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水の丘交通公園

鉄道メインの乗り物図鑑です。
※禁無断転載!使用に際してはコメント欄にて
用途を申告してください。

国鉄 80系電車

2011-07-28 23:34:28 | 保存車・博物館
東海道本線の電化区間における輸送力増強と輸送の効率化のために登場した、
日本で最初の本格的な長距離列車向けの電車である。
昭和24年~昭和33年にかけて652両が製造された。
製造を担当したメーカーは帝国車両、日本車輛、東急車輛、宇都宮車輛、新潟鉄工所、
近畿車輛、日立製作所、川崎車輛、汽車会社で日本国内にあった鉄道車両メーカーの
大半が関わった。
編成の組み方は投入路線によって異なるため省略する。
形式別の概要は以下の通り。

■基礎形式
クハ86形:制御車。3等車。
モハ80形:中間電動車。3等車。主制御装置、集電装置、電動発電機、CP搭載。
サハ87形:中間付随車。3等車。
サロ85形:中間付随車。2等車。
モユニ81形:郵便荷物室付きの制御電動車。単行運転可能。後にクモユニ81に改称。

■形態別の分類及び改造による形式
クハ86001~クハ86020:正面3枚窓。半鋼製車体。
クハ86021・クハ86022:正面2枚窓。丸妻。半鋼製車体。
クハ86023~:正面2枚窓。折妻。半鋼製車体。
・100番台:座席間隔拡大車。サロ85形に100番台は無し。
・300番台:座席間隔拡大・全金属車体。
クハ85形:中間付随車に運転台を取り付けて制御車としたもの。
・0番台:サロ85からの改造。
・100番台:サハ87形から改造。
・300番台:サロ85形300番台・サハ85形300番台からの改造。
サハ85形:サロ85形からの格下げ改造車。
・0番台:そのまま格下げたもの。特に改造されてない。
・100番台:0番台を3ドアに改造したもの。
・300番台:サロ85形300番台からの格下げ。ごく短期間で全車がクハ85形300番台に改造。
モハ80形800番台:身延線用にパンタ部分の低屋根化を実施したもの。
 モハ80形300番台から改造。
モハ80形850番台:上記と同じ内容でサハ87形300番台を電動車化。
クモニ81形100番台:クモユニ81形から郵便室を無くして荷物室にしたもの。

車体は半鋼製で昭和32年製造の300番台からは全金属車体である。
正面は非貫通で初期車が丸妻の3枚窓、昭和25年製造のクハ86021号から
2枚窓となった。
クハ86021号とクハ86022号は3枚窓車と同じ台枠を使った関係で丸みのある
独自のスタイルであったが、クハ86023号以降は真ん中で折り目の入った
スタイルとなり、「湘南電車」の代名詞となった。
この前面デザインは昭和30年代前半まで一大ブームとなり大手私鉄から路面電車、
果ては軽便の気動車までが採用するにまで至った。
塗装はオレンジとグリーンのいわゆる「湘南色」を始めて採用し、鉄道車両の
カラー化の先鞭をきった。
正面部分を中央で半円形で塗り分けた「金太郎」塗りとなったが、これが決まるまで
幾度か塗り替えを重ねた。
また湘南色とあわせて横須賀線用の「スカ色」も開発されたが、この時は在来車両の
片面ずつに湘南色とスカ色で塗り分け試験塗装車として運用したことがある。
この他には「茶坊主」と呼ばれたクリームと茶色の関西急行色(今の新快速に相当)が
ある。
行き先表示は側面にサボが設けられているのみで正面には名前付きの優等列車でのみ
ヘッドマークが付けられる。

車内は2等車、3等車とも4人向き合わせの固定クロスシート(ボックスシート)で
ドア付近のみロングシート(3等車)である。
2等車はソファタイプの座席で間隔も広めにとられている。
3等車は初期車はシート間隔が定員を稼ぐため従来の客車よりも狭く、背もたれの
モケットも腰半分より下にしかなかったが、これらは後に改善されている。
トイレはクハとサハ、サロに設けられており、いずれもデッキに出入口を設置して
車内とは分離している。
サロ85形の初期車では横須賀に駐留していた進駐軍を意識して洋式便器を
当初より採用していたが、日本人には見慣れないものであったため、途中から
和式に変更された。
なお、サロ85形は長距離運用や優等列車での運用も考慮して車内販売控え室も
設けられていた。
ドアは片側2箇所・デッキ付きで全て片引き戸である。
この当時の東海道線は客車用に低めのホームであったが、ドアステップは設けられて
いない。

主制御装置は抵抗制御で初期車については戦前からの標準品である電空カム軸式の
CS-5を採用したが、昭和26年以降に登場したものは改良型の電動カム軸式のCS-10を
採用した。
この制御装置の採用で制御段数の多段化が可能となり、ブレーカーなどの機器の
配置を見直したため、乗り心地や故障時の安全性の向上が図られている。
ブレーキは空気自動ブレーキであるが、中継弁として電磁弁を各台車に設けており、
長大な編成でも安定したブレーキ力を得る事に成功している。
台車は初期車が枕ばねを重ね板バネとした箱型台車、中期がこれの枕ばねを
コイルバネとしたもの、最終的にはペデスタル式のコイルバネ台車となった。
いずれの台車も車軸をコロ軸として長距離・高速走行での発熱も抑えている。
モーターの駆動方式は吊り掛け式で従来車と変わらない。
これらの走行機器は従来のものをベースに改良を加えたもので、既に関西私鉄では
本形式以上の性能を持つ車両が戦前から運用されていたが、本形式では広範囲で
運用することや大量に製造することからコストを抑制するため、贅沢で特殊な
機構より堅実な今ある技術の延長上にあるものを改良して使うことを選択している。
この考え方は後の151系「こだま」型や0系新幹線の開発にも活かされている。

昭和25年の3月より東海道線東京~沼津間と伊東線で運行を開始したが、営業開始前に
メーカーからの自力回送途上で車両が全焼したり、初期故障を繰り返したため、
「遭難電車」という有り難くない仇名も頂戴したこともあるほか、当時の鉄道雑誌でも、
かなり手厳しい非難が書かれた事がある。
初期故障が収まってくると、客車列車よりも速度が速く、乗り心地も良かったことや
速度が客車列車よりも顕著に速かったため、次第に利用客の支持を得られるように
なっていった。
当初モノクラスであったが、昭和26年よりサロが増備され、基本10連+付属5両+
郵便荷物車1両の16という日本の電車初の長大編成を実現した。
また、東海道線のみならず、スノープロウなどを装備して寒冷地仕様としたものが
登場し、高崎線、東北本線などへも投入が進められた。
優等列車へは週末の温泉準急「あまぎ」(東京~伊東・修善寺間。今の「踊り子」の
前身)に投入され、準急列車ながら東京~熱海間を客車特急列車「つばめ」と
同等の所要時間で走破した。

特異なものとしては非電化区間への乗り入れで、蒸気機関車やディーゼル機関車に
牽かれ、客車や電車に発電機を搭載して補助電源を確保するというものであった。
この他、駿豆鉄道線(現・伊豆箱根鉄道駿豆本線)直通にも用いられたが、同線は当時
直流600Vだった為、国鉄の直流1500Vと電圧差があった為、電動発電機などの
一部の機器を複電圧仕様に改造し、主制御装置はそのままで乗り入れるという
離れ業をやっていた。
これでは満足に走行できないように見えるが、補助機器は正常に動いており、
当時の駿豆鉄道は戦前からの木造電車が1両でのんびり走るローカル線だったので
速度が出なくても問題がなかった。
三島駅の東海道線と駿豆鉄道側にはデッドセクションがあり、その前後の通電区間と
本形式がユニット構造を組まない電動車であることを巧みに利用した切替作業を
行いこれを実現した。
その後、これらの特殊な運用は電化の進展、気動車の開発による無煙化、
私鉄側の昇圧などで消滅している。

