Mokeihiki 模型飛機 いのちを最優先にする日本をめざす。

日本沈没をストップさせたい。
そのためには日本に民主主義確立を

地球と人類の未来を切り開きたい

呪の洗脳🔥呪の轟音

2019年10月16日 | 日本支配カラクリ

明治維新演出者たち(今言うDeep State) の<国民洗脳戦略>の一つに過ぎない
土下座写真、演出だった?
土下座写真、演出だった?
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/191171/?page=2


https://w.atwiki.jp/masukomi/pages/30.html
「朝日新聞の捏造01」より重要ですので転記転載賜ります<(_ _)>👇以下転記転載

「捏造された「宮城前号泣記事」
(文藝春秋、平成17年2月号)

加瀬英明(外交評論家)

私は昭和四十九年五月から翌年四月にかけて「週刊新潮」に、
昭和天皇を中心として先の大戦の景後の年の元日から、
マッカーサー元帥が離日する日まで、皇居を主な舞台とした
ノンフィクションを連載した。

敗戦の日の八月十五日の原稿を書くことになった時に、
私は朝日新聞の縮刷版を見て、奇妙なことに気づいた。

昭和二十年八月十五日の朝日新聞の一面は、
「戦争終結の大詔渙発さる」という見出しが横切っている。
二面には二重橋の写真の下に
「玉砂利握りしめつゝ宮城を拝したゞ涙 嗚・胸底挟る八年の戦ひ」
と見出しが、組まれている。

記事は「溢れる涙、とどめなく流れ落ちる熱い涙、
あゝけふ昭和二十年八月十五日」と始まっている。
記者は「歩を宮城前にとゞめたそのとき、
最早や私は立つてはをられなかつた、
抑へに抑へて来た涙が、いまは堰もなく煩を伝つた、
膝は崩れ折て玉砂利に伏し、私は泣いた、声をあげて泣いた、
しやくり上げ、突き上げて来る悲しみに唇をかみ得ず、
激しく泣いた」と筆を進めている。

「泣けるまで泣け、涙ある限り涙を流せ、
寂として声なき浄域の中に思はず握りしめる玉砂利、
拳を握つて私は『天皇陛下……』と叫び、
『おゆるし…・・・』とまでいつて、その後の言葉を
続けることが出来なかつたのである」

「・・…・すゝり泣く声あり、身を距たる数歩の前、
あゝそこにも玉砂利に額づいて大君に不忠を
お詫び申し上げる民草の姿があつた」

「私は立ち上つて『皆さん……』と呼んだ、
『天皇陛下に申し訳ありません……』
それだけ叫んで声が出なかつた、
だが私は一つの声を聞き、二つの声を耳にした
『わかります』『私も赤子の』人です』『この上とんなことが起らうとも・・・・・・』
この声はそれだけ言つて、もうあとは鳴咽にかき碎かれた、
日本人、あゝわれら日本人」(ルビの一部は、筆著による)

なぜ玉音放送の翌日ではなく、当日の朝刊にこの記事が載ったのか。
当時の新聞は物資が窮乏していたから、裏表二ページだった。
当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、
この日の新聞は正午前にすでに刷りあがって、
玉音放送が終ったころには、都内の販売店や、
地方へ積み出しが始められていた。
地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。
この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから
配達することに、決っていた。

この記事は玉音放送の前に書かれていた。
捏造記事だったのである。

翌日の朝日新聞の朝刊には、十五日の午後の皇居前広場の光景を
描写した記事がもう一度、載っている。
「二重橋前に赤子の群、立ち上がる日本民族、苦難突破の民草の声」
という、見出しがある。

「……すべての者に共通なことは、この群衆の一人一人が泣いて
ゐるといふことだつた、(略)すべての者が声をあげて
泣きじやくつてゐるのだつた、(略)天皇陛下、お許し下さい
 天皇陛下! 悲痛な叫びがあちこちから聞えた、
一人の青年が起ち上つて『天皇陛下萬歳』とあらん限りの声を
ふりしぼつて奉唱した(略)」

