水の丘交通公園

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東武鉄道 デハ1形電車

2011-06-13 20:44:01 | 保存車・博物館
伊勢崎線の浅草(現・業平橋)~西新井間電化に伴い導入した東武鉄道で初めての
電車である。
大正13年にデハ1~8号の8両が製造された。
製造を担当したメーカーは日本車輛東京支店である。
車体前後に運転台がある両運転台構造で決まった編成は組まない。

車体は木製で屋根は通風器と採光窓を兼ねたダブルルーフ構造となっている。
正面は緩くカーブを描いた非貫通5枚窓で当時の郊外電車でよく見られた
オーソドックスなスタイルをしている。
行き先表示機は正面左右の窓上にあるが、後年は殆ど使用されずに塗りつぶされ、
正面と側面に行き先板を吊り下げて表示した。
塗装は当時の電車の標準色である茶色一色であったが、戦後はベージュに
窓周りがオレンジ、最後はセージクリーム一色であった。

車内はロングシートでモケットの色は紺、手すりや各種金具を除いて木製ニス塗りで
仕上げられている。
乗務員室は独立しておらず、Hポールといわれる簡易な仕切りが設置されている
程度である。
ドアは片側3箇所・片引き戸でドアエンジンはなく、全て手動でステップ付である。
本形式は引退までドアの自動化はされなかった。
窓は一段下降式で現在のようなバランサー付きのものではなく、
いわゆる落とし窓である。

主制御装置は単位スイッチ式間接非自動制御の抵抗制御方式でブレーキは空気自動式
ブレーキを採用した。
台車は釣り合い梁式の金属バネ台車でモーターの駆動方式は吊り掛け式である。
パンタグラフは前後2基搭載され、戦前に登場した東武鉄道の電車の標準仕様と
なった。
連結器は当初、他の客車や機関車に合わせてバッファー・リンク式を採用していたが、
早期に自動連結器への交換を実施している。
運転台はツーハンドルでブレーキメーター以外、計器らしい計器の無い
シンプルな運転台である。

導入後、デハ7とデハ8は比較的早期に電動車としてではなく、制御車として
使われるようになり、昭和6年には電装品を大正14年に製造された本形式の
改良型であるデハ2形に属するクハ1形クハ1号、クハ2号に譲って、車番をお互いに
交換している。
デハ2号についても昭和9年に同じように電装品を撤去してクハ1形11号にされたが
事故に遭い、復旧名義でデハ10系クハ12形1108号車が製造されている。

戦災による被災車両は無く、昭和22年~昭和23年に国鉄63系電車の割り当てを受けた
見返りとして3両が地方私鉄に譲渡された。
内訳はデハ3号とデハ4号が上信電鉄(同社のデハ11号とデハ10号に改番)、
デハ6号が新潟交通(同社のモハ19号に改番)である。

残ったデハ1号、デハ5号、クハ1号、クハ2号は昭和26年の車番の大整理が行われ
デハ1形がモハ1100形、クハ1形がクハ210形に改称され、以下の様に改番された。

デハ1号→モハ1100号 デハ5号→モハ1101号 
クハ1号→クハ210 クハ2号→クハ211

クハ2両は改番直前に運転台機器を撤去の上で熊谷線に転属して形式はそのまま
客車として使用されていた。
モハ1100号も既に制御車代用となっており、これと前後して伊勢崎線から
越生線に移籍し、昭和26年には運転台の片方と電装品を撤去してクハ210形
クハ212号に改番している。
昭和29年に熊谷線が気動車化されるとクハ210号、クハ211号の2両は矢板線に転属し、
同時に越生線のクハ212号も同じく矢板線に転属し、3両が集結。
昭和30年には正式に客車化されてコハフ10形(11~13)に改められ、矢板線廃止の
昭和34年まで運用された。

唯一、電車のまま残されたデハ5号改めモハ1101号は戦後は旅客営業には就かず、
鬼怒川線で電気機関車代用で貨車の牽引を行った後、野田線で配給車として
運用された。
昭和31年からは西新井工場で入換車として運用されるようになった。
この際、木製の外板の老朽化が進んでいたことから、外側から鋼板を張って
簡易鋼製車体になっている。
昭和39年に座席の除去と復旧機材を積んでいるが、塗装の変更以外で
外観を損ねることは無かった。

こうしたことから、東武鉄道開通80周年を記念して開園した東武動物公園で
本形式を展示することが決まり、昭和56年に復元工事のために廃車された。
復元にあたっては車番を大整理前のデハ5号に戻した他、塗装や撤去した座席などの
客室設備の復元を入念に行っている。
但し、外板の鋼板や連結器はそのままとされている。
その後、東武鉄道開通90周年記念で開設された東武博物館に移設され、
現在に至っている。


○車内。吊り手のポールを支える金具などに独自の意匠が見られる。


○運転台。計器類はブレーキの圧力メーターしかない。
 今日の電車の運転台のほうがよっぽど複雑に見える。


○台車。形式はブリル-27MCB。当時の電車の台車の標準型である。
 モーターは全軸配置。


○正面アップ。左右の白い窓が行き先表示窓だが、殆ど使われていなかった模様。
 連結器の両脇の四角く張り出した部分がバッファー・リンク式連結器の
 緩衝器が付けれていた跡。


○露出した台枠とトラスバー。トラスバーは木製車体の強度では台枠中央部分の
 強度が不足するため設置されていた。鋼製車体になって台枠の強度を車体でも
 支えられるようになり、次第に廃れていった。
 また写真の様にステップ付きのドアと台枠が露出したスタイルは東武鉄道の
 戦前製電車の特徴であった。
 ドアにステップがあったのは当時の東武鉄道の長距離列車は蒸気機関車牽引の
 客車列車が主流でそれに合わせた床面の低いホームが主流だったため。


○台枠に取り付けられた日本車等東京支店の銘板。


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