凡凡「趣味の玉手箱」

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先鞭というコトバ

2006-05-17 08:21:55 | 中国のことわざ
中国のことわざ-208 先鞭というコトバ

「先鞭」は広辞苑によれば、「他人より先に着手すること。道をつけること。さきがけ」とある。「先鞭をつける」という具合に使う。

「常恐祖生先吾著鞭」
“劉こん”の語った「祖生のわれに先んじて鞭を著けんことを恐る」というコトバに基づいている。祖生は祖逖のこと。

“劉こん”は東晋時代の人で、祖逖(そてき)と名声において肩を並べる存在でライバル同士であった。“劉こん”は友人の祖逖が自分より先に馬に鞭打って走らせ名をあげるのではないかと、そればかりを心配した故事から“先鞭”というコトバは生まれた。「先鞭をつける」という具合に使う・

出典:広辞苑、「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」

犬死にした快男児たち

2006-05-17 08:21:08 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー99 犬死にした快男児たち

司馬睿は丞相となり、晋の軍事を総理する身となった。やがて長安陥落の知らせが入ると、北伐の布令を発して戦闘の準備を整えたが、実は見せかけに過ぎず、行動に出る気は毛頭なかったのである。そして臣下にすすめられた形を取って晋王となり、翌年、愍帝の死を聞いてついに皇帝の座に着いた。中原回復のため命をかけて戦っている男たちこそ、いい面の皮である。

大尉(三公の一)の“劉こん”が殺された。それには次のようないきさつがあった。

そもそも“劉こん”は、名声において祖逖と肩を並べる存在だったため、かねがね人にこうもらしていたという。

「わしは、祖逖めがわしを出し抜いて一番手柄を立てはせぬかと、そのことばかりが気がかりでならぬ」

さて、“劉こん”は懐帝、愍帝の時代から、并州の長官をつとめていた。漢の石勒(せきろく)の軍と戦い、幕僚長の裏切りにあって窮地に陥ったとき、たまたま薊城(けいじょう)に駐屯していた幽州の長官段匹てい(だんひつてい)が救援の手をさしのべた。“劉こん”はその手引きによって、麾下の兵もろとも薊城に逃げ込み、段匹ていと盟約をかわして、晋室のために戦おうと誓い合ったのである。ところが、薊城を奪おうと狙っていた賊将が、“劉こん”に内通をすすめる手紙を送りつけた。その手紙が運悪く巡察隊に押収されてしまった。“劉こん”自身は何ら身に覚えはなかったのだが、そのため段匹ていに疑われて、ついに絞殺されたのであった。

ついで予州の長官となっていた祖逖もまた世を去った。

祖逖は揚子江を渡るとまず“しょう城”を占領し、さらに兵を進めて雍丘(ようきゅう)に根拠地を置いた。すると、境を接する趙の軍からの投降者が、ひきもきらぬという有様だった。彼は部下の将兵と苦楽を共にし、産業を振興し、新たに帰服した民衆の扱いに気を配った。

ところが元帝は、戴淵(たいえん)を征西将軍に任命し、予州を含む六州の軍を統括させることにした。祖逖にしてみれば、河南は粉骨砕身経営の結果平定した土地である。そこへ戴淵が乗り込んできてぬくぬくと上司におさまったわけだから、なんとしても腹に据えかねた。そこへまた伝わってきたのが、王敦(おうとん)が朝廷と対立して内戦の起こるのは必至という情報である。こんな“ていたらく”では、中原回復の大望など、とうてい実現の見込みはない。祖逖は憤激のあまりついに病床に臥し、そのまま帰らぬ人となったのである。予州の民衆は、みな実の親を失ったかのように嘆き悲しんだものだった。

乱世を喜ぶ

2006-05-17 08:20:03 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー98 乱世を喜ぶ

洛陽出身の祖逖(そてき)は、若い頃から気宇壮大な男だった。“劉こん”と一緒に寝ていたときのこと、夜半に鶏の声を聞くや、“劉こん”をとばして飛び起き、「吉兆だ、吉兆だ」と踊り出したという逸話の持ち主である。

この祖逖が、司馬睿の幕下にやってきて、兵を授けられるよう要請した。睿の本心は、もともと北伐にあるわけではない。祖逖を予州の長官に任命し、千人の兵を授けたものの、武器らしい武器は支給しなかった。だが祖逖は、揚子江を渡って北上する際、中流で楫(かじ)を叩いて誓いを立てた。

