在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
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6月7日:第26回「筑豊」から日本人と在日韓国人・朝鮮人の歴史を訪ねる会に参加して(2)

2009年08月11日 12時47分07秒 | Weblog
「麻生吉隈炭鉱跡地」からバスで飯塚市の「住友忠隈炭鉱跡」へ移動、常楽寺裏のボタ石が墓標代わりに置かれた無縁墓地、ここにも何度か訪ねて来たが今日の原中さんの話でさらに無縁墓地に対するイメージが広がっていく。犠牲者を火葬にした場所など初めて分かったことである。
 江原道から強制連行され住友忠隈炭鉱第5坑の朝鮮人寮に収容されたが、無事に逃走した結果、現在堺市美原区にお住まいの安承録さん(89歳)の話をしたい。「強制連行を考える会」の方々と朝鮮人寮跡を探し探しの旅をしたのは11年前の5月、無縁墓地では「自分も逃げなければこうなっていたかも知れない。思えば涙が出るよ。お酒をかけてあげたかった」と日焼けした優しい顔を覗くと涙を拭っておられた。常楽寺上の無縁墓地に立つと高齢で筑豊訪問が困難な安さんを思い出しながら手を合わせる。今1人で暮らす安さんのいい思い出とは、お宅に訪ねる度に、一度は話に出てくる「筑豊の強制連行を考える会」の方々の真心である。最近大阪で、安さんの事を気にかけてくれる人ができた。安さんと同じ故郷江原道旌善郡から和泉市に来られて10年になる女性だが「アボジ、アボジ」と気にかけてくれるのである。私とは韓国の古汗、道渓、舎北の旧産炭地(植民地時代に日本が開いた)を訪ねた話から意気投合した間柄である。植民地時代に日本がつくった炭鉱のことは、太白山の「石炭博物館」図録にもあるが日本で朝鮮人労働者を強制労働させたイメージといっしょである。聞慶にも博物館があり、丹陽炭鉱跡地には植民地時代の炭住が残っていた。、光州から1時間の和順炭鉱は現役で粉炭を産出し川も山も建物も灰色だった。

ところで、戦後50年から筑豊に関心を持った私は遅過ぎて、「写真万葉録筑豊」とか写真で感じること、働いた人の体験談で想像する域をでないのが情けない。大野貞光さん・大野節子さんから泊めて頂いて夜にしみじみお聞きした話は心にとまっている。もっとお話をお聞きしたいと思う日々である。
7日最後の目的地は高取焼発祥の地、直方市永満寺宅間跡へ行く1606年黒田長政が朝鮮半島から連れ帰った陶工が窯を開いた場所で「高取焼発祥の地」の記念碑が2年前に完成していた。内ケ礒に後に移転して登り窯を開くが今がダム底になっているらしい。古高取の時代、後に祖国への帰国を願い出て蟄居させられた山田窯、そして白旗から小石原へ移転、400年を超えて続いている。古高取を復興した清水筑山窯を見学、記念に色々買物もし、充実した1日を終えて福岡空港から帰阪した。大阪に帰って「炎の海を超えて」(高取静山著:平凡社)を図書館で借りて一気に読みました。50代に高取焼を小石原に復興したことは勿論ではあるが、初代八山が眠る白旗山(飯塚市幸袋)の墓地が公営住宅建設のため、撤去される現場に長男と立ち合った状況は思いが込められ言葉で表現できないものがある。まだの方は、ぜひ手にして欲しい一冊である。
お世話になった皆様、有難うございました。来年の福岡行きを楽しみにしています。

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