開きたい

そ👺天狗もいる🌲その水量のとどろむさま

2019年10月30日 | 歴史
女人高野~と呼ばれ親しまれる 室生寺

美しい五重塔で有名です

その少し、奥・・・・水乞いの神様の場所がある

室生龍穴神社  
そのお参りする道は、許可なく立ち入られませぬ
清められた特別の聖なる地

今の時代です
🚗車で~びゅんと祭礼の地に行けます
それは、許されているのです

きっと、許可なくては行けない道には、いまも
古代の神様が居られると思います(礼)



下手な写真、しかも何十年も前のものです。知らない間に年月がたっていました。
いつもそうです。ぼよよん~している間に~時代がへんげしてしまふ。
やだぁ~。
ここね。ご神木が凄いの。何百年か解らない。
昼間も暗い。大樹の枝が~思いっきり空中を駆け巡る



そ・天狗もいる

風の子も笑ってる

河童も居ると思ふ

ダムの無い大昔
大岩の甌穴(おうけつ)のまろさ 大きさを拝見

その水量のとどろむさま・・・眼に浮ぶ

日照りが続くと~人々はここに集まった

タカオカミの神に祈りを捧げる

水は命である
全ての命の源である神

日本の信仰は、自然崇拝 エコ民族です


ここへ訪ねて御覧なされ
祖先の
自然を敬う心
地球を愛する~科学的認識の深さを感じ取れます

祈りは高度な認識と
教育であったかもしれませぬ(拝礼)2010年8月17日記事




君たちにとっては 私は侵略者

物見の 斥候が直ちに 報告する

敵~来襲だっ! 一頭しか見当たらぬ




変なもので狙われている 
そいつは「カシャ!カシャ!」音を立てる📷

さぁ、みんな命と暮らしを守ろう!
いざや いざっ! 

出でたまえェ~♪



つわものの 面構え で ハサミを奮う!
その肉体は、胴体10mmあろうか?

団体で 一歩も引かぬ 気構えの~行進☆
お見事でござりました。
勿論、負けた私は・・道を


遠回りにござります
一生残る
出会いにございます

自然が守られていることに 感謝申し上げます

伊勢街道の「鷲家(わしか)」

・・・歴史の重みの場所にござりました(黙祷)2010年8月29日記事


遊覧船の~閉ざされたガラス戸越しの撮影です
揺れるぅ~どっぷん!どっぷん!

名前は忘れた。記憶では「牛」?
スフィンクス☆と、おもうた♪ ↓ 自然は優れた☆アート


蟹が美味しい季節なのに
一人のわびしさ
何処にも寄らず ただ撮影だけで とんぼ返り


そんだけしても撮影の腕アカンアカンと波・・・・笑ふ♪

この美しい自然を 汚さないでくれ!
核戦争を必ず回避せよ!!(祈らずには・・居られない)
2010年8月記事 日本を出発する寸前のup
ここでは核戦争と書いているけど テロによる原発攻撃が恐怖だった
阪神淡路あの恐怖からずっと続く緊迫感

予感的中メルトスルーに足元が崩れる思い
ロスで腰抜けてその場で座り込みました🔥と
祖国滅亡を何としても防ぎたいと願っています


秋田の尻尾さま🌸田の神様安閑天皇神社ありがとうございました<(_ _)>

2019年10月17日 | 歴史
はじめに秋田の田の神様画像

ブログ友秋田の<しっぽ>さま撮影です<(_ _)>

秋田の「田の神様」の夕日 
この大樹の根元に祠があり
祠には、【田の神様】と、別に【水の神様】を讃えた文字がある

いかに水が大切であるかを諭されています


源流の滝は有名だったと記憶します 確か鳥海山の賜物


灌漑設備は、相当な古代よりのものが、今に生きています


美しい水での稲は、美味しいお米の元となります


水の中の共生です。人間だけの社会・地球ではないことを悟ります
 

ハナカジカは、美しい水の中しか生きられませぬ

人間だけの地球ですか? 日本は自然そのものの恩恵とともに繁栄しました

地球に優しい「再生可能エネルギー」に早くから着目し
世界に先駆けた太陽光発電も 実は古代からの日本の風土が、影響を与えていませんか?

秋田と中河内=特に恩智との関係を推察できる

秋田の田沢湖近くと記憶するが 金峰神社
この主祭神は明治維新が変な名前を付けた<安閑天皇>である
河内恩智神社には<安閑天皇支社>がある

秋田のブログ友しっぽ氏には大変お世話になった
秋田金峰神社の調査及び撮影と画像まで頂戴いたしました
この場をお借りして 心より感謝申し上げます(お辞儀)


安閑って 必要な時に居なかった?
つまり良い意味でつかわれる言葉には思われない

秋田では農耕具も一緒に祀られていた
中河内恩智の山続き~今柏原と記憶するが たたら製鉄あとも展示されていた


明治維新が焚書にしたろう河内風土記が 世に出ると都合が悪いからなのでしょうね

2010年8月17日にアップしたものですが アメリカへ出発の2週間前ですね



呪の洗脳🔥呪の轟音

2019年10月16日 | 日本支配カラクリ

明治維新演出者たち(今言うDeep State) の<国民洗脳戦略>の一つに過ぎない
土下座写真、演出だった?
土下座写真、演出だった?
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/191171/?page=2


https://w.atwiki.jp/masukomi/pages/30.html
「朝日新聞の捏造01」より重要ですので転記転載賜ります<(_ _)>👇以下転記転載

「捏造された「宮城前号泣記事」
(文藝春秋、平成17年2月号)

加瀬英明(外交評論家)

私は昭和四十九年五月から翌年四月にかけて「週刊新潮」に、
昭和天皇を中心として先の大戦の景後の年の元日から、
マッカーサー元帥が離日する日まで、皇居を主な舞台とした
ノンフィクションを連載した。

敗戦の日の八月十五日の原稿を書くことになった時に、
私は朝日新聞の縮刷版を見て、奇妙なことに気づいた。

昭和二十年八月十五日の朝日新聞の一面は、
「戦争終結の大詔渙発さる」という見出しが横切っている。
二面には二重橋の写真の下に
「玉砂利握りしめつゝ宮城を拝したゞ涙 嗚・胸底挟る八年の戦ひ」
と見出しが、組まれている。

