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水の丘交通公園

鉄道メインの乗り物図鑑です。
※禁無断転載!使用に際してはコメント欄にて
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国鉄 E10形蒸気機関車

2011-01-23 20:09:35 | 保存車・博物館
奥羽本線の急勾配区間である福島~米沢間(現在は山形新幹線の一部)で専用機として
運用されていた4110形蒸気機関車(大正3年製造)の老朽化と輸送力増強のため、
開発されたものである。
昭和23年に5両が製造された。製造を担当したメーカーは汽車会社である。
国鉄の蒸気機関車として、純粋な新車は本形式が最後となった。
5両と少数だったのは既に奥羽本線の電化工事が決定していたためで、
本形式はそれまでの繋ぎとして開発されたためである。

車体は鋼鉄製で炭水車を連結しないサイドタンク式となっている。
板谷峠ではトンネル通過の際の煙害を防止するため、通常、蒸気機関車の先頭側となる
煙突側ではなく、炭庫側を前位として運行することが多かったことから、
本形式は最初からこれに対応している。
このため、運転席が炭庫側を向いて左側に配置されるという特殊な構造となっている。
また、煙突側も先頭側に設置される除煙板が設置されていないなど、
日本の近代蒸気機関車の中でも、かなり特徴的であった。

車軸配置は1-E-2で動輪の前後に従輪台車を設けた。
これは出力を向上したため、車体が大きくなった分の荷重に対応するためである。
また、カーブ通過に対応するため、第2動輪のフランジを通常よりも薄くし、
第3・第4動輪にはフランジそのものを設置しなかった。
これにより、カーブでの横圧(車輪がカーブでレールを押し出す圧力)を軽減したが、
実際には、かなりの横圧がかかってしまい、本形式最大の難点となってしまった。

導入時は既述の通り、奥羽本線の板谷峠で運用された。
試験運転で33‰の勾配で4110型の1.5倍の270tの列車を牽引したが、急カーブでの
牽引力の衰えが見られるなど、必ずしも期待された性能を発揮できなかった。
むしろ、軌道に与える横圧が問題となった。
完成から1年ほどの昭和24年に奥羽本線の電化(当時は直流)が完成し、早くも
失職したが、九州の肥薩線で勾配用の補助機関車として使用されることになった。
しかし、ここでもカーブでの横圧が問題とされ、僅か半年でD51形に運用を譲った。
その後は、北陸本線津幡~石動間にあった倶梨伽羅峠の勾配用補助機関車として
使われるようになった。
この際、金沢機関区で運転方向を他の機関車と同じ煙突側にする改造が行われたが、
運転席の位置はそのままとされ、日本では珍しい右側運転台の機関車となった。
ここでの運用は昭和30年に新倶梨伽羅トンネルの完成で撤退している。

昭和32年に北陸本線が交流で電化されると交流と直流の電源境界のため、
非電化とされていた米原~田村間での列車牽引に用いられた。
平坦で短い区間を往復するだけの、凡そ本形式にとっては場違いな運用であったが、
他に適当な転用場所もなかったというのが実情であった。
しかし、強力で方向転換の必要が無いタンク式機関車である構造を活かし、
同区間でのピストン輸送に活躍した。
しかし、戦時規格資材を使用した部分の不良が顕在化してきたこと、構造が特殊で
部品の確保が難しいことなどの問題が発生したため、他で余剰となっていたD51形や
D50形に置き換えられる形で昭和37年を最後に引退した。

特殊な構造ゆえ、不遇な扱いを受けた本形式であるが、廃車時期が鉄道開業
90周年と重なったため、当時の現存最若番車である2号機が保存車に選ばれ、
青梅鉄道公園に展示されている。


○本形式第2~5輪。第3・4輪にフランジがないのがわかる。


○本形式の「前」側だった炭庫側。両脇に切り込みを入れて、方向転換をしなくても
 進行方向を監視できるようになっている。

国鉄 5500形蒸気機関車

2011-01-11 17:41:31 | 保存車・博物館
JRの前身である官設鉄道や日本鉄道、総武鉄道などが導入した明治時代を代表する
テンダー式(炭水車を連結する蒸気機関車のこと)蒸気機関車である。
明治39年の鉄道国有法以前は官設鉄道が6両、日本鉄道が60両、総武鉄道が6両
(全て東武鉄道からの譲受機)を保有し、明治42年の形式称号変更で鉄道院5500形に
包括され、5500号~5571号となった。
製造したメーカーは英国ベイヤー・ピーコック社で、その社名とテンダー機で
あることから「ピーテン」の愛称で親しまれた。
なお、同型機を東武鉄道が独自に輸入して運用している。

軸配置は2B(ボギー式の従輪台車+動輪2軸)でテンダー(炭水車)の軸配置は
3軸式である。
前部にあるシリンダーが斜めに配置され、それに沿って、側面のランボードも
第1動輪付近まで斜めに跳ね上がっている。
第1動輪の上には半円形のカバーが設けられ、その円周に沿ってメーカーの
製造プレートが設置された他、第1動輪と第2動輪の間に火室を設け、
第2動輪をキャブの真下に配置したことにより、明治期に製造された蒸気機関車の
中でも落ち着いたスタイルを誇る。
特にベイヤー・ピーコック社は自社製造の機関車のスタイルには
意を払っていたこともあり、その姿勢を垣間見ることができる。

形式番号は官設鉄道所属機が142~147号で明治31年にD6形に改められている。
日本鉄道所属機はPbt2/4形として導入され、明治27年に93~104号、明治30年に153~
188号、明治31年に189~200号と附番された。
総武鉄道のものは東武鉄道が北千住~久喜間を開業した時に導入した同型機のB1形を
明治32年と明治34年に合計6機譲り受け16~21号として使用した。
当時の東武鉄道は開業したてで利用客も少なく、導入した10機のB1形を維持するのが
資金的に困難になっていた状況であった。
一方で路線が延びたものの小型のサドルタンク機しか在籍していなかった
総武鉄道は長距離走行が可能なテンダー機を欲していたため、両社の利害が一致。
また、東武鉄道と総武鉄道に共通の役員がいたことから、円満に譲渡話が
まっとまったという。

