雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

嫌な予感 ・ 小さな小さな物語 ( 969 )

2017-10-31 15:24:23 | 小さな小さな物語 第十七部
どうも「嫌な予感」がしてなりません。
私はどちらかといえば、霊感とかお告げといった類は今一つ信じられない方です。それが良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとかといった問題ではなく、これといった原因はないのですが、これまで生きてきたことによる体質のようなものといえます。
お寺やお宮さんへ行けば頭も下げますし手も合わせます。それなりの祈りや願い事もします。しかし、心の底から本気で頼んだのかと尋ねられると、「はい」とは答えられない部類の人間です。

当ブログで今昔物語を読み進めていますが、その中には、ほとんどの説話の中に「前世」とか「来世」について語られています。
しかし、やはりそれらについても、かなり懐疑的な気持ちを持っています。前世にしろ来世にしろ、「あれば良い」と思いますし、「あるかもしれない」という気持ちも決して少なくありません。しかし、偉大な先人たちからの伝説にはかなりのめり込む方ですが、現在共に息をしている人たちの予言などといった類にはなかなか信頼しきれないのです。

そんな私ですが、このところ、何とも「嫌な予感」がするのです。
近隣諸国の不穏な動きや、政情の不安定あるいは剛直性は、この十年の中でかなり厳しい状況にあるといえるのではないでしょうか。
いわゆる先進国をリードしてきたと考えられる国々も、この一年ばかりは難題続きです。フランスの大統領選挙は無難に乗り越えたようですが、イギリスのEU離脱問題は、これからが本番です。その過程も含めて、EUにとって試練の時が続くのではないでしょうか。
そして何よりも、世界のリーダーたるアメリカが、何だか怪しい雰囲気になってきています。
そうした中で、わが国だけは政権が安定していると思っていたのですが、どうも嫌な問題が続出しています。一つ一つは決して大事件というほどの事ではないのでしょうが、持たざる者のひがみかもしれませんが、政策の立案や遂行が少々乱雑になっているような所が散見されるような気がするのです。その政策の是非ではなく、取り扱い方が気になるのです。

いろいろなことがあるとはいえ、この七十年間、わが国は直接的な戦乱に巻き込まれることなく過ごしてきました。
ある人は平和憲法のお蔭だというかもしれませんし、ある人は使いにくい憲法を何とか御してきたからだというかもしれません。しかし、そのどちらが正しいかはともかく、我が国社会にも少なからぬひずみが生じてきているように思われるのです。
つまり、わが国周辺ばかりでなく、わが国の内部にも、何かのきっかけで大きく崩れるかもしれない部分を包含しているように思うのです。
それらが、そう遠くない日に、直接私たち国民に広く降りかかってくる形で表面化するような気がしてならないのです。実に「嫌な予感」です。
人の予言はあまり信用しない私ですが、時々「強い予感」を感じることがあるのです。
ただ、幸か不幸か、これまでのところ、私の予感はあまり当たらないようですが。

( 2017.05.19 )
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国内最古の墓 ・ 小さな小さな物語 ( 970 )

2017-10-31 15:21:58 | 小さな小さな物語 第十七部
『 旧石器時代の人骨を1000点超、少なくとも19人分確認した。』と、沖縄県立埋蔵文化財センターから19日に発表されました。
沖縄県石垣島の白保竿根田原(シラホサオネタバル)洞窟遺跡の5年間にわたる発掘調査によるものだそうで、出土量は世界最大級で、国内最古の全身骨格の人骨もあったそうです。
洞窟を墓として、風葬されたものと判断されているようです。
旧石器時代の人骨の葬送と墓域が分かるのは初で、国内最古とみられる・・・、とも説明されていました。

人骨の年代は、全身骨格がそろった人骨は2体分あり、その1体は2万7千年で国内最古となるそうです。
宇宙の誕生や地球の歴史となれば、何億年、何十億年の単位になるのでしょうが、今回発見された人骨が2万7千年前には生きていて、その生涯を終えた時点で、形式はともかく墓に葬られたということを考えると、少々夢を広げさせてくれるような気がします。

