雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

音羽の滝の

2023-10-01 08:31:27 | 古今和歌集の歌人たち

     『 音羽の滝の 』


  山科の 音羽の滝の 音にだに
        人の知るべく わが恋ひめやも

            作者  采女

( 墨滅歌 巻第十三  NO.1109 )
      やましなの おとはのたきの おとにだに
              ひとのしるべく わがこひめやも


* 歌意は、「 山科の 音羽の滝のように 大きな音を立てて 人に知られるような 恋などしませんよ (もちろん あなたのお名前を出すようなことはしませんよ)」といった、偲ぶ恋の心意気を歌ったものなのでしょう。

* この歌は墨滅歌として載せられています。
墨滅歌とは、藤原定家が父の俊成が書写した写本の中に、元の状態が分るように墨で消した物のことで、他家の写本に幾つかある物を集めて書き残したものです。
全部で十一首が残されていますが、巻第十三(恋歌三)からは、この歌を含め二首ありますので、前書きも含め、列記してみます。

  「恋しくは下に思へ紫の」下
1108 『犬上の 鳥籠の山なる 名取河 いさと答へよ わが名洩らすな』
     この歌、ある人、天の帝の近江の采女に賜れると

     返し 采女の奉れる
1109 『山科の 音羽の滝の 音にだに 人の知るべく わが恋ひめやも』

(1108)は、NO.65
2の『恋しくは 下にを思へ 紫の 根摺りの衣 色にいづなゆめ』の次に置かれていた歌だと説明されています。この歌は、読人知らずとなっていますが、「わたしを恋しく思ってくださるなら 心の中だけで思って下さい 紫草で染めた着物が目立つように 人目に付くようなことはしないで下さい」といった意味ですので、(1108)とは、関連性がある歌のように思われます。
これは、まったく個人的な推定ですが、後になって、(1109)の歌があることが分ったのですが、組み替えが面倒で消し去ってしまったのではないかと思うのです。

(1109)の方は、(1108)とセットで除去されたと考えるべきなのですが、こちらの方は、ほぼ同一の歌が、本編に収録されているのです。
( 巻第十三 恋歌三 NO.664 )  読人知らず
  『 山科の 音羽の山の 音にだに 人の知るべき わが恋ひめかも 』
    この歌、ある人、近江の采女のとなむ申す
とあります。「山」と「音」と違っていますが、これは同一の歌と考えるべきで、こちらは、故意かどうかは分りませんが、除去し忘れたのではないでしょうか。
いずれも、勝手な推定ですが、この二つの歌を並べてみますと、例え墨滅歌としてでも、よく残してくれたものと思っています。

* 作者の采女は、「近江の采女」と呼ばれていた女性らしいことが分るだけで、それ以上の情報を得ることが出来ませんでした。「返し」の相手らしい天の帝も特定できません。

* 采女(ウネメ)という言葉は、古典ではよくお目に掛かる言葉ですが、その誕生は相当古い時代に遡るようです。
最初に記録されているのは、日本書紀の仁徳天皇紀のようです。仁徳天皇の御代となれば、その在位期間は 313 年 - 399 年ですから、とても文献として残っていたわけではないでしょう。また、仁徳天皇の行年は143歳とされていますから、史実としては微妙な面があります。ただ、正確な年度はともかく、仁徳朝では采女に当たるような女性が存在していたのかも知れません。

発祥の経緯は明瞭ではないようですが、日本書紀によれば、飛鳥時代には地方の豪族からその娘が天皇家に献上する習慣があったとされています。おそらく、人質か献上として差し出されたのでしょう。
大宝律令( 701 )では、後宮職員として規定されていて、その条件は、 ①年齢が13~30歳、嵯峨天皇の規定では16~20歳。 ②郡少領(次官クラス)以上の者の姉妹または娘。 ③容姿厳選 ④定員は66名となっていたようです。
采女発祥当初は、おそらく妻妾的な意味合いが強かったと思われますが、全国の郡の三分の一から募集することになっていて、定員を遙かに超えることになり、他の役所の女官に割り振られたようです。
また、妻妾的な目的は、時代と共に薄れ、本来の後宮女官として、「天皇・皇后に近侍して、食事や身の回りの庶事に当たる」者が主体になっていったようです。そして、時代が下ると、中央豪族の娘なども出仕しており、人質的な意味は消えていったようです。

* 少し横道にそれましたが、個人的には、掲題の歌に大変興味があります。
つまり、残念ながら確定できないのですが、ある帝と作者は男女の仲になったのでしょうが、その帝は、何とも情けないことに「わたしの名は『さあ、ねぇ』と答えて、洩らしてはいけないよ」と釘を刺しているのに対して、作者は、「そんな心配はいりませんよ」と、小気味良い啖呵を切っているような気がするからです。
もし、この推定が当たっているとすれば、この二つの歌は「天の帝」の意向が働いて外されたかも知れず、もしそれも当たっているとすれば、この情けない「天の帝」は推定できることになります。
少々、ふざけすぎましたでしょうか。

     ☆   ☆   ☆           

 

    





        


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