運命紀行
戦国大名登場
戦国大名の定義を、戦国時代に登場してきた大名のうち、守護職から大名化したものではなく、いわゆる下剋上といわれるような武力をもって守護職などの権力者を倒して領国を築き上げて大名となった者とした場合、最初に登場してきた戦国大名とは、いったい誰なのか。
戦国時代の始まりを応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱とするならば、その登場は、この年以降ということになる。この大乱は、京都を中心として展開されたが、その広がりは関東から中国地方にまで及んでおり、それを考えるとこの戦に関わっている人物から最初の戦国大名が登場してきたと考えられる。
応仁の乱の両軍は、京都における本陣の位置から東軍・西軍と呼ばれることになるが、双方の大将である細川勝元と山名宗全の両雄は、共に数カ国の守護職を兼ねる人物であり、いわゆる守護大名であり、戦国期に入って大名化したわけではない。
東西両陣営には各国・各家の有力武士団が軍勢を引き連れて京都に上っているが、先に述べたように東西というのは領国の位置を示しているわけではないので、ほぼ全国の豪族たちが繁栄と生き残りをかけて参戦しており、一族一門が両陣営に分かれている例も多数見られる。
それら豪族たちの多くは、いわゆる守護大名であるが、その中には守護代や代官などが守護職の権限を振り払って、あるいは打倒して、大きく勢力を伸ばした者も少なくない。そのような人物こそが、いわゆる戦国大名と呼ばれる存在になって行ったのである。
そして、その中で最も早く、最も目覚ましい勢いで強大な勢力を築き上げた者、すなわち、最初の戦国大名とみられる人物は、朝倉弾正左衛門尉孝景ではないだろうか。
朝倉孝景(アサクラタカカゲ)は、越前朝倉氏の第七代当主である。なお第十代当主も孝景を名乗っているが、本稿では、孝景とは第七代当主である弾正左衛門尉孝景を指すものとご了解いただきたい。また、その名乗りも、何度も変えているようであるが、年代に関わらず孝景とさせていただく。
さらに、この孝景を越前朝倉氏の初代とする考え方も根強いことも記しておく。
朝倉氏の祖先は、日下部氏の嫡流とされている。
日下部氏は、源平の時代以前から但馬国を拠点とする大武士団として繁栄していた。朝倉氏は、但馬国養父郡朝倉(現在の兵庫県養父市)を本拠地としたから朝倉氏を名乗ることになったが、日下部氏の嫡流である。
越前朝倉氏はその支流にあたる豪族として越前に一定の勢力を有するようになっていった。そして、南北朝時代を経て、越前国守護である斯波氏の重臣となり勢力を強めていった。
孝景の生年は応永三十五年(1428)である。
南北朝の合一が実現してから三十五年ほど経った頃で、室町幕府としては比較的落ち着いた時代ともいえるが、その内部では、将軍家内部や各管領家や有力守護間の勢力争いは激化しつつあり、さらには管領家を始めとした家内の家督争いが多発してきていて、応仁の乱へと向かう時代でもあった。
孝景は、二十四歳の時に父・家景を亡くしたが、第五代当主であった祖父・教景が健在であったので、その補佐も受け大きく飛躍してゆくことになる。
長祿二年(1458)に始まった越前国守護斯波義敏と守護代甲斐常治の合戦では、孝景は守護代側に与し、その主戦力として働いている。
長祿三年八月の足羽郡和田荘の戦いでは、守護側の堀江利真(義兄・姉の夫)、朝倉将景(叔父であり妻の夫)らを敗死させ、守護代側を勝利に導いている。
越前国における孝景の存在感は高まって行ったが、このあたりの戦いは、骨肉相食むまさに下剋上と呼ばれるに相応しい凄まじいものであった。
さらに、守護代側の当事者である甲斐常治が和田荘での戦いの翌日に亡くなったため、孝景は一方の大将格になってしまった。
さらに、相手側の斯波義敏が関東出兵をめぐって将軍足利義政の怒りを受け、まだ三歳の嫡男松王丸に守護職を譲って、周防国に没落するという事件が出来した。
しかし、三歳で守護職が務まるわけもなく、寛正二年(1461)八月、足利氏庶流である堀越公方足利政和の執事である渋川義鏡の子息、斯波義廉が斯波氏の家督を奪った。