今回発見された人物が生きていたのは石垣島ですから、交通手段がないことを考えれば、現在本州に生きている私と直接つながってくると考えるのには相当無理がある感じがします。何せ、2万7千年という時間は途方もなく、例えば一世代を30年と仮定した場合、私とはざっと900世代を隔てていることになります。
畏れ多いことではありますが、天皇家といえども今上天皇は第125代とされていますから、名門だとか旧家だとかいっても、100代以前まで遡ることが出来る家系はないはずです。900代前という歴史の遠大さが偲ばれる気がします。
それに、私に限らず、現在日本列島で生きている人すべては、この人骨と血縁を求めることには無理があるようです。つまり、旧石器時代から新石器時代への変遷があり、わが国で縄文時代から弥生時代への変遷があり、とても穏やかに700世代がつながれていったとは考えられないからです。

もっとも、この人骨発見のニュースを見て、自分のルーツと考える人はまずいないことでしょう。さすがに、私とてもそのような事を考えているわけではありません。
しかし、血縁的な繋がりはともかく、900世代、あるいはそれ以上と思われる過去において、喜びや悲しみ、苦しみや恨みなどとも戦いながら、懸命に生き抜き、そして、洞窟の岩陰に葬られた人物がいたということは事実だと思うのです。
さて、私は死ねば火葬されるはずですから人骨を残すことは出来ませんが、2万7千年後の世界の人たちは、現在、つまり西暦2017年という時代に生きていた人間に思いを馳せてくれる人間はいるのでしょうかねぇ。もちろん、人間でなくてもいいのですが。

( 2017.05.22 )
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失言 ・ 小さな小さな物語 ( 971 )

2017-10-31 15:20:17 | 小さな小さな物語 第十七部
「失言」って、結構多いですよね。
国会議員をはじめ、地方議員や首長など選挙で選ばれた人たちに限った場合でも、失言云々の騒動は後を絶ちません。実につまらない物から、法的に問題のある発言、個人や団体を誹謗したり軽蔑するようなもの、さらには、失言者自身の知性を疑ってしまうようなものも少なくありません。
反対に、立場や主張が違う人からは、上げ足を取ったり、曲解するような理屈をつけて失言扱いすることも少なくないようです。

「失言」を辞書などで調べてみますと、ごく一般的と思われる説明としては、「言うべきでないことをうっかり言ってしまうこと。またその言葉」あるいは、「言ってはいけないことを不注意で言ってしまうこと」などと思われます。しかし、この二つ、微妙にニュアンスが違うと思われませんか。
また、このような説明もあります。「立場上、口にすべきでない発言をうっかりしてしまうこと」というものですが、これなどは、発言そのものが問題というより、発言者の立場そのものが問題といった感じがします。

また、実際にテレビなどで放映されるような失言問題を考えてみますと、「言わずもがな」とか、「口が滑った」とか、「調子に乗り過ぎた」といった類の同情すべき種類のものも少なくありません。
しかし、中には、これは失言の中には入らないのではないかと思われるものも結構見受けられるのは深刻といえます。つまり、「本人はどこが失言なのか分かっていない」「当然この程度のことは言える立場にあると思っている」「発言そのものが、知識不足や知性の問題と考えざるを得ないもの」「何とも説明がつけようもないもの」といった発言で、この種のものは、「失言」の範疇に入れたりすれば、失言が怒るのではないでしょうか。

しかし、立場はともかく、また社会などへの影響はともかく、私たちは生活の中で、「失言」を繰り返しているのではないでしょうか。その多くは、失言であることも認識しないまま、心ある人には密かに軽蔑され同情されているかもしれません。「沈黙は金」とか「物言えば唇寒し・・」などという言葉は、失言だらけの切なさを憂いているのでしょうか。
いずれにしても、「失言」そのものを強く非難しすぎるのはどうかと思うのです。但し、他人を傷つけたり一部の人を軽蔑するような悪意に満ちた発言は、断じて失言などではないことを承知すべきなのです。
そういえば、つい最近のことですが、ある人の情けないような「失言らしい発言」に対して、相当の立場にあると思われている人が、「あの発言は、議員失格どころか、人間失格だ」などといった意見を堂々と述べられていました。
放映されることを意識している状態で、「人間失格」などという言葉を使うのは、「失言」ではないのでしょうか。いや、悪意に満ちた言葉ですから、失言の部類には入らないのかもしれませんねぇ。

( 2017.05.25 )
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五月晴れ ・ 小さな小さな物語 ( 972 )