この記事は「大御心を奉載し 苦難の生活に突進せんとする
民草の声である、日本民族は敗れはしなかつた」と、結ばれている。

しかし前日の記事の三分の二くらいの量しかなく、前日の記事のほうが
はるかに臨場感があるし、胸を打つ。
記事を捏造する時のほうが、想像力が働くから、力がこもるのだろう。
もっとも、皇居前広場で人々が土下座している、“やらせ”の写真を、
十四日の段階で撮っていたところもあった。

私の連載誌が発行されて、すぐに青森市の花田省三氏から、
この件について経緯を説明した手紙をいただいた。
花田氏は学校教員だということだったが、当時は学生で、
工場動員によって福島市にある航空無線機工場で働いていた。
そして上司からいわれて、東京に外注部品を催促するため上京した。
花田氏、の手紙から、引用しよう。

「十四日、何時ものように栄養失調の足を引き摺りながら、
宮城前の明治生命館六階にあった日立製作所の事務所へ、
ネオン管の催促に行った。(略)
そこを出て、『宮城前に来たから拝んでいこう』という気持で
二重橋の方へ歩いていったところ、丁度『写真』の位置で、
腕章を巻いたカメラマンに呼びとめられ、
『写真を撮りたいので、そこに土下座してほしい』と云われた。
他に写真のように多くの人々が座らされ、
『撮しますからお辞儀して下さい』と云われて撮られたのです。

後で振り向くと、件のカメラマンが腕で涙を拭っていたので、
『何か様子がおかしい』と思い、又、何かの記念になるかもしれぬ』
と思って、『写真ができたら譲って欲しい』と頼んでみた。
すると、『この写真は特別なものだから呉れる訳にはいかない。
しかし、明日正午過ぎたら社に来てみれば、
或いはあげられるかもしれぬ』と云って、又涙を拭った。

妙な気分で、その場を去ったが、そでも、まだ敗戦終戦ということは
思い浮ばなかった。翌十五日、大変暑い日であった。(略)」

花田氏は都内で玉音放送をきいた直後に、占領軍が上陸すれば、
「男子は皆去勢され(略)女子は連合軍の用に供される」ということを、
人々が.「真面目に」いうので、「一刻も早く東京から逃れる」ために、
「福島までの切符を探した」のだった。

それにしても、私が取材したところでは、玉音扱送の数時間後に
都内でこの日の朝日新聞を手にした読者のなかで、
不思議に思った者がなかった。

当時も今も、従順な読者が多いのだ。

ルビは世界で日本語にしかないが、新聞には「やらせ」、とルビを振るべきだと、思う。

(注、文中に適宜ルビが付いていますが、ブログでは表示していません)
転記転載終わります<(_ _)>



出典http://ameblo.jp/mun166/entry-11589365542.html


「はだしのゲン」は戦争を告発する 戦争を企む者たちには目の上のたんこぶ
「はだしのゲン」を守りましょう!

あの日はもう2度と
http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/bun-ariki.html
↑より抜粋引用↓

有木 一郎(元 都島中学校)

