末の露 もとの雫や 世の中の
後れ先立つ ためしなるらん
作者 僧正遍昭
( No.757 巻第八 哀傷歌 )
すえのつゆ もとのしづくや よのなかの
おくれさきだつ ためしなるらん
* 作者は、平安初期の貴族、僧侶、歌人である。( 816 - 890 )享年七十五歳。
* 歌意は、「 草木の葉の先の露と 根元のしずくが この世の中の 人が遅れて死に 先立って死ぬことを
示している証なのだろうか 」と、比較的分かりやすい和歌と思われる。
ごく平凡な自然の姿から、人の世の無常を詠んだものであろうが、「巻第八 哀傷歌」の巻頭に選ばれているのは、それだけこの和歌の評価が高かったことになるが、むしろ、作者の僧正遍照(ソウジョウヘンジョウ)が歌人として存在感が大きかったと思われるのである。
* 遍照の俗名は、良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)。桓武天皇の孫にあたる血統を持つ人物である。
遍照の父良岑安世は、桓武天皇の皇子として誕生したが、母(百済永継)の身分が低いため親王宣下を受けることが出来ず、十九歳の頃に良岑朝臣姓を賜って臣籍降下した人物である。
母の永継も、数奇な経歴の持ち主である。渡来系の下級貴族(父は正五位下)の出自であるが、最初藤原内麻呂に嫁ぎ、真夏・冬嗣を儲けている。その後、桓武天皇の後宮に仕え、天皇の寵愛を受けることになり皇子を儲けたが、出自のためか正妃となることは出来なかった。
* 出自に比べて、官人としては恵まれたものではなかったようだ。もちろん、本人の能力ということもあろうが、桓武天皇には多くの皇子・皇女がいたので、臣籍降下した皇子の子供では、特別な配慮はなされなかったらしい。
ただ、仁明天皇(第五十四代。在位期間 833-850 )には可愛がられたらしい。蔵人として仕え、従五位上左近衛少将まで昇ったが、850年に仁明天皇が崩御すると、出家している。
*僧籍にあっては、僧正の地位に昇っているので、七十五歳で崩御するまでの生活は充実したものであったように推定される。また、歌人としては、当時の評価は極めて高いものだったようである。その証左の一つは、六歌仙、三十六歌仙に選ばれている。また、歌僧という位置づけを確立させた先駆者の一人と評価されている。
* 六歌仙というのは、わが国最初の勅撰和歌集である古今和歌集の仮名序において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として名を挙げられた歌人を指す。すなわち、在原業平・僧正遍照・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀・小野小町の六人である。紀貫之の遍照評は高いものではないようであるが、当時を代表する歌人の一人と評価されていたことは確かであろう。
三十六歌仙は、平安中期の歌人・文化人であり大納言でもある藤原公任が選出したもので、遍照没後百年ほど後のことである。
* 歌人としての僧正遍照は、現代においてもよく知られている。その大きな理由は、小倉百人一首に入っていることと考えられる。
『 あまつ風 雲のかよひぢ 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめん 』
この和歌のフアンは多く、小倉百人一首の中で人気投票をすれば、おそらく高位に入るのではないだろうか。
* 桓武天皇は多くの皇子・皇女を儲けたことが伝えられている。その子供たちは様々な生涯を送ったのであろうが、僧正遍照は恵まれた待遇を与えられなかった一人といえる。しかし、現代人にとっては、最も認知されている一人といえるのではないだろうか。
☆ ☆ ☆
後れ先立つ ためしなるらん
作者 僧正遍昭
( No.757 巻第八 哀傷歌 )
すえのつゆ もとのしづくや よのなかの
おくれさきだつ ためしなるらん
* 作者は、平安初期の貴族、僧侶、歌人である。( 816 - 890 )享年七十五歳。
* 歌意は、「 草木の葉の先の露と 根元のしずくが この世の中の 人が遅れて死に 先立って死ぬことを
示している証なのだろうか 」と、比較的分かりやすい和歌と思われる。
ごく平凡な自然の姿から、人の世の無常を詠んだものであろうが、「巻第八 哀傷歌」の巻頭に選ばれているのは、それだけこの和歌の評価が高かったことになるが、むしろ、作者の僧正遍照(ソウジョウヘンジョウ)が歌人として存在感が大きかったと思われるのである。
* 遍照の俗名は、良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)。桓武天皇の孫にあたる血統を持つ人物である。
遍照の父良岑安世は、桓武天皇の皇子として誕生したが、母(百済永継)の身分が低いため親王宣下を受けることが出来ず、十九歳の頃に良岑朝臣姓を賜って臣籍降下した人物である。
母の永継も、数奇な経歴の持ち主である。渡来系の下級貴族(父は正五位下)の出自であるが、最初藤原内麻呂に嫁ぎ、真夏・冬嗣を儲けている。その後、桓武天皇の後宮に仕え、天皇の寵愛を受けることになり皇子を儲けたが、出自のためか正妃となることは出来なかった。
* 出自に比べて、官人としては恵まれたものではなかったようだ。もちろん、本人の能力ということもあろうが、桓武天皇には多くの皇子・皇女がいたので、臣籍降下した皇子の子供では、特別な配慮はなされなかったらしい。
ただ、仁明天皇(第五十四代。在位期間 833-850 )には可愛がられたらしい。蔵人として仕え、従五位上左近衛少将まで昇ったが、850年に仁明天皇が崩御すると、出家している。
*僧籍にあっては、僧正の地位に昇っているので、七十五歳で崩御するまでの生活は充実したものであったように推定される。また、歌人としては、当時の評価は極めて高いものだったようである。その証左の一つは、六歌仙、三十六歌仙に選ばれている。また、歌僧という位置づけを確立させた先駆者の一人と評価されている。
* 六歌仙というのは、わが国最初の勅撰和歌集である古今和歌集の仮名序において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として名を挙げられた歌人を指す。すなわち、在原業平・僧正遍照・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀・小野小町の六人である。紀貫之の遍照評は高いものではないようであるが、当時を代表する歌人の一人と評価されていたことは確かであろう。
三十六歌仙は、平安中期の歌人・文化人であり大納言でもある藤原公任が選出したもので、遍照没後百年ほど後のことである。
* 歌人としての僧正遍照は、現代においてもよく知られている。その大きな理由は、小倉百人一首に入っていることと考えられる。
『 あまつ風 雲のかよひぢ 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめん 』
この和歌のフアンは多く、小倉百人一首の中で人気投票をすれば、おそらく高位に入るのではないだろうか。
* 桓武天皇は多くの皇子・皇女を儲けたことが伝えられている。その子供たちは様々な生涯を送ったのであろうが、僧正遍照は恵まれた待遇を与えられなかった一人といえる。しかし、現代人にとっては、最も認知されている一人といえるのではないだろうか。
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