記事は「溢れる涙、とどめなく流れ落ちる熱い涙、
あゝけふ昭和二十年八月十五日」と始まっている。
記者は「歩を宮城前にとゞめたそのとき、
最早や私は立つてはをられなかつた、
抑へに抑へて来た涙が、いまは堰もなく煩を伝つた、
膝は崩れ折て玉砂利に伏し、私は泣いた、声をあげて泣いた、
しやくり上げ、突き上げて来る悲しみに唇をかみ得ず、
激しく泣いた」と筆を進めている。

「泣けるまで泣け、涙ある限り涙を流せ、
寂として声なき浄域の中に思はず握りしめる玉砂利、
拳を握つて私は『天皇陛下……』と叫び、
『おゆるし…・・・』とまでいつて、その後の言葉を
続けることが出来なかつたのである」

「・・…・すゝり泣く声あり、身を距たる数歩の前、
あゝそこにも玉砂利に額づいて大君に不忠を
お詫び申し上げる民草の姿があつた」

「私は立ち上つて『皆さん……』と呼んだ、
『天皇陛下に申し訳ありません……』
それだけ叫んで声が出なかつた、
だが私は一つの声を聞き、二つの声を耳にした
『わかります』『私も赤子の』人です』『この上とんなことが起らうとも・・・・・・』
この声はそれだけ言つて、もうあとは鳴咽にかき碎かれた、
日本人、あゝわれら日本人」(ルビの一部は、筆著による)

なぜ玉音放送の翌日ではなく、当日の朝刊にこの記事が載ったのか。
当時の新聞は物資が窮乏していたから、裏表二ページだった。
当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、
この日の新聞は正午前にすでに刷りあがって、
玉音放送が終ったころには、都内の販売店や、
地方へ積み出しが始められていた。
地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。
この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから
配達することに、決っていた。

この記事は玉音放送の前に書かれていた。
捏造記事だったのである。

翌日の朝日新聞の朝刊には、十五日の午後の皇居前広場の光景を
描写した記事がもう一度、載っている。
「二重橋前に赤子の群、立ち上がる日本民族、苦難突破の民草の声」
という、見出しがある。

「……すべての者に共通なことは、この群衆の一人一人が泣いて
ゐるといふことだつた、(略)すべての者が声をあげて
泣きじやくつてゐるのだつた、(略)天皇陛下、お許し下さい
 天皇陛下! 悲痛な叫びがあちこちから聞えた、
一人の青年が起ち上つて『天皇陛下萬歳』とあらん限りの声を
ふりしぼつて奉唱した(略)」

この記事は「大御心を奉載し 苦難の生活に突進せんとする
民草の声である、日本民族は敗れはしなかつた」と、結ばれている。

しかし前日の記事の三分の二くらいの量しかなく、前日の記事のほうが
はるかに臨場感があるし、胸を打つ。
記事を捏造する時のほうが、想像力が働くから、力がこもるのだろう。
もっとも、皇居前広場で人々が土下座している、“やらせ”の写真を、
十四日の段階で撮っていたところもあった。

私の連載誌が発行されて、すぐに青森市の花田省三氏から、
この件について経緯を説明した手紙をいただいた。
花田氏は学校教員だということだったが、当時は学生で、
工場動員によって福島市にある航空無線機工場で働いていた。
そして上司からいわれて、東京に外注部品を催促するため上京した。
花田氏、の手紙から、引用しよう。

「十四日、何時ものように栄養失調の足を引き摺りながら、
宮城前の明治生命館六階にあった日立製作所の事務所へ、
ネオン管の催促に行った。(略)
そこを出て、『宮城前に来たから拝んでいこう』という気持で
二重橋の方へ歩いていったところ、丁度『写真』の位置で、
腕章を巻いたカメラマンに呼びとめられ、
『写真を撮りたいので、そこに土下座してほしい』と云われた。
他に写真のように多くの人々が座らされ、
『撮しますからお辞儀して下さい』と云われて撮られたのです。

後で振り向くと、件のカメラマンが腕で涙を拭っていたので、
『何か様子がおかしい』と思い、又、何かの記念になるかもしれぬ』
と思って、『写真ができたら譲って欲しい』と頼んでみた。
すると、『この写真は特別なものだから呉れる訳にはいかない。
しかし、明日正午過ぎたら社に来てみれば、
或いはあげられるかもしれぬ』と云って、又涙を拭った。

妙な気分で、その場を去ったが、そでも、まだ敗戦終戦ということは
思い浮ばなかった。翌十五日、大変暑い日であった。(略)」

花田氏は都内で玉音放送をきいた直後に、占領軍が上陸すれば、
「男子は皆去勢され(略)女子は連合軍の用に供される」ということを、
人々が.「真面目に」いうので、「一刻も早く東京から逃れる」ために、
「福島までの切符を探した」のだった。

それにしても、私が取材したところでは、玉音扱送の数時間後に
都内でこの日の朝日新聞を手にした読者のなかで、
不思議に思った者がなかった。

当時も今も、従順な読者が多いのだ。

ルビは世界で日本語にしかないが、新聞には「やらせ」、とルビを振るべきだと、思う。

(注、文中に適宜ルビが付いていますが、ブログでは表示していません)
転記転載終わります<(_ _)>



出典http://ameblo.jp/mun166/entry-11589365542.html


「はだしのゲン」は戦争を告発する 戦争を企む者たちには目の上のたんこぶ
「はだしのゲン」を守りましょう!