関西ではクリームに茶色の独自の塗装になったものが急行(今の快速・新快速に相当)に
用いられ、モハ52系「流電」を置き換えた。
その後、電化区間の延伸が続き、昭和32年には東京~名古屋間の準急「東海」、
名古屋~大阪間を結ぶ準急「比叡」にも投入され、電車でも長距離優等列車として
運用できることを証明した。
これにより、長距離優等列車用の電車の開発が進められ、日本で長距離列車の
大半が電車となる端緒となった。
なお、特急用電車の開発が具体化したため、本形式のサロ85020号に一時的に
冷房装置を取り付けて試験運用を行った。

余談だが、このサロ85020号は冷房を外した後、しばらくして横須賀線に転じて
運用されていた時、鶴見事故(昭和38年11月9日21時頃発生。鶴見駅付近で貨物線で
脱線した貨車が東海道線の上り線を支障したところに上下の横須賀線列車が進行。
上り線列車の先頭車が貨車と衝突した衝撃で下り列車側面に激突。4・5両目の車体を
抉り取ってようやく停車した。死者161名・負傷者120名の大惨事となった)
に巻き込まれている。
この車両のすぐ隣りのモハ70079号は脱線した対向列車の先頭車が直撃して
車体が跡形も無く粉砕されたが、サロ85020号は連結側の車体が損傷した程度で
済んだため、修理の後、復帰している。

昭和30年代後半になると新性能電車の台頭により、首都圏での運用が減り、
全国の地方路線へと運用範囲を広げていった。
その過程で中央線や身延線の低断面トンネル対応のパンタグラフへの交換、
短編成化に伴う中間付随車の先頭車化や付随車の電動車化、1等車(2等→1等→
グリーン車)の格下げなどの各種改造を受けている。

昭和50年頃まで事故廃車もなく、静岡運転所所属車が東海道線で東京まで顔を
出すなど、全車健在であったが老朽化の進行により廃車が始まった。
最後まで残ったのは飯田線の豊橋口の運用で昭和58年まで運行された。
その後、クハ86001号車とモハ80001号車が交通科学館に展示されたほかは
全車が廃車解体された。
一大センセーションを巻き起こした2枚窓の先頭車は残念ながら残されなかった。
廃車となった車両の部品は一部が払い下げられ、台車が西武鉄道のE31形電気機関車に
流用されたほか、座席が祐天寺にあるカレーショップ「ナイアガラ」で使用されている。


○モハ80001号車。本形式の中間電動車。最後まで本形式から客用の制御電動車が
 登場することはなかった。ドアの窓が3段なのはガラスを節約するため。


○車内。写真は初期車のもの。


○2枚窓車・・・のレプリカ。窓枠などは本物と同じものである。
 車番はクハ86形のラストナンバーの続番でクハ86374号の車号を付けていた。
 これは西武池袋線石神井公園駅近くの小山病院にあり長らく「電車の病院」として
 親しまれたが平成21年の夏頃、再開発による病院の移転で解体された。
 同病院の理事長は西武鉄道の嘱託医を務めた著名な鉄道愛好家である。


○西武E31形電気機関車の台車。80系300番台の数少ない遺品の一つ。
 現在は保存された1両を除いた3両が大井川鉄道に譲渡されている。


○民鉄各社でも「湘南顔」の採用が相次いだ。これはその例で西武の3000系電車。
 西武鉄道は「湘南顔」がお気に入りだったようでこの車両まで改良を加えながら
 長く採用された。

鉄道院 ホジ6013形蒸気動車

2011-07-16 21:55:28 | 保存車・博物館
地方や都市近郊の短距離・小規模輸送の列車をより効率的に運用するために、
客車の一端に蒸気機関を搭載した自走車両として開発されたものである。
明治45年~大正3年にかけて18両が製造された。
製造を担当したメーカーは汽車会社である。
単行運転前提のため、決まった編成は組まない。

車体は機関室側の先頭部分を除いて木製で屋根はダブルルーフとなっている。
正面は機関室側に石炭や灰の出し入れをするために観音開きの貫通扉を設置し、
反対側の正面は当時の電車に準拠した、やや弧を描いた3枚窓となっている。
塗装は当時の客車の標準色である茶色で3等車(→今の普通車)を示す赤帯を
巻いている。
行き先表示装置の類は無く側面に札を差すものである。
ヘッドライトとテールライトは取り外し式で、普段は設置されていない。
連結器はバッファーリンク式連結器で、後年、自動連結器に交換された。

車内はオールロングシートで籐を編んだ吊り輪が設置されている。
ドアは片側3箇所であるが客用は中央の両引きの手動扉一箇所だけで残り2つは
機関室用と運転室用である。

動力は蒸気機関で汽車会社の設計掛長であった工藤兵次郎氏が開発した工藤式という
方式を採用した。
この方式は小型のB形(動輪2つ)の蒸気機関車用のボイラーを台枠との間に設けた
ボルスタを設けて車体側台枠と連結される側梁を乗せたもので、カーブを通過する時は
機関部分が線路に沿ってステアリングできる構造である。
機関室と反対側の台車は付随台車である。
機関部分の整備の際はボルスタのピンを外すと車体と切り離して前部ドアから
取り外すことが可能である。
性能面では当時の日本の小型蒸気機関車と同等であったため、信頼性と使いやすさで
好評であった。
運転室は機関室側の反対側にもあり、機関室では通常の蒸気機関車と同じく、
機関士と機関助手で運転されるが、機関室と反対の方向に進む場合は、運転室側では
機関士がワイヤーと伝声管で機関室の機関助手に指示しながら運転した。

性能は申し分なかったものの、より効率的な運用が可能な内燃動力車(ガソリンカーや
ディーゼルカー)が開発されると客車に改造されるなどした。
しかし、太平洋戦争に突入すると石油燃料の統制とガソリンカーの使用禁止などで
老朽化が進んでいたが、原始的な機構のお陰で幅広く運用された。

この車両はホジ6014号車として製造され、神戸に配置され、主に関西で使用された。
大正3年に形式称号が変更となりジハ6006号になり、大正7年に九州の直方に転属した。
その後、昭和3年に再度改番されてキハ6401号となり、昭和18年に休車となった。
昭和19年に鉄道省を除籍となり名古屋鉄道に譲られた。
名鉄では形式称号の変更はされず、そのまま蒲郡線で使われる予定であったが、
実際には刈谷工場で留置されたまま使われずに昭和26年に廃車され、同年開催された
イベントの折に犬山遊園に展示された。
昭和37年に鉄道開通90周年を記念して鉄道記念物に指定され、国鉄名古屋工場にて、
国鉄時代の姿に復元され、再び、犬山遊園にて展示された。
昭和42年からは明治村に収蔵されて展示されていたが、平成21年に鉄道・リニア館に
移設され、現在に至る。



○車内。上が機関室側で下が運転室側。


○運転室側。機関室側に比べると大人しい表情。
 犬山遊園で展示されていた時は当時の名鉄電車と同じクリームと
 ブラウンのツートンカラーだったこともある。

国鉄 DD54形ディーゼル機関車

2011-06-27 20:52:51 | 保存車・博物館
エンジンを2基搭載したDD51形ディーゼル機関車の一応の成功を見て、エンジンを
高出力な物を1基として同程度の出力を維持しつつ、軌道の軸重制限が幹線よりも
厳しい亜幹線向けに導入できるように開発された車両である。
昭和41年~昭和46年にかけて40両が製造された。
製造を担当したメーカーは三菱重工業である。

