雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  平安の都へ

2017-06-10 09:41:39 | 歴史散策
          歴史散策
            『 平安の都へ 』

   神武東征以来、天皇家の本拠地であった大和の地を棄てたのは何ゆえか。
   天智天皇などごく限られた期間、逃げ出すように大和を離れた王朝もあるにはあったが、
   桓武天皇の遷都は少し違うように見える。
   平安の都を求めての遷都は、桓武天皇の勇断なのか、とうとうと流れる時代の要請なのか、
   その一端にでも触れてみたいと思う。


     全八回の作品です。ご一読いただきたくご案内いたします
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歴史散策  平安の都へ ( 1 )

2017-06-10 08:38:41 | 歴史散策
          歴史散策
             平安の都へ ( 1 )

手白香皇女

我が国の天皇家は、神武天皇以来男系男子により相伝されているとされる。
その信憑性云々はともかく、また、神話の時代を素直に受け取っての話であるが、多くの記録が伝えられている。それらの記録や伝承は、近代にいたって創作されたり修正されたものもないわけではないが、その多くは、古事記や日本書紀に代表されるように、千数百年の昔から伝えられているものである。
もちろん、古事記にしろ日本書紀にしろ、当時の国家支配者層が政治的な思惑や、祖先を美化させる目的などで意図的に創作されたものも少なくないことは十分に想像できるが、そういう意見をすべて認めるとしても、古事記や日本書紀に描かれている世界は、当時の我が国の姿の一端を伝えてくれていることに変わりはない。

当時、つまり、この物語の最初に登場する手白香皇女(タシラカノヒメミコ)が生きた時代前後を考えてみた場合、どの範囲を我が国と表現すればよいかということじたい多くの説があるが、まことに荒っぽい表現であるが、本州・四国・九州の大半を指すと考えた場合、大王家、すなわち天皇権力がその隅々まで行き渡っていたわけではないようである。
現在に伝えられている記録などをベースに考えると、国家全体が天皇とその周辺勢力を中心として運営されていたかの錯覚を受けるが、それは、伝えられている記録がそうであったというだけで、支配力が及んでいた地域は限定的であり、完全に掌握していた地域となれば、さらに範囲は限られてくると考えられる。

手白香皇女は、古代の歴史、特に皇統について考える時、極めて大きな意味を背負っている皇女といえる。
父は第二十四代仁賢天皇であり、母は第二十一代雄略天皇の皇女である春日大娘皇女(カズガノオオイラツメノヒメミコ)である。
実は、この母も数奇な運命を乗り越えて手白香皇女を世に送り出したという、重要な存在ともいえるのである。因みに手白香皇女の両親の系譜を記すと、
父方は、応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇ー市辺押磐皇子ー仁賢天皇であり、
母方は、応神天皇ー仁徳天皇ー允恭天皇ー雄略天皇  -春日大娘皇女となる。
つまり、応仁・仁徳天皇の系譜が二系列に分かれかけていたのが、仁賢・春日大娘によって一本化されたことになるが、それ以上に興味深いことは、有力な天皇候補者であった市辺押磐皇子は雄略天皇によって殺害されているのである。春日大娘皇女はともかく、父を殺害された仁賢天皇が親の仇の娘を后に迎えたのは何故なのだろうか。
春日大娘皇女が仁賢天皇のわだかまりを打ち消すほどの魅力にあふれていたとか、相思相愛であったとか、そういうことが皆無とはいえないとしても、この時代の歴史を考える場合にはロマンチックすぎると思われる。やはりそこには、もっと政治的な意味があり、仁賢天皇としてはどうしても先帝の皇女を后に迎える必要があったと考える方が納得性があるように思われる。
天皇の皇子でない仁賢としては、即位のためにはどうしても先帝の皇女を后に迎える必要があったと考えられるのである。

そして、それは、大王家の血統を護るといった意味以上に、当時の大王家を中心とした統治を行うにあたっては、天皇の皇子でない人物にとっては、先帝の皇女を娶ることが権力把握の必要条件であったように思われるのである。
当時の大王(天皇)は、この後多く登場してくる女性天皇も含めて、相当の統率力を有していたと考えられるが、そのためには、個人的な資質に加えて、その地位に就くべき血統、さらには、一族や有力豪族の承認や支援が絶対に必要であることは容易に推定できる。特に、有力豪族、例えば、大伴氏や物部氏、蘇我氏からやがては藤原氏が登場してくるように、大王権力は有力豪族の武力や資力に裏打ちされていたと考えられる。
その有力豪族たちを心酔させるためには、脈々と続くとされる血統の神聖さこそが重要であり、そのことに弱みを持つ人物にとっては、先帝の皇女は、絶対に必要だったのではないだろうか。