恐怖の一瞬

後ろから追いかけてきた機銃掃射の弾痕が、
逃げまどうぼくの足もとを、砂煙をあげて追いぬいていく。

頭上には、不気味でけたたましい音を立てながら、
小さな機体があざ笑うように舞っている。

2機、3機、4機…。
米軍の艦載機(当時、関西だけを襲う関西機と思っていた)である。

山へ友達と、しば刈りに行った時のことだ。
米兵の顔が見える。

笑っている。
ジャレているみたいだ。
屋根の猫も撃った。
揺れる洗濯物も撃った。
動いているものは、何でも撃った。

行ったかと思うとまた戻ってくる。

「助かった。」と思うのは 甲高いプロペラ音が完全に消えた時だ。

海に潜って貝を採っているときにも、こいつに狙われた。
発射音とともに、岩の破片が煙を残して飛び散る情景は、思い出しただけでも身の毛がよだつ。

石臼で、きな粉やはったい粉を引く時のような音、
五臓六腑に響きわたる鈍重な音、今も忘れることのできないB29の爆音だ。

この音が聞こえてから 警戒警報や空襲警報が出たものだ。

その次に聞こえてくるのが、ぼくらを地面にはいつくばらせた。

爆弾や焼夷弾の呪いのような落下音だ。

その音で、さく裂地点の遠近が分かる。緊張の一瞬だ。

こうして村の何軒かが焼失し何人かが犠牲になった。

ぼくの脳裏には、今もあの、異様な、黒い物体と、4発の妖しげな怪音がはっきり残っている


国防色
 昭和11年、ぼくは、和歌山の片田舎の小学生となった。

そこには、美しい海と山とがあった。
2年生のころから学校や村の行事が急に多くなった。

なんでも戦争に勝って日本軍が中国(当時、ぼくたちは支那といっていた)の市や町を占領したかららしい。

昼は旗行列、夜は提灯(ちょうちん)行列と
ことあるごとに、村中が湧き立った。

愛国行進曲「見よ東海の空明けて…。」という日本賛歌を得意そうに歌ったのもこのころだ。

年を追うに従って「わが大君に召されたる」出征兵士を送る行事が頻繁になる。

赤紙を手にした若者が村の神社で武運長久の祈願を受け、
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国」の赤子となったこの若者達を、ぼくたちは、
村のはずれの田んぼ道に並んで、見えなくなるまで小旗を振って見送った。

やがて、まもなく同じように村のはずれの田んぼ道に並んで、
遺族の胸に抱かれた白木の箱を「殉国勇士」と賛美して迎えた。

しばらくして、村の2つのお寺には、星のついた長い墓標がいくつも建った。

 ぼくはこの数年、毎日のように家で日の丸の旗を作った。
当時、ことある度に、この旗が顔を出した。
日の丸用のお皿は縁が赤インクや色鉛筆で真っ赤になった。

 このようにして「ぼく」という国防色の虚像がつくられたのである。

配給と供出
 華々しく行われた紀元2600年の行事のあと、昭和16年、ついに太平洋戦争(当時、大東亜戦争といった)が始まった。

12月8日は大詔奉戴日として記念の日とされ、ぼくは、国民学校を卒業して町の中学校(旧制)に入った。

 このころには既に物資不足が深刻になり、家では、売り食いの竹の子生活が始まっていた。

上物好きで、ためこんだ祖母の着物が毎日のように2枚3枚と衣装びつやたんす・長持ちの中から消えていった。

「銀シャリを食うやつは非国民だ。」といわれ、中学の弁当も麦主体、芋主体、海草主体のものになり、
それを梅干しとともに黒ずんだ竹行李の弁当箱に遠慮がちに詰め、

昼食時には、揺られて片側に冷たく寄り添っている米や麦を探したものだ。

 配給制度も厳しくなる。
隣組の人が集まって、マッチの棒やきざみたばこの葉を指でつまんで、古新聞の上で分けていた。

炭やロウソク、塩、味噌などもあったが、砂糖の配給は全く記憶にない。
しかも配給された品は少量なのですぐなくなった。

当時、家の中では、火の気は絶やせない。
マッチも炭もないので、火鉢に小さい生木を埋めて火を確保した。カラケシも貴重品だ。
やがてつけ木(マッチ棒の火薬のかわりに硫黄を塗ったもの)の配給があった。

塩の代わりに海の水を汲んできて使った。
愛煙家だった祖母と母はよもぎや松葉をたばこの代わりに吸っていた。

 太陽の光のある間は電気は来なかった。
家には、電球のほかには電気製品(ラジオ・アイロン・こたつなど)は何もなかったから、
別に不便は感じなかったが、灯火管制には少々まいった。