特に番号分けは行われていないが、大まかに分けて以下の3つのタイプに分類される。

1~3号機:量産先行機。正面窓枠がステンレス、ヘッドライトは窓上左右に2つ、
 側面のエアフィルターや動輪の輪芯形状が以降の機体と異なる。
4~24号機:正面窓枠がステンレス、ヘッドライトが窓下左右になる。連結器開放テコの
 形状、勾配などでの滑走防止に使う砂箱の形状が2種類ある。
25~40号機:正面窓枠がHゴム。ヘッドライトは窓下。車体溶接方法の違いで
 3形態ある。

車体は普通鋼鉄製で日本の内燃機関車では珍しいボンネット無しの箱型車体を
採用している。
車体デザインは本形式のベースとなった西ドイツ国鉄(現・DB/ドイツ鉄道)の機関車の
ものをベースとしたもので車体上部が台形状にすぼまる独自のものを採用している。
上記の通り、量産先行型の3機だけヘッドライトが窓上、それ以外はテールライトと
上下ユニットになるように窓下に設置されている。
既述の通り、正面部分の違いはあるが、重連を基本的に想定していないため、
全機とも貫通扉は装備していない。
車体塗装はオレンジ一色で正面にステンレスの飾り帯が入る。

機関はV型16気筒のDMP86型ディーゼル機関1基で西ドイツ(当時)マイバッハ社(現在は
MTUフリードリヒスハーフェン社)が設計したMD870型ディーゼル機関を三菱重工業が
ライセンス生産したものである。
変速方式は液体式で爪クラッチ式4段変速機構があるDW5型で、やはり西ドイツの
メキドロ社設計のK184U型変速機のライセンス生産品である。
この変速機はシフトアップ・ダウン時にエンジンの回転数とトルクコンバータの
回転数を同調させて接続させる機能がある。
また、爪クラッチをギア回転中に接続させた時のショックを軽減する衝撃緩和装置まで
装備しており、工業国である西ドイツの精緻な技術を遺憾なく詰め込んでいる。
動軸配置はB-1-Bでインサイドフレーム式の金属バネ台車が動力台車、
真ん中に軸重軽減のための1軸式付随台車を設置している。
また、旅客列車に運用するため、暖房用蒸気発生装置を装備している。

昭和41年に量産先行機3機が福知山機関区(→福知山電車区)に配置されて運用された。
この運用成績が良好であったため、翌年より本格的に量産が始められ、福知山線や
山陰本線の蒸気機関車牽引の旅客列車を次々に置き換えていった。
昭和43年にはお召し列車牽引の任を1・3号機が務めたほか、昭和47年に32~37号機の
5機が元空気溜め管増設改造など20系客車牽引対応改造を受け、寝台特急「出雲」の
京都~浜田間の牽引機として活躍した。

その一方で事故や故障の多い機関車であり、導入間もない昭和43年に山陰本線鳥取~
湖山間を進行中の2号機の推進軸が突如脱落して線路に突き刺さり、脱線転覆した
いわゆる「棒高跳び事故」に遭った。
同様の事故が11号機、14号機でも翌々年にかけて複数発生した。
原因はエンジンの出力と推進軸の強度が合っていなかったという、三菱重工業側の
ミスが原因であった。
こうした事故は推進軸の強化と脱落防止策をとることで昭和45年以降は発生していない。

昭和40年代後半になるとエンジンや変速機の不調による故障が相次いだ。
これはエンジンや変速機の構造が極めて精巧な造りであった為とライセンス生産の
部品が多く、保守のノウハウが不足していたことに起因する。
通常の整備でも手を焼くところに故障ともなれば、担当の福知山機関区の手に負えず、
三菱の技術者が常駐していた鷹取工場まで回送して修繕させたり、
ブラックボックスとなってる部分の部品の発注や問い合わせを行わなければ
ならなかった時などは三菱商事の対応の遅れで修繕できない状況が続くという
悪循環が生じた。
このため、折角の新鋭機ながら本形式の信頼性は失墜してしまった。
また、この当時の国鉄は国鉄労働組合の労働運動の真っ最中で、普通の車両すら
ろくに整備されないのに、保守に手間がかかる新鋭技術を盛り込んだ本形式は
「労働強化に繋がる」として敬遠される傾向が強かったのも影響した。

昭和50年代に入り、DD51形が初期不良を克服して安定した性能を見せてきたことから、
徐々に運用を離脱する車両が発生し、昭和51年~昭和53年にかけて全車が廃車された。
廃車完了の時点で整備費用がDD51形の18倍に達し、後期に製造された機体では
僅か5年弱で除籍されたものをはじめ、法定耐用年数に満たないまま廃車になった
ものも多数あった。
この「高価で高性能な新鋭機関車」を早期に廃車にした国鉄は後日、会計検査院から
国会で厳しい追及を受けることになる。

廃車後、33号機が「出雲」を牽引していた本形式に愛着のあった、ある交通医学博士が
国鉄と掛け合い、解体を免れて福知山機関区で保管された。
その後、昭和59年に交通科学館に搬入され、現在でも展示されている。

なお、余談であるが、国鉄には「ゴー・ヨン(54)機関車のジンクス」というのがある。
国鉄ではC54形蒸気機関車、EF54形電気機関車、ED54形電気機関車という「54」の
数字を持つ機関車が過去に在籍していたが、いずれも少数配置であったこと、
新鋭技術を盛り込みすぎて不具合を発生し、保守が追いつかず、
早期に淘汰されたという悲運の機関車ばかりである。
以下にそれらの簡単なプロフィールを紹介する。

C54形蒸気機関車
・昭和6年に汽車会社と川崎重工によって17両が製造された。
製造時より正面左右にデフレクターを持った初めての機関車で溶接構造を多用し、
大幅な軽量化を実現したが、重量配分の悪さと過度の軽量化による空転多発、
上記理由による牽引力不足や車体強度不足などで昭和38年までに全車廃車された。
あまりに不具合が多く、廃車が早かったため、保存された車両は1両も無く
全車解体された。
また、晩期に運用されたのが山陰地方だったため、今回紹介のDD54形と対比される
ことが多い。
EF54形電気機関車
・EF52形の高速対応型として昭和6年に2両が製造された。元々はEF52形の8・9号機で
あったが、性能の違いから昭和7年に形式を改めた。
東海道本線の旅客列車牽引に用いられたが、太平洋戦争に突入し、貨物需要に
対応させるため、昭和19年~20年に低速対応に改造され形式もEF14形に改称。
その後、中央線に配置されたが、元々が旅客機で軸数の多さから軸重が軽くなり、
牽引力が不足することは否めず、昭和35年に大阪の吹田機関区に移動して大阪駅の
構内入換機となり、昭和48年に廃車となった。
かつての同僚であるEF52形が昭和50年の引退まで旅客運用に用いられ、同一性能
だったEF53形も瀬野八の補助機関車EF59形として昭和61年まで運用されていた中、
地味に最期を迎えた。
ED54形電気機関車
・大正15年にスイスから2両輸入した電気機関車である。スイス・ブラウン・ボベリ社と
スイス・ロコモーション・アンド・マシン・ワークス社の合作でブフリ式という駆動装置
を採用し、当時最大の1500kwの定格出力を誇った。
ブフリ式とはモーター、小歯車、大歯車を弾性支持された主台枠に固定し、
車軸の中心移動に追随可能な特殊な歯車で動力を伝達する駆動方式のことである。
モーターに直接振動が伝わらないように大歯車や小歯車にリンク装置や特殊な歯車、
スプリングが多数仕込まれている。
モーターが台枠装荷となることでバネ下重量を軽くでき、モーターの高速回転も
可能というメリットの反面、当時の日本の技術では手に余る代物で整備のため、
分解したら元に戻せなかったというエピソードが残っている。
導入当初は乗り心地の良さから乗務員の評判は上々であったが、やはり整備不良に
よる不調が始まると忌避されるようになっていった。
末期は殆ど運用されず、大宮工場の隅で放置され、昭和23年に除籍された。

