『 仲秋観月の宴 ・ 望月の宴 ( 1 ) 』
時は康保三年( 966 )、村上天皇の御代でございます。
いつしか年月も過ぎて、帝が世を治められてから二十年になったので、「帝の位から退きたいものだ。しばらくの間は、気ままに過ごしたい」と思いをもらされたが、時の上達部(カンダチメ・公卿)たちは、一向に同意なさろうとされなかった。
康保三年八月十五日の夜、月の宴(ツキノエン・仲秋観月の宴)を催そうとなさって、清涼殿の御前に皆を左右に組み分けされて、前栽(センザイ・庭前の植え込み。)を植えさせられた。
左の頭(トウ)には、絵所別当(エドコロベットウ・絵画の事を司る役所の長官。)蔵人少将済時(ナリトキ)が任命されたが、この人は小一条の左大臣師尹(モロタダ)の御子息で、今の宣耀殿女御(センヨウデンニョウゴ・芳子)の御兄である。
右の頭には、造物所別当(ツクモドコロベットウ・宮中の調度を調達する役所の長官。)右近少将為光が任命されたが、この人は九条殿(師輔・正二位右大臣。960年に没しており、この時はすでに故人。)の九郎君(九男)である。
双方劣らじ負けじとばかりに競い合い、(「前栽合」は、実際の前栽を競い合うのではなく、趣向を施した作り物を壷に据えて、その優劣を競うものである。)絵所の方では、洲浜を絵に描いて、種々の草花を本物以上に描いている。遣水(ヤリミズ・庭に造られた小さな流れ。)や巌もみな画いて、銀(シロガネ)で垣根の形を作り、そこにいろいろな虫などを住まわせ、大井川(桂川の上流)に舟遊びをしている絵を描き、鵜船にかがり火を灯した絵を描き、虫の絵のそばに和歌が書いてある。
造物所の方には、風情のある州浜を彫刻して、潮が満ちている形を作って、いろいろな造花を植えて、松や竹などを彫りつけて、たいそう趣きがある。このように趣向を凝らしているが、和歌は女郎花(オミナエシ)に付けている。
左方の歌は、
『 君がため 花植ゑそむと 告げねども 千代まつ虫の 音にぞなきぬる 』
右方の歌は、
『 心して 今年は匂へ 女郎花 咲かぬ花ぞと 人は見るとも 』
その後、管弦の御遊びがあって、上達部もたくさん参上されて、御引き出物も様々である。
こうした催しにつけても、中宮(安子。二年前に選子内親王を出産し、崩御。)御在世の時であれば、なおいっそう行事が引き立ってすばらしかったことであろうと、帝をはじめとして、上達部たちも故中宮を恋い慕って目を拭われた。人々が花や蝶よと楽しく過ごされるにつけても、帝は、ひたすら御退位のことをのみ願われていたのである。
華やかな「前栽合」の催しは、二十余年に及ぶ村上朝の終焉を伝えるかがり火だったのでしょうか。
聖帝と称えられた村上天皇の御代の終りは、いっそう激しさを増す摂関家による権力闘争の時代の幕開けでもあったのです。
そして、まるで天の配剤の如く、この年に藤原道長の殿が誕生なさったのでございます。
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