国鉄が地方ローカル線の無煙化のために製造したキハ20系気動車のうち、
勾配を有する路線向けにエンジンを2つとしたものである。
昭和33年~昭和41年にかけて0番台車と、その改良型である100番台車共に56両、
計112両が製造された。
製造を担当したメーカーは新潟鉄工所と帝国車輛である。
番台区分は以下の通り。
・0番台:1~56号が昭和33年~37年に製造された。基本となったキハ20形同様
エンジンの煙突が車体中央にあり、その間だけ窓の間隔が空いているのが特徴。
・100番台:101~156号が昭和37年~41年に製造された。0番台をベースにしているが、
キハ58系やキハ80系気動車の設計を取り込み、エンジンを横型となったほか、
室内灯が蛍光灯に変更された。また、煙突の配置が変更され、窓間隔が
均等になった。
・600番台:0番台から昭和42年と55年に4両が改造された。半室を郵便荷物車として
使えるようになっており、アコーディオンカーテンによる仕切りを設置した他、
座席についても荷物室として使う半室分がロングシート化された。平成元年に消滅。
・650番台:100番台から昭和42年に1両が改造された。改造内容は0番台と同じ。
米子に配置され、平成6年まで運用された。
車体は軽量構造とした普通鋼鉄製でキハ20形と同じ両運転台式であるが、
既述の通り、エンジンを2基搭載としたため、国鉄の車輛建築限界一杯の
21.3mと長くなった。
正面デザインについてはキハ20形と同じで変更はなく、連結運転も可能である。
塗装は0番台の一部が紺とベージュのツートンカラーで登場したが、それ以降は
朱色とクリームのツートンに変更された。
昭和50年代には「首都圏色」こと朱色1色塗りになっている。
更に国鉄民営化前後には各地方ごとに異なる「地域色」となり、
多くのカラーバリエーションを生んだ。
行き先表示は車体側面中央部に札を差し込むものである。
車内は扉付近をロングシート、他を4人向かい合わせのボックスシートとした
セミクロスシート配置である。
片方の運転室のすぐ後方に便所(和式)を設けているが、床下に余裕がなく、水タンクも
同じく便所と対面の運転席後方に設置している。
ドアは片側2箇所で全て両引き戸である。
側面窓は2段式でキハ20形が戸袋窓をのぞいて扉間5枚なのに対し、本形式は
車体が延長された分、1枚窓が多い。
室内灯は0番台車では既述の通り白熱灯で100番台は蛍光灯になった。
この他、100番台では車内中央の床部分にあったエンジン点検口を廃止したため、
車内の騒音が低減された。
100番台は一般車ながら騒音が低減化したことから、寝台型気動車の試験に
用いられたこともあるが、変速時のショックや音振の面を解決できずに
実現しなかった。
エンジンは0番台がDMH-17-C形(180PS/1500rpm)ディーゼルエンジン×2基、
100番台がDMH-17-H形(出力・回転数同じ)ディーゼルエンジン×2基である。
100番台が搭載したエンジンは急行型のキハ58系や特急型のキハ80系気動車のものを
ベースとし、騒音や振動の低減を図っている。
また、これらの気動車と機器配置を揃えることで保守性の向上を図った。
ブレーキは空気自動ブレーキで100番台は排気ブレーキも併せて搭載している。
台車はウイングバネ式金属バネ台車となっている。
本形式は小海線、会津線、只見線、飯山線、土讃線、豊肥本線など勾配の多い
路線に配置された。
2個エンジンのハイパワーと単行運転のできる利点を活かし、時には急行運用に
就くこともあった。
民営化後はJR東日本、JR西日本、JR四国、JR九州に引き継がれた。
JR四国では早期に置き換えられたが、他の3社では適当な代替形式が登場する、
もしくは捻出できるまで長く活躍を続けた。
21世紀を迎えた時点ではJR東日本とJR西日本に残っており、JR東日本では
延命工事を実施し、エンジンの換装、側面窓の1段化、デッキ取り付け、
内装張り替え、扉交換などの改良が行われた。
JR西日本では米子の他、大糸線糸魚川~南小谷間で運用され、これが本形式最後の
運用区間となった。
JR東日本ではキハE120形、キハE130形の投入で余剰となったキハ110系の転属により、
羽越本線、磐越西線、米坂線で残っていた車両が運用を離脱し、平成21年度内に
全車廃車となった。
JR西日本でも大糸線に残った3両が平成22年の春で定期運用を離脱して、同年秋までに
全て廃車されている。
廃車後、1両が南阿蘇鉄道に譲渡されたほか、JR東日本で廃車となった車両の一部が
海を渡りミャンマー国鉄に譲渡された。
大糸線で運用されていた最後の3両は1両が津山機関区にて保存、もう1両が千葉県の
いすみ鉄道で動態保存を予定している。
○車内。写真はキハ52 125号車(タイトル写真)のもの。今後、いすみ鉄道で
整備の上、運用される予定。この車両は晩期、ワンマン化、冷房装置の設置、
便所の撤去などの改造を受けている。
○朱色にクリームのキハ52 115号。現在は津山の扇庫で保存されている。
写真の運転席扉と窓の間の空間が便所の水タンクがあった場所。