この他に電車でクモハ54形、気動車でキハ54系が存在するが、どちらもこうした
不具合は発生していない。
キハ54系はJR北海道とJR四国で現在も現役である。

東武鉄道 デハ1形電車

2011-06-13 20:44:01 | 保存車・博物館
伊勢崎線の浅草(現・業平橋)~西新井間電化に伴い導入した東武鉄道で初めての
電車である。
大正13年にデハ1~8号の8両が製造された。
製造を担当したメーカーは日本車輛東京支店である。
車体前後に運転台がある両運転台構造で決まった編成は組まない。

車体は木製で屋根は通風器と採光窓を兼ねたダブルルーフ構造となっている。
正面は緩くカーブを描いた非貫通5枚窓で当時の郊外電車でよく見られた
オーソドックスなスタイルをしている。
行き先表示機は正面左右の窓上にあるが、後年は殆ど使用されずに塗りつぶされ、
正面と側面に行き先板を吊り下げて表示した。
塗装は当時の電車の標準色である茶色一色であったが、戦後はベージュに
窓周りがオレンジ、最後はセージクリーム一色であった。

車内はロングシートでモケットの色は紺、手すりや各種金具を除いて木製ニス塗りで
仕上げられている。
乗務員室は独立しておらず、Hポールといわれる簡易な仕切りが設置されている
程度である。
ドアは片側3箇所・片引き戸でドアエンジンはなく、全て手動でステップ付である。
本形式は引退までドアの自動化はされなかった。
窓は一段下降式で現在のようなバランサー付きのものではなく、
いわゆる落とし窓である。

主制御装置は単位スイッチ式間接非自動制御の抵抗制御方式でブレーキは空気自動式
ブレーキを採用した。
台車は釣り合い梁式の金属バネ台車でモーターの駆動方式は吊り掛け式である。
パンタグラフは前後2基搭載され、戦前に登場した東武鉄道の電車の標準仕様と
なった。
連結器は当初、他の客車や機関車に合わせてバッファー・リンク式を採用していたが、
早期に自動連結器への交換を実施している。
運転台はツーハンドルでブレーキメーター以外、計器らしい計器の無い
シンプルな運転台である。

導入後、デハ7とデハ8は比較的早期に電動車としてではなく、制御車として
使われるようになり、昭和6年には電装品を大正14年に製造された本形式の
改良型であるデハ2形に属するクハ1形クハ1号、クハ2号に譲って、車番をお互いに
交換している。
デハ2号についても昭和9年に同じように電装品を撤去してクハ1形11号にされたが
事故に遭い、復旧名義でデハ10系クハ12形1108号車が製造されている。

戦災による被災車両は無く、昭和22年~昭和23年に国鉄63系電車の割り当てを受けた
見返りとして3両が地方私鉄に譲渡された。
内訳はデハ3号とデハ4号が上信電鉄(同社のデハ11号とデハ10号に改番)、
デハ6号が新潟交通(同社のモハ19号に改番)である。

残ったデハ1号、デハ5号、クハ1号、クハ2号は昭和26年の車番の大整理が行われ
デハ1形がモハ1100形、クハ1形がクハ210形に改称され、以下の様に改番された。

デハ1号→モハ1100号 デハ5号→モハ1101号 
クハ1号→クハ210 クハ2号→クハ211

クハ2両は改番直前に運転台機器を撤去の上で熊谷線に転属して形式はそのまま
客車として使用されていた。
モハ1100号も既に制御車代用となっており、これと前後して伊勢崎線から
越生線に移籍し、昭和26年には運転台の片方と電装品を撤去してクハ210形
クハ212号に改番している。
昭和29年に熊谷線が気動車化されるとクハ210号、クハ211号の2両は矢板線に転属し、
同時に越生線のクハ212号も同じく矢板線に転属し、3両が集結。
昭和30年には正式に客車化されてコハフ10形(11~13)に改められ、矢板線廃止の
昭和34年まで運用された。

唯一、電車のまま残されたデハ5号改めモハ1101号は戦後は旅客営業には就かず、
鬼怒川線で電気機関車代用で貨車の牽引を行った後、野田線で配給車として
運用された。
昭和31年からは西新井工場で入換車として運用されるようになった。
この際、木製の外板の老朽化が進んでいたことから、外側から鋼板を張って
簡易鋼製車体になっている。
昭和39年に座席の除去と復旧機材を積んでいるが、塗装の変更以外で
外観を損ねることは無かった。

こうしたことから、東武鉄道開通80周年を記念して開園した東武動物公園で
本形式を展示することが決まり、昭和56年に復元工事のために廃車された。
復元にあたっては車番を大整理前のデハ5号に戻した他、塗装や撤去した座席などの
客室設備の復元を入念に行っている。
但し、外板の鋼板や連結器はそのままとされている。
その後、東武鉄道開通90周年記念で開設された東武博物館に移設され、
現在に至っている。


○車内。吊り手のポールを支える金具などに独自の意匠が見られる。


○運転台。計器類はブレーキの圧力メーターしかない。
 今日の電車の運転台のほうがよっぽど複雑に見える。


○台車。形式はブリル-27MCB。当時の電車の台車の標準型である。
 モーターは全軸配置。


○正面アップ。左右の白い窓が行き先表示窓だが、殆ど使われていなかった模様。
 連結器の両脇の四角く張り出した部分がバッファー・リンク式連結器の
 緩衝器が付けれていた跡。


○露出した台枠とトラスバー。トラスバーは木製車体の強度では台枠中央部分の
 強度が不足するため設置されていた。鋼製車体になって台枠の強度を車体でも
 支えられるようになり、次第に廃れていった。
 また写真の様にステップ付きのドアと台枠が露出したスタイルは東武鉄道の
 戦前製電車の特徴であった。
 ドアにステップがあったのは当時の東武鉄道の長距離列車は蒸気機関車牽引の
 客車列車が主流でそれに合わせた床面の低いホームが主流だったため。


○台枠に取り付けられた日本車等東京支店の銘板。

国鉄 キハ10系気動車

2011-06-04 21:12:03 | 保存車・博物館
非電化区間の近代化促進、及び動力分散化による輸送効率化のために登場した
車両である。
昭和28年~昭和32年にかけて728両が製造された。
製造を担当した主なメーカーは東急車輛、帝国車両、日本車輛、新潟鉄工所、
汽車会社などである。

