水の丘交通公園

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国鉄 5500形蒸気機関車

2011-01-11 17:41:31 | 保存車・博物館
JRの前身である官設鉄道や日本鉄道、総武鉄道などが導入した明治時代を代表する
テンダー式(炭水車を連結する蒸気機関車のこと)蒸気機関車である。
明治39年の鉄道国有法以前は官設鉄道が6両、日本鉄道が60両、総武鉄道が6両
(全て東武鉄道からの譲受機)を保有し、明治42年の形式称号変更で鉄道院5500形に
包括され、5500号~5571号となった。
製造したメーカーは英国ベイヤー・ピーコック社で、その社名とテンダー機で
あることから「ピーテン」の愛称で親しまれた。
なお、同型機を東武鉄道が独自に輸入して運用している。

軸配置は2B(ボギー式の従輪台車+動輪2軸)でテンダー(炭水車)の軸配置は
3軸式である。
前部にあるシリンダーが斜めに配置され、それに沿って、側面のランボードも
第1動輪付近まで斜めに跳ね上がっている。
第1動輪の上には半円形のカバーが設けられ、その円周に沿ってメーカーの
製造プレートが設置された他、第1動輪と第2動輪の間に火室を設け、
第2動輪をキャブの真下に配置したことにより、明治期に製造された蒸気機関車の
中でも落ち着いたスタイルを誇る。
特にベイヤー・ピーコック社は自社製造の機関車のスタイルには
意を払っていたこともあり、その姿勢を垣間見ることができる。

形式番号は官設鉄道所属機が142~147号で明治31年にD6形に改められている。
日本鉄道所属機はPbt2/4形として導入され、明治27年に93~104号、明治30年に153~
188号、明治31年に189~200号と附番された。
総武鉄道のものは東武鉄道が北千住~久喜間を開業した時に導入した同型機のB1形を
明治32年と明治34年に合計6機譲り受け16~21号として使用した。
当時の東武鉄道は開業したてで利用客も少なく、導入した10機のB1形を維持するのが
資金的に困難になっていた状況であった。
一方で路線が延びたものの小型のサドルタンク機しか在籍していなかった
総武鉄道は長距離走行が可能なテンダー機を欲していたため、両社の利害が一致。
また、東武鉄道と総武鉄道に共通の役員がいたことから、円満に譲渡話が
まっとまったという。

鉄道国有法で日本鉄道と総武鉄道が国有化され、官設鉄道に両社所属の機関車も
引き継がれ、既述の通り、明治42年に鉄道院による形式称号変更で5500形に
改称・包括された。
内訳は5500~5505号が元官設鉄道機、5506~5565号が旧日本鉄道所属機、
5566~5571号が旧総武鉄道機となる。

主な運用区間は東海道本線の他、奥羽本線、北陸線、山陰本線、高崎線、
東北本線、総武本線などである。
大正12年9月1日の関東大震災の時には9両が被災したが、
幸にも廃車は発生していない。

大正14年に東武鉄道に3機が譲渡されたほか、昭和5年から本格的な廃車が
開始された。
また同年から10両をタンク式に改造して形式をB10形に改めている。
年号が昭和に替わるあたりから、既に本線運用からはほぼ撤退し、
機関区や貨物駅での入れ換え運用が主体となっていった。
また、この間に空気直通ブレーキ設置、連結器交換などの改造が行われ、
原形を保っていた車両は、消滅している。

太平洋戦争~終戦までに国鉄所有機は22機にまで減少し、東武鉄道に2両(先の譲渡を
含めて計5両)、三井三池炭鉱、寿都鉄道、日本曹達天塩鉱山、三岐鉄道、
名古屋鉄道に1機ずつが譲渡された。

終戦後は入れ換え専用となり飯田町、横浜、国府津で細々と運用されていたが、
昭和27年に鉄道開業80周年を記念して「汽笛一声」号を東京~横浜間で
運行することになり、その牽引機として当時の残存機で最も状態の良かった
5571号機が5501号機のプレートをつけて走行した。
このイベントの後、一挙に廃車が進められ、施設局扱いで4機を残すのみとなった。
昭和36年、鉄道開業90周年を記念して青梅鉄道公園を開設することになり、
本形式の5540号機がこれの保存機に選ばれ、残りは廃車され形式消滅した。

私鉄に譲渡されたものも蒸気機関車の淘汰と廃線などで廃車が進み、
概ね1960年代までには全車引退している。

本形式は80年余りの長きに渡って運用されたが、シリンダーや気筒の磨耗が
ほとんどなく、検査時のプッシング作業もほとんど必要が無かったという。
晩年、国鉄で素材を調べたが、若干、リンの含有量が多いこと以外は普通のもので
原因は特定できなかった。


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