鉄道国有法で日本鉄道と総武鉄道が国有化され、官設鉄道に両社所属の機関車も
引き継がれ、既述の通り、明治42年に鉄道院による形式称号変更で5500形に
改称・包括された。
内訳は5500~5505号が元官設鉄道機、5506~5565号が旧日本鉄道所属機、
5566~5571号が旧総武鉄道機となる。

主な運用区間は東海道本線の他、奥羽本線、北陸線、山陰本線、高崎線、
東北本線、総武本線などである。
大正12年9月1日の関東大震災の時には9両が被災したが、
幸にも廃車は発生していない。

大正14年に東武鉄道に3機が譲渡されたほか、昭和5年から本格的な廃車が
開始された。
また同年から10両をタンク式に改造して形式をB10形に改めている。
年号が昭和に替わるあたりから、既に本線運用からはほぼ撤退し、
機関区や貨物駅での入れ換え運用が主体となっていった。
また、この間に空気直通ブレーキ設置、連結器交換などの改造が行われ、
原形を保っていた車両は、消滅している。

太平洋戦争~終戦までに国鉄所有機は22機にまで減少し、東武鉄道に2両(先の譲渡を
含めて計5両)、三井三池炭鉱、寿都鉄道、日本曹達天塩鉱山、三岐鉄道、
名古屋鉄道に1機ずつが譲渡された。

終戦後は入れ換え専用となり飯田町、横浜、国府津で細々と運用されていたが、
昭和27年に鉄道開業80周年を記念して「汽笛一声」号を東京~横浜間で
運行することになり、その牽引機として当時の残存機で最も状態の良かった
5571号機が5501号機のプレートをつけて走行した。
このイベントの後、一挙に廃車が進められ、施設局扱いで4機を残すのみとなった。
昭和36年、鉄道開業90周年を記念して青梅鉄道公園を開設することになり、
本形式の5540号機がこれの保存機に選ばれ、残りは廃車され形式消滅した。

私鉄に譲渡されたものも蒸気機関車の淘汰と廃線などで廃車が進み、
概ね1960年代までには全車引退している。

本形式は80年余りの長きに渡って運用されたが、シリンダーや気筒の磨耗が
ほとんどなく、検査時のプッシング作業もほとんど必要が無かったという。
晩年、国鉄で素材を調べたが、若干、リンの含有量が多いこと以外は普通のもので
原因は特定できなかった。

国鉄 ED16形電気機関車

2011-01-05 20:24:08 | 保存車・博物館
幹線向けに製造されたEF52形電気機関車をベースに地方幹線向けの
低速・中型の電気機関車として製造されたものである。
昭和6年に18両が製造された。
製造を担当したのは、三菱、東芝、日立製作所、川崎車輛の4社である。

車体は箱型の普通鋼鉄製で車体前後にデッキを配した構造となっている。
側面には乗務員用の扉がなく、正面の貫通扉から出入する。
塗装は当時標準の茶色一色である。

軸配置は1-B-B-1で動軸4つの「D」級である。
主制御装置は単位スイッチ式の弱め界磁付き抵抗制御で当初は重連での運用も
考慮して総括制御対応であったが、当時の技術力では後方の機関車の空転制御や
降雪に対応しきれず、程なくして撤去された。
ブレーキは空気自動式ブレーキである。
台車は板台枠式でモーターの駆動方式は1段減速ギア・吊り掛け駆動である。
これらの機器はベースとなったEF52形と共通であり、終戦直後まで製造された
機関車の標準ともいえるものであった。
また、本形式ではEF52形が苦手としていた高速運転を行わず、敢えて低速向けに
設計されたため、大きさ、重量などの手頃さも相俟って、長く運用されることに
なった。

戦前は上越線と中央本線で運用された。戦時中には本形式7号機牽引の中央本線
419列車が湯の花トンネル付近で米軍機の銃撃を受け、トンネルに逃げ切れなかった
客車を中心に50名余りの犠牲者を出している。
この際、7号機も機銃掃射を集中して受けたが、どうにかトンネル内に
逃げ込めたため、大破は免れている。

戦中から戦後にかけて上越線、中央線とも輸送量が大幅に増えたため、
F級機関車への置き換えが実施され、昭和25年ごろまで立川機関区と鳳機関区に
集中配置されるようになった。

立川では南武線、青梅線、五日市線で貨物輸送を、鳳では阪和線の貨客輸送に
使用された。
その後、阪和線にはEF58形などの戦後製の電気機関車が転属してきたため、
最終的に立川機関区に集められた。
立川機関区では線路規格の関係でF級機関車が入線できなかった
青梅線の石灰石輸送の貨物列車に長く充当された。
これは本形式に代わる新型D級機関車の開発はされていたものの、
それを青梅線にまわすほどの数が揃わず、適当な代替機が
用意できなかったためである。

しかし、青梅線の線路改築が行われ、F級機関車が入れるようになると
EF64形電気機関車に置き換えられ、昭和59年に全車が廃車となった。
また、本形式の全面撤退と同じくして立川機関区もその歴史に
幕を閉じている(八王子機関区に移転・統合)。

廃車後は1号機が青梅鉄道公園に、10号機がJR東日本大宮総合車両センターに、
15号機が山梨県南アルプス市若草支所(旧中巨摩郡若草町役場)にて
静態保存されている。
このうち1号機は準鉄道記念物の指定を受けている。

博物館明治村 12号機関車・9号機関車・木造4輪客車(陸蒸気)