あの日はもう2度と
http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/bun-ariki.html
↑より抜粋引用↓

有木 一郎(元 都島中学校)

恐怖の一瞬

後ろから追いかけてきた機銃掃射の弾痕が、
逃げまどうぼくの足もとを、砂煙をあげて追いぬいていく。

頭上には、不気味でけたたましい音を立てながら、
小さな機体があざ笑うように舞っている。

2機、3機、4機…。
米軍の艦載機(当時、関西だけを襲う関西機と思っていた)である。

山へ友達と、しば刈りに行った時のことだ。
米兵の顔が見える。

笑っている。
ジャレているみたいだ。
屋根の猫も撃った。
揺れる洗濯物も撃った。
動いているものは、何でも撃った。

行ったかと思うとまた戻ってくる。

「助かった。」と思うのは 甲高いプロペラ音が完全に消えた時だ。

海に潜って貝を採っているときにも、こいつに狙われた。
発射音とともに、岩の破片が煙を残して飛び散る情景は、思い出しただけでも身の毛がよだつ。

石臼で、きな粉やはったい粉を引く時のような音、
五臓六腑に響きわたる鈍重な音、今も忘れることのできないB29の爆音だ。

この音が聞こえてから 警戒警報や空襲警報が出たものだ。

その次に聞こえてくるのが、ぼくらを地面にはいつくばらせた。

爆弾や焼夷弾の呪いのような落下音だ。

その音で、さく裂地点の遠近が分かる。緊張の一瞬だ。

こうして村の何軒かが焼失し何人かが犠牲になった。

ぼくの脳裏には、今もあの、異様な、黒い物体と、4発の妖しげな怪音がはっきり残っている


国防色
 昭和11年、ぼくは、和歌山の片田舎の小学生となった。

そこには、美しい海と山とがあった。
2年生のころから学校や村の行事が急に多くなった。

なんでも戦争に勝って日本軍が中国(当時、ぼくたちは支那といっていた)の市や町を占領したかららしい。

昼は旗行列、夜は提灯(ちょうちん)行列と
ことあるごとに、村中が湧き立った。

愛国行進曲「見よ東海の空明けて…。」という日本賛歌を得意そうに歌ったのもこのころだ。

年を追うに従って「わが大君に召されたる」出征兵士を送る行事が頻繁になる。

赤紙を手にした若者が村の神社で武運長久の祈願を受け、
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国」の赤子となったこの若者達を、ぼくたちは、
村のはずれの田んぼ道に並んで、見えなくなるまで小旗を振って見送った。

やがて、まもなく同じように村のはずれの田んぼ道に並んで、
遺族の胸に抱かれた白木の箱を「殉国勇士」と賛美して迎えた。

しばらくして、村の2つのお寺には、星のついた長い墓標がいくつも建った。

 ぼくはこの数年、毎日のように家で日の丸の旗を作った。
当時、ことある度に、この旗が顔を出した。
日の丸用のお皿は縁が赤インクや色鉛筆で真っ赤になった。

 このようにして「ぼく」という国防色の虚像がつくられたのである。

配給と供出
 華々しく行われた紀元2600年の行事のあと、昭和16年、ついに太平洋戦争(当時、大東亜戦争といった)が始まった。

12月8日は大詔奉戴日として記念の日とされ、ぼくは、国民学校を卒業して町の中学校(旧制)に入った。

 このころには既に物資不足が深刻になり、家では、売り食いの竹の子生活が始まっていた。

上物好きで、ためこんだ祖母の着物が毎日のように2枚3枚と衣装びつやたんす・長持ちの中から消えていった。

「銀シャリを食うやつは非国民だ。」といわれ、中学の弁当も麦主体、芋主体、海草主体のものになり、
それを梅干しとともに黒ずんだ竹行李の弁当箱に遠慮がちに詰め、

昼食時には、揺られて片側に冷たく寄り添っている米や麦を探したものだ。

 配給制度も厳しくなる。
隣組の人が集まって、マッチの棒やきざみたばこの葉を指でつまんで、古新聞の上で分けていた。

炭やロウソク、塩、味噌などもあったが、砂糖の配給は全く記憶にない。
しかも配給された品は少量なのですぐなくなった。

当時、家の中では、火の気は絶やせない。
マッチも炭もないので、火鉢に小さい生木を埋めて火を確保した。カラケシも貴重品だ。
やがてつけ木(マッチ棒の火薬のかわりに硫黄を塗ったもの)の配給があった。

塩の代わりに海の水を汲んできて使った。
愛煙家だった祖母と母はよもぎや松葉をたばこの代わりに吸っていた。

 太陽の光のある間は電気は来なかった。
家には、電球のほかには電気製品(ラジオ・アイロン・こたつなど)は何もなかったから、
別に不便は感じなかったが、灯火管制には少々まいった。

20ワットの団らんも、警報による黒布の極度の減光で、不安のひとときに一変した。

ラジオはなかったが、新聞はとっていたように思う。
町へでる飛脚が帰ってきてから届けてくれるのだから、毎日夕方になる。
飛脚が休むと丸一日遅れる。

記事は皇軍の戦果ばかりだ。「陥落・占領・撃墜・撃沈」等の言葉だけが、やけに印象的だった。

 配給と対照的なものに、供出があった。

貴金属や銅製品をお上に出せというのである。
細かいことは覚えていないが、家で大切にしていた物は、
ほとんど役場の人が持って行ったらしい。

5、6個あった宣徳の火鉢、
毎日使っていた銅のバケツ・鍋・やかん、果てはたんすの引き手から仏具まで持っていかれた。
金の時計、金縁の眼鏡、金張りの総入れ歯など、
祖母は涙しながら「お国のためなら」と、いとおしながら手放してしまった。

半年ほどして、東条英機名義の感謝状が届いた。

 それは、ぼくが大人になったとき、破って捨てた。

(引用終)あとは転載元でご覧ください

血を流し続けている🗻今も🔥

2019年10月15日 | 日本支配カラクリ
怖がりだから 写真は直視できない 息が苦しくなる
なぜ?殺され続けているのだ?!日本人は🔥

2種類の原爆投下は 日本敗戦が色濃くて本土には 戦う力などなく 非戦闘員ばかりの状態であった


はじめ14歳からが、のちに12歳より工場で働いたという
想像できますか? 今の小学六年生の女の子ですよ

遊びたい!食べたい!
観劇も 読書も お料理のお手伝いもショッピングもです

成長盛りの~少女の青春を奪った戦争🌋

父は 酷い近眼で 糖尿病患者で5尺 色白ぽっちゃりビール腹
甲乙丙の丙でしたが 敗戦間際に赤紙が来たとき=日本敗戦を疑わなかった

通信兵で 銃は撃てない 目が悪くて見えないもの

大砲撃つ兵隊が「一ちゃん(一郎)逃げや!」と言う 通信機担いでいつも逃げていたそうです💦

軍隊は楽しかった 散髪屋クリーニング屋魚屋落語家 あらゆる分野の男たちの共同生活で
虐めはない (虐めたら~背後から撃たれますよね)