手白香皇女は、そのような運命を背負った両親から誕生したが、仁賢天皇と春日大娘皇女の仲は睦まじいものであったらしく、七人の子供が生まれている。六人は皇女で、ただ一人の皇子が後の武烈天皇である。但し、古事記では皇子が二人であったとされており、手白香皇女も武烈天皇の姉とされているが妹という説もあるらしい。
仁賢天皇崩御後に武烈天皇が即位したが、日本書紀にはその暴君ぶりが記されている。「妊婦の腹を裂いた」などといった悪逆非道な具体例は紹介するのさえはばかれるほどであるが、「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまわず」と厳しく記されている。
ただ、日本書紀の記事は、継体天皇以後の系統を善良とするための作為のように思われてならない。その理由は、まず、古事記には武烈天皇の悪逆ぶりは全く記録されていないこと。次には、信憑性に欠ける部分はあるが、武烈天皇の誕生は西暦489年とされていて、即位が498年で崩御が506年とされているのを信じるとすれば、在位期間は数え年で10歳から18歳となり、いくらなんでも信じがたいのである。
そして、この天皇は、後継者を残すことなく崩御したため、次期天皇をめぐって大混乱となり、手白香皇女が歴史上の重要人物としてクローズアップされてくるのである。

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歴史散策  平安の都へ ( 2 )

2017-06-10 08:37:37 | 歴史散策
          歴史散策
            平安の都へ ( 2 )

継体天皇

神武天皇を初代とした皇統は、二千六百数十年に渡って脈々と伝えられてきた。諸々の伝承や神話の世界も受容してのことであるが。
しかし、歴代天皇の継承の状況などを考えた場合、私などでも簡単に入手できる資料からだけでも、断絶とまで決めつけないまでも、統治権に大きな変化があったものと推定できる時期が幾つかある。

第十五代応神天皇の登場も、先帝である仲哀天皇崩御から七十年の空白を経ての即位であり、その間を応神天皇の母であり仲哀天皇の皇后である神功皇后(ジングウコウゴウ)という傑出した女性が大王家(天皇家)を担っていたとされるが、やはり、この間に大きな権力の移動があったと考えるのが自然ではないだろうか。
そうして誕生した応神・仁徳王朝も、二百三十余年を経て崩壊し、血統の継承云々はともかく、権力者の座は大きく移動したと考えられ、その後継統治者として登場するのが継体天皇というのが、一般に考えられている歴史であろう。

そして、この応神・仁徳王朝ともいえる時代の幕を引いたのが武烈天皇ということが出来よう。
いつの世も、洋の東西を問わず一つの王朝なり政権なりの幕を引いた人物は、為政者として劣っていたのは事実としても、次の時代の為政者から指弾され悪様に記録されるのが常識ともいえる。そう考えれば、武烈天皇に関する日本書紀の記事は、真実を伝えていないように思われてならない。
もっとも、私などが目にすることが出来る資料などはごく限られているので、その貴重な情報を頭から否定するのは避けなければならないが、日本書紀の武烈天皇に関する記事は下劣すぎるように思われるし、記事の真否どころか武烈天皇の存在そのものを疑問視する説もある。

ともあれ、後世に悪行を伝えられながら武烈天皇は資料によれば僅か十八歳で崩御している。後継者を残していなかったことから、おそらく大王家は混乱し、応仁・仁徳に始まった王朝は崩壊するのである。
伝えられている武烈天皇のどの部分が実像であり、どの部分が虚像なのかは想像力を働かせるしかないような気もするが、この天皇の崩御により一つの王朝の幕が引かれたことは確かであろう。

武烈天皇の崩御により、大王家を支えてきた豪族たちは後継者選びに奔走することになった。
その時の最有力者は、大連(オオムラジ)の地位にあった大伴金村であったが、金村を中心に群臣たちは協議し、応神天皇以降の血脈を引く適任者を探したもの思われるが、どういうわけか最初に後継者に迎えようとしたのは、応神天皇の父とされる第十四代仲哀天皇の五世孫にあたる倭彦王(ヤマトヒコオウ)であった。
普通に考えれば、武烈天皇に後継者がいないとなれば、一代前の仁賢天皇の皇子あるいは孫、そこにも適任者がないとなれば、顕宗天皇あるいは雄略天皇の子孫といった具合に遡っていくと思われるのだが、武烈天皇から十一代前の天皇であ仲哀天皇の子孫となれば、血統以外の思惑が働いているとしか考えようがない。しかも、仲哀天皇と応神天皇の間には王朝の断絶があったのではないかという疑念は、当時の指導層の間では現在以上に濃厚であったと仮定すれば、さらにその思いが強くなる。

しかし、大伴金村らが擁立することを決めて、丹波国にあった倭彦王を迎えに行ったが、迎えの人々の行列を遠望した倭彦王は恐れをなして逃亡、行方不明になってしまったという。
そのため大伴金村らは、次の候補として越前国にあったヲホド王を選び使者を遣わした。その際にも若干の経緯はあったが、武烈天皇崩御の翌年二月に樟葉宮(クスハノミヤ・大阪府枚方市)で即位し、継体天皇が誕生したのである。