構成形式と簡単な解説は以下の通り。
キハ17形・片運転台車でエンジン1基搭載。車内は1~205号がオールボックスシート、
 206~402はデッキ寄りの座席をロングシートにしたセミクロスシートである。
 便所付き。402両製造。
キハ16形:キハ17形の便所無しバージョン。車内はセミクロス。99両製造。
キハ10形:便所付きの両運転台車。エンジンは1基。車内はセミクロス。70両製造。
 両運転台の機動力の良さと便所無しの仕様が買われ、退役後、最も多くの数が
 地方非電化私鉄へ譲渡されている。
キハ11形:キハ10形の便所付きバージョン。車内はセミクロス。74両製造(内11両は
 100番台)。
 こちらは引退後2社に払い下げられ、うち茨城交通のものは平成18年ごろまで
 運用されていた。
キハ11形100番台:キハ11形の寒冷地バージョン。北海道での液体変速式気動車実用化の
 試金石となった。ただし、客室の防寒が不十分だったため、本格的な北海道用
 気動車となるキハ12形登場後は本州へ渡っていった。
キハ12形:キハ11形100番台の欠点を見直して窓を二重にし、防寒対策を強化したもの。
 当初、デッキに仕切りが無かったが、後年装備された。
キハ18形:運転台の無い中間車。エンジン1基搭載。31両が製造された。
 車内はオールボックス(1号~15号)、それ以降はセミクロスである。トイレも無し。
 運転台が無いため、当然自走が出来ず、普通列車では頻繁に行われた編成の
 組み換えに大きな制約があったことから、気動車の利点を活かしきれなかった。
 本形式以降、国鉄が導入した気動車で完全な中間車は編成運転が基本の特急型と
 急行形に限られ、一般用は基本的に運転台装備となった。
キロハ18形:運転台の無い中間車で2等・3等合造車。エンジン1基。8両だけ製造された。
 最初の5両は国鉄は全く製造する気は無かったものであるが、千葉県と千葉市から
 「気動車にも2等車を連結せよ」と猛烈な圧力を受け、渋々投入したものである。
 残り3両は関西本線の気動車準急(後の急行「かすが」)に連結され、2等席には
 扇風機が設置され、その部分だけ天井が出っ張っていた。
 後継の急行用気動車が入るようになると客室設備が大きく劣ることから、
 昭和30年代後半に荷物用のキニ15、郵便・三等合造のキハユ15になり、キハユ15の
 一部は郵便荷物車のキユニ15に再改造された。
キハ50形:キハ17形のエンジン2基バージョンの試作車。2両製造。
 エンジン配置の都合から、車体長が22mと異様に細長い車体となってしまった。
 トイレは無し。勾配線向けに一定の成果は出したが、車体長がネックとなり、
 昭和30年代後半にエンジンを1基外してキハユニ17に改造され消滅。
キハ51形:上記の量産形式。20両製造。エンジン配置を見直して車体の長さを支障の
 無い範囲に収めた。トイレ付き。
キハユ15形:キロハ18形から改造された郵便室付き2等(←3等)合造車。2等室(→
 1等室)側妻面にあった便所と洗面所を撤去し、1等室を郵便室に改造したもの。
 6両が改造され、うち5両が客室を除去してキユニ15形に再度改造されている。
キハユニ17形:キハ50形から改造された郵便・荷物室付き2等合造車。2両が改造された。
 このうち1両は新潟駅構内で新潟地震に遭遇し、倒壊した跨線橋の下敷きになり
 大破して廃車されている。残りの1両は昭和55年まで運用された。
キハユニ18形:キハ16形から改造された郵便・荷物室付き2等合造車。8両が改造された。
 その後6両がキユニ18形に再改造された。
キハニ15形:キハ18形から改造された荷物室付き2等合造車。1両だけが改造された。
 元の車体を活かしつつ貫通型の運転台を設置したため、独自のスタイルが特徴で
 あった。
キユニ11形:キハ11形から改造された郵便荷物車。3両が改造された。
 これらの中で唯一の両運転台形式。
キユニ15形:キハユ15形から再改造された郵便荷物車。5両が改造された。
キユニ17形:キハ17形から改造された郵便荷物車。0番台と10番台があり、合わせて
 11両が改造された。違いは郵便室の執務室の構造。
キユニ18形:キハユニ18形から再改造された郵便荷物車。6両が改造された。
 荷物室と郵便室の位置が最初の3両と後の3両で真逆となっている。
キニ15形:キロハ18形から改造された荷物車。2両が改造された。運転台の向きが
 同じくキロハ18形から改造されたキユニ15形と異なり旧3等室側なので洗面所や
 便所が残されている。
キニ17形:キハ17形から改造された荷物車。5両が改造。車端部には客用時代の
 ドアや便所が残されている。
キニ55形:キハ51形から改造された荷物車。4両が改造された。
 車体が長い以外はキニ17形と同じ。
 
車体は全鋼製で軽量化を図りつつ、輸送力を確保するため、車体断面を極力小さく
したため、その当時の電車や客車に比べて幅や高さが小さい。
正面は貫通型で1両単位での連結・分割が可能なように配慮した構造となり、
以降の国鉄形気動車の標準となった(特急型を中心に例外あり)。
行き先表示は側面中央部にサボを差し込むだけで正面には設置されない。
塗装は当初が紺色に黄褐色のツートン、後にクリームと朱色のツートンとなり、
最後はタラコ色1色となった。

車内は全て4人向き合わせのボックスシート、若しくは客用ドア側付近をロングシートと
したセミクロスシートである。
当初はビニルレザー張りでシートの肉厚が薄く、背もたれは後ろに座った人の
背中の感触が伝わってくる程であったという。
また、通路側には肘掛も無く、狭い車体幅に合わせて座席の幅も狭かったことから、
居住性は悪かった。
後年、座席はモケット張りに交換されている。
側面窓は上部固定・下段上昇のいわゆるバス窓で客用ドアは片側2箇所、片引き戸である。
車体両端にドアのある構造であるが、仕切りがあるのは北海道仕様のキハ12形
だけであった。
トイレ設置車は客室内に水タンクを設置し、両運転台のキハ11・12形では
客用スペースを確保する必要から、乗務員室後方にめり込むような形で
配置され、便器も斜めに配置されている。キロハ18形の2等室(後に等級改定で
1等室)側の便所は独立した洗面所を有し、座席の間隔も広めにとられていた。

機関はDMH-17B形ディーゼルエンジンでキハ50・51形以外は1基搭載である。
国鉄の量産型気動車で初めて液体変速機を実用化し、複数の車両を総括制御
することが可能になり、国内の非電化区間へ気動車の導入が進められる
契機をつくった。
ブレーキは直通管付き空気自動ブレーキで当時の電車と同じものを採用した。
台車は軸バネ支持を下天秤式ウイングバネとしたブッシュゴム台車である。
走行安定性を確保する面から、バネのセッティングを硬めにしたが、その特性上、
どうしてもゴツゴツした乗り心地となってしまい、制動時などには激しい上下動を
伴うなど、貧弱な客室設備共々評判は芳しくなかった。
このため、後年にキハ20系などと同じウイングバネ式コイルバネ台車に交換を
実施したものがある。

北は北海道から南は九州まで幅広い地域で運用されたが、従来の大型車体でも
軽量可能な技術が確立されると、改良型であるキハ20系が登場し、本形式は
一気に陳腐化することになった。
このため、登場から10年と経たずに郵便車や荷物車に改造されたものが
存在する。
小さな車体ゆえ、車内が狭く、乗務員室も狭かったため、タブレット交換の
際には苦労が伴ったという。
老朽化による廃車は昭和53年ごろからで昭和59年にかけて全車が廃車となった。

廃車後、津軽鉄道、南部縦貫鉄道、茨城交通、鹿島臨海鉄道、加悦鉄道、
水島臨海鉄道などに譲渡されている。
このうち南部縦貫鉄道のものは動態保存されている他、加悦鉄道でも加悦鉄道広場で
静態保存されている。
茨城交通のものは21世紀を跨いで運用された。その後、新車の導入で廃車が決まり、
1両が鉄道博物館、もう1両が佐久間レールパークを経て鉄道リニア館で
保存されている。
また、鹿島臨海鉄道で運用されていたものが鹿島市内の釣堀で利用されている。