丙種兵の父がいない間に まさおが餓死した 叔母の一人が血を吐いて死んだ 憲兵叔父が餓死=meは自決と確信す


南方戦線派遣叔父の骨は帰らない
敗戦後も 母方叔父の一人が血を吐いて死んだ

祖母は毎日 仏壇の前で泣いていた 今meが祖母の年齢になった 日本人は殺され続けている

全ての根幹は 明治維新にある 今言うDeep Stateが日本ハイジャック成功し
~今の日本国民と日本の、塗炭の苦しみがある

(黙祷)



東京大空襲の写真だ 1晩で10万人が殺された



戦争だから仕方がない---原爆投下に対して 英国正規軍元帥だった昭和天皇の言葉が 
日本国民meの胸に突き刺さったまま🔥 血を流し続けている🔥

殺されて諦めろ?と聞こえる そのまま殺されろ とも聞こえる




日本の家屋が木造建築であるところから より効果的に、焼き尽くすための武器ですね



下の爆弾は1.8m・・はい。私より30cmも背が高い!


meはよく眠る子だったと聞く で 大阪空襲は母の背中で眠っていた
ご近所の防空壕が直撃を受けて 全滅だった

空襲は夜だけではなく昼夜分かたず 年寄り女子供ばかりの市電も狙われた
機関銃撃つ米兵が笑っていた=母の言葉

銃撃され殺された同胞を搔き分け家の軒下沿いに逃げ
九死に一命をとりとめた母とme

同級生は🔥わー!叫び声で目を覚ましたーー母親の背中で

人が もがく火柱となって! 彼女がこの世で誕生して最初の記憶シーン👿
戦争は生き残った赤子の心に 恐怖を植え続けている





女・子どもに~学生中心じゃありませぬか!
非戦闘員しかいない都市や地方を大空襲した米軍!

その米軍に一刻も早い停戦をなぜ?しなかった?日本は?!

👆1941年英国正規軍元帥=昭和天皇 これを国民は知らなかった

天皇が英国籍🔥であることを知ったら 死んでいった叔父達や叔母たちはどう思うか🔥




ご丁寧に大虐殺を美化し、正当化するフライヤまで散布した

気のいいアメリカ人を敵にする奴は 🏇鹿だ
アメリカ国民を怒らせ戦争に参加させたのは パールハーバーだ

宣戦布告を中米日本大使館員のミスで 
通訳に手間取って?時間切れだった と聞いた(信じがたい
何の通告もなく真珠湾攻撃された米国民の怒りは 今も消えない

📺が伝え続けている
リメンバーパールハーバー アメリカでは幼子まで知っている

トランプ大統領が言うDeep Stateとは 世界独占支配めざす
日本は 日本国民だけでは倒せない相手でも アメリカ国民と連携すれば道が開ける


真実の敵は 明治維新で日本ハイジャックした者たち






はふり 六甲はむこうやま⛰

2019年10月14日 | 歴史



厳島神社の女神様のお名前
「いちきしまひめ」
確か、宇佐神宮の姫神様であられる

と、朝鮮半島と九州を結ぶ~海の道
その要所に
沖ノ島・中つ島と一番近くの島は?(お名前忘れちまった、あとで。
大昔から祭祀の神聖な島とお聞きします。

その日女神様のお名前が「いちきしまひめ」と、記憶します

「ひめ」は、太陽信仰だと考えます。「ひこ」で表わさないのは、
その一族の血統が、女性により証明された時代が続いた
からだと、考えています。
「いちきしまひめ」は、宮島の「厳島」にへんげなさった


(恩智神社3本足烏=太陽神のみ使い)

二万年前から~人々が定住した河内の山では
「いちきしまひめ」は、春日戸大明神とよばれなさる。

が、「いちきしまひめ」のお名前で通称「べんてんさま」とお慕われなさる


(恩智通称山寺の安養寺より勝目に見える六甲山
注:安養寺ちかくで銅鐸出た
タイガースファンは六甲おろしを歌うから~六甲は有名
でも本当はむこうやまだった 武庫川と言いますね 武庫山ってのが 
例の明治維新が当て字をつけて六甲にしたのじゃないか? 
歴史の真実を隠ぺいするために🔍
考古学には地政学が絶対必要

恩智には母木橋 母木観音 母木幼稚園
信長寄進頓宮牛頭天王社が本来の恩智神社あと
2万円年前から人々が住み着き~今に至るボーリング調査結果ありby大阪府
弥生時代地層から勾玉が出たこと 
小学校歌も母木の里とうたっている
 
母木の里は恩智のことと確信)

この神様を結べば、
貿易始めとする「人々の暮らし」と「海の道」が浮びます

有名な弓削道鏡の一件で「何故宇佐神宮のご託宣が?」
何故?伊勢神宮のご託宣ではないのか?疑問でした。
河内を従えるための「ご託宣」のはず。
ならば、
河内に居られる神様の名前で行われるはず。

宇佐神宮の神であるところの「いちきしまひめ」は、
「通称・弁天山」に鎮座ませり。
【宇佐神宮】とは、九州であるが・・
同じ神様を氏神として、河内二万年前の地形の山に鎮座。

で、祝島の神様も
ご親戚か・・要するに「海の道」をともに往来していた証明です

「はふり」昔はこう発声したらすぃ。
万葉時代は、今から1400も溯る。(ぉほほ♪参ったかぇ?