2010-12-26 18:54:44 | 保存車・博物館
今回は愛知県犬山市郊外の入鹿池沿いにある野外学習型博物館明治村にて
保存運転されている「陸蒸気」の各車両について紹介する。
明治村の陸蒸気は昭和48年の鉄道開通100周年を記念して運行を開始した村内施設で
静態展示されていた蒸気機関車2両と運行開始に伴い木造客車3両で構成される。
車号は機関車が12号機、9号機。客車はハフ11、ハフ13、ハフ14である。
平成22年12月19日より大規模点検と修繕のため、長期の運休となった。

■12号蒸気機関車
日本の鉄道の始祖である官設鉄道が導入した蒸気機関車である。
明治7年に製造され、開通後2年目の新橋(現在の汐留シティセンター周辺)~
横浜(現在の桜木町)間を走っていたこともあった。
製造は英国のシャープ・スチュアート社である。
軸配置は1-Bで動軸は2つで弁方式はスチーブンソン式、安全弁はサルター式と
なっている。
製造当初より、キャブの四方を囲っており、扱いやすい機関車として
同型機が鉄道開業式典時のお召し列車牽引の栄誉に浴した。
登場時の車番は23号で官設鉄道が明治42年に鉄道院に改組された際に、
160形165号機になった。
明治44年に尾西鉄道に払い下げられ、同社の丁形蒸気機関車12号機となった。
尾西鉄道は現在の名鉄尾西線で、名鉄にも在籍していた。
晩期は一宮駅の入換等に使用され、昭和32年に廃車となった。
廃車後、犬山の名鉄ラインパークにて保存展示され、昭和40年の博物館明治村の
開村と共に同施設に移動した。
展示にあたって、淡路交通で保管していたねじ式連結器を譲り受けて復元している。
明治村でもしばらくは静態保存であったが、既述の通り、昭和48年から動態に
復帰している。
昭和60年に製造後100年を経たボイラーの老朽化に伴い、ほぼ同じものを複製の上で
設置している。
オリジナルのボイラーは、そのまま村内に展示された。

■9号蒸気機関車
現在のJR身延線(富士~甲府間)の前身である富士身延鉄道が開業のために導入した
蒸気機関車である。
明治45年に製造され、メーカーは米国ボールドウィン社である。
動輪の配置は0-C-0で同軸は3つ。
鉄道院にも同型の1240形がいたが、こちらの方が動輪直径が大きい。
昭和11年に電化と大型機関車の導入に伴い富士身延鉄道を除籍となり、
日本鋼管鶴見製鉄所(→JFEスチール東日本工場)で使用された。
同所での使用後、明治村が譲り受け、昭和49年より運行を開始している。
12号機とは交替で牽引機を担当した。

■ハフ11号客車
現在の青梅線(立川~奥多摩間)の前身である青梅鉄道が導入した客車である。
明治41年に製造され、メーカーは天野工場。
車体は木造で4輪のいわゆる「マッチ箱」で明治村の陸蒸気で唯一の乗降扉付きの
客車である。
車内はロングシートで座布団はあるが背もたれは板張りである。
青梅鉄道自体はメ4号だったが、大正13年に高畠鉄道へ譲渡された際にハ2号と
なった。
その後、昭和11年に雄勝鉄道へ再譲渡されて同社のハフ11号として使用された。
陸蒸気の運行開始に合わせて、同社よりハフ13・14号と共に譲り受けている。

■ハフ13号・ハフ14号客車
現在の紀勢本線の一部を構成していた新宮鉄道が導入した客車である。
明治45年に製造され、メーカーは同社の自社工場。
車体は木造でハフ11号と同じくマッチ箱には変わりないが、こちらは2両とも
オープンデッキをそなえる。
車内はロングシートでハフ11号と同じく背もたれは板張りである。
新宮鉄道の国有化に伴い、形式・車番の変更無しで鉄道院、鉄道省に所属した後、
昭和17年に雄勝鉄道に譲渡され、同社のハフ13・ハフ14号となった。
オープンデッキの客車のため、人気が高く、3両編成(機関車除く)を組む場合は
大抵、ハフ13+ハフ11+ハフ14となる。


○転車台で向きを変えて出庫待機中の9号機。煙室扉中央に付いた円形の
 プレートが如何にも米国製の古典機らしい。

国鉄 B20形蒸気機関車

2010-12-20 11:46:11 | 保存車・博物館
国鉄の前身である運輸通信省が第二次大戦から戦後にかけて導入した構内入換用の
タンク式蒸気機関車である。
昭和19年~21年にかけて15両が製造された。
製造メーカーは立山重工業と国鉄郡山工場である。

車体は鋼鉄製で戦時下の蒸気機関車ということで、資材の徹底した節約と
生産性向上を図った設計となっている。
このため、ボイラー上のドームやサイドタンクも直線の角型となっている。
車体の長さは7mと昭和に製造された国鉄の蒸気機関車で最も小さい。

動輪配置は0-B-0で2軸が動輪である。
ブレーキは直通ブレーキを持たず、自機用の蒸気圧ブレーキを装備した。
蒸気圧ブレーキはボイラーの蒸気圧を利用したブレーキのことで、
黎明期の蒸気機関車で採用されていた、半ば枯れた技術であった。
しかし、本形式では長大な客車列車や貨物列車を牽引するのを目的としておらず、
構内の貨車の入換が主任務で高速運転も有り得なかったため、これで十分と
判断され、かなり割り切った設計となった。

これほどまでに小さく性能の低い機関車が、なぜ導入されたかというと、
本形式がそもそも「国鉄自社設計」の機関車ではない産業用の規格型機関車で
あったからである。
本形式を製造した立山重工業は戦時中、多くの産業用小型蒸気機関車の製造に
携わったメーカーであり、戦時中は資材統制のため、車両メーカーで結成された
「車両統制会」に所属した。
この統制会の一部門である「小型蒸気機関車専門委員会」が設計したのが、
本形式をはじめとする戦時規格型の小型蒸気機関車である。
これら営業運転に就く機会のない車両は車両としての籍を持たない(例・線路脇の
引込み線にある保線用の車両)のが通例であるが、国鉄が何らかの事情で
この機関車を入籍させる必要があり、本形式が生まれたと思われる。