継体天皇は、応神天皇の五世孫とされる。五世孫というのは、律令法では、天皇の子(皇子および皇女)を一世孫とし、天皇の孫を二世孫、曽孫を三世孫としていて、五世孫までを王あるいは王女と称して皇親としている。従って、ヲホド王は皇親として王を名乗っていたのであろうし、倭彦王より遥かに武烈天皇に近い血筋といえないこともないが、本当にそれが擁立の大きな要因であったのだろうか。
応神・仁徳王朝という体系があったとすれば、応神天皇の五世孫であれば立派なものといえるが、歴代天皇にも子孫はおり、五世孫まで数えれば、大和に近い辺りにも大勢の候補者がいたのではないだろうか。そう考えれば、継体天皇の即位には、もっと武力的な圧力が働いていたと考える方が自然のように思われる。

そう推定する一つに、継体天皇は大和の地ではない樟葉宮で即位した後、筒城宮(ツツキノミヤ・京都府京田辺市)、弟国宮(オトクニノミヤ・京都府長岡市)と転々とし、大和の磐余玉穂宮(イワレノタマホノミヤ・奈良県桜井市)に入ったのは、即位後二十年後のことなのである。(七年という説もある。)
つまり、継体天皇の即位は、大和の旧王朝勢力に無条件に受け入れられたものではないのであろう。
継体天皇が即位したのは日本書紀によれば五十七歳の時とされる。妻も子も大勢いたらしいが、新たに先帝武烈天皇の姉(妹という説もある)である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を后に迎え入れている。手白香皇女の年齢は、武烈天皇と同年とすれば十八歳くらいとなり、継体天皇とは四十近い年の差があった計算になる。
いずれにしてもこの婚姻は、継体天皇の越前・近江辺りの勢力と、大和の旧勢力を結び付けるために絶対に必要な条件であり、大王家(天皇家)の系譜の流れを見るとき、実に意味深いものである。

継体天皇は、西暦531年、在位二十四年にして崩御した。行年は日本書紀で八十歳とされるが、古事記では没年が527年で四十歳とされている。この違いはあまりに大き過ぎて、どちらかに作為があるか、別人物が混同されている気さえする。
さらに言えば、継体天皇崩御後、皇子の安閑天皇が即位し、在位五年で崩御し、弟の宣化天皇に引き継がれるが、三年余りで崩御している。この二人の天皇は、継体天皇が即位する以前からの御子で同母の兄弟である。
詳記は割愛させていただくが、継体天皇の崩御の年度及び状況、安閑・宣化天皇の即位ならびに崩御については、研究者たちが幾つかの推定がされている。つまり、古くからの歴史書を単純に受け取るわけにはいかないようで、大胆に推定すれば、このあたりでも、歴史書にない激しい王権争いがあった可能性が感じられるのである。

そして、宣下天皇の崩御後十か月を経て欽明天皇が即位するのである。
この欽明天皇の生母は手白香皇女であり、この天皇こそが応仁・仁徳王朝の血脈を伝えることになるのである。
欽明天皇の治世は三十年を超え、その後の敏達・用明・崇峻・推古の四代四十数年間は欽明天皇の皇子および皇女が治世を担い、仏教文化をはじめ古代日本の隆盛を築いていったのである。

継体天皇によって、それまでの応仁・仁徳王朝から王権の移動があったという考え方は根強いが、継体天皇の血脈という点から見ればその通りかもしれないが、実は、継体天皇を父としながらも、手白香皇女を母に持つ欽明天皇こそが継体天皇以後の実質的な新王朝の創始者であるように思うのである。そう考えれば、やがて、推古天皇以降の女性天皇たちの活躍も当然のように思えてくるのである。
そして、歴史の流れにおける手白香皇女の存在の大きさをもっと重視すべきであり、さらに多くの研究がなされるべきだと願うのである。

     ☆   ☆   ☆


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歴史散策  平安の都へ ( 3 )

2017-06-10 08:36:56 | 歴史散策
          歴史散策
            平安の都へ ( 3 )

称徳天皇

第二十五代武烈天皇が崩御し継体天皇が即位したことにより王家の系譜の変動があったと考えるならば、その新王朝は第四十八代称徳天皇の崩御により終焉を迎えたと考えられる。
この間、およそ二百六十年という長い期間は、古代日本の文化的隆盛期であり、現代につながる多くの文化や制度などが誕生し育まれている。そして、この王朝は、我が国の歴史上際立って多くの女性天皇が誕生した時代でもあった。

そして、この時代の女性天皇が決してお飾りでも繋ぎでもなかったことについては、前回の作品『女帝輝く世紀』で述べているので重複は避けたいが、あえて加えるならば、女性天皇の時代は決して推古天皇に始まったのではなく、継体天皇の時代に萌芽しているのだと筆者個人は考えている。
おそらく、継体天皇の軍事力や経済力によって王権の移動が実現したのであろうが、それによって継体王朝が始まったようには見えないのである。継体天皇の崩御、並びに後を継いだとされる安閑・宣化両天皇の時代については、今もなお多くの謎に包まれている。この王朝が安定するのは、その次の欽明天皇の時代になってからである。
安閑・宣化・欽明天皇はいずれも継体天皇の皇子であるが、無視できないことは欽明天皇は旧ヤマト王権の血を引く手白香皇女であることなのである。さらに言えば、継体天皇の御代でさえも、この手白香皇女の存在があってこそ旧勢力の協力を得ることが出来、新王朝が育っていったと思うのである。
つまり、少なくとも精神的には、『女帝輝く世紀』は、継体天皇の大和入りの頃には始まっていたのだと筆者は考えているのである。