万葉集には、「はふり」「いはれ」
それは、斎に通じます。←この文字は新しいのです。

ここに詳しくご解説あり。引用します。
おおさかATC底質汚染ラーニング さまよりです。
http://blogs.yahoo.co.jp/teisitu/50684863.html

-----------↑より一部抜粋転載です。(礼)----------

万葉集では「伊波比島」(いはひしま)と表記され、
家人は帰り早来と伊波比島斎ひ待つらむ旅行くわれを(万葉集巻15-3636)
草枕旅行く人を伊波比島幾代経るまで斎ひ来にけむ(万葉集巻15-3637)
 と、航海の安全を祈願する歌が登場している。また、位置から見ても、祝島と上関港は、
奈良時代から近畿と九州の国東(くにさき)半島を結ぶ最短の航路上にあたり、
海上交通の要衝となる寄港地であったとされている。
このため、船の安全を祈願する神霊の島と崇められてきたという。
----------転載終わります-----------


万葉時代の文字【齋】を見てほしい。
この文字は象形文字ではないだろうか。

雨に打たれぬように天蓋があり、その天蓋を中心で支える柱。
一方に宝剣をあらわし、
反対サイドには幣(ぬさ)ではないだろうか。

神の依代(よりしろ)からお告げが示される。
その姿そのままに文字にされたのではないか?
と、考えると
この文字は非常に覚えやすかった。

漢字が日本人に愛される一つの理由かもしれない。

で、「はふり」は
神様をお祭する意味・場所・神聖など
全てを含む文字である。

言葉も時代とともにへんげする。
「はふり」が「ほふり」「いわい」と。
へんげしているのだ。

【齋】も本来【祝】とおなじであるが、
「いつき」「いつく」「さい」と発展する。

【祝島】は、「はふり島」であり「伊波比島」(いはひしま)である。

「ほふり島」であり、「伊波比島」(いはひしま)に見る
日本語の多様性。
と、私見ですが「さいはい」「幸い」などの言葉も
生まれ行く過程があったと考えます。(脱線)

また、【齋】なる場所でもあるわけです。

【祝島】の神舞は、いずこより神様のご招来なされるや?
その神様とのご縁は、とても意味深いものでありましょう。
祝島ホームページからは、伝承が記載されています。
瀬戸内は交通の要所であります。
山城国が伝承に登場するのも、うべなえます。

余談ですが
山城国は、はじめ山代国と表記されたとか。
何故?わざわざ書き換えしたのでしょうかね?
山代←読み方を変えますと? ヤマタイと読めますね。
完璧な脱線です。撤収(礼)

✈🚁記録:米軍墜落in沖縄

2019年10月14日 | 日米安保
201711







追跡!在日米軍 さまより 転載です。(黙祷)
http://www.rimpeace.or.jp/jrp/okinawa/100819ftn2.html
【転載】普天間基地の危なさを読む(2)

http://www.rimpeace.or.jp/jrp/okinawa/100819c9a.jpg
普天間基地のRW/06にアプローチするC9ジェット輸送機。滑走路端から約2キロ

http://www.rimpeace.or.jp/jrp/okinawa/100819c9b.jpg
着陸寸前のC9ジェット輸送機。滑走路端から約700メートル

http://www.rimpeace.or.jp/jrp/okinawa/100819c9c.jpg
C9輸送機から降りた兵士たち。部隊展開した帰りと見られる(10.8.19 撮影)

普天間基地には大型のジェット輸送機も降りる。
北東向きの滑走路RW/06にアプローチする大型ジェット機は、
那覇のど真ん中から着陸直前まで民家の密集地帯の上を飛行する。

8月19日にこのコースを降りてきたC9からは、
数十人の砂漠迷彩のようなユニフォームを身に着けた兵士が降りてきて、
個人装備の入った大きなバッグを担いで、ターミナルに向かった。
小部隊での展開を終わって、普天間基地に帰投したようだ。

通常の輸送任務ではなく、嘉手納の大型機が
普天間基地の滑走路を使ってタッチアンドゴー訓練をすることもよくある。

8月18日にはMC130特殊作戦支援機が、
21日にはP3C対潜哨戒機が
普天間で訓練を行っているのが「道の駅かでな」の展望フロアから遠望された。

特に21日は嘉手納基地の離着陸もほとんどないのに、
基地周辺全部に民家が密集する普天間基地でわざわざ訓練を繰り返していた。
タッチアンドゴー訓練の時間は2時間を超えていた。

(RIMPEACE編集部)


琉球新報 さまより 一部抜粋転載です。(礼)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-165027-storytopic-53.html

http://www.rimpeace.or.jp/jrp/okinawa/100818mc130.jpg
普天間基地でタッチアンドゴーを行う嘉手納のMC130特殊作戦支援機(10.8.18 撮影)

http://www.rimpeace.or.jp/jrp/okinawa/100821p3c1.jpghttp://www.rimpeace.or.jp/jrp/okinawa/100821p3c2.jpg
普天間基地でタッチアンドゴーを繰り返す、嘉手納のP3C(10.8.21 撮影)