2017-10-31 15:17:21 | 小さな小さな物語 第十七部
朝の六時前、快晴の実に清々しい朝です。
この記事は一日前の五月二十七日に書いていますが、二、三日ぐずついたお天気の後だけに、特に空の美しさが印象的でした。
当地の日の出は四時五十分頃ですので、朝も六時にもなればすでに日差しは強くなりつつありますが、この朝は平年より気温が低いとのことでしたが、実に清々しい朝で、「すばらしい五月晴れだ」と思わずつぶやいてしまいました。

そこで、この「五月晴れ」という言葉ですが、なかなか使い方が難しい一面を持っています。
本来「五月晴れ」とは、旧暦五月の長雨、つまり梅雨の合間の強い日差しの晴れ間を指すものです。その本来の意味を強調して、ゴールデンウイークなどに「絶好の五月晴れです」と言うのは間違っているとご高説を述べられる方もあるようです。中には、新暦五月の快晴を表現する場合は「ごがつばれ」と発音すべきだという方もいるようです。そして、「さつきばれ」の「さつき」とは旧暦五月を指すので、新暦五月の晴れを「さつきばれ」と発音するのはおかしいというのです。
何だか難しい話ですが、放送局などでは、「新暦五月の『清々しい晴れ間』を『さつきばれ』と表現することを容認しているようです。
旧暦と新暦が入り混じって複雑ですが、その点、今年の場合は、新暦の五月二十六日が旧暦の五月一日にあたりますから、この数日間は大手を振って『五月晴れ(さつきばれ)』を連呼してもいいのではないでしょうか。

ところで、五月、あるいは五月晴れには、何といっても「新緑」という言葉が似合うと思われませんか。今朝(二十七日)あたり、公園などの木々の中には、かなり色が濃くなっているものもありますが、新緑真っ只中という感じでした。
さて、「新緑」という言葉は、実に清々しいものを連想させますが、この「緑」という言葉もなかなか難しい存在と言えます。緑という色は、子供のころ習った記憶が正しいとすれば、青色と黄色を混ぜ合わせると出来るわけですが、その割合によって様々な姿を見せることになります。さらに少しばかり異色の物を加えることによって、無限に近い色が生まれてきます。それは、緑に限ったことではありませんが、特に身近に感じる物が多い気がします。

「緑」という文字が色を表現する言葉として登場したのは平安時代になってからだそうです。
万葉集の中でも、例えば「あおによし」という言葉の表記を、多くは「青丹吉」とされていますが、一部では「緑丹吉」と表記されています。しかし、この場合には、独立した色という感覚で用いられている感じはあまりありません。
しかし、誤解してはならないことは、万葉の時代、さらに古い時代の人々が、「青」と「緑」の識別が出来なかったということではありません。表記という面で、緑の持つすべての色合いを青という文字に委ねていたに過ぎないのです。現在でも、「青野菜」「青葉」と言った言葉が使われていますが、私たちでも、この青という文字から複雑な色合いを連想できます。
古の人々は、青という文字から、青はもちろんのこと私たちの感性を遥かに超えた様々な緑を思い描くことが出来たのではないでしょうか。
折から、絶好の青葉若葉の季節です。古の人々の感性には及ばないまでも、滴るような緑を満喫したいと思っています。

( 2017.05.28 )
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酒も煙草も ・ 小さな小さな物語 ( 973 )

2017-10-31 14:40:31 | 小さな小さな物語 第十七部
酒にとっても煙草にとっても、どうも逆風が強いようです。
現在は、酒も煙草も民間企業が取り扱っている製品には違いないのでしょうが、どちらも、特別な税制が敷かれており、国家のチェックが強い製品であることには疑問の余地はないと思われます。
つまり、規模はともかく、国家財政の重要な一角を担いながら、その国家そのものが使用制限を掛けようとしているのですから、どうも分かりにくい面があります。

酒には、「酒は百薬の長」「酒は憂えの玉ばはき(ホウキグサ)」といった、辞書にも載っているような格言(?)がありますが、煙草となると、「煙草が似合う男」「煙が目に染みる」といったような、少々ナルシストを連想するような言葉程度で、とても格言の域までは程遠いような言葉しか浮かんできませんが、これは、私たちと接するようになってからの時間の差なのか、私たちの身体に及ぼす影響の差なのでしょうか。