こうした経緯から、ほとんど本線に出ることなく、機関庫や貨物駅での
車両の入換作業に従事した。
しかし、戦時設計で国鉄の機関車としては特殊すぎたため、現場で嫌われ、
終戦後の混乱期を乗り越えると早期に廃車が開始された。
最後まで国鉄に残ったのは1号機と10号機で1号機は小樽築港機関区、10号機は
鹿児島機関区で使用された。
特に鹿児島では形式入りの大型ナンバープレートを装備して使用され、末期には
同区のマスコットとして親しまれた。

この他に11号機と12号機が紀州鉄道の前身である御坊臨港鉄道に貸し出され、
後に12号機が正式に譲渡された。
御坊臨港鉄道では同社手持ちの蒸気機関車改造のディーゼル機関車と共に
使用されたが、昭和28年の夏の大水害で洪水に流され土砂の中に埋没。
どうにか掘り起こされたものの、損傷が酷く、蒸気機関車としての復帰は断念。
損傷の少なかった足回りを利用して、昭和29年に凸形車体を持つディーゼル
機関車DB2012号に改造されている。
この車両は昭和40年代中ごろまで同社の貨物列車牽引に使用された。

1号機は廃車後、北海道岩見沢市内の万字線朝日駅跡にある「万字線鉄道公園」に
保存展示された他、鹿児島の10号機も昭和47年に梅小路蒸気機関車館に保存された。
10号機は当初、動態保存機であったが、昭和54年に静態保存に切り替えられた。
しかし、平成14年に梅小路蒸気機関車館開館30周年とJR西日本発足15周年を
記念して動態に復帰した。
復帰後は館内でのイベント走行や汽笛吹鳴のほか、DE10形ディーゼル機関車と共に
展示機関車の入れ換えに使われることもあり、動態復帰と職場復帰を同時に
果たしている。
また、車体が小さく、汽笛の音も甲高い軽快なものであることから、
親子連れにも好評で「豆タンク」の愛称で親しまれている。
平成18年には梅小路蒸気機関車館の関連施設として準鉄道記念物に指定された。

東京急行電鉄 5000系電車(初代)

2010-11-14 22:24:26 | 保存車・博物館
東京急行電鉄が初めての高性能電車として導入した車両である。
昭和29年~34年にかけて105両が製造された。
製造メーカーは東急車輛である。
構成形式は以下の通り。編成の組み方は使用された区間によって異なるため割愛する。

デハ5000形:制御電動車。パンタ、制御器、電動発電機を搭載する。5001~5055号の
 55両が製造された。このうちデハ5051~デハ5055はクハ5150形クハ5151~クハ5155と
 2連を組んで使用された。これらはクハ5150形が廃車された後はデハ5001~5050と
 同様に運用された。

サハ5350形:中間付随車。当初は「サハ5050形」と称したが、デハ5000形が50両に
 達してきたため、形式を変更した。25両製造。

デハ5100形:中間電動車。デハ5000形から運転台を無くした構造。20両製造。

クハ5150形:制御車。既述の通りデハ5000形デハ5051~5055と組んで増結車として
 使用された。5両製造。ちなみに現行の5000系の東横線カスタムである5050系にも
 クハ5150形が存在する。

登場時は3連を基本とし、後に4連。最大で6連で運用された。

車体は普通鋼鉄製で航空技術を流用したモノコック構造を採り入れた超軽量車体と
なった。
強度保持のため、側面窓下にリブが入る。
正面から見ると、側面が「ハ」の字型に傾斜しており、正面部分は当時流行の半流線型、
正面2枚窓となっている。
車体裾部分は丸く絞られており、ホームとの隙間が大きくなったため、乗務員室扉を
含めた全ての扉にドアステップを設置した。
塗装はライトグリーン一色で当初は明るいグリーンを採用したが、褪色が著しく、
後に濃い目のグリーンに変更された。
また、この塗装と丸っこいデザインから「青ガエル」の愛称で親しまれている。
この塗装は、一色で済む上、当時の車両としては明るい塗装で沿線の評判も
良かったことから、本形式以前の旧型車両でも同様の塗装に塗りなおされていった。
種別・行き先表示は当初が正面に行き先札を差し込む方式で後に手巻き式の方向幕を
正面向かって左側の窓に設置した。
急行表示については引き続き、札で表示している。

車内はロングシートで化粧板はグレー、天井がホワイト、モケットはワインレッドと
これまでの車両とは異なるものとなった。
側面窓は2段窓でドアは片側3箇所で全て両引き戸である。
天井には扇風機を設置した。
座席下の暖房機には主制御装置の抵抗器から熱風を送るものを採用していたが、
出庫時は車内が暖まらなかった上、走行中は逆に暑すぎ、時には女性のストッキングを
溶かすほどであったため、通常の電熱器式に改めている。