この交替劇には、孝景も山名宗全と組んで動いたという説もある。
ただこの頃は、孝景は甲斐常治の嫡子・甲斐敏光と共に、同じく斯波氏が守護職の地位にあった遠江国に、今川範将の起こした一揆を鎮圧するため相当期間出陣していたので、斯波氏の家督云々に関与したかどうかはよく分からない。
しかし、その義廉も文正元年(1466)七月には斯波氏の家督を追われ、没落していた義敏が斯波氏惣領に復帰した。幕府政所の執事伊勢貞親が肩入れしたからである。
伊勢貞親の行動は、自分の妾と義敏の妾が姉妹であったためとも、義廉の父・義鏡が政争に敗れたため義廉の利用価値がなくなったためとも言われている。
だが、この動きに反発した孝景と山名宗全は文正の政変と呼ばれる攻撃に出て、伊勢貞親・李瑍真蘂(キケイシンズイ・臨済宗の僧)・赤松政則らを京都から追い払い、再び義廉を斯波氏の惣領に復帰させた。
さらに、斯波氏ばかりでなく足利将軍家や畠山氏にも深刻な家督争いが起こっており、時代は応仁の乱へと突入していく。
応仁元年(1467)、孝景は主家である斯波義廉と共に、これまでも関わりの深い西軍と呼ばれることになる山名宗全側に属し、御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなど応仁の乱の幕開けともいうべき主要な合戦で活躍している。
伏見稲荷に籠って西軍を苦しめていた敵の足軽大将・骨皮道賢を討ち取ったのも孝景である。この足軽大将は、何ともふざけたような名前であるが、敵の大将細川勝元が金銭で雇った傭兵であったらしい。
京都の大半を荒廃させた戦いはやがて膠着状態になって行くが、孝景は魚住景貞を使者として密かに東軍の浦上則宗と接触し、文明三年(1471)五月、将軍足利義政及び敵の大将細川勝元から越前国の守護職行使の密約を受けて東軍側に寝返ったのである。
孝景は直ちに越前国の掌握に動いた。
当然ながら、元服して斯波義寛となった松王丸や、甲斐敏光、二宮氏の激しい抵抗を受けることになった。最初は苦戦することが多く敗戦も経験しているが、やがて連戦連勝となり、越前一国を手中に収め、守護に任じられたのである。
最初の戦国大名が華々しく誕生したのである。
* * *
かつて、戦国大名あるいは下剋上という言葉に対して第一に挙げられる人物は、北条早雲だったように思われる。
一介の素浪人から成り上がっていって、伊豆国を手中に入れ、小田原に居城を築き広く関東を制圧したという物語は、立志伝として痛快なものではある。また、この北条早雲こそが戦国大名の第一号であって、早雲の伊豆討ち入りをもって戦国時代が始まったという考え方も一部にあったようだ。
しかし、早雲は決して一介の浪人などではなく、伊勢新九郎盛時という由緒正しい人物である。本稿にも登場している伊勢貞親らと共に幕政に加わっていた伊勢盛定の嫡男なのである。(異説もある)
ただ、伊勢貞親が京都を追われた時には同時に追放されている可能性が高いので、早雲が駿河に姿を現した時、一介の素浪人だったというのは事実と考えられる。
いずれにしても、北条早雲が伊豆討ち入りを果たしたのは、明応二年(1493)のことなので、朝倉孝景が越前一国を手中にした文明三年(1471)よりかなり後のことである。
孝景も朝倉の家督を継いだ時には、すでに豪族として都にも知られた存在であった。
しかし、その後の活躍ぶりは凄まじいもので、主な合戦だけでも二十回を超えており、それも当時の戦いは大将自ら槍や刀を振るっての激しいものであったと考えられる。応仁の乱というわが国全土で敵味方が激しく入れ替わる中、裏切りも裏切られることも経験しながら、ついには越前一国を手中にしたのである。
孝景は、主君にあたる斯波氏から越前国を奪った形であるが、当時の斯波氏は越前・遠江・尾張の三国の守護職を兼ねていた。そこからは、いわゆる守護代として甲斐・朝倉・尾張の三氏が台頭してきて、朝倉氏は越前を手中にし、尾張は織田氏が手中にして有力な戦国大名に育っていったのである。甲斐氏は孝景に追われる形で遠江に勢力を張ろうとしたが、駿河の今川氏が強力で遠江にも勢力を及ぼしており、甲斐氏は戦国大名として台頭することは出来なかった。