名古屋市交通局 1400形電車

2011-05-31 22:30:21 | 保存車・博物館
名古屋で開催された汎太平洋博覧会に向けて「博覧会に相応しい世界一の電車」として、
また名古屋市電の今後のスタンダードモデルとして登場した車両である。
昭和11年~昭和17年にかけて1401号~1475号の75両が製造された。
製造を担当したメーカーは日本車輛、木南車輛、新潟鉄工所である。
単行運転用のボギー車のため編成は組まない。
製造にあたっては日本車輛から技術者を顧問として招聘し、何度も図面を
引きなおした末、完成された。

車体は外側を鉄製、内装を木造とした半鋼製車体で名古屋市電では初めての張り上げ
屋根を採用した。
電動機出力の関係から軽量化に留意しつつ、曲面を多用した設計で正面に
緩やかなRがつけられているほか、側面両端ドアに接する側面窓上端にも
Rがつけられ、シンプルさと優雅さを併せ持つスタイルとなった。
本形式で採用された車体デザインは戦時中に導入された900形、1500形、1600形、
1700形、2700形や特殊構造の800形などの一部を除いて改良を加えつつも継承され、
ドアや窓の配置も本形式のものがスタンダードとなった。
塗装は上半分がクリーム、下半分がグリーンのツートンカラーで、以後の名古屋市電
標準色となった。
なお、後年のワンマン化で塗り分けの境目に赤帯を巻いた車輛も存在する。
行き先表示は正面中央上部にあり、字幕式で側面と正面の系統表示はボードを掲示する
ものである。

車内はロングシートで中ドア付近にはスタンションポールが設置されている。
ドアは片側3ドアで両端ドアが2枚片引き戸、中ドアが通常の片引き戸である。
当初は手動であったが、後年のワンマン化改造の際に自動化されている。
床は平面ではなく、台車の心皿やモーターがある部分を中心に
ドアに向かって傾斜しており、乗降客への配慮と低床化を図っている。

主制御装置は抵抗制御(直接制御方式)でブレーキは発電ブレーキと
空気自動ブレーキである。
台車はブリル式の板バネ台車で客室部分のところでも述べたとおり、
ステップ部分の低床化をはかるため、モーターが無い運転台側の車輪の
直径を小さくした独自の台車を採用している。
モーターの駆動方式は吊り掛け駆動方式で中ドア側の車軸に1基ずつ搭載している。
集電装置は当初がトロリーポール、戦後はビューゲル、またはZパンタを搭載した。

導入後、目的どおり、博覧会会場への観客輸送に用いられ、動くパビリオンとしての
役割を果たした。
その後も路線の延伸や輸送力増強で増備され、3ドア車ならではの収容力を活かし、
軍需工場への通勤輸送などに重用された。
戦争では名古屋市内が壊滅的打撃を受けたなか、戦災車は5両で他に1両が事故で
損傷したが、全て復帰された。
復帰の際、製造に手間のかかる張り上げ屋根をやめて通常の屋根とされ1500形と
そっくりになったが本形式最大の特徴である窓のRが残されたため、
判別は可能であった。

戦後は路線の延長や戦争で疲弊した旧型車両の置き換えのため、次々に新車が導入され、
1800形電車以降はカルダン駆動の高性能車が登場した。
しかし、本形式は原設計のよさから使い勝手もよく、乗務員の評判も
高かったことから、それらが登場した後も主力車両として活躍した。
地下鉄東山線開業以前は広小路線の輸送力が逼迫していたことから、池下車庫などに
集中配置され、押し寄せる乗客を捌いたが、地下鉄の延伸で利用客が減少すると
他の車庫に転属して行き、市内全域で見られるようになった。

昭和41年より港車庫所属の車両からワンマン化改造が開始され、昭和43年以降、
全車がワンマンカーに改造された。
また、港車庫下之一色分所に配置された1444号と1445号は1600形と1700形の
牙城であった下之一色線で運用され、名古屋市電で唯一、全ての路線で運用された
車両となった。
また、ワンマン化と前後して窓のアルミサッシ化などの車体改修を実施している。

市電の廃止が開始され、後輩の電車が次々と引退して行く中、昭和46年までは
全車が健在でさよなら電車でも本形式が起用されるなど、昭和49年の全線廃止まで
名古屋市電の主力車両として君臨し続けた。

引退後、昭和46年に廃車された10両が豊橋鉄道に譲渡され、モ3100形として
冷房化改造を受けるなどして平成18年まで同線の主力車両として運用されていた。
現在はモ3102号車(←1466号車)のみが車籍を残し、名古屋市電最後の稼動車と
なり、イベントカーとして使用されていたが、平成23年2月に検査期限が切れとなり、
またICカード対応の運賃箱への交換も未実施であり、今後の処遇が注目されている。
この他に数両が民間施設や自治体、博物館などで保存ないし利用された。
主な保存車としては1401号車が名古屋市科学館に1421号車がレトロでんしゃ館に
それぞれ展示されている。


○車内。中ドア付近のスタンションポールが目立つ。


○客席床面。手前の少し飛び出して丸いパーツのある部分が心皿で鉄板の部分は
 モーターの点検口。それらを中心に床にスロープが付けられている。


○側面窓のR。戦災に遭った車両ですら失うことが無かった本形式最大の特徴。


○運転台。右のボックスがワンマン機器。


○台車。左がモーター付きの車軸となり、左右で車輪の直径が異なる。

上田交通 モハ5250形

2011-05-02 22:01:52 | 保存車・博物館
上田温泉電軌(→上田丸子電鉄→上田交通→上田電鉄)が川西線(後の別所線)用に
デナ200形として導入した車両である。
昭和3年にデナ201号~デナ203号の3両が製造された。
製造を担当したメーカーは日本車輛である。
単行運転前提の両運転台車なので固定編成は組まない。

車体は内装を木造、外側とフレームを鋼鉄とした半鋼製車体である。
多少の違いはあるが、当時の地方私鉄で類似した車体を持つ車両が存在した。
正面は非貫通の3枚窓で緩くカーブを描いており、リベットの多い初期の鋼製車の
無骨さと優雅さを併せ持ったスタイルとなっている。
外側や骨組みだけとはいえ、鋼鉄を使用した部分が多く、車体強度は十分であるが、
木造車体の車両で台枠(車体の床の部分を構成するパーツ。上に車体、下に台車や
各機器が搭載される重要な部分)の強度を保つために使用したトラス棒を
本形式も装備している。
行き先表示は前と側面に板を掲示する方式である。
塗装は上半分がホワイト、下半分が紺色のツートンカラーとなっている。

車内はオールロングシートで乗務員用扉を持たないが運転室は全室構造である。
ドアは片側3箇所で全て片引き戸で閉鎖のみ自動の半自動ドアである。
側面窓は一段下降式の落とし窓で両端ドアの戸袋が楕円窓となっており、
本形式最大の特徴となっている。
戸袋窓を楕円窓とする車両は大正~昭和初期に登場した電車でよく見られたもので
あったが、戦後になると車両そのものの廃車や車体改修で急速に姿を消していった。
本形式は引退までこれを維持し続けた稀有な例である。

主制御装置は抵抗制御で間接非自動(HL)・単位スイッチ式制御装置を採用している。
ブレーキは直通式空気自動ブレーキで発電ブレーキなどの電気系ブレーキは持たない。
台車はイコライザー式の金属バネ台車でモーターの駆動方式は吊り掛け式である。
冷房はもちろん、扇風機も搭載されず、屋根上にはおわん形のベンチレータが
設置されているだけである。
集電装置は当初がトロリーポールで昭和20年にパンタグラフに交換された。