酒が私たちの日常生活に悪い面を見せている部分はたくさんあります。現在政府などが大きな声を上げている要因の一つは、健康面での悪影響で、国民の医療費増大が大きな負担になっているというものがあります。親父が呑兵衛で一家が崩壊したというのは、古からの悲劇の代表ですし、酒が絡んだ犯罪は、交通事故も含めて、現在でも少ない数ではありません。なかなか犯罪として取り締まれない程度であっても、酔っ払いが他人に迷惑をかけることも少なくありません。
煙草の場合も同様で、健康被害は医学的に証明されている物だけでも少なくありませんし、昨今では、受動喫煙が深刻な問題になっています。それに、煙草が原因の火災発生は、現在でも無視できない状態です。

酒も煙草も、世界的に見れば、国家や宗教などが禁止している所がありますし、禁酒時代を経験している国家もあります。
ところが、わが国はといえば、僅かに年齢制限があるだけで、古より禁酒・禁煙草を実施したことがありません。その理由の一つには、きっと、酒にも煙草にも、精神面を中心に相応の効用を認めていたからではないでしょうか。
このところ、酒と煙草に関する問題で、政治家のとんでもない発言も出ているようですが、それ以上に、どうも政治的な思惑もちらちら見えるような部分があるのが気になります。
酒も煙草も、国家権力をあげて全面禁止にすることが出来ないのであれば、そして、国家財政の一角を担わすのであれば、その効用面も丁寧に説明し広報しなければ、不公平なように思うのですが。

( 2017.05.31 )
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みのむし騒動 ・ 小さな小さな物語 ( 974 )

2017-10-31 14:30:33 | 小さな小さな物語 第十七部
蓑虫(みのむし)で大騒ぎしています。
数日前のことですが、庭に植えているブルーベリーに蓑虫がいるのを見つけました。ブルーベリーは3本あるのですが、1本はほとんど枯れかかっていて、あとの1本は去年植えたものでまだ若木です。もう1本のかなりの実をつけてくれる木も、横には広がっていますが、背丈はせいぜい1mほどなのに、その細い枝にぶら下がっていたのです。
子供の頃にはよくお目にかかっていたように思うのですが、最近はあまり見た記憶がなく、わが家の庭で見つけたのは初めてのような気がします。
それと、私は知らなかったのですが、蓑虫は動き回るのですね。いつの間にか場所を変えているのを不思議に思っていたのですが、時々顔を出して葉っぱを食べて、その葉が少なくなると位置を変えているようなのです。あの蓑をよく動かせるものだと感心してしまいます。特に、一昨日の夜中は、当地は大荒れの天気になったのですが、今から考えてみますと、その数時間前に、ぶら下がる位置を下の方の葉の繁っている所に変えていたようなのです。
この数日、家族が交代でその位置の確認と、葉っぱの食べ具合をチェックしていて、大騒ぎなのです。

蓑虫というのは、ミノガ科のガの幼虫で、十数種類いるそうです。我が家の蓑虫が何者なのかは分からないのですが、種類によって生態は少し違うようですが、なかなかユニークな生涯を送るようです。
一般に、蓑虫のオスはサナギ期を経て羽化しますが、メスは羽化することなく、蓑の中で生涯を終えるそうです。羽化したオスも、飛び廻ってメスを求めるそうですが、口が退化していて一切食べ物を口にすることなく、ひたすらメスを求めて飛び廻るだけで生涯を終えるそうで、何だか切ないものを感じます。

『 みのむし、いとあはれなり。鬼の生みければ 親に似て これもおそろしき心ぞあらんとて 親のあしき衣ひき着せて、「いま秋風吹かむをりぞ 来んとする。待てよ」と いひおいて、逃げて往きにけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」と はかなげに鳴く、いみじうあはれなり。 』
これは、清少納言著『枕草子』から抜粋したものです。
『 みのむしはとても可哀そうです。鬼の生んだ子供なので、親に似て怖ろしい心を持っているらしく、親の粗末な着物を着せられて、「もう少しして、秋風が吹く頃には迎えに来るから、待っていなさい」と言い聞かせて、逃げて行ってしまったことも知らないで、風の音が秋らしくなってきたのを感じ、八月(旧暦)ともなれば、「ちちよ、ちちよ」と、はかなげに鳴くのは、何とも哀れなものです。 』
といった意味ですが、枕草子の中でも、私の大好きな部分です。みのむしを鬼の子とするのは、本当にそう考えていたわけではないのでしょうが、捨てられて、助けに来るはずもない親を求めて泣く声は、確かに哀れさをもよおします。
もっとも、みのむしは鳴かないそうですが、泣いている可能性はあるようにも思います。また、「ちちよ、ちちよ」は、「父よ、父よ」とも「母よ、母よ」とも、それ以外の言葉だとも諸説があるようです。