「もしこのわしが、中原を平定できずにおめおめとこの河を渡らねばならぬ羽目になったなら、二度と生きては帰らぬぞ」

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

和して動ぜず

2006-05-17 08:19:02 | 中国のことわざ
中国のことわざ-207 和して動ぜず

出典は論語子路篇。広辞苑によれば意見が同じならば他人と協調するが、おもねって(機嫌をとって相手の気にいるようにする、へつらう、追従する)妥協することはしない。

“和して動ぜず”に引き続き“同じて和せず”と続く

「君子和而不動、小人同而不和」
君子は和して動ぜず、小人は同じて和せず。

君子とは徳が高くて品位の備わった人、聖人。小人は君子の対となる対義語。徳・器量のない人を指す。

聖人は和合はするが、雷同することはない。一方、小人は雷同することはあっても和合することはない。

雷同は自分に定見がなくて、みだりに他の説に同意すること

「付和雷同」という四字熟語もよく使われる。「自分に一定の見識がなく、ただ他の説にわけもなく賛成すること」で「多数派に付和雷同する」という具合に使う。

出典:広辞苑、加地伸行、すらすら読める論語、講談社、2005年10月20日発行

江東に管仲あり

2006-05-17 08:17:43 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー97 江東に管仲あり

当時、桓彝(かんい)は戦乱を避けて江東に来ていたが、司馬睿の勢力がふるわないのを憂慮していた。が、やがて王導に面会する機会を得ると、その足で“周がい”をたずねて、こう言ったものである。

「江東には管仲がいたわい。もう心配することはない」

また、名士たちが江辺にしつらえられた新亭で遊宴を催したときのことである。宴のさなかに“周がい”が、「洛陽を思い出すなあ。風景は似てはいるが、よくよく見ればやっぱり北方とはちがう」と嘆ずると、一座の人々は期せずして涙にくれた。

だが王導は、声を励ましていった。
「だからこそわれわれは、一致団結して神州(中国)を回復しなければならんのだ。捕虜となってめそめそしたってはじまらぬぞ!」

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

中国有名選手引退後の悲哀

2006-05-17 08:16:30 | 中国知っ得情報
吉林省・長春出身の元重量挙げの女性。彼女は88年の全国大会で44キロ級の総合と種目別で合計3個の金メダルを取り世界記録も更新した選手。その彼女が今薬物後遺症に悩み、食堂・銭湯など職を転々としている。現在、彼女がつとめているのは銭湯、働いていて心臓が苦しくなることもあるという。しかしこの仕事を失ったら生きて行けないので続けているという。この事実が報道されてから、“国威発揚に貢献した選手を見捨てるのか”と世論が一気に高まったという。北京オリンピックに威信をかける中国はこの問題に無関心ではいられず引退選手の保障充実を強調し始めたという。

中国では全国大会で6位まで入賞すれば国家の補償が受けられるというスポーツ選手に対する優遇措置がある。しかし市場経済化の波で「国家の英雄」に対して保障が徐々に薄くなっているという。

この話とは少し違うと思うが、上海で雑伎団を見たとき、現地のガイドさんから、彼女たちは15,6歳が花で20歳になれば引退、その後は公務員として働く仕事が保障されているとか言う話を聞いた。その時、中国では特技を持って危険と背中合わせで働いて人に国が優遇しているのかと単純に思ってしまったのだが。広い中国のこと、システムが浸透しない点もあるのだろう。

北朝鮮でもオリンピックなどで活躍した選手には破格の待遇が待ち受けている、逆に敗退した選手は惨めな目に会うと言うことを聞いたことがある。

一党独裁の国では、どの国でも世界の檜舞台で活躍選手は厚遇されてきた。中国が過去スポーツで活躍した選手を冷遇する(厚遇しない)と言うことは一党独裁色が薄まってきていると言うことなのだろうか。この記事には、また“本人についての報道を禁じる指示が地元当局から出され、続報は4月中旬頃から姿を消したと最後に記述されている。中国ではいろいろな問題が複雑に絡み合っているようだ。

朝日新聞5月11日朝刊から

百六掾

2006-05-17 08:15:11 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー96 百六掾(えん)

中宗元帝、名は睿(えい)、“瑯や王:ろうやおう”“ちゆう”の孫にあたる。“ちゆう”は、晋の国祖司馬懿(しばい)の子で、その“ちゆう”の子が元帝の父覲(きん)である。司馬睿(しばえい)は覲のあとを継いで瑯や王になったが、一説によれば、実は覲の子ではなく、母親が牛金という小役人との間になした不義の子だという。西晋の恵帝、懐帝とはまたいとこの関係にあたる。

