雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

危い予感

2019-04-13 19:01:21 | 日々これ好日
        『 危い予感 』

     またまた 不正検査や不正施工が表面化した
     自動車メーカーと住宅メーカーで どちらも有力企業である
     それだけに 失望してしまった
     戦争に敗れたあと復興できたベースには 優れた技術力があったはずだ
     たゆまない努力が育てた信用力があったはずだ
     ここ数年 著名な企業の品質に対する背信が 数多く表面化している
     わが国の技術力は 危険な水準に向かっているのではないだろうか

                          ☆☆☆
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めぐり逢ひて

2019-04-13 08:07:23 | 新古今和歌集を楽しむ
     めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に
                    雲隠れにし 夜半の月影


                        作者  紫式部

( No.1499  巻第十六 雑歌上 )
     めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに
                   くもかくれにし よはのつきかげ    
      



* 作者は、平安時代中期の女房・文筆家。生没年ともに不詳。

* 歌意は、「 ようやくめぐり逢って 前に見たのと同じ月かどうか 分からないうちに、雲に隠れてしまった 夜中の月影よ。」

* この和歌は、小倉百人一首にも入っているが、最後の句は「夜半の月かな」となっている。
小倉百人一首の中でも人気の高い歌の一つであり、私などは「恋歌」の代表のように考えていたが、実際はそうでもないらしい。
この和歌の詞書には、「 早くより童友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆき逢ひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひて帰り侍りければ 」とある。この中の「童友だち」とあるのは、「幼馴染の女の友だち」を指すので、恋歌とは無縁なのである。新古今和歌集も、この歌を「雑歌」として載せているのも、この詞書があったからであろう。

* 作者の紫式部は、平安王朝文学を代表する女性の一人である。作者の手によるとされる「源氏物語」は、わが国ばかりでなく、世界的にも著名な作品である。
しかし、これほど著名な人物であり、多くの研究者が諸資料などを調査しているが、その生没年は確定されていない。
生年は、970年から978年の間に幾つかの説が集中しているので、ほぼこの期間と考えられる。没年は、1019年に生存の記録があるとされるが、こちらも、1014年から1031年まで諸説が林立している。
当時の女性の動静は、皇族などを除くと、特に晩年の記録を把握するのは難しいようである。

* 紫式部は、998年の頃、藤原宣孝と結婚し、翌年一女を儲けている。後の大弐三位である。
宣孝は正五位下まで上った人物であるが、紫式部とは親子ほどの年齢差があったらしい。紫式部の父・藤原為時も正五位下の下級貴族であるが、漢学に優れていたらしい。いわゆる受領クラスの家柄で、この頃の歌人として著名な女房たちの平均的な家柄だったようである。

* 紫式部の結婚生活は短く、1001年5月に夫と死別している。
そして、1006年か翌年ぐらいに、一条天皇の中宮彰子のもとに出仕している。彰子の父である藤原道長に求められたものと考えられる。この時の女房名は「藤式部」であったらしく、紫式部という名前は源氏物語の登場人物に因んだ通称名であったらしい。もし、それが正しいとすれば、この頃には「源氏物語」の少なくともある部分は完成していたらしい。
紫式部には「紫式部日記」という著作もあるが、これは、1008年秋から1010年正月までの宮中生活などが描かれている。
紫式部の宮中生活はそれほど長くなく、1012年頃には退出したという説があるが、その後にも宮中での消息が伝えられているという説もある。

* 一条天皇の御代は、絢爛たる平安王朝の頂点ともいえる。藤原氏の絶頂期でもあり、道長が台頭してきた時でもある。一条天皇の中宮定子と彰子は、ともに優れた女房を集めて勢力を競い、次代の天皇擁立を競った華やかも厳しい時代でもあった。
その二人の中宮のもとには、今日でも知られている多くの女房が出仕していたが、紫式部と清少納言について、対立していたと興味本位に紹介されることがあるが、この二人は、面識さえなかったのではないかと思われる。
定子は、1000年に亡くなっており、清少納言はほどなく宮廷を去っているので、少なくとも二人が宮中で出会うことは無かったはずである。紫式部が、その作品の中で清少納言を酷評していることはよく知られているが、実際に自分の目で見た評価ではないと思われる。

* 紫式部の晩年の動向は明らかでない。ただ、一女の大弐三位も俊才で、後冷泉天皇の乳母となり、後冷泉天皇即位と共に従三位を与えられている。それを考えれば、母である紫式部の晩年は、少なくとも経済的に困窮するようなことは無かったと思われ、平穏な日々であったのではないだろうか。

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