隆景と朝倉軍の勇猛ぶりは抜きん出ていたらしく、越前を手中に収める過程を中心に、当時の権力層である公家や寺社の荘園を強引に奪い取って行ったようである。
前中納言であった甘露寺親長は日記の中で、孝景のことを「天下悪事始行の張本」と述べており、孝景の死去を知った時には「天下一の極悪人が死んだことは、近年まれにみる慶事」とまで書き残しているのである。
しかし、その一方で、武勇に優れた人物でありながら、家臣や兵卒に対しては気遣いの行き届いた人物だとも伝えられている。兵卒とさえ共に食事をしたり、酒を飲み交わしたという。傷ついた者には治療に尽くし、死を悼む心は厚く、家臣たちからの人望は高かったようである。
また、連歌や和歌にも親しんでいたとされ、「孝景十七ケ条」という家訓も残している。
それによれば、合理的な考え方の持ち主だったらしく、「槍や刀は、名槍・名刀など必要なく、普通の物を備えておくこと」「合戦や城攻めには、吉日や方角などの吉凶に関係なく、臨機応変の策略を立てることが大事」「歴代の家であっても、無能な者を奉行にしてはならない」などと諭している。どこか、織田信長の考えに類似しているように思われる。
孝景は、越前国を手中にしてから十年ほど後の文明十三年(1481)七月、五十四歳で亡くなった。享年五十四歳であった。
その跡は嫡男の氏景が継いだが、叔父にあたる孝景の弟三人がよく補佐し、領国を盤石のものにしていった。
しかし、孝景の四代後の義景は、天正元年(1573)織田信長により亡ぼされ、越前朝倉氏は滅亡する。猛々しく越前を手にした孝景の子孫は、最も雅やかな大名として亡びていったのである。
越前朝倉氏は、孝景を初代とし義景を五代とすることも多い。
そのように考えるならば、越前朝倉氏は、戦国時代の幕開けと共に台頭してきて、戦国の世を治めようとする織田信長の台頭と共に滅び去ったともいえ、何とも感慨ひとしおである。
( 完 )
戦国大名登場
戦国大名の定義を、戦国時代に登場してきた大名のうち、守護職から大名化したものではなく、いわゆる下剋上といわれるような武力をもって守護職などの権力者を倒して領国を築き上げて大名となった者とした場合、最初に登場してきた戦国大名とは、いったい誰なのか。
戦国時代の始まりを応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱とするならば、その登場は、この年以降ということになる。この大乱は、京都を中心として展開されたが、その広がりは関東から中国地方にまで及んでおり、それを考えるとこの戦に関わっている人物から最初の戦国大名が登場してきたと考えられる。
応仁の乱の両軍は、京都における本陣の位置から東軍・西軍と呼ばれることになるが、双方の大将である細川勝元と山名宗全の両雄は、共に数カ国の守護職を兼ねる人物であり、いわゆる守護大名であり、戦国期に入って大名化したわけではない。
東西両陣営には各国・各家の有力武士団が軍勢を引き連れて京都に上っているが、先に述べたように東西というのは領国の位置を示しているわけではないので、ほぼ全国の豪族たちが繁栄と生き残りをかけて参戦しており、一族一門が両陣営に分かれている例も多数見られる。
それら豪族たちの多くは、いわゆる守護大名であるが、その中には守護代や代官などが守護職の権限を振り払って、あるいは打倒して、大きく勢力を伸ばした者も少なくない。そのような人物こそが、いわゆる戦国大名と呼ばれる存在になって行ったのである。
そして、その中で最も早く、最も目覚ましい勢いで強大な勢力を築き上げた者、すなわち、最初の戦国大名とみられる人物は、朝倉弾正左衛門尉孝景ではないだろうか。
朝倉孝景(アサクラタカカゲ)は、越前朝倉氏の第七代当主である。なお第十代当主も孝景を名乗っているが、本稿では、孝景とは第七代当主である弾正左衛門尉孝景を指すものとご了解いただきたい。また、その名乗りも、何度も変えているようであるが、年代に関わらず孝景とさせていただく。
さらに、この孝景を越前朝倉氏の初代とする考え方も根強いことも記しておく。