主制御装置は抵抗制御で電動カム軸式制御器を採用している。
本形式で採用された制御器は小型かつ制御段が比較的多い(直列12段・並列11段・
弱め界磁3段・発電制動20段)当時最新のもので、後の国鉄電車で標準採用される
制御装置のモデルとなった。
本形式では加速時の衝動を抑えるため、起動時にも弱め界磁を使い、スムーズな
加速を可能としている。
ブレーキは発電ブレーキ併用空気自動ブレーキを採用した。
このブレーキはハンドルの位置が「全弛メ」ではブレーキがかかっていない状態で、
「弛メ」で発電ブレーキの作動準備に入り、「制動」で発電ブレーキが作動し、
「重なり」で発電ブレーキがかかった状態をキープされる。
この際、不足するブレーキ圧を必要な分だけ補う空気ブレーキが動作する、現在で
いう遅れ込め制御を行うほか、発電ブレーキが失効した場合は自動的に空気ブレーキが
作動するようになっている。
台車は軸箱支持がペデスタル式のインダイレクトマウント式金属バネ台車を
採用した。
モーターの駆動方式は直角カルダン式で、日本で初めて量産車として本格的に
採用した。
直角カルダン駆動方式は台車枠に装着したモーターからシャフトを伸ばし、
自在継ぎ手と車軸のベベルギアと接続して動力を伝達する駆動方式である。
この駆動方式は1067㎜と日本の狭い軌間でも大出力モーターを比較的簡単に
搭載できる上、構造そのものが簡単である利点がある。
本形式では出力110kwの電動機を搭載し、軽量構造の付随車や制御車を組み合わせる
ことで電動車の数を抑制して、製造コストや運用コストの削減を図っている。
なお、これらの機器は何もかもが初めて尽くしであり、制御器が進段せず、制御器の
主抵抗器が溶損したり、カルダンジョイントの強度不足でシャフトが折損したりと
初期故障には相当悩まされたようである。
お披露目運転の日ですら、制御器が故障して進段できなくなり、ギリギリの全抵抗
運転を行い、どうにか乗り切った状況であったという(抵抗熱を車内に送る暖房
装置のデモも行われたが、車内がどのような状況になったかは記すまでもない)。
運転台はツーハンドル式で、当初はテープによる車内放送装置を搭載していた。
また、ラジオ受信機を搭載し、ラジオ放送を行っていたこともある。

最初は全車東横線で運用されていたが、ステンレス車の台頭で大井町線、田園都市線、
目蒲線に転属していった。
戦前に投入された電車が残る中、モノコック構造による車体の老朽化が進行したこと、
断面積が小さいことから東急線内での活躍の場は徐々に狭くなっていったが、
軽量で電動車の数の増減で自在に編成が組める構造であることから、昭和52年に
長野電鉄への譲渡が始まったのを皮切りに、地方私鉄への譲渡が開始され、
最終的に半数以上の64両が第2の就職先を得ている。
譲渡先は長野電鉄、松本電気鉄道、上田交通(現・上田電鉄)、福島交通、岳南鉄道、
熊本電気鉄道で、2両編成を組んだものが大半であるが、一部は連結部分に運転台を
増設して「平面ガエル」にされたものもある。
また、台車のみの譲渡先として西日本鉄道があり、旧性能車の高性能化のために
使用されている。
東急では目蒲線を最後に昭和61年に運行を終了している。

譲渡された車両はそれぞれの場所で車両の近代化に大きく貢献したが、既述の通り、
モノコック構造が災いして冷房の搭載が出来ず、平成に入った頃から、廃車が
開始され、現在では熊本電気鉄道で運行されている2両を残すのみとなっている。

廃車となったもののうち、上田交通に譲渡されていたデハ5001号車は東急に
買い戻され、長津田検車区で昭和30年代末期の頃の姿に復元され、保存された。
しかし、後に東急車輛に搬送され、一時保管の後、車体を短縮化、床下機器や
台車を撤去した上で渋谷駅ハチ公前付近に展示されている(タイトル写真参照)。


○台車。徹底的に無駄を省いた構造。


○車内。これは熊本電鉄で運行中の車両のもの。
 車体の強度不足から冷房を搭載できず、多くの譲渡先からも引退していった。
 熊本電鉄でも置き換えの意思はあるが、諸般の事情から実現せず、
 冷房車を入れられないことを詫びた文章が掲出されるほどである。


○運転台。窓が大きいため、視界は広い。これも熊本電鉄のもの。
 マスコンとブレーキの間のマイクやブレーキハンドルの右側にある
 運行番号設定機は熊本で設置したもの。

東京都交通局 5500形電車

2010-11-11 23:25:11 | 保存車・博物館
都電の次世代車両として東京都交通局技術研究所が主体となって、アメリカの
PCC車(米国の路面電車事業者が集まり、台頭してきた自動車に対向できる新世代の
路面電車の開発を目的に結成された委員会「The Electric Railway Presidents'
Conference Committee(ERPCC)」が開発した路面電車のこと)を参考に最新技術を
採り入れた車両として登場したものである。
昭和28年~30年にかけて5501~5507号の7両が製造された。
製造メーカーはナニワ工機である。
新技術を多く採り入れた関係で開発が遅れてしまい、以下の順番で製造されている。

・5502号(昭和28年)→5501号(昭和29年)→5503~5507号(昭和30年)

車体は東京都交通局の電車で初めての全鋼製車体を採用した。
5501号のみ台車をカバーで覆い隠したものを採用し、他は台車部分に切れ込みが
入ったものを採用している。
正面は2枚窓で5502号が2枚とも開放可能、5501号が2枚とも固定、5503~5507号が
向かって左が開放可能で右が固定式となっている。
ヘッドライトは窓下中央、その両脇に矢印付きのウィンカー、ヘッドライト向かって
左側にテールランプが設置されている。
系統表示は正面右に◇型のものを採用し、夜間はバックライトで光る行灯式を
採用した。
塗装はアイボリーにエンジ色の細帯で、昭和30年代以降、アイボリーを黄色の強い
クリーム色に変更された上で他の車両にも波及した(本形式についても同様に
塗り替え)。
行き先表示は字幕式で正面にのみ設置された。

車内はオールロングシートで都電の電車で初めて蛍光灯、放送装置、ファンデリアを
装備した。
側面窓は上段固定・下段上昇式で上段をHゴム固定としたいわゆる「バス窓」と
なっている。
ドアは片側2箇所で前中式となっており、前ドアが2枚片引き戸、中ドアが
片引き戸である。

