旧名古屋鉄道(→名岐鉄道→現・名古屋鉄道)で初めての鋼鉄製電車として登場した
車両である。
昭和2年に700形が10両、昭和3年と4年に750形が10両の計20両が登場した。
登場時の形式記号はデセホ700形、デセホ750形でである。
なお、タイトル写真は750形だが、700形も同等の車体と性能の電車だったので
まとめて紹介する。
車体は前述のとおり鋼鉄製だが、全て鋼鉄製ではなく内装は木造のいわゆる
半鋼製車である。深めの屋根構造に小さめな一段窓、リベット張りの
重厚な車体を有する。正面窓は3枚でヘッドライトは当初、正面中央窓の
下に取り付けられていた。
また、集電装置はパンタグラフを屋根の中央に、その前後にトロリーポールを
設置していた。
これは当時の名鉄の起点が押切町にあり、路面電車区間を走る必要があったためである。
塗装は当時の標準色であるダークグリーンである。
ドアは片側3箇所で全てステップ付きの片引き戸で車内はロングシートである。
ドアは当初、手動ドアであったが、最終増備のデセホ759・760号がドアエンジンを
搭載して、最初から自動ドアとなり、旧名古屋鉄道で初めてのドアエンジン
装置車となった。
主制御装置は抵抗制御で電動カム軸式自動加速制御装置を搭載し、自動加速車ながら
手動加速車と同じノッチ刻みのマスコンを採用したため、どちらの車両とも
連結が可能であった。また、それらを選択するためのスイッチがあった。
ブレーキは空気自動ブレーキである。
駆動方式は吊り掛け駆動で台車は釣り合い梁式台車を採用している。
登場時は名鉄西部線(現在の名鉄名古屋~名鉄岐阜)を中心に運用された。
登場間もない昭和2年11月には707号と708号が貴賓車SC-1形3号を連結して
お召し列車牽引の名誉に浴した。また、天皇が乗った初めての「一地方私鉄の電車」
によるお召し列車となった。
社名が名岐鉄道になった昭和7年からは行楽シーズンに755・756号車がお座敷仕様に
改装されて省線の高山線(→JR高山線)に乗り入れた。
その後、直通運転は一旦なくなるが、昭和15年に今度は省線側から客車を乗り入れる
形で再開された。この時は707~710号が牽引車に指定された。
昭和10年に名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併して現在の名鉄が発足すると、
形式記号が変更され、モ700形、モ750形にそれぞれ改称された。
昭和16年には東枇杷島~新名古屋(→名鉄名古屋)間開業に伴い、路面電車区間への
乗り入れが廃止になったことから、トロリーポールの撤去とパンタグラフの移設、
ヘッドライトの屋根上への移設が行われた。
その後、新名古屋~神宮前間が開業すると同駅まで乗り入れるようになった。
昭和23年に旧西部線の主要区間の電圧が600Vから1500Vに昇圧し、現在の名古屋線が
出来上がったが、本形式は昇圧工事の対象から外れて、600Vのまま残った
各務原線や広見線、小牧線で運行された。
それも昭和39年に昇圧されると瀬戸線や揖斐・谷汲線に転じた。
なお、この際に700形6両が余剰廃車となり、福井鉄道と北陸鉄道に譲渡されている。
また、2両が新川工場で発生した火災により焼失して廃車となっている。
揖斐・谷汲線に移籍したものはHL制御(手動加速制御)に改造されたほか、台車や
モーターの換装を実施している。
その後、瀬戸線でも3700系の導入による近代化や架線電圧の1500V化が
行われることになり、余剰となったものが揖斐・谷汲線に集まった。
晩年、ドアの自動化及び鋼鉄化、窓枠のサッシ化などの近代化改造が行われた。
また、ワンマン運転実施のため、750形のみワンマン化改造された。
700形は片方の運転台を撤去して、制御車と常時連結とされ2連で使われた。
この当時の運用区間は忠節~黒野~谷汲or本揖斐であったが、重要検査などで
市ノ坪にあった岐阜工場に入る際は、軌道線乗り入れ対応準備として正面に
排障器を設けて岐阜市内を走行した。
平成9年~10年にかけてモ780形が新造され、運用形態が変化したことにより
700形は全滅し、750形も3両だけとなった。この3両は黒野から先の本揖斐方面、
及び谷汲方面の末端区間で使われた。
この区間が廃止になった平成13年に最後の3両が廃車となり全車引退となった。
引退後は751号車足回りを除去の上で岐阜県内のパン屋に、754号車は車体を
切断し、やはり足回りを取り除いて瀬戸市の郷土資料館「瀬戸蔵」に、
755号が現役時代の姿で谷汲駅跡にそれぞれ保存されている。
車内。肘掛の形状や網棚の装飾に当時の職人技を見ることが出来る。