朝倉氏の祖先は、日下部氏の嫡流とされている。
日下部氏は、源平の時代以前から但馬国を拠点とする大武士団として繁栄していた。朝倉氏は、但馬国養父郡朝倉(現在の兵庫県養父市)を本拠地としたから朝倉氏を名乗ることになったが、日下部氏の嫡流である。
越前朝倉氏はその支流にあたる豪族として越前に一定の勢力を有するようになっていった。そして、南北朝時代を経て、越前国守護である斯波氏の重臣となり勢力を強めていった。
孝景の生年は応永三十五年(1428)である。
南北朝の合一が実現してから三十五年ほど経った頃で、室町幕府としては比較的落ち着いた時代ともいえるが、その内部では、将軍家内部や各管領家や有力守護間の勢力争いは激化しつつあり、さらには管領家を始めとした家内の家督争いが多発してきていて、応仁の乱へと向かう時代でもあった。
孝景は、二十四歳の時に父・家景を亡くしたが、第五代当主であった祖父・教景が健在であったので、その補佐も受け大きく飛躍してゆくことになる。
長祿二年(1458)に始まった越前国守護斯波義敏と守護代甲斐常治の合戦では、孝景は守護代側に与し、その主戦力として働いている。
長祿三年八月の足羽郡和田荘の戦いでは、守護側の堀江利真(義兄・姉の夫)、朝倉将景(叔父であり妻の夫)らを敗死させ、守護代側を勝利に導いている。
越前国における孝景の存在感は高まって行ったが、このあたりの戦いは、骨肉相食むまさに下剋上と呼ばれるに相応しい凄まじいものであった。
さらに、守護代側の当事者である甲斐常治が和田荘での戦いの翌日に亡くなったため、孝景は一方の大将格になってしまった。
さらに、相手側の斯波義敏が関東出兵をめぐって将軍足利義政の怒りを受け、まだ三歳の嫡男松王丸に守護職を譲って、周防国に没落するという事件が出来した。
しかし、三歳で守護職が務まるわけもなく、寛正二年(1461)八月、足利氏庶流である堀越公方足利政和の執事である渋川義鏡の子息、斯波義廉が斯波氏の家督を奪った。
この交替劇には、孝景も山名宗全と組んで動いたという説もある。
ただこの頃は、孝景は甲斐常治の嫡子・甲斐敏光と共に、同じく斯波氏が守護職の地位にあった遠江国に、今川範将の起こした一揆を鎮圧するため相当期間出陣していたので、斯波氏の家督云々に関与したかどうかはよく分からない。
しかし、その義廉も文正元年(1466)七月には斯波氏の家督を追われ、没落していた義敏が斯波氏惣領に復帰した。幕府政所の執事伊勢貞親が肩入れしたからである。
伊勢貞親の行動は、自分の妾と義敏の妾が姉妹であったためとも、義廉の父・義鏡が政争に敗れたため義廉の利用価値がなくなったためとも言われている。
だが、この動きに反発した孝景と山名宗全は文正の政変と呼ばれる攻撃に出て、伊勢貞親・李瑍真蘂(キケイシンズイ・臨済宗の僧)・赤松政則らを京都から追い払い、再び義廉を斯波氏の惣領に復帰させた。
さらに、斯波氏ばかりでなく足利将軍家や畠山氏にも深刻な家督争いが起こっており、時代は応仁の乱へと突入していく。
応仁元年(1467)、孝景は主家である斯波義廉と共に、これまでも関わりの深い西軍と呼ばれることになる山名宗全側に属し、御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなど応仁の乱の幕開けともいうべき主要な合戦で活躍している。
伏見稲荷に籠って西軍を苦しめていた敵の足軽大将・骨皮道賢を討ち取ったのも孝景である。この足軽大将は、何ともふざけたような名前であるが、敵の大将細川勝元が金銭で雇った傭兵であったらしい。
京都の大半を荒廃させた戦いはやがて膠着状態になって行くが、孝景は魚住景貞を使者として密かに東軍の浦上則宗と接触し、文明三年(1471)五月、将軍足利義政及び敵の大将細川勝元から越前国の守護職行使の密約を受けて東軍側に寝返ったのである。
孝景は直ちに越前国の掌握に動いた。
当然ながら、元服して斯波義寛となった松王丸や、甲斐敏光、二宮氏の激しい抵抗を受けることになった。最初は苦戦することが多く敗戦も経験しているが、やがて連戦連勝となり、越前一国を手中に収め、守護に任じられたのである。