主制御装置などの機器は5501号、5502号以降で大きく異なるので個別に
紹介する。

◇5501号
主制御装置は間接・自動加速式抵抗制御で制御器に99段という超多段ドラム式制御
装置を採用した。
この制御装置はアクセラレーターと呼ばれ、通常のハンドル操作ではなく、
自動車同様のペダル操作であった。
したがって、運転台にはハンドル類が一切無く、右からアクセラレーター、
ブレーキ、デッドマン(運転士の失神時などで運転操作が出来なくなったときに
暴走を食い止めるため緊急ブレーキがかかる装置)の3つの足踏みペダルが並ぶだけ
というものであった。
運転操作時は左足で常時デッドマンを踏んだ状態で他の2つのペダルを操作するという
今のオートマチックの自動車の様なものと考えれば良い。
台車はインナーフレーム式防振ゴム台車で車輪にも防振ゴムを用いた防振・防音
構造を採用した。
モーター出力は41kw×4で駆動方式は直角カルダン駆動である。
ブレーキは発電ブレーキ、ドラムブレーキの他、レール圧着ブレーキを
装備している。
ドラムブレーキは通常、車輪を直接押さえ込むのに使われるが、この車両については
モーターの電機子側に装着されているという特殊構造となっている。
この車両は米国PCCカーのパテントを買い取り、ライセンス生産された純正部品を
用いており、従来の車両とは全く隔絶した最新装備を有していた。
なお、日本国内で「PCC車」と呼ばれる路面電車は同時期に複数登場しているが、
正規の部品を使って作られたのはこの車両だけである。

◇5502号~5507号
主制御装置は間接・自動加速式抵抗制御で制御器は単位スイッチ式となり、
通常のマスコンハンドルによる操作で制御される。
ブレーキは発電ブレーキ併用空気自動ブレーキで、こちらも通常のハンドル操作である。
台車は一般的な外枠式金属バネ台車となり、ブレーキも通常通り、車輪踏面を
押さえるものとなっている。
モーターの出力は5502号が41kw×4、5503号以降が30kw×4で、駆動方式は
WN駆動方式である。
ちなみに5502号の走行機器は都で独自開発中だった6000形ベースの高性能車の
試作車である6291号車(後の6500形6501号車)で使用されるはずのものを、
広報で発表してしまった「新車登場」のスケジュールに間に合わせるため、
急遽流用したものである。
この5502号は都電のカルダン駆動車第1号であり、国内でも京阪電気鉄道1800系電車、
東武鉄道5720系電車に続いて3例目である。
営業開始は5502号のほうが先であるが、既に5501号の開発が続けられている
状態であったため、トップナンバーを同車に譲っている。
これら6両については三菱電機がWH社のライセンスで生産した国産機器を用いている。

この他、集電装置は全車パンタグラフであった。

本形式は全車とも特殊車両が多く在籍した三田車庫に所属し、大柄な車体であった
ことから、カーブの少ない1系統(品川駅~三田・銀座四丁目・須田町経由~上野駅)
専用で運行された。
5501号車は、あまりに特殊な機器が多い上、運転操作もペダル操作と他の車両と
全く異なり、トラブルが絶えなかった。
特に高額なライセンス使用料がネックとなり、艤装図面を買えず、電装品の
トラブルが多く発生し、これらの問題から他社局で純正PCC車の開発を断念させる
原因にもなった。
なお、5501号車については昭和35年に運転台を通常のハンドル操作のものに
改造している。
この他、5503号車が集電装置を昭和31年~33年までZパンタに換装した後、
同年以降、全車がビューゲルに交換した。
これらのトラブルを抱えながらも都心を抜ける1系統の看板車両として活躍したが、
昭和42年12月の都電第1次撤去の際、三田車庫廃止と共に全車廃車となった。
まだ製造後、12~14年ほどの新しい車両ではあったが、特殊な機器が多く、
車体が大きく他の路線での運行が難しいと判断されたためである。
5501号車については保管の後、運転台をペダル式に復元した上で、
上野公園の不忍池の畔に保存された。
他の6両は仙台市交通局への売却交渉が行われたが、諸般の事情で不調に終わり、
残念ながら解体されている。

5501号車はその後、傷みがひどくなったことから、荒川車庫に移送され修復された。
その後は車庫の裏に置かれていたが、後に第2車庫の留置線に移動。
ふたたび、老朽化が進んできていたが、平成19年に荒川車庫に都電おもいで広場を
開設するに当たり、再度の修復が行われた。
この修復の際、ギャラリーとして使用するため、片方の運転台を除いて
座席類などを撤去している。
車内には、かつての都電を再現したジオラマや写真を展示している。
なお、タイトル写真では写っていないが、平成20年ごろ、上屋根の設置が
行われている。


○第2車庫の留置線に置いてあった頃の姿。だいぶ老朽化が進んでいた。

国鉄 EF15形電気機関車

2010-10-28 22:08:34 | 保存車・博物館
戦後の石炭不足と輸送力の増強の必要性から国鉄幹線の電化が進められ、
それに対応する貨物用の電気機関車として導入されたものである。
昭和22年~33年にかけて、国鉄旧型電気機関車(EF60形以前のデッキ付き機関車のこと)
最大の202両が製造された。
製造メーカーは川崎車輛、日立製作所、三菱重工、東芝、東洋電機、汽車会社、
日本車輛、富士重工である。