運転台。客室とは簡単に仕切られた開放的なものだった。
車両である。
昭和2年に700形が10両、昭和3年と4年に750形が10両の計20両が登場した。
登場時の形式記号はデセホ700形、デセホ750形でである。
なお、タイトル写真は750形だが、700形も同等の車体と性能の電車だったので
まとめて紹介する。
車体は前述のとおり鋼鉄製だが、全て鋼鉄製ではなく内装は木造のいわゆる
半鋼製車である。深めの屋根構造に小さめな一段窓、リベット張りの
重厚な車体を有する。正面窓は3枚でヘッドライトは当初、正面中央窓の
下に取り付けられていた。
また、集電装置はパンタグラフを屋根の中央に、その前後にトロリーポールを
設置していた。
これは当時の名鉄の起点が押切町にあり、路面電車区間を走る必要があったためである。
塗装は当時の標準色であるダークグリーンである。
ドアは片側3箇所で全てステップ付きの片引き戸で車内はロングシートである。
ドアは当初、手動ドアであったが、最終増備のデセホ759・760号がドアエンジンを
搭載して、最初から自動ドアとなり、旧名古屋鉄道で初めてのドアエンジン
装置車となった。
主制御装置は抵抗制御で電動カム軸式自動加速制御装置を搭載し、自動加速車ながら
手動加速車と同じノッチ刻みのマスコンを採用したため、どちらの車両とも
連結が可能であった。また、それらを選択するためのスイッチがあった。
ブレーキは空気自動ブレーキである。
駆動方式は吊り掛け駆動で台車は釣り合い梁式台車を採用している。
登場時は名鉄西部線(現在の名鉄名古屋~名鉄岐阜)を中心に運用された。
登場間もない昭和2年11月には707号と708号が貴賓車SC-1形3号を連結して
お召し列車牽引の名誉に浴した。また、天皇が乗った初めての「一地方私鉄の電車」
によるお召し列車となった。
社名が名岐鉄道になった昭和7年からは行楽シーズンに755・756号車がお座敷仕様に
改装されて省線の高山線(→JR高山線)に乗り入れた。
その後、直通運転は一旦なくなるが、昭和15年に今度は省線側から客車を乗り入れる
形で再開された。この時は707~710号が牽引車に指定された。
昭和10年に名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併して現在の名鉄が発足すると、
形式記号が変更され、モ700形、モ750形にそれぞれ改称された。
昭和16年には東枇杷島~新名古屋(→名鉄名古屋)間開業に伴い、路面電車区間への
乗り入れが廃止になったことから、トロリーポールの撤去とパンタグラフの移設、
ヘッドライトの屋根上への移設が行われた。
その後、新名古屋~神宮前間が開業すると同駅まで乗り入れるようになった。
昭和23年に旧西部線の主要区間の電圧が600Vから1500Vに昇圧し、現在の名古屋線が
出来上がったが、本形式は昇圧工事の対象から外れて、600Vのまま残った
各務原線や広見線、小牧線で運行された。
それも昭和39年に昇圧されると瀬戸線や揖斐・谷汲線に転じた。
なお、この際に700形6両が余剰廃車となり、福井鉄道と北陸鉄道に譲渡されている。
また、2両が新川工場で発生した火災により焼失して廃車となっている。
揖斐・谷汲線に移籍したものはHL制御(手動加速制御)に改造されたほか、台車や
モーターの換装を実施している。
その後、瀬戸線でも3700系の導入による近代化や架線電圧の1500V化が
行われることになり、余剰となったものが揖斐・谷汲線に集まった。
晩年、ドアの自動化及び鋼鉄化、窓枠のサッシ化などの近代化改造が行われた。
また、ワンマン運転実施のため、750形のみワンマン化改造された。
700形は片方の運転台を撤去して、制御車と常時連結とされ2連で使われた。
この当時の運用区間は忠節~黒野~谷汲or本揖斐であったが、重要検査などで
市ノ坪にあった岐阜工場に入る際は、軌道線乗り入れ対応準備として正面に
排障器を設けて岐阜市内を走行した。
平成9年~10年にかけてモ780形が新造され、運用形態が変化したことにより
700形は全滅し、750形も3両だけとなった。この3両は黒野から先の本揖斐方面、
及び谷汲方面の末端区間で使われた。
この区間が廃止になった平成13年に最後の3両が廃車となり全車引退となった。
引退後は751号車足回りを除去の上で岐阜県内のパン屋に、754号車は車体を
切断し、やはり足回りを取り除いて瀬戸市の郷土資料館「瀬戸蔵」に、
755号が現役時代の姿で谷汲駅跡にそれぞれ保存されている。
車内。肘掛の形状や網棚の装飾に当時の職人技を見ることが出来る。
運転台。客室とは簡単に仕切られた開放的なものだった。