【転載】在沖米海兵隊 広がる不要論 下院の重鎮「冷戦の遺物」

2010年7月16日
 在沖米海兵隊の不要論が最近、米国内で急速にわき上がっている。米民主党の重鎮で、政府に影響力を持つバーニー・フランク下院歳出委員長が「米国が世界の警察だという見解は冷戦の遺物であり、時代遅れだ。沖縄に海兵隊がいる必要はない」と公に訴えたことがきっかけだ。同氏らの意見が反響を呼び、メディアも大々的に取り上げている。背景にあるのは深刻な財政赤字。リーマン・ショック以降、不況で生活に苦しむ国民の不満が、膨大な軍事費に向き始めている。米軍の戦略見直しと財政再建の必要性が合わさり、海外駐留米軍の撤退を求める声は拡大する様相を見せている。
 ことの発端は今月6日。与党フランク氏と野党ロン・ポール氏の両下院議員が、米国の有力サイト「ハフィントン・ポスト」に寄せた論文だ。「なぜわれわれは軍事費を削減しなければならないのか」と題し、2010年度の軍事費6930億ドル(約61兆円)は歳出全体の42%にも上り、経済活動や国民生活を圧迫していると説明。米国が超大国として他国に関与することが、逆に反米感情を生み出している側面も指摘した。
 結論として「財政再建と雇用創出が国の最優先事項だ。度を越した軍事費問題に取り組まなければならない」と強調した。
 この記事が大きな反響を呼んだ。8日に大手テレビMSNBCやCNNニュースはフランク氏らを招き、論点を取り上げた。10日は米公共ラジオ局も取り上げ、フランク氏は「1万5千人の在沖海兵隊が中国に上陸し、何百万もの中国軍と戦うなんて誰も思っていない。彼らは65年前に終わった戦争の遺物だ。沖縄に海兵隊は要らない。超党派で協力し、この議論を提示していきたい」と訴えた。
 12日のウォールストリート・ジャーナルは「普天間飛行場の県外・国外移設を望む沖縄に、強力な助っ人が現れた」とし、今後この動きが加速する可能性に触れた。
 国会議員を15期30年務め、政治手腕に評価の高いフランク氏の発言には、綿密な裏付けがある。自らが主導し超党派で立ち上げた軍事特別委員会が、6月に発表した報告書だ。軍事専門家らを交えて軍事費を細かく精査した結果、欧州やアジアの駐留軍の縮小、オスプレイなど軍用機調達の停止・延期などによって、10年で1兆ドル(約88兆円)が削減できるとの試算を出した。
 ワシントン・ポスト紙は、この報告書を踏まえた記事を掲載し、「米国は世界の警察として、アフガニスタンやイラクだけでも1兆ドルを費やしてきたが、世界の中の役割について再考が必要だ。われわれはそろそろ正直に、そして公に議論すべき時期にきているのではないか」と、海外駐留米軍の役割について国民的議論を呼び掛けた。
 (与那嶺路代ワシントン特派員)

Rep. Barney Frank: Why We Must Reduce Military Spending(The Huffington Post)

フランク米下院議員、沖縄の米海兵隊の撤退を主張 - Japan Real Time - WSJ(The Wall Street Journal日本版、原文へのリンクも)↓一部抜粋引用(礼)
フランク米下院議員、沖縄の米海兵隊の撤退を主張
マサチューセッツ州選出のリベラル派の民主党員であるフランク議員が、テキサス州選出の共和党のロン・ポール下院議員と共同で、防衛費の削減、特に海外駐留の支出の大幅削減を主張する論文を7月6日に発表すると、メディアで大々的に取り上げられ、このところ同議員に対して取材が相次いでいる。この論文自体は沖縄の米軍問題について言及しているわけではないが、フランク議員はメディアの取材で、第2次世界大戦の遺産で21世紀には意味のないものとなっている無駄な支出の象徴として沖縄の米軍基地についてたびたび言及している。
フランク議員は7月10日、米ナショナル・パブリック・ラジオの取材に対して「沖縄に1万5000人もの海兵隊は必要ない。沖縄に駐留する海兵隊は65年前に終わった戦争の遺物に過ぎない」と述べた。(中略)

フランク議員が沖縄の米軍基地問題について今後どの程度関与するのかは不透明だ。フランク議員の民主党内での影響力は大きいが、同議員が影響力をもつのは、主として自身が委員長を務めている米下院金融委員会であり、軍事政策ではない。しかし、景気後退に対する不安の高まりを受けて歳出削減への圧力が強まっている現状において、沖縄の政治家も米軍基地の駐留を望んでいないと明言していることもあり、フランク議員の意見によってこうした動きが加速する可能性がある。
フランク議員はMSNBCのニュースキャスター、キース・オルバーマン氏に対して「沖縄の海兵隊を活用できる機会はない」と主張した。
記者: Jacob M. Schlesinger
英語原文はこちら≫

終わりなき人体汚染💀残酷💀脳の破壊

2019年10月14日 | 被曝症例

http://www.twitlonger.com/show/9ie4kk
↑より抜粋転記↓

①「終わりなき人体汚染~
チェルノブイリ原発事故から10年~」 書き起こし
(NHKスペシャル、1996年4月26日放送、NHK制作)


10年前の今日、チェルノブイリ原発4号炉の爆発によって
人類史上最悪の放射能汚染が引き起こされた。

30万人以上が家を失い、
今も700万人以上が汚染された大地に暮らしている。

事故直後コンクリートによって封じ込められた4号炉は
未だに強い放射線を出し続けている。

放射能は人々から大地と家を奪い続けている。
夥しい量の死の灰が広大な大地に降り積もり、
人が住むことのできない汚染大地を作り出した。



 事故がもたらした人体への影響は、
10年という歳月を経て風化するどころか、逆に深刻さを増している。

長い潜伏期間を経て、癌や白血病などが急激に増加している。
そして、放射能の影響は脳にまで及んでいることが分かってきた。

被爆者の身体の中で何が起きているのか。
世界中の科学者が詳しい調査や分析を進めてきた。
その結果、新しい事実が次々と明らかになってきた。
チェルノブイリ原発事故による放射能人体汚染は、
10年という時を経て、私たちの前に
想像をはるかに超える姿を見せ始めた。

テロップ「終わりなき人体汚染~チェルノブイリ事故から10年~」

 10年前チェルノブイリ原発事故で被曝し、
避難してきた人々の間に、また悲劇が起きた。

一人の幼い命が失われたのだ。少女は事故当時3歳だった。
4ヶ月前背中に小さな瘤ができ、手術を受けたがその後再発。
見る見る病状は悪化し、癌で亡くなった。

5000人余りの避難民が暮らすこの地区で、
毎週のように人々が亡くなっている。
少女の死はチェルノブイリ原発事故の呪縛から
今も逃れられない現実を改めて見せつけた。


 1986年4月26日未明、チェルノブイリ原発4号機が突然爆発、炎上した。
広島型原発500個分以上の放射性物質が放出され、原発周辺は強烈な放射能に包み込まれた。

 放射能が最初に襲った町は、原発からわずか3㎞のプリピャチだった。
しかし事故が起きたことは市民には伝えられず、
人々はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。