さて、わが家の蓑虫は、いつまで活動を続けてくれるのでしょうか。今のところ一匹だけのようですので、少々葉っぱを喰われてもどうという事は無いと思うのですが、「ちちよ、ちちよ」と鳴く声や、その先の越冬までも付き合っていくとなれば、なかなか大変な気もします。しかし、選んでくれたのかたまたまなのかはともかく、わが家のブルーベリーを住処にしてくれたのですから、出来るだけ大切に見守って行くことにします。

( 2017.06.03 )
  
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万全の体制など無いけれど ・ 小さな小さな物語 ( 975 )

2017-10-31 14:29:06 | 小さな小さな物語 第十七部
イギリスでテロが続いています。
被害に遭われた方には何の罪もなく、おそらく関わりさえもない中で突然の惨事に遭遇してしまったのですから、まったく同情してしまいます。イギリス政府にしても、懸命の防止策や警備体制を敷いているのでしょうが、なかなか完全な警備体制など口にするほど簡単な事ではないようです。
テロといっても、自国の外から組織的なグループが爆薬などを用いて実行するような大掛かりなものに対しては、それなりの対応は可能なのでしょうが、自国民が、それも、一人とかせいぜい二、三人で、日常生活で用いるような刃物や、自動車を凶器とするようなものに対しては、果たして防止策など可能なのでしょうか。

折から、わが国においても、「テロ等準備罪」をめぐる論戦が激しいようです。
法案の正しい名前がこれで合っているのかどうか危なっかしいのですが、反対派は完全な「共謀罪」だと主張しているようです。
国際情勢や刻々と近付いているオリンピック開催を考えれば、結構な法案だと思うわけなのですが、その実態は戦前の秘密警察を連想させるような共謀罪なのだという反対意見を聞けば、少々怖さも感じてしまいます。
しかも、断片的に流されるニュース映像をみる限り、政権側の説明に信頼しきれない部分がありますし、かといって、反対側の意見も、「茸と海藻」の差がどうなのかといった次元の質問を聞かされると、何が何だか分かりません。

テロの正しい定義は知りませんし、調べる気にもならないのですが、おそらくその歴史は、人類が集団生活を始めた頃まで遡るのではないでしょうか。
つまり、ある部分は、人間の業(ゴウ)のような部分もあって、なかなか一筋縄では解決できないような気がします。ただ、遠い昔と違って現代は、人口の集中度が大きく、破壊する武器も強大になっています。従って、「人間の業のようなものだ」などと達観して済ませられる問題ではなく、何らかの法的な規制や、それに基づく警備体制や防止体制が必要なことは確かだと思われます。

テロに限らず、イジメや重大な事故が起こった時には、「今後二度とこのような事が起こらないように・・・」「再発防止に万全の・・・」といった言葉を耳にします。まあ、当事者や責任者としてはそう言うしかないのでしょうが、言う方も聞く方も、それが完全に為されるなど思っていないのではないでしょうか。
いずれにしても、テロや、それと同等と思えるような犯罪や悪質な事故を、完全に無くすことは不可能でしょう。「万全な対策」などないのでしょう。
しかし、周囲を見る余裕もないような状態で一日一日を必死に生きている国民も多いわけですから、国家として可能な限りの安全体制や防止体制は進めてもらいたいと思うのです。

( 2017.06.06 )
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権限と忖度のせめぎ合い ・ 小さな小さな物語 ( 976 )

2017-10-31 14:27:50 | 小さな小さな物語 第十七部
相も変わらず、などといえば失礼かもしれませんが、「言った・言わない」「存在している・いや怪文書だ」等々、どちらかが根負けするのを待っているような議論が続けられているような気がします。
しかも、本来論議すべき本質からは少しずれているような気もしますし、負け犬の遠吠えのような人物の泣きごとを大々的に取り上げたり、それに対して、もう少しどっしり構えてくれればよいのにと思われるような答弁が繰り返されたりして・・・。
これ、テレビで放映されていることを考えますと、きっと、わが国のことなのでしょうねぇ。

