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水の丘交通公園

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国鉄 DD54形ディーゼル機関車

2011-06-27 20:52:51 | 保存車・博物館
エンジンを2基搭載したDD51形ディーゼル機関車の一応の成功を見て、エンジンを
高出力な物を1基として同程度の出力を維持しつつ、軌道の軸重制限が幹線よりも
厳しい亜幹線向けに導入できるように開発された車両である。
昭和41年~昭和46年にかけて40両が製造された。
製造を担当したメーカーは三菱重工業である。

特に番号分けは行われていないが、大まかに分けて以下の3つのタイプに分類される。

1~3号機:量産先行機。正面窓枠がステンレス、ヘッドライトは窓上左右に2つ、
 側面のエアフィルターや動輪の輪芯形状が以降の機体と異なる。
4~24号機:正面窓枠がステンレス、ヘッドライトが窓下左右になる。連結器開放テコの
 形状、勾配などでの滑走防止に使う砂箱の形状が2種類ある。
25~40号機:正面窓枠がHゴム。ヘッドライトは窓下。車体溶接方法の違いで
 3形態ある。

車体は普通鋼鉄製で日本の内燃機関車では珍しいボンネット無しの箱型車体を
採用している。
車体デザインは本形式のベースとなった西ドイツ国鉄(現・DB/ドイツ鉄道)の機関車の
ものをベースとしたもので車体上部が台形状にすぼまる独自のものを採用している。
上記の通り、量産先行型の3機だけヘッドライトが窓上、それ以外はテールライトと
上下ユニットになるように窓下に設置されている。
既述の通り、正面部分の違いはあるが、重連を基本的に想定していないため、
全機とも貫通扉は装備していない。
車体塗装はオレンジ一色で正面にステンレスの飾り帯が入る。

機関はV型16気筒のDMP86型ディーゼル機関1基で西ドイツ(当時)マイバッハ社(現在は
MTUフリードリヒスハーフェン社)が設計したMD870型ディーゼル機関を三菱重工業が
ライセンス生産したものである。
変速方式は液体式で爪クラッチ式4段変速機構があるDW5型で、やはり西ドイツの
メキドロ社設計のK184U型変速機のライセンス生産品である。
この変速機はシフトアップ・ダウン時にエンジンの回転数とトルクコンバータの
回転数を同調させて接続させる機能がある。
また、爪クラッチをギア回転中に接続させた時のショックを軽減する衝撃緩和装置まで
装備しており、工業国である西ドイツの精緻な技術を遺憾なく詰め込んでいる。
動軸配置はB-1-Bでインサイドフレーム式の金属バネ台車が動力台車、
真ん中に軸重軽減のための1軸式付随台車を設置している。
また、旅客列車に運用するため、暖房用蒸気発生装置を装備している。

昭和41年に量産先行機3機が福知山機関区(→福知山電車区)に配置されて運用された。
この運用成績が良好であったため、翌年より本格的に量産が始められ、福知山線や
山陰本線の蒸気機関車牽引の旅客列車を次々に置き換えていった。
昭和43年にはお召し列車牽引の任を1・3号機が務めたほか、昭和47年に32~37号機の
5機が元空気溜め管増設改造など20系客車牽引対応改造を受け、寝台特急「出雲」の
京都~浜田間の牽引機として活躍した。

その一方で事故や故障の多い機関車であり、導入間もない昭和43年に山陰本線鳥取~
湖山間を進行中の2号機の推進軸が突如脱落して線路に突き刺さり、脱線転覆した
いわゆる「棒高跳び事故」に遭った。
同様の事故が11号機、14号機でも翌々年にかけて複数発生した。
原因はエンジンの出力と推進軸の強度が合っていなかったという、三菱重工業側の
ミスが原因であった。
こうした事故は推進軸の強化と脱落防止策をとることで昭和45年以降は発生していない。

昭和40年代後半になるとエンジンや変速機の不調による故障が相次いだ。
これはエンジンや変速機の構造が極めて精巧な造りであった為とライセンス生産の
部品が多く、保守のノウハウが不足していたことに起因する。
通常の整備でも手を焼くところに故障ともなれば、担当の福知山機関区の手に負えず、
三菱の技術者が常駐していた鷹取工場まで回送して修繕させたり、
ブラックボックスとなってる部分の部品の発注や問い合わせを行わなければ
ならなかった時などは三菱商事の対応の遅れで修繕できない状況が続くという
悪循環が生じた。
このため、折角の新鋭機ながら本形式の信頼性は失墜してしまった。
また、この当時の国鉄は国鉄労働組合の労働運動の真っ最中で、普通の車両すら
ろくに整備されないのに、保守に手間がかかる新鋭技術を盛り込んだ本形式は
「労働強化に繋がる」として敬遠される傾向が強かったのも影響した。