そして、この王朝は、称徳天皇によって幕を引かれることになる。
称徳天皇は、この王朝の最盛期ともいえる繁栄を築いた聖武天皇を父に、藤原氏繁栄の中心人物の一人である光明皇后を母として誕生した。西暦718年のことである。(なお、この時代の和暦は変遷が激しいので、本稿では原則として西暦を用いることにする。)
聖武天皇は、持統天皇が愛してやまなかったとされる草壁皇子の孫にあたる。天武天皇には多くの皇子がいたが、皇后となった後の持統天皇の強い意向で草壁皇子が後継者となったが(正式に皇太子となっていたかどうかは諸説ある)、それに至る過程で大津皇子の刑死などかなり強引な後継者争いがあったようで、天武天皇崩御の後、草壁皇子が後継天皇に就くことは簡単ではなかったようだ。
この為、皇后が後継者となり持統天皇が誕生するが、即位三年目の頃に草壁皇子は崩御してしまった。持統天皇は、おそらく歯を食いしばるようにして忘れ形見である軽皇子を養育し、十五歳になるのを待ちかねて皇位を譲った。文武天皇の誕生である。当時としては異例の若さであった。譲位後も持統天皇が後見していたが五年後に崩御した。

文武天皇の治世は十年に及ぶが、二十五歳の若さで崩御してしまう。
この王朝の中心人物の一人と考えられる持統天皇の執念を引き継いでいたわけではないだろうが、後継天皇は、文武天皇の母であり、草壁皇子の未亡人である阿閇皇女が元明天皇として即位した。この女性は天智天皇の皇女でもあるので血統的には何の不足もない人物であるが、今度は文武天皇の忘れ形見に皇位を継がせようという願いを抱いてのことであっただろう。
元明天皇は在位八年にして氷高皇女に譲位した。元正天皇の誕生である。この皇女は草壁皇子と元明天皇との間の皇女で、文武天皇の姉にあたる。
そして、在位九年にして文武天皇の忘れ形見である首皇子に譲位して、聖武天皇が誕生する。文武天皇崩御後十七年を経ているが、文武天皇を誕生させるのと同様の執念を感じる。

称徳天皇の生母である光明皇后は、藤原不比等の娘であり、藤原氏出身で史上初の皇后となった人物である。聖武天皇の生母も藤原不比等の娘であるから、称徳天皇は藤原氏の血統、それも不比等の血統を色濃く引き継いだ皇女といえる。
727年9月、聖武天皇と光明皇后の間に基皇子(モトイノミコ)が誕生した。天皇にとっても慶賀であるが、藤原氏にとってはまさに珠玉といえる皇子誕生であっただろう。藤原不比等邸で生まれたとされる基皇子は生後一か月にして皇太子となった。しかしこの皇子は、翌年、満一歳の誕生直前に亡くなってしまった。

738年、阿倍皇女(後の孝謙天皇・重祚して称徳天皇)が立太子して、史上初の女性皇太子となる。この時、聖武天皇には、夫人である県犬養広刀自との間には安積親王(アサカノミコ)がおり、年齢も阿倍皇女より年少とはいえ十一歳になっており適任と考えられるが、生母の後見力に大きな差があり、女性皇太子誕生となってしまったようである。このあたりの経緯を考えてみても、朝廷内の藤原氏の権力の大きさが窺えるとともに、生母、つまり女系の政治的な重みを無視することが出来ないことが分かる。
そして、この安積親王は十七歳にして亡くなっているのである。脚気による病死とされているが、時の権力者藤原仲麻呂の手による毒殺という噂も無視できない。

749年、安倍皇太子は聖武天皇の譲位により即位する。第四十六代孝謙天皇の誕生である。
孝謙天皇の御代はおよそ九年であるが、当初は聖武天皇(実際は上皇)や光明皇后(実際は皇太后)、そして藤原仲麻呂等の後見により治世がなされていたようである。やがて、聖武天皇が崩御し、光明皇后も病気がちとなり、母の看病に専心するために皇太子となっていた大炊王に譲位した。淳仁天皇の誕生である。
孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は生涯結婚しなかったが、最初に皇太子となったのは、聖武天皇が死に臨んで遺言した道祖王(フナドオウ)であった。この人物は、天武天皇の皇子である新田部親王の御子である。しかし、皇太子にふさわしくないという理由で翌年には廃され、同じく天武天皇の皇子である舎人親王の御子である大炊王(オオイオウ)を皇太子にしていたのである。これは、孝謙天皇と藤原仲麻呂の意向によるものらしいが、この王朝の絶頂期を築いたともされる聖武天皇の遺言もそれほど絶対視されるものではなかったらしい。