本来国会における討議とは・・・、などと私が申し上げても詮無いことですが、意見が相違する人や陣営が討議を重ねることによって、少しでも良い政策を導きだす場であるはずだと思うのです。
しかし、残念ながら、昨今の状況のうち、テレビなどで放映されるものを見ている限り、本質部分の大半は結論が決まっていて、激しく見える論争の多くは、揚げ足取りや、個人の知識不足などを責めたてる物が多いような気がしてならないのです。攻める方も攻められる方も、どっちもどっちという感があり、少々虚しい気がします。
さらに言えば、このところは、与野党の対立というよりも、権限と忖度がせめぎ合っているような気がしてしまいます。

「忖度(ソンタク)」という言葉は、今年になってメジャーデビューしたような存在ですが、今では子供でも笑い話に使っているようですが、つい先日までは、言葉としては知っていても漢字で書ける人は少数派だったのではないでしょうか。
以前にもこの欄で書かせていただきましたが、忖度を辞書で調べてみますと、「他人の心中をおしはかること」とあります。
一方の「権限」を辞書で調べてみますと、「①公法上、国家または公共団体が法令の規定に基づいてその職権を行いうる範囲。また、その能力。 ②私法上、ある人が他人のために法令・契約に基づいてなしうる権能の範囲。」とあります。
つまり、国会などで論争されているいくつかの問題において、「忖度があったか否か」を争っている場面をよく目にしますが、全くナンセンスで、およそ一人前の社会人であれば、忖度できないような人はむしろ欠陥の有る人物ではないでしょうか。要は、それが法的にあるいは人道的に問題があるかどうかなのです。
「権限」も同様で、公的なしかるべき地位にある人に対しては、その職務を執行するに必要な権限は与えられているものなのです。職位が高くなればなるほど、権限が大きく強くなっていくのは当然のことです。職位に応じた権限を行使することは、むしろ責務を果たすことになるはずです。問題は、それが合法の範囲内かどうかという事なのです。

大きな権限を有している人の意向を忖度することは、見方によっては「ヨイショ」でしょうが、その多くは自らの職責を果たすのを有利に展開させる為に行われます。上司は権限を用いて部下に自分の意向を推進させようとしますが、微妙な問題に関しては、おそらく忖度を期待することも少なくないはずです。時には、忖度を強要するような場面があるかもしれません。
つまり、法令や職務規律が厳守されている組織であればあるほど、権限と忖度は激しくせめぎ合っているものなのです。それは、時には、法規制などの線上でのせめぎ合いになることも少なくないはずです。その機微に優れていることも、公職にある者であれ、私企業で働く者であれ、有能である一条件ではないでしょうか。
従って、「忖度があったとか無かったとか」「権限を行使したとかしなかったとか」などということは何の論点にもならず、そこに法令や規定に違反している行為があるか否か、それ以前の人間としての根源的な恥ずべき行為がなかったかどうかを問うべきではないでしょうか。

( 2017.06.09 )
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梅雨の季節 ・ 小さな小さな物語 ( 977 )

2017-10-31 14:26:23 | 小さな小さな物語 第十七部
梅雨の季節になりました。今年は、比較的地域による差の少ない梅雨入りのように思われますが、テレビの気象予報士の方の話によりますと、いつ宣言するかはなかなか難しく気象庁泣かせなのだそうです。
桜の開花宣言の場合は、事前の予想は難しいとしても、開花宣言そのものは、標準木が五つ程度の花を開かせた時点で開花宣言することになっているようですから、迷うようなことはないことになります。
梅雨入り宣言も、同様の手法で、ある時期になれば、例えば六月に入ってあらかじめ定めておく標準地で何時間以上の雨が降れば梅雨入り宣言することにするわけにはいかないのでしょうか。
これもあまり優れた方法でないかもしれませんが、ある期間、梅雨入り宣言するのを止めていた年もあるほどですから、なかなか難しい判断が必要なようです。

わが国は、古くから瑞穂の国と称したように、稲作を根源とした民族であり、田植えを促す梅雨の到来は生命線というほど重要であり、その時期を承知しておくことは大切な事でした。
今日の暦にも、「入梅」という日が記されていて、今年の場合は昨日の六月十一日でした。
この「入梅」というのは、雑節と呼ばれるものの一つで、二十四節気などと同様に、季節の移り変わりや、生活の重要な節目を伝えるためのもので、節分や八十八夜、二百十日など九つありますが、それ以外にも、小正月や盂蘭盆などが加えられることもあるようです。