昭和50年代に入り、DD51形が初期不良を克服して安定した性能を見せてきたことから、
徐々に運用を離脱する車両が発生し、昭和51年~昭和53年にかけて全車が廃車された。
廃車完了の時点で整備費用がDD51形の18倍に達し、後期に製造された機体では
僅か5年弱で除籍されたものをはじめ、法定耐用年数に満たないまま廃車になった
ものも多数あった。
この「高価で高性能な新鋭機関車」を早期に廃車にした国鉄は後日、会計検査院から
国会で厳しい追及を受けることになる。

廃車後、33号機が「出雲」を牽引していた本形式に愛着のあった、ある交通医学博士が
国鉄と掛け合い、解体を免れて福知山機関区で保管された。
その後、昭和59年に交通科学館に搬入され、現在でも展示されている。

なお、余談であるが、国鉄には「ゴー・ヨン(54)機関車のジンクス」というのがある。
国鉄ではC54形蒸気機関車、EF54形電気機関車、ED54形電気機関車という「54」の
数字を持つ機関車が過去に在籍していたが、いずれも少数配置であったこと、
新鋭技術を盛り込みすぎて不具合を発生し、保守が追いつかず、
早期に淘汰されたという悲運の機関車ばかりである。
以下にそれらの簡単なプロフィールを紹介する。

C54形蒸気機関車
・昭和6年に汽車会社と川崎重工によって17両が製造された。
製造時より正面左右にデフレクターを持った初めての機関車で溶接構造を多用し、
大幅な軽量化を実現したが、重量配分の悪さと過度の軽量化による空転多発、
上記理由による牽引力不足や車体強度不足などで昭和38年までに全車廃車された。
あまりに不具合が多く、廃車が早かったため、保存された車両は1両も無く
全車解体された。
また、晩期に運用されたのが山陰地方だったため、今回紹介のDD54形と対比される
ことが多い。
EF54形電気機関車
・EF52形の高速対応型として昭和6年に2両が製造された。元々はEF52形の8・9号機で
あったが、性能の違いから昭和7年に形式を改めた。
東海道本線の旅客列車牽引に用いられたが、太平洋戦争に突入し、貨物需要に
対応させるため、昭和19年~20年に低速対応に改造され形式もEF14形に改称。
その後、中央線に配置されたが、元々が旅客機で軸数の多さから軸重が軽くなり、
牽引力が不足することは否めず、昭和35年に大阪の吹田機関区に移動して大阪駅の
構内入換機となり、昭和48年に廃車となった。
かつての同僚であるEF52形が昭和50年の引退まで旅客運用に用いられ、同一性能
だったEF53形も瀬野八の補助機関車EF59形として昭和61年まで運用されていた中、
地味に最期を迎えた。
ED54形電気機関車
・大正15年にスイスから2両輸入した電気機関車である。スイス・ブラウン・ボベリ社と
スイス・ロコモーション・アンド・マシン・ワークス社の合作でブフリ式という駆動装置
を採用し、当時最大の1500kwの定格出力を誇った。
ブフリ式とはモーター、小歯車、大歯車を弾性支持された主台枠に固定し、
車軸の中心移動に追随可能な特殊な歯車で動力を伝達する駆動方式のことである。
モーターに直接振動が伝わらないように大歯車や小歯車にリンク装置や特殊な歯車、
スプリングが多数仕込まれている。
モーターが台枠装荷となることでバネ下重量を軽くでき、モーターの高速回転も
可能というメリットの反面、当時の日本の技術では手に余る代物で整備のため、
分解したら元に戻せなかったというエピソードが残っている。
導入当初は乗り心地の良さから乗務員の評判は上々であったが、やはり整備不良に
よる不調が始まると忌避されるようになっていった。
末期は殆ど運用されず、大宮工場の隅で放置され、昭和23年に除籍された。

この他に電車でクモハ54形、気動車でキハ54系が存在するが、どちらもこうした
不具合は発生していない。
キハ54系はJR北海道とJR四国で現在も現役である。


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