 これは事故当日のプリピャチの映像。
画面の一部が時々白く光るのは、強烈な放射線でフィルムが感光しているためである。

 チェルノブイリから放出されたセシウム137などの放射性物質は、
上空1500mにまで舞い上がり、ヨーロッパを始め、世界中に広がった。

 原発から半径600㎞の汚染は深刻で、
その面積は12万平方㎞、日本の国土の3分の1近くにも達する。

 黄色から濃い赤になるほど汚染レベルが高いことを示す。
一番濃い赤の地域は、東京のレベルの40倍以上にも達している。

最も汚染の少ない黄色の地域でも 日本の基準では立入禁止区域に相当する。
 WHO(世界保健機関)の調査によると、
未だに780万人もの人々がこの汚染地域で生活し、放射線を浴び続けている。

(子供たちが無邪気に遊ぶ様子)

 広島や長崎では、人々は一瞬のうちに大量に被曝した。

しかし、チェルノブイリでは、住民が
長期間にわたって少しずつ放射線を浴び続けているのだ。

(子供たちが遊んでいる場所の放射線量。
ガイガーカウンターは0.772μSv/hを示している。)

 住民は、放射能が降り積もった大地から直接放射線を浴びている。

さらに、汚染された空気や水、そして食物が
体内に入ることによって、体の中からも被曝している。

住民は10年間、2つの被曝を同時に受け続けてきたのだ。


(『IAEA チェルノブイリ調査報告書』1991年の映像)

 チェルノブイリの放射能による
人体への影響はどのように考えられてきたのか。


これは、事故から5年後、
IAEA(国際原子力機関)がまとめた報告書である。
当時の住民の健康状態を調査した結果、
「放射能が直接影響したと考えられる健康被害は認められない」
と結論づけている。
そして、今後起こりうる住民の健康被害については、
「将来、癌または遺伝的影響による増加があったとしても、
それは自然の増加と見分けることは困難であろう」と予測している。
(ウクライナ共和国キエフ市の映像)

 しかし、IAEAの予測に反して、
その後深刻な事態が次々と起き始めた。

異変は、まず子供たちに起きた。

(少女が治療を受ける映像)

 この少女は小児甲状腺癌の治療を受けている。
本来100万人に1~2人しか罹らないという小児甲状腺癌が、
子供たちを中心に急激に増加し始めたのだ。

 甲状腺は、
身体や脳の発達に不可欠な甲状腺ホルモンを作る重要な器官である。

チェルノブイリ事故により放出された放射性物質の1つ、
ヨウ素131は、体内に入ると
甲状腺に蓄積しやすく、癌を引き起こす。
その結果、甲状腺ホルモンの分泌異常が起き、
成長期の子どもの身体や脳の発達が遅れてしまう恐れがある。


 この少女は事故当時4歳だった。
チェルノブイリ型の甲状腺癌は、通常のタイプに比べて進行が早く、
転移しやすい特徴がある。

このため発見され次第、直ちに手術しなければならない。
この少女の甲状腺にも癌の黒い影が発見された。

キエフ内分泌代謝研究所 ミコラ・トロンコ所長

「最初に子供たちに甲状腺癌が増え始めたときは、
私も正直言って放射能の影響と言えるかどうか半信半疑でした。
しかしその後、汚染の高い地域ほど患者が多く、
しかも癌のタイプが通常のものと違うことから、
放射能の影響に間違いない、と確信しました。
これからさらに患者は増えていく、と予想しています」

 WHO(世界保健機関)の調査によると
小児甲状腺癌は、事故から4年後の
1990年から急激に増え続けている。

(キエフ小児産婦人科研究所の映像)

 最近、汚染地域に住む妊婦たちの身体に
様々な異変が起きていることが分かってきた。
キエフ小児産婦人科研究所では、事故直後から
汚染地域に住む妊婦2万人以上について、
出産に関する詳しい調査を続けてきた。
その結果、
汚染地域の妊婦の貧血が、事故前に比べて10倍に増えたほか、
死産や早産が多く発生していることが分かった。

 出産異常の原因をさらに詳しく分析してみると、
子宮内出血や早期破水が増える傾向にあり、
主に母胎の異常が
死産や早産を引き起こしていることが分かった。

(一人の妊婦の映像)

 妊娠5ヶ月のこの女性は、事故当時11歳だった。
これまでに一度死産を経験しているため、
不安を感じてこの研究所に検査を受けにやってきた。

医師
「胎盤が厚くなりすぎています。胎児に酸素不足の兆候がありますね」

 胎盤は、胎児に酸素や栄養を供給する重要な役割を果たしている。
胎盤は通常この時期(妊娠5ヶ月)であれば2㎝ほどの厚みだが、
この妊婦の場合5㎝以上に肥大している。
これは子宮内の酸素が不足していることを示し、
このままでは胎児の成長に深刻な影響が出る恐れがある。

 画面右側が胎児の頭。この胎児の頭の直径は4㎝ほどしかなく、
通常の胎児に比べて成長が遅れていることが分かった。
この研究所では、こうした妊娠中の異常は、
汚染地域の妊婦によく見られると指摘している。

キエフ小児産婦人科研究所 ダシケビッチ産婦人科部長
「深刻な状況です。
かつてのIAEAの予測と大きく食い違ってきています。
私はその原因は、長期間の被曝のためだと思います。
今後、長期的な被曝の影響を
注意深く調査していかなければいけないと思います。
また、妊婦や新生児に染色体の異常も見られるので、
今後世代を超えた遺伝的な影響が
出てくるかもしれません。」

 汚染地域では事故後、人工中絶の数が急増している。
放射能による被曝が胎児に悪い影響を与えるのではないか、
という不安もあるからだ。


(ミンスク遺伝性疾患研究所の映像)

 ミンスク遺伝性疾患研究所。
ここではチェルノブイリ原発事故によって被曝した妊婦の
染色体にどのような変化が起きているのかを調べている。

放射能の汚染地域に住む妊婦2000人以上の
血液細胞の染色体を詳しく分析してきた。

その結果、被曝量が高い妊婦ほど
染色体の異常の程度が大きいことが分かった。

染色体には、親から子へ生命の情報を伝える遺伝子が乗っている。

(2つの染色体が画面に示される。)

 右の染色体の上の部分にわずかな異常が見られる。
もしこの部分の遺伝子の異常が子どもに受け継がれると
先天性障害に繋がる可能性がある、と
この研究所の専門家は見ている。