20ワットの団らんも、警報による黒布の極度の減光で、不安のひとときに一変した。

ラジオはなかったが、新聞はとっていたように思う。
町へでる飛脚が帰ってきてから届けてくれるのだから、毎日夕方になる。
飛脚が休むと丸一日遅れる。

記事は皇軍の戦果ばかりだ。「陥落・占領・撃墜・撃沈」等の言葉だけが、やけに印象的だった。

 配給と対照的なものに、供出があった。

貴金属や銅製品をお上に出せというのである。
細かいことは覚えていないが、家で大切にしていた物は、
ほとんど役場の人が持って行ったらしい。

5、6個あった宣徳の火鉢、
毎日使っていた銅のバケツ・鍋・やかん、果てはたんすの引き手から仏具まで持っていかれた。
金の時計、金縁の眼鏡、金張りの総入れ歯など、
祖母は涙しながら「お国のためなら」と、いとおしながら手放してしまった。

半年ほどして、東条英機名義の感謝状が届いた。

 それは、ぼくが大人になったとき、破って捨てた。

(引用終)あとは転載元でご覧ください

血を流し続けている🗻今も🔥

2019年10月15日 | 日本支配カラクリ
怖がりだから 写真は直視できない 息が苦しくなる
なぜ?殺され続けているのだ?!日本人は🔥

2種類の原爆投下は 日本敗戦が色濃くて本土には 戦う力などなく 非戦闘員ばかりの状態であった


はじめ14歳からが、のちに12歳より工場で働いたという
想像できますか? 今の小学六年生の女の子ですよ

遊びたい!食べたい!
観劇も 読書も お料理のお手伝いもショッピングもです

成長盛りの~少女の青春を奪った戦争🌋

父は 酷い近眼で 糖尿病患者で5尺 色白ぽっちゃりビール腹
甲乙丙の丙でしたが 敗戦間際に赤紙が来たとき=日本敗戦を疑わなかった

通信兵で 銃は撃てない 目が悪くて見えないもの

大砲撃つ兵隊が「一ちゃん(一郎)逃げや!」と言う 通信機担いでいつも逃げていたそうです💦

軍隊は楽しかった 散髪屋クリーニング屋魚屋落語家 あらゆる分野の男たちの共同生活で
虐めはない (虐めたら~背後から撃たれますよね)

丙種兵の父がいない間に まさおが餓死した 叔母の一人が血を吐いて死んだ 憲兵叔父が餓死=meは自決と確信す


南方戦線派遣叔父の骨は帰らない
敗戦後も 母方叔父の一人が血を吐いて死んだ

祖母は毎日 仏壇の前で泣いていた 今meが祖母の年齢になった 日本人は殺され続けている

全ての根幹は 明治維新にある 今言うDeep Stateが日本ハイジャック成功し
~今の日本国民と日本の、塗炭の苦しみがある

(黙祷)



東京大空襲の写真だ 1晩で10万人が殺された



戦争だから仕方がない---原爆投下に対して 英国正規軍元帥だった昭和天皇の言葉が 
日本国民meの胸に突き刺さったまま🔥 血を流し続けている🔥

殺されて諦めろ?と聞こえる そのまま殺されろ とも聞こえる




日本の家屋が木造建築であるところから より効果的に、焼き尽くすための武器ですね



下の爆弾は1.8m・・はい。私より30cmも背が高い!


meはよく眠る子だったと聞く で 大阪空襲は母の背中で眠っていた
ご近所の防空壕が直撃を受けて 全滅だった

空襲は夜だけではなく昼夜分かたず 年寄り女子供ばかりの市電も狙われた
機関銃撃つ米兵が笑っていた=母の言葉

銃撃され殺された同胞を搔き分け家の軒下沿いに逃げ
九死に一命をとりとめた母とme

同級生は🔥わー!叫び声で目を覚ましたーー母親の背中で

人が もがく火柱となって! 彼女がこの世で誕生して最初の記憶シーン👿
戦争は生き残った赤子の心に 恐怖を植え続けている





女・子どもに~学生中心じゃありませぬか!
非戦闘員しかいない都市や地方を大空襲した米軍!