車体は普通鋼鉄製の箱型で前後にデッキを備えた構造で戦前製の電気機関車を
基本的に踏襲した他、旅客列車牽引用のEF58形電気機関車とほぼ共通設計と
された(EF58形は後に正面2枚窓の半流線型車体に換装される)。
ただし、車体の長さがやや短くなったのと、機械室の窓を減らしたのと
天窓付きのモニタルーフを廃止し、乗務員室の内装を施さないなどの設計の
簡素化が図られ、初期に登場したものは運転・整備の環境に劣った。
しかし、昭和26年以降に製造されたものについては車体構造の強化と、
側面窓の増設、モニタールーフと天窓の復活など各所に改良が
施された。
正面は貫通型で、配置区による多少の違いはあるが、正面窓に庇が設置されている。
登場時のわずかな時期は、これを設置していなかった。
また、上越線や奥羽本線など寒冷地に配置されたものでは貫通扉上部にも
これを設置したものがあった。
なお、側面に乗務員用扉が無いため、乗り降りは正面貫通扉からとなる。
ヘッドライトは正面中央上部、テールライトは初期型が車体外付け、中期以降が
車体埋め込みである。
車番表記は初期~中期がナンバープレート式、それ以降が車体埋め込み式である。

主制御装置は電磁空気式単位スイッチ方式の抵抗制御である。
重連総括制御には対応していない。
本形式では戦時設計のEF13形で省略されたパンタグラフ断路機、高速遮断機を
復活させた他、制御機器のキャパシティ増加などの各種改良が施されている。
台車の動輪配置は「1-C・C-1」で荷重分配装置を車体中間連結梁に設置している。
軸受けにはコロ軸受けを採用し、従来の機関車で必要だった軸受けへの給油作業を
軽減し、電気機関車の長距離運行を可能とした。
駆動方式は吊り掛け式でモーターは片方の台車に3つ、計6つ搭載された。
初期車では台車の振動をモーターに伝えないためのサスペンションが省略されたが、
途中から設置された。
ブレーキは空気自動式直通ブレーキである。

当初は東海道本線と上越線に配置されたほか、電化区間の延伸で奥羽本線、
中央本線、山陽本線など国鉄の主要幹線の貨物列車で活躍した。
一時は北は新潟、南は下関まで、その姿を目にすることが出来た。
上越線と奥羽本線に配置されたものは勾配区間での空気ブレーキの多用により
車輪が加熱・弛緩する故障に悩まされ続けたため、本形式の1~8・20~23号機が
昭和26年に、16~19・24~28・31~33号機が昭和30年~32年にかけてブレーキを
電力回生ブレーキ付きに改造し、EF16形に形式を改めている。
奥羽本線に配置されたものは昭和40年にEF64形が配置されたのを機に上越線に
一部が転属し、他は一部装備を外して元の番号に復している。
これ以外にも先述の寒冷地対応改造でスノープロウを設けたものや、
警笛カバーの有無、ヘッドライトのシールドビーム化、排熱装置の改修など
細かい改良が多岐に亘って施されている。
その後、EH10形「マンモス」やEF60形などの後継機の就役により、幹線から支線区へと
転じていくが、貨物輸送一筋で高度成長期の日本の物流を支えた。
廃車は昭和54年より始まり、昭和61年に国鉄の分割民営化を見ずに全機引退した。

引退後は120号機(大阪府摂津市新幹線公園)、158号機(JR西日本宮原総合車両所)、
165号機(碓氷峠鉄道文化村)、168号機(大宮総合車両センター及び大阪府高槻市内。
双方とも車体前頭部のみ)、192号機(大宮総合車両センター)、198号機(山梨県韮崎市
韮崎中央公園)がそれぞれ保存されている。
このうち158号機はJR西日本にて今もなお、車籍を有するが稼動状態には無く、
保存用である。

横浜市交通局 1600形電車

2010-10-19 22:06:29 | 保存車・博物館
戦後急造車だった800形電車を置き換えるために導入された車両である。
昭和32年に6両が局の工場にて新造された。
横浜市電としては最後の新車である。

車体は普通鋼鉄製で大阪市電3000形電車を範にとったといわれる軽快なスタイルが
特徴である。
正面は中央窓を幅広とし、その両脇に縦長の細い窓を配した三枚窓で
ヘッドライトは正面中央下、標識灯は正面左右上部にある。
塗装は登場時が窓周りが白、他がブルーのツートンカラーで、これにブルーの
細帯が入るものであったが、後にブルーの細帯が無くなった。
晩期はクリームイエローにライトブルーの細帯が入るものとなっていた。
行き先表示は字幕式で正面にのみ設置し、系統板と経路図は板表示である。

車内はオールロングシートで座席のモケットはグリーンである。
ドアの配置は横浜市電のボギー車では珍しい前中式で、どちらも4枚折り戸である。
側面窓は上段Hゴム固定、下段上昇のいわゆるバス窓である。

主制御装置は直接制御方式の発電ブレーキ付抵抗制御で
ブレーキは空気自動ブレーキである。
台車は枕ばねをコイルバネとし、軸箱支持をモノリンク式とした金属バネ台車を
採用している。
駆動方式はこれまで通りの吊り掛け駆動である。

登場時は新鋭車両として迎えられ、近代的なスタイルから好評を博した。
しかし、両端ドアの4輪単車やボギー車、もしくは3ドアのボギー車が多数を占める
横浜市電の中では異端な存在となってしまい、徐々にではあるが
運用が限られていった。
昭和42年より合理化のため、市電のワンマン運転が開始されたが、
本形式は最新形式なのにも関わらず、ドア配置が異なるため、ツーマン仕様のまま
残存し、市電廃止を目前とした昭和45年に全車引退となった。
引退後、1601号が保存車となり、滝頭車庫に保管され、その後、同車庫を利用して
開館した市電保存館で登場時の塗装に塗り替えて展示されている。
なお、この場所は1600形生誕の地でもある。


○1600形車内。近代的で明るい車内であった。
 戸口も広く、乗降もしやすいがワンマン化には不向きと判断されたのか、
 最後までツーマンだった。


○1600形の台車。

東京高速鉄道 100形電車

2010-10-04 23:39:49 | 保存車・博物館
現在の東京メトロ銀座線の渋谷~新橋(幻の新橋駅)間を開通させた東京高速鉄道が
開業用に製造した車両である。
昭和12年に30両が製造された。製造メーカーは川崎車輛である。