最初の戦国大名が華々しく誕生したのである。
* * *
かつて、戦国大名あるいは下剋上という言葉に対して第一に挙げられる人物は、北条早雲だったように思われる。
一介の素浪人から成り上がっていって、伊豆国を手中に入れ、小田原に居城を築き広く関東を制圧したという物語は、立志伝として痛快なものではある。また、この北条早雲こそが戦国大名の第一号であって、早雲の伊豆討ち入りをもって戦国時代が始まったという考え方も一部にあったようだ。
しかし、早雲は決して一介の浪人などではなく、伊勢新九郎盛時という由緒正しい人物である。本稿にも登場している伊勢貞親らと共に幕政に加わっていた伊勢盛定の嫡男なのである。(異説もある)
ただ、伊勢貞親が京都を追われた時には同時に追放されている可能性が高いので、早雲が駿河に姿を現した時、一介の素浪人だったというのは事実と考えられる。
いずれにしても、北条早雲が伊豆討ち入りを果たしたのは、明応二年(1493)のことなので、朝倉孝景が越前一国を手中にした文明三年(1471)よりかなり後のことである。
孝景も朝倉の家督を継いだ時には、すでに豪族として都にも知られた存在であった。
しかし、その後の活躍ぶりは凄まじいもので、主な合戦だけでも二十回を超えており、それも当時の戦いは大将自ら槍や刀を振るっての激しいものであったと考えられる。応仁の乱というわが国全土で敵味方が激しく入れ替わる中、裏切りも裏切られることも経験しながら、ついには越前一国を手中にしたのである。
孝景は、主君にあたる斯波氏から越前国を奪った形であるが、当時の斯波氏は越前・遠江・尾張の三国の守護職を兼ねていた。そこからは、いわゆる守護代として甲斐・朝倉・尾張の三氏が台頭してきて、朝倉氏は越前を手中にし、尾張は織田氏が手中にして有力な戦国大名に育っていったのである。甲斐氏は孝景に追われる形で遠江に勢力を張ろうとしたが、駿河の今川氏が強力で遠江にも勢力を及ぼしており、甲斐氏は戦国大名として台頭することは出来なかった。
隆景と朝倉軍の勇猛ぶりは抜きん出ていたらしく、越前を手中に収める過程を中心に、当時の権力層である公家や寺社の荘園を強引に奪い取って行ったようである。
前中納言であった甘露寺親長は日記の中で、孝景のことを「天下悪事始行の張本」と述べており、孝景の死去を知った時には「天下一の極悪人が死んだことは、近年まれにみる慶事」とまで書き残しているのである。
しかし、その一方で、武勇に優れた人物でありながら、家臣や兵卒に対しては気遣いの行き届いた人物だとも伝えられている。兵卒とさえ共に食事をしたり、酒を飲み交わしたという。傷ついた者には治療に尽くし、死を悼む心は厚く、家臣たちからの人望は高かったようである。
また、連歌や和歌にも親しんでいたとされ、「孝景十七ケ条」という家訓も残している。
それによれば、合理的な考え方の持ち主だったらしく、「槍や刀は、名槍・名刀など必要なく、普通の物を備えておくこと」「合戦や城攻めには、吉日や方角などの吉凶に関係なく、臨機応変の策略を立てることが大事」「歴代の家であっても、無能な者を奉行にしてはならない」などと諭している。どこか、織田信長の考えに類似しているように思われる。
孝景は、越前国を手中にしてから十年ほど後の文明十三年(1481)七月、五十四歳で亡くなった。享年五十四歳であった。
その跡は嫡男の氏景が継いだが、叔父にあたる孝景の弟三人がよく補佐し、領国を盤石のものにしていった。
しかし、孝景の四代後の義景は、天正元年(1573)織田信長により亡ぼされ、越前朝倉氏は滅亡する。猛々しく越前を手にした孝景の子孫は、最も雅やかな大名として亡びていったのである。
越前朝倉氏は、孝景を初代とし義景を五代とすることも多い。
そのように考えるならば、越前朝倉氏は、戦国時代の幕開けと共に台頭してきて、戦国の世を治めようとする織田信長の台頭と共に滅び去ったともいえ、何とも感慨ひとしおである。
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