その米軍に一刻も早い停戦をなぜ?しなかった?日本は?!

👆1941年英国正規軍元帥=昭和天皇 これを国民は知らなかった

天皇が英国籍🔥であることを知ったら 死んでいった叔父達や叔母たちはどう思うか🔥




ご丁寧に大虐殺を美化し、正当化するフライヤまで散布した

気のいいアメリカ人を敵にする奴は 🏇鹿だ
アメリカ国民を怒らせ戦争に参加させたのは パールハーバーだ

宣戦布告を中米日本大使館員のミスで 
通訳に手間取って?時間切れだった と聞いた(信じがたい
何の通告もなく真珠湾攻撃された米国民の怒りは 今も消えない

📺が伝え続けている
リメンバーパールハーバー アメリカでは幼子まで知っている

トランプ大統領が言うDeep Stateとは 世界独占支配めざす
日本は 日本国民だけでは倒せない相手でも アメリカ国民と連携すれば道が開ける


真実の敵は 明治維新で日本ハイジャックした者たち






死亡率曲線👿8/6広島原爆投下2日後大本営陸軍医務局派遣

2019年10月13日 | 日本支配カラクリ
8/6投下の二日後8/8には 大本営が陸軍医務局を派遣してきた


巨大台風下、いわき市では
77歳女性がヘリ救助作業の不手際で 40m落下死亡
胸が痛い

消防も警察も自衛隊隊員も 艱難辛苦を思う

されば1945年8/6広島への原爆投下 
わずか二日後に大本営陸軍医務局派遣は

余りにも手際よい

参照🔥https://blog.goo.ne.jp/mokeihiki/e/f93634a9836018d939ae015bd0344738

画像は死亡率曲線
ドラキュラやフランケンシュタインやゾンビより
もっと寒い💀
被爆させデータ作成させた 人体実験
 
封印された原爆報告書
https://dailymotion.com/video/xkca1f

米が原爆影響報告書を公開
http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kennaitopix/2014/01/28090628012572.shtml
2014.01.28 長崎新聞 より引用↓


原爆投下直後の長崎、広島で、
原爆の人体影響などを日米合同で調査した
6冊の英文報告書「原子爆弾の医学的影響」が
27日までにインターネット上で公開された。

米国陸軍が1951年にまとめたが
一時、機密指定され、
限られた研究者しか知らなかった。

周知したいと考えていた長崎大の
長瀧重信名誉教授(82)が
昨年、米エネルギー省に公開を働き掛け、
その後、ネット上で入手可能になったと連絡を受けた。

 報告書は、
広島の放射線影響研究所のほか、
複写が長崎原爆資料館にある。


長瀧氏によると、
原爆投下から間もなく
日本の研究者が調べたデータや、
合同調査などで構成。


日米で約180人の医師らが関わった。

長瀧氏は
「原爆直後の状況を科学的に最も詳しく書いた報告書。
多くの人に読んでほしい」と話している。

 日赤長崎原爆病院の朝長万左男院長(70)によると、
報告書は
1部が爆発のエネルギーや残留放射能、
2部が調査方法や臨床的観察、
3部が血液学関係、
4部は解剖例、
5部は統計解析、
6部は原爆前後の人口や、爆心地からの距離、
    遮蔽(しゃへい)物など条件による死亡率の違い
-など。

広島の爆心地から4キロ以内の
子どもらについて
距離別の死亡率などから
殺傷能力を分析した内容もある。

 朝長氏は
「原爆開発の米国のマンハッタン計画は
事前に医学調査、物理調査まで全部予定していた」
と指摘。


報告書公開について
「多くの研究者がアプローチできる一級資料。
(会長を務める)長崎市原子爆弾放射線影響研究会でも検証する」
と話した。

(引用終)

03年安全装置撤去メルトスルーへの導線

2019年10月12日 | 日本支配カラクリ

大切なことは繰り返し 声を上げてください
とても 大切なことだから

いつまでも👆舐められていますか?