この車両では既に撤去済み。
勾配を有する路線向けにエンジンを2つとしたものである。
昭和33年~昭和41年にかけて0番台車と、その改良型である100番台車共に56両、
計112両が製造された。
製造を担当したメーカーは新潟鉄工所と帝国車輛である。
番台区分は以下の通り。
・0番台:1~56号が昭和33年~37年に製造された。基本となったキハ20形同様
エンジンの煙突が車体中央にあり、その間だけ窓の間隔が空いているのが特徴。
・100番台:101~156号が昭和37年~41年に製造された。0番台をベースにしているが、
キハ58系やキハ80系気動車の設計を取り込み、エンジンを横型となったほか、
室内灯が蛍光灯に変更された。また、煙突の配置が変更され、窓間隔が
均等になった。
・600番台:0番台から昭和42年と55年に4両が改造された。半室を郵便荷物車として
使えるようになっており、アコーディオンカーテンによる仕切りを設置した他、
座席についても荷物室として使う半室分がロングシート化された。平成元年に消滅。
・650番台:100番台から昭和42年に1両が改造された。改造内容は0番台と同じ。
米子に配置され、平成6年まで運用された。
車体は軽量構造とした普通鋼鉄製でキハ20形と同じ両運転台式であるが、
既述の通り、エンジンを2基搭載としたため、国鉄の車輛建築限界一杯の
21.3mと長くなった。
正面デザインについてはキハ20形と同じで変更はなく、連結運転も可能である。
塗装は0番台の一部が紺とベージュのツートンカラーで登場したが、それ以降は
朱色とクリームのツートンに変更された。
昭和50年代には「首都圏色」こと朱色1色塗りになっている。
更に国鉄民営化前後には各地方ごとに異なる「地域色」となり、
多くのカラーバリエーションを生んだ。
行き先表示は車体側面中央部に札を差し込むものである。
車内は扉付近をロングシート、他を4人向かい合わせのボックスシートとした
セミクロスシート配置である。
片方の運転室のすぐ後方に便所(和式)を設けているが、床下に余裕がなく、水タンクも
同じく便所と対面の運転席後方に設置している。
ドアは片側2箇所で全て両引き戸である。
側面窓は2段式でキハ20形が戸袋窓をのぞいて扉間5枚なのに対し、本形式は
車体が延長された分、1枚窓が多い。
室内灯は0番台車では既述の通り白熱灯で100番台は蛍光灯になった。
この他、100番台では車内中央の床部分にあったエンジン点検口を廃止したため、
車内の騒音が低減された。
100番台は一般車ながら騒音が低減化したことから、寝台型気動車の試験に
用いられたこともあるが、変速時のショックや音振の面を解決できずに
実現しなかった。
エンジンは0番台がDMH-17-C形(180PS/1500rpm)ディーゼルエンジン×2基、
100番台がDMH-17-H形(出力・回転数同じ)ディーゼルエンジン×2基である。
100番台が搭載したエンジンは急行型のキハ58系や特急型のキハ80系気動車のものを
ベースとし、騒音や振動の低減を図っている。
また、これらの気動車と機器配置を揃えることで保守性の向上を図った。
ブレーキは空気自動ブレーキで100番台は排気ブレーキも併せて搭載している。
台車はウイングバネ式金属バネ台車となっている。
本形式は小海線、会津線、只見線、飯山線、土讃線、豊肥本線など勾配の多い
路線に配置された。
2個エンジンのハイパワーと単行運転のできる利点を活かし、時には急行運用に
就くこともあった。
民営化後はJR東日本、JR西日本、JR四国、JR九州に引き継がれた。
JR四国では早期に置き換えられたが、他の3社では適当な代替形式が登場する、
もしくは捻出できるまで長く活躍を続けた。
21世紀を迎えた時点ではJR東日本とJR西日本に残っており、JR東日本では
延命工事を実施し、エンジンの換装、側面窓の1段化、デッキ取り付け、
内装張り替え、扉交換などの改良が行われた。
JR西日本では米子の他、大糸線糸魚川~南小谷間で運用され、これが本形式最後の
運用区間となった。
JR東日本ではキハE120形、キハE130形の投入で余剰となったキハ110系の転属により、
羽越本線、磐越西線、米坂線で残っていた車両が運用を離脱し、平成21年度内に
全車廃車となった。
JR西日本でも大糸線に残った3両が平成22年の春で定期運用を離脱して、同年秋までに
全て廃車されている。
廃車後、1両が南阿蘇鉄道に譲渡されたほか、JR東日本で廃車となった車両の一部が
海を渡りミャンマー国鉄に譲渡された。
大糸線で運用されていた最後の3両は1両が津山機関区にて保存、もう1両が千葉県の
いすみ鉄道で動態保存を予定している。
○車内。写真はキハ52 125号車(タイトル写真)のもの。今後、いすみ鉄道で
整備の上、運用される予定。この車両は晩期、ワンマン化、冷房装置の設置、
便所の撤去などの改造を受けている。
○朱色にクリームのキハ52 115号。現在は津山の扇庫で保存されている。
写真の運転席扉と窓の間の空間が便所の水タンクがあった場所。
この車両では既に撤去済み。