『 企業の基礎研究 』
新聞もテレビも 吉野彰さんの快挙のニュース
吉野さんは 企業の研究所をベースにした研究者であることが
わが国にとって ひときわ輝いて見える
基礎研究は 企業収益に直結することが少なく
企業が基礎研究を充実させることは大変だそうだ
今回の快挙が 国家の支援も含めて 企業の基礎研究に
もっと光が当てられることを 期待したい
☆☆☆
うつろふは 心のほかの 秋なれば
今はよそにぞ きくの上の露
作者 冷泉院御歌
( No.1575 巻第十六 雑歌上 )
うつろふは こころのほかの あきなれば
いまはよそにぞ きくのうえのつゆ
* 作者は、第六十三代冷泉天皇である。( 950 - 1011 )享年六十二歳。
* 歌意は、「 花の色が移ろうのは 自分の意思とは関係ない 秋のことなので 今はよそ事として聞く 菊の上の露よ 」といったもので、特記するほどの内容ではないかもしれない。
しかし、この和歌の「前書き(詞書)」を見ると、その背景に歴史の転換点のようなものが見え隠れしているのである。
「前書き」には、「 清涼殿の庭に植ゑ給へりける菊を、位去り給ひて後、思し召し出でて 」とある。つまり、「退位して上皇となるのは自分の意思ではない」という意味を詠み込んでいるのである。
* 冷泉天皇は、村上天皇の第二皇子として誕生した。母は、藤原師輔の娘・中宮保子である。
生後間もなく、異母兄を押しのける形で立太子した。これは、時の実権者である藤原実頼・師輔の兄弟がごり押ししたものであろう。
967年、村上天皇の崩御により、十八歳で即位した。冷泉天皇の誕生である。
冷泉天皇は、皇太子時代から気の病があったと伝えられている。突然奇声をあげたり、一日中蹴鞠をしていたなどと伝えられているが、その程度については正確な情報があるとは思えない。いくら後見人の力が大きいとしても村上天皇には多くの皇子がいる中で立太子したことや、冷泉天皇の享年は六十二歳であり、当時としては長命であることなどを考えると、真実が少し歪められて伝えられているような気がする。全く個人的な推定だが。
* 冷泉天皇が即位すると、藤原実頼が関白となり天皇を補佐することになるが、当時の十八歳は十分一人前の成人であるが、補佐役が必要とされたのは、天皇の健康面を案じてのことである。
しかし、当時の朝廷は、藤原氏と対抗する氏族、さらには藤原氏内の権力闘争は厳しさを増していて、実頼が関白に就いたのには、その権威を確たるものにする手段であったと考えられる。この後、天皇の外戚となることや、天皇権力を背景として関白・摂政として宮廷を牛耳る体制が定着していくのである。
* 冷泉天皇の即位を廻っても早くもその後継者争いが激しくなった。冷泉天皇に皇子がいなかったことから皇太弟の地位を巡って争いとなり、左大臣源高明が推す同母弟の第四皇子の為平親王と、右大臣藤原師尹が推す同じく同母弟の第七皇子の守平親王が激しく対立した。この争いは、後に安和の変と呼ばれる騒動に広がり、謀反に関係していたとされて、源高明が太宰権帥に左遷されることになる。源高明は醍醐天皇の皇子であり、これ以上に権力が高まることに危機感を抱いた藤原氏の策謀と考えられる。
* この余波を受ける形で、冷泉天皇は僅か二年で譲位し、第七皇子の守平親王が円融天皇として即位する。守平親王はこの時十一歳であることを考えれば、藤原氏の政権基盤強化の戦略に巻き込まれたものと考えるのが自然と思われる。
円融天皇の在位期間は十五年に及ぶが、それでもまだ二十六歳ということを考えれば、その譲位も宮廷政治の力学からで強制されたものと考えられ、その妥協案として、この後、冷泉天皇系と円融天皇系が交替で皇位に就くことになるのである。
『両統迭立』といえば、鎌倉時代後半の御嵯峨天皇の嫡子である後深草天皇系(持明院統)と、次子である亀山天皇系(大覚寺統)の間で行われたものを指すが、冷泉天皇を起点とした形でこの時代にも起こっているが、円融系を父方に冷泉系を母方にする後三条天皇(第七十一代)の即位により両党が融合している。
* 冷泉天皇の在位期間は二年少々である。その期間に政治的な指導力を発揮するようなことはなかったと思われる。退位後の四十年を超える上皇時代においても、皇位継承についての発言はあったのかもしれないが、歴史として伝えられている情報は極めて少ない。
しかし、歴史の流れを俯瞰(フカン)して見ると、「藤原氏による摂関政治」「冷泉・円融両天皇系による皇位の迭立」という大きな変化が、冷泉天皇を起点として起こっているともいえるのである。
☆ ☆ ☆