引用です👇<(_ _)>

http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1787.html
↑カレイドスコープさまより一部抜粋↓画像拝借(礼)

なぜ、父・純一郎は、2003年に原発の安全装置の削除を次々と決めたのか

進次郎の父・純一郎は、小泉政権の恥部を世間に漏れないように、
安倍晋三という適度に使えるバカを後継指名して
隠遁生活に入ったかに見えます。

彼が墓場に持っていく前に、彼の抱えている多くの秘密を
聞き出すことができるのは進次郎以外にないでしょう。

その秘密の一つは、
元民主党議員の原口一博が指摘した「安全装置」の撤去。

もう一つは、元共産党議員の吉井英勝氏が国会で追及した
香川県多度津に310億円かけて作った大型振動台の撤去問題です。

この二つの安全対策を
取り外すことなく、
当初のとおり実施していれば、
少なくとも福島第一原発人災事故は、
ここまでの過酷事故に至らなかったことは確実です。

福島の放射能被災者のいくらかの人たちは、
この小泉政権時代に行われた
安全対策と逆行する“自爆対策”を
不可解に思っているのです。


【原口前総務相】福島第一原発の安全装置は小泉政権が撤去していた
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=8e-Z2gn2F5A

この動画の中で、
原口一博氏は、福島第一原発の安全装置の撤去に関しては、
すべて事実を述べています。
この内容は公文書などで確認できました。

初めて原口一博氏が、
福島第一原発の安全装置の撤去について言い出したとき、
「自民党の小泉政権時代に安全装置を取り外したというのは原口のデマ」である、
と言い出して、
必死に自民党の愚行を否定していたブロガーたちがいます。

彼らの言うことこそ、大嘘でした。
小泉純一郎を擁護する得体の知れない連中は今でもいます。

このおかしなブロガーの書いていることがデタラメであることは、
この動画や
政府が出している公式文書を
読めばすぐに分かることです。


原口一博氏が引用している、福島第一原発3号機の
冷却システムを設計した元国立佐賀大学学長の上原春男氏の証言は、
こちらの記事で扱っています。

また、原口氏の指摘する「安全装置の一部の撤去」については、
原子力安全委員会の速記録に明記されています。
(下の公式文書の抜粋部分)


第10回原子力安全委員会速記録(2003年2月17日定例会議記録)
(原子力規制委員会のホームページより)
(上から四分の一のところ)

申請年月日につきましては、昨年(2002年)の7月5日に申請があったわけでございます。
それから、変更項目につきましては2点ございます。

2号につきまして、冷却材 再循環ポンプの電源装置を、
従来機械式でございましたMGセットから、
電子装置を用いました静止形に変更する
というものが第1点でございまして、もう1点 は、
2から6号共通でございますが、
残留熱除去系の蒸気凝縮系の機能を削除するものでございます。

この工事につきましては、一昨年、中部電力の浜岡1号で
余熱除去系の蒸気凝縮系配管が破断する
というトラブルがございまして、この対策工事でございます。

既に浜岡1号、東海第二、女川発電所で、
それぞれ許可を 受けまして、工事を行っております。

2ページに参りまして、工期につきましては、4ページに一覧で載せてございますが、
各プラントの定期検査等に合わせまして工事を行うということでございまして、
最も完成がおくれるものとしては4号、5号が
平成17年工事を終わるという予定でございます。