こうして孝謙天皇、藤原仲麻呂(姓を賜って、藤原恵美押勝と名乗った。)によって擁立された淳仁天皇の在位は六年間に及ぶが、治世の実権を把握していた期間はほとんどなかったのではないだろうか。
やがて、光明皇后が崩御すると、孝謙天皇(上皇)と淳仁天皇・藤原仲麻呂との間に波風が立つようになる。
光明皇后崩御後に孝謙天皇は病気となり、看病にあたった弓削氏の道鏡と出会い重用するようになる。
764年9月、身の危険を感じた藤原仲麻呂は挙兵の準備にあたるが、孝謙天皇側は軍事権を掌握し藤原仲麻呂を討ち果たした。
その結果を知ると孝謙天皇は直ちに淳仁天皇を監視下に置き、翌月には廃位させて淡路公として淡路島への流刑とした。そして、孝謙天皇は再び皇位に就いた。称徳天皇の誕生である。
後世、この皇位継承を重祚による称徳天皇の誕生とされているが、実態は少し違うように思われる。それは、淳仁天皇は淡路廃帝とされていることから、孝謙天皇としては単に皇位に復帰しただけで新たに即位したという意識は無かったように思われるのである。
いずれにしても、764年10月、この王朝の幕を引くことになる称徳天皇が誕生したのである。

     ☆   ☆   ☆






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歴史散策  平安の都へ ( 4 )

2017-06-10 08:35:53 | 歴史散策
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            平安の都へ ( 4 )

弓削道鏡

764年9月、孝謙天皇(上皇)は、淳仁天皇を支援する時の権力者藤原仲麻呂(恵美押勝)を討伐することを決意した。
その動きを察知した藤原仲麻呂も軍備の準備を進めていたが、孝謙上皇は山村王(用明天皇の子孫)らに命じて、淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を奪い取らせた。これを奪還しようとした藤原仲麻呂側と戦闘となったが鈴印は孝謙上皇の元に渡り、藤原仲麻呂は朝敵となり、都から脱出を図ったが、討たれてしまった。

藤原仲麻呂を討ち取ると、孝謙上皇は権力掌握を進めた。
まず、左遷されていた藤原豊成を右大臣にし、孝謙上皇の寵愛を受けて急速に存在感を増してきていた道鏡を大臣禅師として新体制を固め、淳仁天皇を廃し、淡路公に封じて流刑とした。
この結果、孝謙上皇が重祚して称徳天皇として即位したというのが、一般に知られている経緯といえよう。
しかし、事実は少し違うような気がするのである。前回と重複する部分があるが、確かに、淳仁天皇の御代が存在しているので、孝謙天皇の御代と称徳天皇の御代を一体とするのは無理であるが、淳仁天皇を廃帝としていることからも、称徳天皇(孝謙天皇)は、皇位に復帰した感覚を持っていて、新たに即位した感覚は無かったのではないかと筆者には感じられるのである。

そうした混乱の朝廷において、独身で御子のいない称徳天皇の後継者問題は、貴族たちの最大関心事であり、水面下での動きもあったのかもしれない。
そのような皇族や貴族の動きを敏感に察知した称徳天皇は、それらの動きに対して報復、あるいは先制して動乱の芽を摘んでいった節がある。最初の皇太子であった道祖王(フナドオウ)やその後に皇太子となり淳仁天皇となった大炊王(オオイオウ)などが代表例であるが、道祖王は後に橘奈良麻呂の乱に連座する形で獄死しているし、大炊王は皇位を下ろされたのち淡路に配流となり、翌年に病死している。二人とも暗殺の可能性を否定できない。
同様な観点から、皇位を狙う可能性があると思われる人物、例えば黄文王や和気王などの死にも称徳天皇の影が感じられるし、道鏡を法王という地位に就けた後には、異母妹の不破内親王を追放するようなことまでもしている。

これらの事からいくつの考え方が浮かんでくる。
一つは、称徳天皇という女帝は、相当激しい行動をしていたらしいことである。それは、単に性格からくるものといったことではなく、天皇として絶大な権限を握っていたということであり、推古天皇以後の女性天皇を単なる繋ぎの天皇であるとか、操り人形的な天皇であったという見方は正しくないと思われることである。
もう一つは、実子がおらず、また期待の持てる後継者がいないがための焦りのようなものを感じるのである。
孝謙天皇の頃に皇太子にした道祖王、大炊王は天武天皇の孫にあたる。当時、後継者つまり皇太子候補と考えられる人物の多くは、天武天皇の孫にあたる王たちであった。称徳天皇(孝謙天皇)も天武天皇の子孫であるが、世代でいえば、皇太子候補に挙げられる人物たちは、世代でいえば称徳天皇の祖父である文武天皇と同世代なのである。年齢はともかく、その点に抵抗もあったと推測されるが、何よりも天皇の器に遠く及ばない人物ばかりであったからではないだろうか。少なくとも、称徳天皇にはそう見えたのだと推察するのである。
それと、これはまったく筆者個人の考え方であるが、称徳天皇にとって、天武天皇の血統には魅力がなく、むしろ避けたいと考えていて、自分が受け継いでいる皇統の血脈は、持統・草壁あるいは元明によって伝えられている天智天皇の血脈だったのではないかと思うのである。筆者個人としては、天智と天武が父母を同じくした兄弟だとはとても考えられないからである。