暦の「入梅」は、太陽黄経が80°の時とされているようですが、江戸時代以前の暦においても、太陽の運行により定められている二十四節気を基に定められていたようですが、その日を確定させるのが現在と同様難しかったらしく、いくつか違う選定がなされたようです。
例えば、「芒種(ボウシュ・二十四節気の一つ)後の最初の丙(ヘイ、ヒノエ・十干の3番目)の日」あるいは、「芒種後の最初の壬(ジン、ミズノエ・十干の9番目)の日」としている物は、現在の暦の概ね6月10日頃になりますが、「立夏後の最初の庚(コウ、カノエ・十干の7番目)の日」という物もあり、こちらは現在の暦でいえば5月10日頃となります。
さらに、基準は二十四節気に基づいていますが、日を特定させるのに十干を用いていますから、年によって最大9日程度の差が出るわけです。
つまり、田植えが現在の私たちより遥かに重要な意味があり、季節や天候の変化に私たちより遥かに鋭敏であった先人たちにしても、「入梅」の日を確定させることは困難だったのです。

そこで提案なのですが、先に書きました「桜の開花宣言にならう」というのが駄目だとすれば、暦にある雑節の「入梅」を「梅雨入りの日」とし、雑節には入っていませんが、ほぼ1ヶ月後のあたりの日を「出梅」としてこの日を「梅雨明けの日」として固定してしまうのはどうでしょうか。
これで、「梅雨入りはいつか」とか、「梅雨入り宣言と共にカンカン照りだ」といった問題は解決してしまいますし、「入梅」を過ぎても雨が全く降らなくても、そこは私たちが得意の「暦の上では梅雨の季節ですが・・・」という呪文が使えるわけですから、万々歳じゃないでしょうか。
ただ、気象庁や気象予報士の方々のお仕事を奪うのではないかという点だけは、少々心配なのですが。

( 2017.06.12 )
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訴える力 ・ 小さな小さな物語 ( 978 )

2017-10-31 14:23:59 | 小さな小さな物語 第十七部
テレビで国会中継を見ていて、ふと思いました。自分の思いを人に訴えることはつくづく難しいことだと。
「自分の思い(考え)を訴える」というのは、「自分の思い(考え)を伝える」というのとは少し違う感じがします。
訴える力、つまり訴求力とは、辞書などでは「宣伝・広告で、買い手にうったえかける力」とありますから、私が見た国会中継は、質疑応答の場面ですから、訴求力とは少し違う性質の能力かもしれません。ただ、「もっとまじめに答えてください。テレビが入っているんですよ・・・」といった発言(正確ではないかもしれませんが)もありましたから、ほとんど同じものかもしれません。

古来、自分の思い(考え)を相手に伝えることは難しいこととされているようです。それも、伝えるばかりでなく、自分の思いに賛同させたり、それに沿って行動させることは簡単な事ではないのは誰もが経験したことなのでしょう。
それは、言葉に限らず、文章であれ、表情であれ、時には念力のようなものも含めて、様々に工夫し、その手法を後世に伝えようとしたりしています。現在、私たちは、そうした先人たちの様々な教えを文字で知ることが出来ますが、残念ながら万能薬は含まれていないようです。

政治家といえばその範囲が広くなりすぎますが、例えば国会議員に限って、その発言や文書を見た場合、ごくごく端的なもので全体を評価するのはどうかと思いますが、雄弁な人、何故国会議員などになったのかと思われるほどたどたどしい発言の人、様々おいでのようです。文書を見る機会はほとんどないのですが、語り口ではなく発言の内容そのものを文章として考えた場合には、巧拙が浮かび上がってきます。
また、どんな雄弁よりも真実を述べている場合がもっと訴求力がある、と言った人もいましたが、さて、それもきれいごとに過ぎるような気がします。

テレビでの国会中継を見ていて私が知った現実は、激しく論争になるような事柄の多くは、主義主張、あるいはそれぞれの立場などによって考えが一致しない物が多いと思われるので、どちらが真実かという事はともかく、何とか相手を説得させようとか、説得させようと追い詰めているように見せるためには、最大の武器は、声を張り上げること以外にはないような気がしてしまいます。
絶叫することで相手をおどそうというわけではないのでしょうが、説得力を高めるには、その効果はともかく、古来最大の手段だと考えられてきているような気がします。
残念ながら、ややもすれば、声の大きい人の考えが通ってしまうという事実も少なくないようですから、絶叫を咎めることは出来ないことになります。ただ、あまりにも憎々しげで、見るに耐えないような発言を止めることは出来ないのでしょうかねぇ。

( 2017.06.15 )
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