聖徳太子 (5) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )
(聖徳太子 (4) より続く)
また、聖徳太子が難波から京に帰られる途中、片岡山の近くで飢えた人が倒れていた。
太子が乗っていた黒い小馬は、そこで止まって進もうとしない。太子は馬からおりて、この飢えた人に言葉をかけられ、紫の御衣を脱いで着せかけられ、歌を与えられた。
『 志太弖留耶 加太乎加耶末尓 伊比尓宇恵弖 布世留太比々度 阿和連於耶那志 』
( シタテルヤ カタヲカヤマニ イヒニウエテ フセルタビビト アワレオヤナシ )
( この片岡山のほとりに、食べる物もなく飢えて 倒れている旅人よ あわれなり親もいないのか )
すると、飢えた人は頭を持ち上げて、返歌を奉った。
『 伊加留加耶 度美乃乎加波乃 太衣波古曽 和加乎保岐美乃 美奈波和須礼女 』
( イカルガヤ トミノヲガハノ タエバコソ ワガヲホキミノ ミナハワスレメ )
( いかるがの地を流れる 富の緒川が絶えぬ限り 私は大君の 御名を忘れることはございません )
太子が宮に帰られた後、この人は亡くなった。太子は悲しまれ、丁重に葬らせになられた。
すると、当時の大臣らに、このことを快く思わずそしる人が七人いた。太子はその七人を呼び、「あの片岡山に行ってみよ」と命じられた。
この七人が行って墓所を見てみると、屍が無くなっていた。棺の中には香ばしい香りがしていた。これを見て、人々はたいへん驚き不思議に思った。
やがて、太子は鵤(イカルガ)の宮においでになって、お妃に、「私は、今夜、世を去るつもりだ」と仰せになり、沐浴し洗頭し、浄衣(ジョウエ)を召されて、お妃と床を並べておやすみになった。
翌朝、遅くまで起きてこられなかったので、人々が不思議に思い、寝所の戸を開いてみると、お妃と共にすでにお亡くなりになっていた。その御顔は、生きているようであった。御体からの香りがたいそう香ばしくかおっていた。
御年四十九歳であった。
お隠れになった日、黒い小馬は高くいななき続け、水も飲まず草も食べずして死んでしまった。その屍は埋葬された。
また、太子がお隠れになった日、衡山から持ち帰られた一巻の経もなくなってしまった。きっと、それを持っていかれたのであろう。
今の世に伝えられているのは、以前小野妹子が持ち帰った経の方である。
新羅より渡来の釈迦像は、今も興福寺の東金堂に安置されている。百済より渡来した弥勒の石像は、今、古京(飛鳥)の元興寺の東に安置されている。
太子がお作りになった自筆の法華経の䟽(ソ・注釈)は、今、鵤寺にある。また、太子の御道具類もその寺にある。これらは長い年月を経ているが、少しも損傷していない。
また、太子には三つの名前がある。
一つは、厩戸の皇子(ウマヤトノオウジ)。これは、厩の戸の辺りでお生まれになったからである。
二つは、八耳(ヤミミ)の皇子。これは、数人の人が一度に申し上げることをよく聞き分け、一言も漏らさず裁量なされたからである。
三つは、聖徳太子。これは、仏法を広め、人々を導かれたからである。
また、上宮太子とも申された。これは、推古天皇の御代に太子を宮廷の南に住まわせになって国政をお任せになったことによるものである。
この日本に仏法が伝わっているのは、太子の御代から広められたからである。
太子の尽力がなければ、誰が一体仏法の名を聞くことが出来ただろうか。心ある人は、必ず太子の御恩に報い奉るべきである、
となむ語り伝えたるとや。
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(聖徳太子 (4) より続く)
また、聖徳太子が難波から京に帰られる途中、片岡山の近くで飢えた人が倒れていた。
太子が乗っていた黒い小馬は、そこで止まって進もうとしない。太子は馬からおりて、この飢えた人に言葉をかけられ、紫の御衣を脱いで着せかけられ、歌を与えられた。
『 志太弖留耶 加太乎加耶末尓 伊比尓宇恵弖 布世留太比々度 阿和連於耶那志 』
( シタテルヤ カタヲカヤマニ イヒニウエテ フセルタビビト アワレオヤナシ )
( この片岡山のほとりに、食べる物もなく飢えて 倒れている旅人よ あわれなり親もいないのか )
すると、飢えた人は頭を持ち上げて、返歌を奉った。
『 伊加留加耶 度美乃乎加波乃 太衣波古曽 和加乎保岐美乃 美奈波和須礼女 』
( イカルガヤ トミノヲガハノ タエバコソ ワガヲホキミノ ミナハワスレメ )
( いかるがの地を流れる 富の緒川が絶えぬ限り 私は大君の 御名を忘れることはございません )
太子が宮に帰られた後、この人は亡くなった。太子は悲しまれ、丁重に葬らせになられた。
すると、当時の大臣らに、このことを快く思わずそしる人が七人いた。太子はその七人を呼び、「あの片岡山に行ってみよ」と命じられた。
この七人が行って墓所を見てみると、屍が無くなっていた。棺の中には香ばしい香りがしていた。これを見て、人々はたいへん驚き不思議に思った。
やがて、太子は鵤(イカルガ)の宮においでになって、お妃に、「私は、今夜、世を去るつもりだ」と仰せになり、沐浴し洗頭し、浄衣(ジョウエ)を召されて、お妃と床を並べておやすみになった。
翌朝、遅くまで起きてこられなかったので、人々が不思議に思い、寝所の戸を開いてみると、お妃と共にすでにお亡くなりになっていた。その御顔は、生きているようであった。御体からの香りがたいそう香ばしくかおっていた。
御年四十九歳であった。
お隠れになった日、黒い小馬は高くいななき続け、水も飲まず草も食べずして死んでしまった。その屍は埋葬された。
また、太子がお隠れになった日、衡山から持ち帰られた一巻の経もなくなってしまった。きっと、それを持っていかれたのであろう。
今の世に伝えられているのは、以前小野妹子が持ち帰った経の方である。
新羅より渡来の釈迦像は、今も興福寺の東金堂に安置されている。百済より渡来した弥勒の石像は、今、古京(飛鳥)の元興寺の東に安置されている。
太子がお作りになった自筆の法華経の䟽(ソ・注釈)は、今、鵤寺にある。また、太子の御道具類もその寺にある。これらは長い年月を経ているが、少しも損傷していない。
また、太子には三つの名前がある。
一つは、厩戸の皇子(ウマヤトノオウジ)。これは、厩の戸の辺りでお生まれになったからである。
二つは、八耳(ヤミミ)の皇子。これは、数人の人が一度に申し上げることをよく聞き分け、一言も漏らさず裁量なされたからである。
三つは、聖徳太子。これは、仏法を広め、人々を導かれたからである。
また、上宮太子とも申された。これは、推古天皇の御代に太子を宮廷の南に住まわせになって国政をお任せになったことによるものである。
この日本に仏法が伝わっているのは、太子の御代から広められたからである。
太子の尽力がなければ、誰が一体仏法の名を聞くことが出来ただろうか。心ある人は、必ず太子の御恩に報い奉るべきである、
となむ語り伝えたるとや。
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