昭和18年に上田温泉電軌が丸子電鉄と戦時合併して上田丸子電鉄となったあとも
形式の変更が無かったが、昭和28年に一斉車番変更を実施して、モハ5250形となった。
ちなみに、上田交通では1500V化・東急5000系導入以前は原則的に以下のような方式に
則って附番されていた(東急からの借用車など一部を除く)。

・千の位=電動機出力
1=50馬力(37kw)以下、2=51~60馬力、3=61~70馬力、4=71~80馬力、5=80馬力以上
・百の位=制御器(マスコン)の種類
1=直接制御、2=間接非自動(HL)制御、3=間接自動(AL)制御
・十の位
両側の連結器間の全長を四捨五入した車体全長(単位はm)
1=11.5m未満、2=11.5~12.5未満、3=12.5~13.5未満、4=13.5~14.5未満
5=14.5~15.5未満、6=15.5~16.5未満、7=16.5~17.5未満、8=17.5~18.5未満
9=18.5以上

登場以来、車体更新を受けてもスタイルを変えることなく、また別所線以外の路線で
運用に就くこともなく、同線専属で運用された。
特に車体側面の「丸窓」は本形式のチャームポイントとして広く知られ、別所線の
看板車両として活躍した。
昭和61年に架線電圧の直流750V→直流1500V化、東急5000系への一斉置き換えのために
引退した。
引退後、モハ5251号とモハ5252号は別所温泉駅構内にある引込み線へ回送されて、
そのまま保存、モハ5253号は上田駅に留置された。
モハ5253号はその後の上田駅高架化に伴い、中塩田駅の留置線に移動して
そのまま放置されていたが、平成17年になって長野計器が引取りを申し出て、
補修の上で同社の丸子工場正門付近に保存された。

モハ5251号とモハ5252号はそのまま別所温泉駅にて展示されていたが、老朽化が
進行してきたため、平成22年の暮れにモハ5252号を補修して資料館として保存、
モハ5251号は解体する方針を固め、後者は引取り希望者があれば無償譲渡(搬送料は
希望者の実費)することを発表した。
これには19件の応募が寄せられ、最終的に地元のさくら国際高等学校に
譲渡された。

本形式の「丸窓」は現在も上田電鉄別所線を象徴する存在となっており、7200系電車
2連×2本に本形式を模したラッピングを施して「まるまどりーむ」号として
運行している。


○上田駅に停車中の7200系「まるまどりーむ」号。この写真では分からないが、
 側面の最も運転台側の窓に丸窓をラッピングしている。
 また内装も木目調の化粧板と赤色のシートモケットに張り替えている。
 ヘッドマークは7200系登場40周年記念の時のもの。

帝国鉄道庁 比羅夫丸型客船(模型)

2011-03-09 23:37:49 | 保存車・博物館
日本鉄道が(現在の東北本線・青い森鉄道・IGRいわて銀河鉄道を開通させた
日本最初の民鉄。明治41年国営化)青函航路で直営の航路を開通させるのに伴い、
建造されたものである。
明治41年に比羅夫丸、田村丸の2隻が就航した。
船名の由来は比羅夫丸が阿部比羅夫(飛鳥時代に蝦夷を討ち、樺太を平定した武将)、
田村丸は坂上田村麻呂(平安時代に蝦夷と陸奥の戦争を収めた武将。晩年には薬子の
変も鎮圧し、8世紀末期~9世紀初期にかけての日本を代表する武将の一人)から
取られている。
製造を担当したメーカーはイギリスのデニー・アンド・ブラザーズ社である。

船体は鋼鉄製で船首は直立型、船尾は丸型の当時の大型客船としてはオーソドックスな
スタイルをしている。
中央部に煙突、甲板前後にマストを持ち、どれも後に後退させたことから、
後年の連絡船と比べると全体に軽快なスタイルとなっている。
塗装は船体甲板までが黒、上部船体が白、煙突が象げ色で先端が黒、
そこに帝国鉄道庁を担当していた工部省の頭文字から「工」の字をエンジ色で
表記している。
なお、比羅夫丸と田村丸の区別をつけるため、比羅夫丸は白、田村丸は赤のラインを
船体側面に入れている。

客室は1等室、2等室、3等室に分けられている。
3等船室は船底部にある機関室の後方側にあり、定員を確保するため、上下2段式の
雑居室となっていた。
この上下間隔の狭い中に沢山の客を押し込む(定員254名)様から「蚕棚」と揶揄された。
後年、他の客船が就航すると上段の客室を除去している。
2等船室は上部船体の煙突より後ろ側で寝台室と座敷の雑居室で構成され、各室に
扇風機が設けられた他、蓄音機によるBGM演奏もあった。
1等船室は上部船体の煙突より前で全て区分室となったほか、更に上部に特別室を
設けていた。
特に1等は天窓採光で明るく、食堂やロビーを設けており、好評を博した。

主機関は蒸気タービンエンジンで、日本の貨客船としては初めての採用となった。
ボイラーは2基(燃料は石炭)、スクリューはタービン直結式で低速用2基と
高速用の1基の3基を備える。
最大出力3767ph、最高速度18ノットで青森と函館の間を4時間で結んだ。
しかし、高速用タービンと低速用タービンの切替が難しく、操船には苦労が
伴ったという。
また、就航当初、ブリッジは製造元のイギリスの客船では標準的だった
キャンパス張りのオープン構造であり、津軽海峡の冬には到底対応できず、
明治42年にガラス張りの密閉型のブリッジに改造されている。

新型で速度も速く、運賃も今までの民間の船より安いとあって、好評をもって
迎えられた。
当時の函館や青森では新語である「タービン」を冠した飲食店や商店が現れたほどで
あったという。
しかし、港湾施設の建設の遅れから、青森駅、函館駅に直接接岸できず、
1等・2等客は専用の汽船か艀、3等客は荷物と一緒に艀で「運ばれた」。
これは函館が明治43年、青森が大正13年の桟橋完成まで行われた。
大正2年に田村丸が座礁事故を起こしたが、死傷者は出ず、船体の損傷も少なかった
ことから、すぐに復航している。

両船が就航して大幅な輸送力の改善が図れるかに見えたが、民間の船が撤退すると
その貨客が青函連絡船に押し寄せ、到底2隻の船だけでは輸送しきれなくなっていった。
このため、義勇船(戦争になると軍艦に改装して徴用されるための船)や民間からの
傭船を集めた他、関釜航路の「壱岐丸」、舞鶴~境港間の航路で使われた
「第二阪鶴丸」など他の航路からも船をかき集めて両船のサポートにあたらせた。
大正7年に既に建造が検討されていた鉄道車両をそのまま搭載できる船までの
つなぎとして木造貨物船(青函連絡船で唯一)「竜飛丸」、「白神丸」が就航し、
本船の貨物室の一部が客室化され定員が増加した。

大正13年に車両航送が可能な「翔鳳丸」型が就航し、「翔鳳丸」と入れ替わりで
「比羅夫丸」が、「津軽丸」、「松前丸」と入れ替わりで「田村丸」がそれぞれ引退した。
引退後、「比羅夫丸」は大阪商船に売却され、大阪と徳島・小松島港を結ぶ航路で
運用された。
「田村丸」は稚内に回航されて稚泊連絡船で夏季限定で運用され、昭和4年に
函館で係船された後、「比羅夫丸」がいる大阪商船に売却されている。
その後昭和9年に2隻とも廃船となり、解体された。

東武鉄道 200形電車(日光軌道線)

2011-02-16 18:48:57 | 保存車・博物館
国鉄日光線国鉄日光駅前から馬返の間を結んでいた日光軌道線の車両近代化の促進と
輸送力増強のために登場した車両である。
昭和29年に2体連接車×6本が製造された。
製造を担当したメーカーは宇都宮車輛(現:富士重工)と汽車会社である。
編成の組み方は以下の通り。