睿は、懐帝の時代に安東将軍となり、揚州の諸軍の総司令官として、建業(のちに東晋の都となり、健康と改称)に駐屯していた。
王導(おうどう)を顧問に任用し、何事によらず王導の意見を求めるのを常とした。

晋室における睿の地位は低かった。そのため、呉の人々は彼を信頼しようとしない。そこで王導の建策にもとづいて、顧栄(こえい)、賀循(がじゅん)紀瞻(きせん)ら旧呉の名族を任用し、新旧の別なく民衆を慰撫したので、江東一帯の民心はことごとくかれに帰した。

睿はさらに“ゆり亮”、“卞壷(べんこ)”らを招聘し。幕下の名士は百余名にのぼった。世に言う“元帝の百六掾”がこれである。

*1 江東地方は、三国の呉が立てた土地であるので呉と呼ぶ。呉をクレと訓読するのは、わが国から見て真西の、日が暮れる方角に当たるからである。
*2 新旧の別:中原の乱を逃れて南方に流れ込んだ人々を“新”といい、土着の人々を旧という。

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

西晋滅亡と東晋王朝発足

2006-05-17 08:13:51 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー95 西晋滅亡と東晋王朝発足

洛陽は陥落し、懐帝は捕らえられて、平陽のもとに送られたのち殺された。秦王の業(ぎょう)が長安で即位した。これが西晋最後の皇帝の愍(びん)帝である。当時12歳であった。

匈奴軍が長安にも押し寄せてきて、しばしば攻撃を仕掛けた。晋は将軍の鞠允(きくいん)や“索ちん”らの奮戦で、この攻撃をくい止めた。しかし、匈奴軍は周辺の諸郡を次々に陥れた後、最後の攻撃に出た。

まず長安の外城が陥落した。鞠允や“索ちん”は内城に退却して死守したが、内と外との連絡が絶えて、餓死者が続出する有様。ついに愍帝は城門を出て降伏した。匈奴軍の将劉曜(りゅうよう)が帝を平陽に送った。

平陽では、劉聡が群臣を集めて戦勝祝賀会を開いた。そのさい、愍帝は囚人用の青い上衣を着せられた。酒席に出て酌をさせられたり、杯を洗わせられたり、また日よけの絹の傘を持たされたりし、その挙げ句に殺された。

西晋は、武帝から愍帝まで四代、五十二年間続いた。その後、瑯や(ろうや)王が建業で即位した。これが東晋の中宗元帝である。


「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

土塀の下敷きとなる

2006-05-17 08:12:11 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー94 土塀の下敷きとなる

氏(てい)族の李雄が成都を占領、自ら成都王を称した。鮮卑族もまたその勢力を伸ばしていた。さらに鮮卑族の一氏族である索頭族が河北の国を三つに分けたが、彼らに従属する晋人が次第に増えた。異民族の勢力は漢、魏、晋の三大にかけて、次第に各地に結集しはじめていたが、それが恵帝の代になって中国に大乱が生じると、いっせいに四方から決起したのである。

さて、武帝の子は25人もいたが、八王の乱で殺し合った結果、生き残った者は司馬叡(しばえい)、司馬熾(しばし)、呉王安の三人だけであった。この混乱の中で恵帝が没し、懐帝(司馬熾)が即位した。成都に割拠した李雄は帝を称して、国号を成となづけた。また、漢を称した劉淵はわが子の劉聡と、羯(けつ)族出身の石勒(せきろく)らに軍を率いさせて、洛陽に進軍した。

東海王司馬越は、この事態に兵を洛陽に急派して宮中の護衛にあたらせた。それと同時に、各地に至急の回状をまわして兵をかり集め、洛陽へ送り込んだ。彼自身も兵を率いて石勒を討ったが、不幸にして軍中で病没した。
石勒の兵は司馬越の軍を敗走させ、王衍(おうえん)らの廷臣を捕虜にした。そのとき王衍は、こんないいわけをした。

「わたしは若い頃から政治には関心がなくて、人任せにしていた。今度のことは、私の責任ではない」

石勒は開いた口がふさがらなかった。

「わしはずいぶん天下を歩き回ったが、こんな人間は、ついぞお目にかかったことがない。助けてやったものかどうか」

部下の一人が進言した。
「あいつらは晋の王侯貴族です。生かしておいても、ためになりません」

「それもそうだ。だが剣でころしてはならないぞ」

けっきょく、王衍らは、夜中に外へ連れ出され、土塀の下敷きにされて殺された


「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

「わたしは○○に関心がなくて、人任せにしていた」どこかで聞いたような?