そういう状況の中で、聖武天皇が母方の血縁に後継者を頼ろうとしても、それはほぼ藤原一族ということになり、かつての腹心・藤原仲麻呂との経緯もあって、皇位を藤原氏に委ねることは出来ないことであっただろう。
そうしたところに登場してきたのが弓削道鏡であり、吉備真備(キビノマキビ)であったと考えられる。
吉備真備は、遣唐留学生として知られているが、717年に阿倍仲麻呂らとともに入唐し、735年に帰朝している。帰朝した時にはすでに四十一歳の頃であったが、帰路種子島に漂着するなどしているが、多くの書物や仏典などを持ち帰っていて、聖武天皇や光明皇后の寵愛を受けたようである。
741年には皇太子になっていた阿倍内親王の教授に任じられ厚い信頼を得たようである。その後も、学者としてばかりでなく昇進を重ねていったが、阿倍皇太子が孝謙天皇として即位した頃から藤原仲麻呂の力が強くなり、孝謙天皇の信頼が厚い吉備真備は何かと目障りであったらしく、筑前守、続いて肥前守と遠ざけられた。
しかし、764年、七十歳にして造東大寺長官として帰京を果たし、同年発生した藤原仲麻呂の乱では追討軍を指揮して功績を挙げている。
道鏡が法王となった後も昇進を重ね、遂に右大臣となり、左大臣藤原永手と共に政権を担っている。

称徳天皇を語る時、道鏡の存在を無視することが出来ない。
道鏡は、物部氏の一族である弓削氏の出自とされる。一部には、天智天皇の皇子である志貴皇子の子という異説もあるらしが信じ難い。
法相宗の高僧義淵(ギエン)の弟子となり、禅の道に優れていたらしく、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることが許され禅師に列せられた。この禅師というのは、高徳な僧に対する尊称で、禅僧に限ったものではない。
761年、淳仁天皇に譲位して上皇となっていた孝謙が病気になり、道鏡が看病にあたった。当時、貴人の病気治療の中心は祈祷であり、おそらく道鏡に限らず大勢の僧侶が祈祷にあたったものと考えられる。
いずれにしても、二人の出会いはこの時が最初と考えられ、孝謙上皇が四十四歳、道鏡が六十二歳の頃のことである。
この時を機に道鏡は孝謙上皇の寵愛を受け、僧侶としての地位を駆け上り、政治向きでも重きをなすようになっていったとされる。
やがて、道鏡の存在も一因かもしれないが、藤原仲麻呂の乱が起こり、討伐された後に淳仁天皇も追放され、孝謙上皇は称徳天皇として復位すると、道鏡は太政大臣という地位に就き、翌年は法王という地位を与えられている。

日本三大悪人、という言葉があるらしい。わが国の歴史上において天皇位を脅かそうとした三人の大悪人を指すようで、道鏡・平将門・足利尊氏をいうようである。道鏡はともかく、平将門も足利尊氏も歴史上に一石を投じた英雄であることを考えると、誰が作り出したものか分からないが、明治維新後のいわゆる皇国史観とやらによる偏見と考えられ、歴史の流れを見る上では全く無為と考えられる。
道鏡については、さらに称徳天皇との艶談を中心に、極めて下劣な伝承が残されているが、それらのほとんどは小説の世界と考えたい。 

ただ、道鏡はともかく、称徳天皇は本気で道鏡を皇位に就けようと考えていたのかもしれない気がするのである。
いわゆる道鏡事件というのは、太宰主神(ダザイノカンヅカサ・大宰府の下級官僚)にあった人物が、宇佐八幡宮の神託として「道鏡を皇位に就ければ天下太平となる」と奏上したもので、称徳天皇は和気清麻呂に確認に行かせたところ、偽の神託であったということになり、道鏡の皇位就任は実現しなかったというものである。
この結論に至るまでには、ちょっとした小説が出来るほどの経緯があったようであるが、誰かが絵を描いた企みと思われるが、それにしては単純すぎるような気がする。しかし、称徳天皇はその結果を持ち帰った和気清麻呂を厳しく罰し、「別部穢麻呂(ワケベノキタナマロ)」と改名させたうえ大隅国に配流しているのである。
気に入らない人物の名前を変えさせるのはこの天皇の十八番(オハコ)だったようであるが、もしかすると、本気で道鏡を後継者に考えていたのかもしれないという気がするのである。それは、後世面白おかしく作り上げられた道鏡との愛人関係などというものではなく、当時の後継者候補と考えられた皇族たちの器量に失望し、母方を中心とした藤原氏の権力把握を懸念したうえで、本当の意味で王たるにふさわしい人物を選ぼうとしたのではないかとも思われるのである。
それは、決して道鏡一族に王朝をゆだねるということではなく、血縁に拘らない、本当の王を模索したのではないかと、思えて仕方がないのである。

