『 暑い暑いと言っても仕方がないが 』
暑い暑いと言ったところで 涼しくなるわけではないが
当地も猛暑日 それも 不快な暑さだ
金槌で指を打った時など 思わず「痛い」と声を出してしまうが
あれ 少しは痛みが 和らぐのだろうか
暑い時に「ああ 暑いなあ」と言うと どうなのだろう
まあ 余り泣き言をいわないで
オールスターゲームでも 見ることにしますか
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『 妻なき鹿の 』
秋の野に 妻なき鹿の 年を経て
なぞわが恋の かひよとぞ鳴く
作者 紀 淑人
( 巻第十九 雑躰歌 NO.1034 )
あきののに つまなきしかの としをへて
なぞわがこひの かひよとぞなく
* 歌意は、「 秋の野に 妻のいない鹿が 何年もの間 どうしてわが恋が実らぬのかと 『かひよ』と鳴いている 」と、自分の気持ちを鹿に託して詠んだものでしょう。
『かひよ』は鹿の鳴き声を表現していますが、「甲斐」つまり「実らない」と掛けています。
この歌は、雑躰歌の誹諧歌として、短歌とは区分けされています。技巧に過ぎるとは言え、古今和歌集内の他の短歌との差が、私には理解できないのですが、当時は、区分けされていたようです。
そして、こののち連歌など短歌とはひと味違う分野へと発展していったのでしょう。
* 作者の紀淑人(キノヨシヒト)の生没年は未詳ですが、下記のように官暦は詳しく残されていますので、醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇の御代に活躍した人物だと分かります。
伝えられている最初の官職は、909 年に左近衛将監で、六位蔵人を経て、913 年に従五位下を叙爵しています。
醍醐朝では主として武官として仕えています。
朱雀朝に入り、935 年に河内守に任ぜられ、地方官に転じていますが、翌 936 年には伊予守となり、「追捕南海道使」を兼務しています。これは、瀬戸内海で多発していた海賊を鎮圧させる目的の役務で、武官としての評価は高かったと推定できます。
* この時、淑人はこの海賊たちに土地を与えるなどして沈静化させることに成功しています。そして、そうした作戦を進める中で、前伊予守の一族で土着化していた藤原純友を配下に加え、協力を得ています。
この藤原純友は、939 年に、今度は反乱軍の首謀者として朝廷を揺るがせる乱を起こしていて、東では平将門の乱、西では藤原純友の乱として歴史に残る大きな動乱となっているのです。
淑人は、その後は、943 年に丹波守、948 年に河内守など、地方官が多かったようです。
没年は不明ですが、最終官位は従四位下で、このあと間もない頃ではないかと推定されます。
* 紀氏は、武内宿禰の子である紀角宿禰(キノツノノスクネ)を始祖とする古代豪族です。軍事・外交に実績を示した有力豪族ですが、大化期以前には大臣を輩出しておらず、大伴氏・物部氏あたりよりは劣勢であったようです。
淑人は、中納言紀長谷雄の次男で、長男の淑望(ヨシモチ)は、文章生・大学頭等の経歴を持ち、古今和歌集の「真名序」の作者とされています。しかし、官位は従五位上で終っています。
また、古今和歌集の撰者には、紀友則・紀貫之の二人が選ばれていますが、この二人と淑人とは、同じ一族といっても、二百年ほど前に枝分かれしていますので、血縁関係はほとんどなかったと考えられます。
* 作者・紀淑人が活躍した時代は、平安京が開かれてすでに百年余り過ぎた頃です。朝廷は落ち着きを見せ始め、藤原氏の台頭が著しい時代でもありました。
また、かつては軍事面で功績を挙げていた紀氏も、学問や文化面で才能を発揮する人物が増えていたように思われます。もしかすると、淑人は無骨な部分を色濃く残していた人物だった、という思いがしてならないのです。
個人的には、掲題の歌など、とても良いと思うのですが、淑人という人物を文化面を中心に評価するのは正しくないように思うのです。
平安王朝文化が輝きを見せ始めた時代、なお無骨な面を色濃く残しながら、「かひよ」と鳴く鹿に心を寄せることが出来る人物だったと考えたいのです。
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