在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

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12月5日、現うるま市「宮森小学校Z機墜落事故」から58年・・・橿原市人教の研修会に協力しました

2017年12月06日 19時35分12秒 | Weblog
1959年6月30日、嘉手納基地を飛び立った米軍戦闘機が当時の石川市宮森小学校に墜落しました。
子どもたち11人、地域の住民6人が犠牲になりました。重軽傷を負った子は156人、全校生徒は1300人という学校でした。
さらに琉球大学4回生になって卒業前の青年が後遺症で亡くなりました。
パイロットは、パラシュートで脱出して無人でした。
宮森小学校には1965年に「仲良し地蔵」が建立されました。
毎年、鎮魂の集いがもたれています。
大阪に住む比嘉伸弘さんは、当時小学校3年生、ジェットのエンジンが突っ込んだ6年3組の下の教室でした。
家まで必死で逃げ帰った比嘉さんは、記憶がとび頭は真っ白。
2015年1月12日に亡くなった豊浜光輝先生が大阪へ証言行脚で来られた時に講演を聞き、60歳近くなってだんだん情景が思い出されてきています。
基地あるが故の被害です。 40年経って「戦闘機の整備不良だった」と新聞報道
1960年に11人の子どもたちは大阪城公園内にある「教育の塔」に合葬されました。(日本教職員組合が管理)

比嘉さんとは、15年前から和泉市で活動する「南風(フエーヌカジ)沖縄文化を伝える会」でご一緒してきました。
ギターリストです。
今では、生き残った者の責任として語り継がなければと話しておられます。
事件を映画にした「ひまわり」は、2013年に全国上映されました。比嘉さんと同じ3年生だった同級生が庭のひまわりを育てていました。
一輪の花を教室に持って入り、先生に差し出しました。先生は「とったらダメでしょう」と注意しました。「先生にあげようと思って」と言って教室を飛び出し、校庭に出た途端に戦闘機が墜落
トイレのコンクリート壁に吹き飛ばされ即死。先生は自分のひと言が死にいたらしたと悩み、50年経っても語ることができませんでした。しかし、勇気を出して証言しました。
『ひまわり』の本も出版されています。
証言集も3巻まで刊行されました。比嘉さんの証言も掲載されています。

今回は、万葉ホールで、「6・30」のDVD(証言)、比嘉さんの証言、比嘉さんを中心に平和ライブの企画でした。
会場いっぱいの参加者(教職員・PTA関係)が聞き入ってくれる2時間
研修第3部のライブは
「ていんさぐむ花」「芭蕉布」「花」「童神」「通い船」「黄金の花」「故郷」をウチナー口で唄いました。
歌の歴史的背景に少し触れる解説をいれました。

こちらも、いい時間をもらいました。
2001年から2008年まで読谷にアパートを借りて何度も通った沖縄です。
少し、住民に近い感性が私の中に芽生えているように思います。

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