・200形-200形

当時の法律で路面電車の連結運転は基本的に認められていなかったため、
前後の車両で車番を共通とし、1両と見做している。
これは、ほぼ同期に2体連接車として登場した東京急行電鉄デハ200形でも同様である。

車体は半鋼製で本形式の前年に登場したボギー車の100形をベースにしたものを
採用している。
正面は当時の鉄道車両デザインの流行である半流線型2枚窓の
いわゆる「湘南フェイス」であるが、正面向かって左側の窓が2段式となっており、
開放可能である。
また、先頭部分から最初のドア付近まではカーブでのオーバーハングを防ぐため、
若干、車体幅が絞られている(100形も共通)。
行き先表示は正面が字幕式、側面が札差式である。
塗装は黄緑色に側面の窓枠と側帯、車体の床より下が朱色である。

車内はロングシートで連接部分の通路を幅広のものとし、渡り板も円形で
段差の無いものを採用したことから、前後の車両で一体感のあるものとなった。
ドアの配置は2車体で片側3箇所あり、左右で非対称の配置となる。
なお、運転席横のドアは2枚引き戸、他2箇所は片引き戸である。
このほかに路面電車では珍しい、乗務員用の扉を設置している。
側面窓は2段式である。

主制御装置は抵抗制御で東武日光軌道線の電車で初めての間接自動制御方式
(電動カム軸式)を採用した。
ブレーキは勾配区間での性能向上のため、発電ブレーキ併用直通式空気自動ブレーキを
採用している。
台車は100形のものと同等の板バネ式ブリル台車を採用し、駆動方式は吊り掛け
駆動方式である。
本形式では出力を確保するため、連接台車以外の2つの台車の車軸全てにモーターを
搭載したため、100形では台車内蔵とされたブレーキシリンダーを台車の外側に
設置した(100形の場合、片方の車軸にモーターが無いのでそこにシリンダーを
装備している)。
集電装置はビューゲルで前後の車体で1基ずつ、2基が搭載された。
このビューゲルは上端部に間接を設けて架線への追随性を向上させたものと
している。

本形式の登場で団体輸送や行楽輸送向けに残っていた2両連結用の単車が
全て引退した。
これ以降はラッシュ時や団体・観光シーズンなどの多客時に、その輸送力を遺憾なく
発揮した。
本形式運用時は運転士1名と車掌2名の3人乗務体制となり、進行方向前側の車掌は
客扱い、後ろ側の車掌はドア扱いを行った。
昭和43年2月25日の日光軌道線廃線と共に全車が廃車となった。
廃車後は製造後14年と比較的新しい車両ではあったものの、引き取り手が現れず、
静態保存された203号車を除いて全車解体された。
203号はおもちゃのまち駅近くの公園で保存された後、昭和56年に東武動物公園開園に
合わせて同園に移設。
さらに平成元年に東武鉄道創立90周年を記念して開館した東武博物館に収蔵される
ことになり、同館にて保存された。
同館脇にて屋外展示されているが、入口は館内側に半ば埋め込まれるような感じで
設置されている。
また、館内から冷風を送るための風洞が側面の窓枠を雰囲気を壊さない範囲で
設置された。
なお、何回か塗りなおしを行った関係で、現役当時と塗りわけなどが微妙に異なる。


○車内。右の窓が館内から空調を送るダクトとつながっている。
 左側の座席とドアの間の隙間は車掌台でここでドア操作を行った。


○車内連接部分。車体の幅に比べてかなり広い貫通路。
 段差の無い円形の渡り板が特徴。右側はもう一つの車掌台。


○運転台。かなりシンプルな構成。右のハンドルは手ブレーキ。


○タイトル写真の反対側から撮影。路面電車では珍しい乗務員用扉がある。
 車体幅の絞りが入る部分で最初の窓と2番目の窓の間の柱が太い。
 ちなみに当地に保存されてから、リニューアルまで正面左側の2段窓の窓枠も
 オレンジに塗られていたが、現在は緑で塗りつぶされている。

東武鉄道 ED10形電気機関車

2011-01-28 21:50:10 | 保存車・博物館
東武鉄道が初めて導入した電気機関車である。現在の野田線の前身である総武鉄道と
合併するまでは東武鉄道唯一の電気機関車であった。
昭和5年に製造され、製造を担当したメーカーはイングリッシュ・エレクトリック
社である。
大正末期から昭和初期にかけて、伊勢電気鉄道、青梅鉄道、秩父鉄道、国鉄などでも
同型機が導入されている。

車体は箱型の鋼鉄製で前後にデッキを備えている。
正面は向かって左側は貫通扉、右に運転席分だけの窓という左右非対称なデザインが
特徴である。
なお、車体の側面の窓配置も機器の配置の関係で非対称である。

主制御装置は抵抗制御で電動カム軸式、2段組み合わせ、弱め界磁制御付である。
重連総括制御には対応していない。
ブレーキは空気自動式ブレーキである。
台車は板台枠台車で駆動方式は吊り掛け駆動方式である。
各台車先端にデッキが設けられ、台車と一体の構造となっていた。
この板台枠台車とは、1インチ程度の厚さの圧延鉄板を切り抜いて作られた
台車のことで縦方向の負荷に強く、溶接修理が簡単という利点がある。
反面、軸箱取り付けのために加工が難しい鋳造品を使用しなければならないこと、
開口部が少ない分、点検修理が難しいという難点も併せ持つ。

本形式は元々別の会社で使う予定だったものが、注文流れになったものを引き取って
東武鉄道に入ってきたものである。
このため、唯1機の存在で、当時の東武鉄道の他の機関車は全て蒸気機関車であり、
非電化区間もあったことから、貨物運用に就くことはなく、専ら臨時列車や
団体列車の客車牽引に用いられたという。
総武鉄道が合併した昭和19年より貨物輸送にも用いられるようになった。

昭和30年に電気機関車の増大による車番整理が行われ、本形式はED4000形4001号機と
なった。
また、車体修繕も行われ、運転席窓のHゴム支持化、保安装置設置などの改造を
受けている。
しかし、既に老朽化が進んできていたこともあり、大規模な修繕を行うことはなく、
上記以外はほぼ原型を保っていた。
昭和45年以降、貨物輸送の落ち込みで電気機関車の数に余裕が出来たこと、
他の機関車と比べて速度が遅く、居住性の面でも問題があったことから
昭和47年に廃車となった。

廃車後は近江鉄道に引き取られ、形式もナンバーもそのまま昭和48年に入籍した。
東武時代とは塗装が変わった(茶色→ブルーグレーにデッキと台枠が黄色)ことと
主要機器のうち英国製の機器の大半を国産機器に載せ換えた程度で、
他はほとんど手を加えられていない。
近江鉄道では彦根駅構内の入れ換えや貨物列車の牽引に用いられた。
昭和61年には近江鉄道での貨物輸送が廃止されたため、運用を失い、
休車となり彦根工場に留置された。
この間、博物館開館のために引き取りたいという申し出が
東武鉄道からあったが、この時は「近江鉄道としても貴重な機関車なので」と、
これを固辞している。
最終的に除籍されたのは平成16年7月であった。

平成19年より彦根工場の一角を用いて「近江鉄道ミュージアム」を開設したのに
合わせて本形式も再塗装と整備の上で展示された。

その後、東武鉄道博物館のリニューアルに伴い、近江鉄道と再び折衝を行い、
平成21年、里帰りが実現した。
東武鉄道博物館での展示に際してはナンバープレートの復元(ED10 1号機)、
塗装の復元(茶色)が行われ、同年の夏より公開されている。