雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

心のうちの滝なれや

2022-08-31 07:59:54 | 古今和歌集の歌人たち

     『 心のうちの滝なれや 』


 思ひせく 心のうちの 滝なれや
         落つとは見れど 音のきこえぬ

              作者  三条の町

( 巻第十七 雑歌上  NO.930 )
         おもひせく こころのうちの たきなれや
                   おつとはみれど おとのきこえぬ


* 歌意は、「 つのる思いがせき止められている 心の内の滝なのでしょうか 激しく水が落ちているのは見えていますが 音は聞こえてきません 」といった、恋歌的な和歌でしょう。
ただ、この歌の詞書(コトバガキ・前書き)には、『 文徳天皇の御代に、清涼殿の台盤所で御屏風の絵をご覧になっていた時に、「滝の落ちているところが興が深い。これを題にして歌を詠め」と、お側にいた人に仰せられたので詠んだ歌 」とありますので、技巧的な歌といえます。

* 作者 三条の町(サンジョウノマチ)の本名は、紀静子(キノシズコ)です。第五十五代文徳天皇( 827 - 858 )の更衣です。 静子の生年は未詳ですが、没年は 866 年ですから、平安時代初期の女性です。
父は、正四位下右兵衛督(カミ・長官)紀名虎です。

* 静子は、文徳天皇の東宮時代に入内、第一皇子惟喬親王、第二皇子惟条親王、斎宮となる恬子内親王、斎院となる述子内親王、珍子内親王を儲けています。
このうち、惟喬親王の誕生年は 844 年なので、静子の誕生年は 830 年より以前、おそらく文徳天皇と幾つも違わない年令であったと推定されます。

* 文徳天皇は、842 年に勃発した承和の変(藤原氏が他氏を排斥に動いた最初の政変といわれ、皇太子が廃嫡された。)の後、伯父にあたる藤原良房に推されて東宮に就いています。藤原氏の実力を見せつける形での立太子でしたが、この後、文徳天皇と良房との軋轢は膨らみました。
文徳天皇は 850 年に即位し、静子も更衣の地位を得ます。
この「更衣」という地位は、後宮に入った女性の地位の一つですが、中宮あるいは皇后の次位が女御、その次が更衣となります。一般に後宮に入内した女性は女御と呼ばれ、その中から中宮や皇后が生まれれますが、更衣は、女御と呼ばれるには家柄が低いためで、納言クラス以下の家の女性が就いたようです。

* 文徳天皇は、自分の皇太子には第一皇子である惟喬親王を望んだとされていますが、母の家柄、というより生母の後見者の力の差によって、良房の娘明子が生んだ第四皇子が満一歳にもならない段階で立太子しました。後の清和天皇です。
これらのこともあって、天皇と良房の間は不仲状態が続き、天皇は、858 年に崩御しました。行年三十二歳という若さであり、急死であったことから、暗殺の噂もあったようです。 

* 三条の町と呼ばれた紀静子に関するエピソードは余り伝えられていないようです。
儲けた五人の御子は、若くして亡くなった御子もいますが、先立たれた子はなく、たとえば惟喬親王は四品という皇族としては低い地位ではありますが、常陸や上野の太守に就くなど、むしろ皇位をめぐる泥沼を避けることが出来ていたのかもしれません。
生母としての静子が、我が子が皇位に就くことにどの程度執着していたかは分かりませんが、華やかな内裏を中心とした四十年ほどの生涯は、豊かなものであったと推定したいと思っています。

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