この事件から二年後の770年8月、称徳天皇は後継者を指名することなく波乱の生涯を閉じたのである。行年五十三歳であった。

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歴史散策  平安の都へ ( 5 )

2017-06-10 08:35:11 | 歴史散策
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            平安の都へ ( 5 )

光仁天皇

770年8月4日、第四十八代称徳天皇は崩御した。
生涯独身であった称徳天皇には実子はなく、皇太子も定めらておらず、後継指名は明瞭ではなかったらしい。

幾つかの文献によれば、称徳天皇が崩御した直後に、次の天皇を選ぶための会議が開かれたらしい。参加したのは、左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議藤原縄麻呂(タダマロ)、参議藤原宿奈麻呂(スクナマロ・のちの良継)、参議石上宅嗣(イサノカミノヤカツグ)、近衛大将藤原蔵下麻呂(クラジマロ)であったという。
こういう会議が本当に開かれていたという前提に立てば、当時の官邸(朝廷)の最高職位は左大臣であり、これに次ぐのが右大臣であることから、他の参加者の参議たちも有力官僚であったと想像できる。その中で注目すべきは、このメンバー以上の権力者と考えられている法王である道鏡が参加していないことである。
考えられることは、かねてより称徳天皇の道鏡への傾倒ぶりを面白く思っていなかった官僚たちが道鏡はずしに動いたということであり、もう一つは、称徳政権内の道鏡の役割は宗教に関するものが主体で、官僚たちとはある程度棲み分けが出来ていた可能性もあるということである。

称徳天皇崩御後も、道鏡は葬儀の後も御陵を守っていたが、8月21日に下野国の下野薬師寺別当に任じられて下向している。新体制による実質的な追放と思われる。しかし、政敵に対して残忍な処罰や報復が多発している当時としては、もし道鏡本人が皇位を狙っていたとすれば、例え流罪だとしても軽微すぎる感がある。言われるほど政治運営に関わっていなかったか、反対に、道鏡支持派勢力を無視することが出来なかったかのどちらかと思われる。
道鏡は、772年5月に当地で没しているが、行年七十三歳くらいと考えられ、病没と考えられている。道鏡の死を受けて、道鏡の力で昇進していた弟など四人が土佐に流罪になったが、道鏡本人への懲罰はなかった。たとえ亡くなっていても、墓を暴いてまでも懲罰を加えることがあることを考えれば、少なくとも後継政権は道鏡が積極的に皇位を狙ったなどとは考えていなかったのではないだろうか。
いずれにしても、道鏡を歴史上の三悪人の一人だと言ったり、称徳天皇との仲をスキャンダラスに描いていたりされていることについては、事実とはかなり違うのではないだろうか。

さて、話を戻すが、後継者を選ぶ会議において、候補となっていたのは三人らしい。まず、後に光仁天皇となる白壁王で、天智天皇の孫にあたり、この時六十二歳。そして、天武天皇の孫にあたる文室浄三(フンヤノキヨミ・智努王)七十八歳と弟の文室大市(フンヤノオオイチ・大市王)六十七歳の兄弟であった。天智天皇にも天武天皇にも多くの皇子がおり、その孫の代となればもっと多くの血族がいると考えられるが、そのほとんどは激しい後継者をめぐる争いの中で粛清されてしまっていて、候補者となった三人が高徳であったということではなく、ほとんど残っていなかったということのように考えられる。しかも、称徳天皇の行年が五十三歳であることを思えば、生前に後継者を選ぶことは簡単なことではなかったのだと推察される。
会議においては、おそらく、最高位である藤原永手が議長役を務めたと考えられるが、吉備真備は天武天皇の血統を重視して文室兄弟を推し、藤原宿奈麻呂らは白壁王を推挙していたらしい。その理由は、藤原氏との繋がりが薄く天武勢力の影響を受けやすい文室兄弟を嫌ったのではないかと考えられる。

結局後継者は白壁王に決まるわけであるが、その決め手になったのは、参議藤原百川らが称徳天皇の遺詔であるとして、白壁王を後継者にする旨の詔(ミコトノリ)を読み上げたからであった。それにより、会議は一気に決したという。
称徳天皇の信頼が厚かった吉備真備が、そのような遺詔があれば知らないはずがないと思われるが、特に反論することはなかったらしい。おそらく、藤原百川が会議に加わってきたことは、すでに藤原氏勢力によって綿密に仕組まれていることだと考えて、抵抗することは無駄と考えたからではないだろうか。
吉備真備は、光仁天皇即位後に老齢を理由に引退を申し出たが、兼務していた中衛大将のみ辞任が認められたが、右大臣職は慰留されている。これは、光仁天皇が藤原氏の専横を抑えようとしたものか、反対に、藤原氏が天武系豪族を抑えさせようとしたかのどちらかと思われる。結局翌年には辞任が認められ、その後は政治の表舞台に立つことはなかった。。
そして、四年後の775年に八十三歳(八十一歳とも)で薨去した。政争に巻き込まれることもない最期であったらしい。