車体は普通鋼鉄製で基本的な寸法などは、東京地下鉄道の1000形電車を
ベースとしている。
デザイン面では東京地下鉄道のゴツゴツした直線的なものと一線を画した
曲面を多用したものとなった。
これは東京高速鉄道の親会社であった東京横浜電鉄(現在の東急)の同時期に導入を
進めていた電車とよく似たものである。
正面は貫通型で連結器上部の短いアンチクライマー、少し屋根に埋まったライトと、
その両脇のベンチレーターが特徴となっている。
塗装は登場時が上半分がクリーム、下半分がグリーン、屋根がグレーであった。
後にクリームの部分がイエローになり、戦中には屋根がブラウン系になり、
最終的に東京地下鉄道の車両共々、屋根周りがブラウン、その他がオレンジというものに
なった。
行き先表示は札を貫通扉と側面上部に掲示するものであったが、末期は簡易行き先表示幕を
設置した。

車内はオールロングシートで当時の関東の私鉄(特に東横、帝都、京浜で見られた)では
標準的に採用されていた運転席をボックス状にし、客席を最前部まで設置したものを
採用している。
このため、車掌は客室にあるドアスイッチにてドアの開閉を行っていた(「他の戸」と
「此の戸」とかかれたスイッチがあり、発車時は「他の戸」を先ず閉めて、安全確認後、
自分のいる場所のドアである「此の戸」を閉める)。
なお、ドアは片側3ドア・片引き戸である。
天井灯はグローブ付の白熱灯で先頭部分はベンチレーターがあるため、この部分だけ
屋根が低い。
側面窓は上段下降・下段固定の2段窓である。
この他、東京地下鉄道で特徴的だったリコ式吊手は採用されず通常の吊革だった他、
床もリノリウムではなく板張りであった。

主制御装置は抵抗制御、ブレーキは発電ブレーキ付空気自動直通ブレーキであった。
発電ブレーキは、当時まだ珍しく、東京地下鉄道の車両には装備されていなかった。
このため、営団になった後も戦後の車体更新までは東京地下鉄道側の車両と
併結できなかった。
台車は金属バネ台車、駆動方式は吊り掛け式である。
本形式は1基75kwのモーターを前後の台車に2つずつ=4つの車軸全てに搭載しており、
1基90kwのモーターを前後の台車に1つずつ=2つ搭載の東京地下鉄道の車両よりも
出力で優れていた。
このため、直通運転開始直後はスピードに優れる本形式が足の遅い東京地下鉄道の車両を
追い掛け回す光景が見られたという。
運転台は当時標準のツーハンドル式であるが、マスコンが固く重たく扱いづらかった
様である。
特に戦時中、徴兵で不足した男子運転士を補うため、女性運転士が採用されたが、
彼女たちが本形式を扱うのは苦労が伴い、なかなかマスコンが回らず、
どうにか動かして発車すると見守っていた乗客から拍手を受けるというエピソードも
残っている。

東京高速鉄道と東京地下鉄道が国により合併し、半官半民の帝都高速度交通営団発足後も
形式番号の変更はなく、そのまま使用された。
ただし、既述の理由から東京地下鉄道の車両との連結は行われておらず、
運用は分かれたままだった。

昭和20年代後半~30年代前半にかけて壁面への首振り扇風機設置、前部ベンチレーターの
車内側通風口埋め込み、発電ブレーキの使用停止と東京地下鉄道及び営団が製造した
車両との併結対応化、床板のリノリウム化、吊革のリコ式化、貫通扉への簡易幌設置、
運転室への簡易方向幕設置などの更新改造を行っている。

昭和37年には荻窪線(現在の丸ノ内線の新宿~荻窪間と方南町支線)支線の開通に伴い、
101号~110号が同線専用車となり、塗装をレッドに白帯という丸ノ内線の電車に
準じた塗装に改めた他、丸ノ内線は銀座線よりも車体規格が大きくホームと車両の
隙間を少なくするためのドアステップを設置している。

銀座線では昭和23年の1300形導入以降、新車を断続的に増備しており、片隅運転台の
旧東京地下鉄道車や本形式は徐々に先頭に立たなくなっていった。
昭和43年に2000形の中間車である1500N1形電車が製造されると、これと置き換えられて
引退した。
方南町支線の10両も同年に2000形に置き換えられて引退している。

引退後、118号と129号は解体処分を免れて、中野工場の入換車として昭和56年まで
車籍を有して使用されていた。
その後、118号は解体されたが、129号はしばらく保管された後、行徳検車区に搬送され、
車体の先頭から1/3にカット、内外装を登場時のものに復元する工事を行い、
地下鉄博物館に収蔵された。
地下鉄博物館では車両の構造を学習するための教材となっており、ドアが操作できる
(ドアエンジンを見せるため、一部の座席が撤去されている)他、同車のマスコンや
ブレーキを操作すると、前に設置されている台車(1800形電車のもの)の
モーターや制御器、ブレーキが動作する。


○100形車内。車内の通風を良くするため、天井にベンチレーターが設けられている。
 左が運転室で車掌は客室に乗務した。
 ドア操作は当然客室で行うわけだが、混雑時に車内を左右に移動するのに手間取ることも
 よくあり、時には客に扱ってもらったこともあったそうである。
 運転室の壁に貼られているのは昭和16年ごろの路線図で既に丸ノ内線赤坂見附~新宿間が
 未成線として描かれている。

○運転室。窓枠についている四角いものは手元を照らすための照明。
 ちなみに重く固い本形式のマスコンであるが、ここでは子供たちが扱えるよう、
 だいぶ軽くなっている。
 ちなみに副都心線10000系で復活したことが記憶に新しい、警笛の「トロン笛」も
 鳴らすことが可能である。