ミンスク遺伝性疾患研究所 ゲナジー・ラジュック所長

「われわれの調査では、妊婦の染色体の異変ばかりでなく、
新生児の先天性異常も
汚染の高い地域ほど増えていることが分かりました。
その原因としては、ストレスや栄養障害や化学物質による汚染など
様々な複合的要因が考えられます。
しかし、それらの中でも1つの大きな要因として、
放射能の影響を考えなければならないと思います」

 この研究所の調査によると、
放射能の高濃度汚染地域では、
先天性の異常を持った新生児の数が事故前の1.8倍に増加している

「ゲン」閲覧制限に抗議続々

2019年10月14日 | 民主主義確立
アメリカは車社会です

日本から御出での時は 
アメリカのライセンスを 取得せねばなりません

コピー1枚とるのに💃片道30分以上 歩く
自転車🚴は危険だからね

四つ角で タイヤが落ち込むようなボコボコあって
帰宅と共にどこかへメール飛ばした友人??
あくる日、ボコボコが補修工事されていた👈はやっ!

議員にメールしたそうだ
議員を動かすのが選挙民らしい👷👷👷



画像拝借http://ameblo.jp/mun166/entry-11589365542.html

市民がこの国の主人公です
市民の声と行動が すべてを決めます
さらに、声と行動を!

中国新聞は '13/8/18付けで
↓の見出しの記事を配信しました
「ゲン」閲覧制限に抗議続々
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201308180009.html
↑より引用します

松江市教委が
市内の小中学校に
漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を要請していた問題で、

17日までに全国から281件の意見が
電話やメールで市教委に寄せられたことが分かった。

大半は抗議や苦情だが、賛同の声も一部あったという。

17日、職員は
「予想をはるかに超える反響」
と終日対応に追われた。

 「判断理由を教えてほしい」
「表現の自由を侵すのではないか」。

午前10時~午後6時、
被爆地である広島県をはじめ
東京都、京都府、沖縄県など全国から、
時には数分おきに抗議の電話が鳴り響いた。

数分で納得する人もいれば、
抗議を約1時間半続ける人もいた。

少数だが「適切な対応」とする声もあったという。

 市教委側は部課長級計3人が対応。

「はだしのゲン」(汐文社発行、全10巻)6~10巻に、
中国大陸での旧日本軍の行動を描いた場面など
一部に暴力的な描写がある▽

学校図書館では、その描写が子どもの目に触れる▽

校長の許可があれば貸し出せるため、閲覧禁止ではない
―などと説明を繰り返した。


 281件の内訳はメール212件、電話60件、ファクス9件。

午後登庁した清水伸夫教育長は
「非常に重い事態。
さまざまな意見には今後も責任ある対応を続ける」
と話した。
(引用終)



↓が昨日の状況です

<はだしのゲン>松江市教委、貸し出し禁止要請「描写過激」
毎日新聞 8月16日(金)19時22分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130816-00000054-mai-soci
↑より引用します↓

漫画家の故中沢啓治さんが
自らの被爆体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」について、

「描写が過激だ」として
松江市教委が昨年12月、市内の全小中学校に
教師の許可なく自由に閲覧できない閉架措置を求め、
全校が応じていたことが分かった。

児童生徒への貸し出し禁止も要請していた。


出版している汐文社(ちょうぶんしゃ)(東京都)によると、
学校現場でのこうした措置は聞いたことがないという。

【どう思いますか?】写真で見る「はだしのゲン」の原画

 ゲンは1973年に連載が始まり、87年に第1部が完結。
原爆被害を伝える作品として
教育現場で広く活用され、約20カ国語に翻訳されている。

 松江市では昨年8月、市民の一部から
「間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室から
撤去を求める陳情が市議会に出された。

同12月、不採択とされたが
市教委が内容を改めて確認。
「首を切ったり女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」
と判断し、その月の校長会でゲンを閉架措置とし、
できるだけ貸し出さないよう口頭で求めた。

 現在、市内の小中学校49校のうち
39校がゲン全10巻を保有しているが
全て閉架措置が取られている。

古川康徳・副教育長は
「平和教育として非常に重要な教材。
教員の指導で読んだり授業で使うのは問題ないが、
過激なシーンを判断の付かない小中学生が
自由に持ち出して見るのは不適切と判断した」と話す。

 これに対し、
汐文社の政門(まさかど)一芳社長は
「原爆の悲惨さを子供に知ってもらいたいと描かれた作品。
閉架で風化しないか心配だ。こんな悲しいことはない」
と訴えている。

 「ゲン」を研究する京都精華大マンガ学部の吉村和真教授の話 
作品が海外から注目されている中で市教委の判断は逆行している。
ゲンは図書館や学校で初めて手にした人が多い。
機会が失われる影響を考えてほしい。
代わりにどんな方法で戦争や原爆の記憶を継承していくというのか。

 教育評論家の尾木直樹さんの話 
ネット社会の子供たちはもっと多くの過激な情報に触れており、
市教委の判断は時代錯誤。
「過激なシーン」の影響を心配するなら、
作品とは関係なく、情報を読み解く能力を教えるべきだ。

ゲンは世界に発信され、
戦争や平和、原爆について考えさせる作品
として、残虐な場面も含め国際的な評価が定着している。

【宮川佐知子、山田奈緒】

自衛隊毒ガス製造(大宮駐屯地)化学学校でサリンなど7種類

2019年10月14日 | 731部隊関連
 重要なことは記録します
 
💀💀💀
自衛隊が毒ガス製造【大宮駐屯地】
化学学校でサリンなど7種類


http://tokyokushu.blog.so-net.ne.jp/2013-08-02
↑より引用↓ 画像拝借

2013.7.6
自衛隊が毒ガス【大宮駐屯地】学校でサリンなど7種類
に学校・所、説明せず

【陸上自衛隊化学学校】
 防衛相直轄の機関で、核・生物・化学兵器(NBC)から
「防護」のための教育訓練が主任務。
定員は100人程度で、1957年から大宮駐屯地に所在。
近年は約11億円の年間予算が投じられている。

防衛省製造を認める


画像20130820