歴史散策
平安の都へ ( 1 )
手白香皇女
我が国の天皇家は、神武天皇以来男系男子により相伝されているとされる。
その信憑性云々はともかく、また、神話の時代を素直に受け取っての話であるが、多くの記録が伝えられている。それらの記録や伝承は、近代にいたって創作されたり修正されたものもないわけではないが、その多くは、古事記や日本書紀に代表されるように、千数百年の昔から伝えられているものである。
もちろん、古事記にしろ日本書紀にしろ、当時の国家支配者層が政治的な思惑や、祖先を美化させる目的などで意図的に創作されたものも少なくないことは十分に想像できるが、そういう意見をすべて認めるとしても、古事記や日本書紀に描かれている世界は、当時の我が国の姿の一端を伝えてくれていることに変わりはない。
当時、つまり、この物語の最初に登場する手白香皇女(タシラカノヒメミコ)が生きた時代前後を考えてみた場合、どの範囲を我が国と表現すればよいかということじたい多くの説があるが、まことに荒っぽい表現であるが、本州・四国・九州の大半を指すと考えた場合、大王家、すなわち天皇権力がその隅々まで行き渡っていたわけではないようである。
現在に伝えられている記録などをベースに考えると、国家全体が天皇とその周辺勢力を中心として運営されていたかの錯覚を受けるが、それは、伝えられている記録がそうであったというだけで、支配力が及んでいた地域は限定的であり、完全に掌握していた地域となれば、さらに範囲は限られてくると考えられる。
手白香皇女は、古代の歴史、特に皇統について考える時、極めて大きな意味を背負っている皇女といえる。
父は第二十四代仁賢天皇であり、母は第二十一代雄略天皇の皇女である春日大娘皇女(カズガノオオイラツメノヒメミコ)である。
実は、この母も数奇な運命を乗り越えて手白香皇女を世に送り出したという、重要な存在ともいえるのである。因みに手白香皇女の両親の系譜を記すと、
父方は、応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇ー市辺押磐皇子ー仁賢天皇であり、
母方は、応神天皇ー仁徳天皇ー允恭天皇ー雄略天皇 -春日大娘皇女となる。
つまり、応仁・仁徳天皇の系譜が二系列に分かれかけていたのが、仁賢・春日大娘によって一本化されたことになるが、それ以上に興味深いことは、有力な天皇候補者であった市辺押磐皇子は雄略天皇によって殺害されているのである。春日大娘皇女はともかく、父を殺害された仁賢天皇が親の仇の娘を后に迎えたのは何故なのだろうか。
春日大娘皇女が仁賢天皇のわだかまりを打ち消すほどの魅力にあふれていたとか、相思相愛であったとか、そういうことが皆無とはいえないとしても、この時代の歴史を考える場合にはロマンチックすぎると思われる。やはりそこには、もっと政治的な意味があり、仁賢天皇としてはどうしても先帝の皇女を后に迎える必要があったと考える方が納得性があるように思われる。
天皇の皇子でない仁賢としては、即位のためにはどうしても先帝の皇女を后に迎える必要があったと考えられるのである。
そして、それは、大王家の血統を護るといった意味以上に、当時の大王家を中心とした統治を行うにあたっては、天皇の皇子でない人物にとっては、先帝の皇女を娶ることが権力把握の必要条件であったように思われるのである。
当時の大王(天皇)は、この後多く登場してくる女性天皇も含めて、相当の統率力を有していたと考えられるが、そのためには、個人的な資質に加えて、その地位に就くべき血統、さらには、一族や有力豪族の承認や支援が絶対に必要であることは容易に推定できる。特に、有力豪族、例えば、大伴氏や物部氏、蘇我氏からやがては藤原氏が登場してくるように、大王権力は有力豪族の武力や資力に裏打ちされていたと考えられる。
その有力豪族たちを心酔させるためには、脈々と続くとされる血統の神聖さこそが重要であり、そのことに弱みを持つ人物にとっては、先帝の皇女は、絶対に必要だったのではないだろうか。
手白香皇女は、そのような運命を背負った両親から誕生したが、仁賢天皇と春日大娘皇女の仲は睦まじいものであったらしく、七人の子供が生まれている。六人は皇女で、ただ一人の皇子が後の武烈天皇である。但し、古事記では皇子が二人であったとされており、手白香皇女も武烈天皇の姉とされているが妹という説もあるらしい。
仁賢天皇崩御後に武烈天皇が即位したが、日本書紀にはその暴君ぶりが記されている。「妊婦の腹を裂いた」などといった悪逆非道な具体例は紹介するのさえはばかれるほどであるが、「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまわず」と厳しく記されている。
ただ、日本書紀の記事は、継体天皇以後の系統を善良とするための作為のように思われてならない。その理由は、まず、古事記には武烈天皇の悪逆ぶりは全く記録されていないこと。次には、信憑性に欠ける部分はあるが、武烈天皇の誕生は西暦489年とされていて、即位が498年で崩御が506年とされているのを信じるとすれば、在位期間は数え年で10歳から18歳となり、いくらなんでも信じがたいのである。
そして、この天皇は、後継者を残すことなく崩御したため、次期天皇をめぐって大混乱となり、手白香皇女が歴史上の重要人物としてクローズアップされてくるのである。
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