水の丘交通公園

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国鉄 E10形蒸気機関車

2011-01-23 20:09:35 | 保存車・博物館
奥羽本線の急勾配区間である福島~米沢間(現在は山形新幹線の一部)で専用機として
運用されていた4110形蒸気機関車(大正3年製造)の老朽化と輸送力増強のため、
開発されたものである。
昭和23年に5両が製造された。製造を担当したメーカーは汽車会社である。
国鉄の蒸気機関車として、純粋な新車は本形式が最後となった。
5両と少数だったのは既に奥羽本線の電化工事が決定していたためで、
本形式はそれまでの繋ぎとして開発されたためである。

車体は鋼鉄製で炭水車を連結しないサイドタンク式となっている。
板谷峠ではトンネル通過の際の煙害を防止するため、通常、蒸気機関車の先頭側となる
煙突側ではなく、炭庫側を前位として運行することが多かったことから、
本形式は最初からこれに対応している。
このため、運転席が炭庫側を向いて左側に配置されるという特殊な構造となっている。
また、煙突側も先頭側に設置される除煙板が設置されていないなど、
日本の近代蒸気機関車の中でも、かなり特徴的であった。

車軸配置は1-E-2で動輪の前後に従輪台車を設けた。
これは出力を向上したため、車体が大きくなった分の荷重に対応するためである。
また、カーブ通過に対応するため、第2動輪のフランジを通常よりも薄くし、
第3・第4動輪にはフランジそのものを設置しなかった。
これにより、カーブでの横圧(車輪がカーブでレールを押し出す圧力)を軽減したが、
実際には、かなりの横圧がかかってしまい、本形式最大の難点となってしまった。

導入時は既述の通り、奥羽本線の板谷峠で運用された。
試験運転で33‰の勾配で4110型の1.5倍の270tの列車を牽引したが、急カーブでの
牽引力の衰えが見られるなど、必ずしも期待された性能を発揮できなかった。
むしろ、軌道に与える横圧が問題となった。
完成から1年ほどの昭和24年に奥羽本線の電化(当時は直流)が完成し、早くも
失職したが、九州の肥薩線で勾配用の補助機関車として使用されることになった。
しかし、ここでもカーブでの横圧が問題とされ、僅か半年でD51形に運用を譲った。
その後は、北陸本線津幡~石動間にあった倶梨伽羅峠の勾配用補助機関車として
使われるようになった。
この際、金沢機関区で運転方向を他の機関車と同じ煙突側にする改造が行われたが、
運転席の位置はそのままとされ、日本では珍しい右側運転台の機関車となった。
ここでの運用は昭和30年に新倶梨伽羅トンネルの完成で撤退している。

昭和32年に北陸本線が交流で電化されると交流と直流の電源境界のため、
非電化とされていた米原~田村間での列車牽引に用いられた。
平坦で短い区間を往復するだけの、凡そ本形式にとっては場違いな運用であったが、
他に適当な転用場所もなかったというのが実情であった。
しかし、強力で方向転換の必要が無いタンク式機関車である構造を活かし、
同区間でのピストン輸送に活躍した。
しかし、戦時規格資材を使用した部分の不良が顕在化してきたこと、構造が特殊で
部品の確保が難しいことなどの問題が発生したため、他で余剰となっていたD51形や
D50形に置き換えられる形で昭和37年を最後に引退した。

特殊な構造ゆえ、不遇な扱いを受けた本形式であるが、廃車時期が鉄道開業
90周年と重なったため、当時の現存最若番車である2号機が保存車に選ばれ、
青梅鉄道公園に展示されている。


○本形式第2~5輪。第3・4輪にフランジがないのがわかる。


○本形式の「前」側だった炭庫側。両脇に切り込みを入れて、方向転換をしなくても
 進行方向を監視できるようになっている。


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