変更の工事に要します資金につきましては、2号の電源装置の取替えに2つセットがございまして
、両方合わせまして約15億円ということでございます。

それから、蒸気凝縮機能の削除につきましては、5プラント分合わせまして、
約10億円ということを考えてございます。
資金は自己資金等で調達する予定でござ います。


誤解が生じないように少し補足すると、
一般に原子炉が冷却できなくなった事態に
対処するための「安全装置」と言っているのは、

・「非常用復水器」(非常用炉心冷却装置ECCS)、
・「蒸気タービン駆動の非常用炉心冷却装置」(隔離時冷却系)、
・「蒸気凝縮系機能冷却システム」

の3つの装置のことです。


福島第一原発では、3つの安全装置のうち、
1号機は「非常用復水器」のみが取り付けられており、
他の2つの安全装置は設置されていませんでした。

2~6号機については、当初は3つとも装備されていましたが、
勝俣恒久が東電社長に就任して間もない2003年に、
小泉内閣の決定によって「蒸気凝縮系機能」が、

わざわざ10億円をかけて外されたのです。


それだけでなく、
浜岡1号、
東海第二、
女川発電所でも、同様に
残留熱除去系の蒸気凝縮系の機能が取り外されているのです。


わざわざ取り外す必要などまったくないのに、
10億円以上もかけて撤去している不可解。


自民党は、民主党時代の追及に対して、
ちょっとでも説明しようという気配さえありません。


(財)原子力発電技術機構 多度津工学試験所。今は存在しない。

もう一つは、
香川県多度津に310億円かけて造った大型振動台
「多度津工学試験所」の撤去問題です。

これは、今でも大いなる謎を含んでいる問題です。

多度津工学試験所は、
当時で310億円の巨費をかけて1982年に完成した
世界最大の大型振動台で、
日本の原子炉で実際に使われている原子炉圧力容器などの
原発用機器を発振台の上に載せて、
地震と同じ震動を人工的に起こして
耐震性テストする研究施設

耐震性試験は、実際に原子炉で使用されている原発用機器を大型震動台の上に載せて行なうことを前提としていましたが、
ビルの高さほどある原子炉格納容器や、
冷却システムなどは
実機を模擬したものを造って行っていました。(写真下)


その他の原子炉関係の試験内容は、多度津工学試験所の歴史と役割(pdfファイル)をご覧ください。

実機と同じものを、わざわざ造って試験していたのですから、
これほど確かなこともないはずなのですが、
これも、小泉純一郎が「必要ない」と言い出して、
結局解体させられ、同試験所の建物・敷地ごと、
たった2億7700万円で今治造船に引き渡されたのです。


京都大学で原子力工学を学んだ吉井英勝氏は、以前から、圧力容器中の炉心隔壁が中性子を浴びて脆化することを懸念しており、多度津工学試験所解体の話が取り沙汰されるようになってから国会内でこの問題について取り上げ、質問状を提出。

当時の総理大臣であった小泉純一郎は、吉井英勝氏の質問に対して、「非常事態においても、原子炉を冷却できる対策が講じられている」との官僚の作文で返したのです。

しかし、3.11の東日本大震災の地震によって、
それが結果として嘘であったことが証明されたわけです。
「非常事態においては、原子炉を冷却できる対策が講じられていなかった」が事実なのです。

これを多度津工学試験所解体を強行した政治家、電力会社、官僚は、「想定外」の一言で片付けてしまったのです。

この事実を後になって知った多くの国民は、
「多度津工学試験所で耐震性の実験をしていれば、
震度6強の地震に
日本の原子炉が耐えられないことを
知らせることができたはずだ」と主張します。


果たして、そうでしょうか?

耐震性試験を繰り返していけば、
日本のどの原発も震度6強の地震で破壊されてしまう、
という現実を突きつけられ、

それを国民に隠しておくことは不可能だろう
という心配から、
多度津工学試験所の解体を決定した
というのが真相ではないか
と誰でも考えるでしょう。

小泉内閣によって多度津工学試験所の解体が決定されたのは
2003年10月。

同じく、福島第一原発、浜岡1号、東海第二、女川発電所における
残留熱除去系の蒸気凝縮系の機能を
削除する工事を行なわれていたのが
2003年。

このように、2003年に矢継ぎ早に決められた
日本の原子炉の安全対策の削除。

原子力ムラの人々は、
きっと小躍りして喜んだことでしょう。

実機による試験をする研究施設がなくなった以上、
耐震信頼性のコンピュータ・シミュレーションを行う際に
使用するプログラムのパラメータをいじくれば、
どんな原子炉でも
「安全性は確保されている」という答えを
出してくれるのですから。

(一部引用終わります)