真偽はともかく、藤原氏の強い後見を得て即位した光仁天皇(白壁王)であるが、客観的に見れば、若干高齢ではあるが、後継者として適任と思われる部分も多い。
光仁天皇の父は天智天皇の第七皇子である志貴親王である。志貴親王の母は道君氏の娘で、皇族でも有力豪族でもない。また、光仁天皇の母も紀氏の出で、やはり有力豪族とはいえいない。しかし、壬申の乱に敗れた天智天皇の皇子やその子孫たちにとって厳しい時代か続いたが、光仁天皇は八歳で父を失くして後見者を失い、昇進が遅れていたことがむしろ幸いし、政争に巻き込まれることがなかったようだ。また、一説には、藤原仲麻呂の乱など、称徳天皇の後継をめぐる政争では、専ら酒などを飲んで凡庸を装っていたともされるが、これは少し出来過ぎた話のような気がする。いずれにしても、皇位争いとは縁がないような立場にありながら、気が付いてみると、天智系で唯一ともいえる存在になっていたのである。
さらに、称徳天皇の異母姉を妻にしていて、二人の間には他戸王(オサベオウ)という子供がいたことが、天武系の皇族や豪族たちに安心感を与えたはずである。つまり、光仁天皇は、天智系と天武系を繋ぐ絶妙な立場にある人物だったのである。

即位した光仁天皇は天武系皇統の井上内親王を皇后とし、二人の間の御子である他戸王を皇太子に定めた。やがては、天智系を父とし、天武系を母に持つ天皇が誕生するための布石に見えた。
それは、ちょうど継体天皇が大和入りするにあたって、旧王権の皇女である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を皇后に迎え、やがては二人の間の皇子が欽明天皇として安定王朝を築いたのを彷彿させるような姿といえる。
しかし、光仁天皇を実現させた政権の実力者たちは、まったく違う構想を描いていたのである。

称徳天皇の後継者選定の決め手を演出したのは、称徳天皇の遺詔なるものを読み上げたとされる藤原百川とその一族たちと考えるのは当然であろう。
選定会議に出席していたされるメンバーのうち、藤原宿奈麻呂(良継)は百川の兄であり、藤原蔵下麻呂は弟にあたる。この三人は、式家と呼ばれる藤原宇合(ウマカイ)の子である。
左大臣藤原永手は、北家と呼ばれる藤原房前の子であり、藤原氏の長者格であり、藤原縄麻呂は南家の藤原武智麻呂の子であるが母が房前の娘であることから永手と親しかったと考えられる。従って、会議を進行させ藤原氏の総帥の立場にあったのは永手と考えられるが、光仁天皇誕生への主導権を握っていたのは宿奈麻呂を長兄とする式家の三兄弟であったと考えられる。
そして、今一人の参加者である石上宅嗣は、物部氏の末裔であり藤原仲麻呂の乱では武人としても活躍しているが、どちらかといえば文人としての才能が高く、後に自宅を寺院とした一画に芸亭(ウンテイ・芸亭院とも。)と呼ばれる所に膨大な蔵書を収めて希望者に閲覧を許したとされ、これがわが国最古の公開図書館とされている。

このように後継者選定会議の参加者を見て行くと、光仁天皇に正面から反対するのは吉備真備だけと考えられ、事前の周到な準備もあって、おそらく、あっけないほど簡単に光仁天皇は誕生したように思われるのである。

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歴史散策  平安の都へ ( 6 )

2017-06-10 08:34:13 | 歴史散策
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不改常典

称徳天皇の崩御直後に開かれたとされる後継者を選ぶ会議において、藤原宿奈麻呂(良継)、百川らの画策によって、おそらくあっけないほどすんなりと天智天皇の孫にあたる白壁王(光仁天皇)が後継者に選ばれた。
前回と重複するが、この会議の参加者を列記してみると、左大臣藤原永手を首座として、吉備真備、藤原宿奈麻呂、藤原縄麻呂、石上宅嗣、藤原蔵下麻呂の六人で、そこへ藤原百川らが称徳天皇の遺言とする詔(ミコトノリ)を持って加わったことで、一気にことは決したらしい。

この会議において、称徳天皇の後継者候補と目されていたのは、天智天皇の孫である白壁王と、天武天皇の孫にあたる智努王と大市王の兄弟であった。
この時白壁王が六十二歳、大市王が六十七歳、智努王に至っては七十八歳というから、いかに後継者不足に陥っていたかが分かり、称徳天皇が皇太子を迎えることが出来なかったか理解できるような気がする。
同時に、会議に出席していたほとんどの者は、誰を後継者としてもつなぎ役的な天皇となると考えていたのではないだろうか。
会議に参加していた者たちの思惑を筆者が勝手に推定してみると、天武系の王を強く望んでいたのは吉備真備一人で、藤原永手などは、称徳政権の中核にあっただけに、天武系王朝の継続が無難と考えていたのではないだろうか。石上宅嗣も似たような意見だったような気がする。
これに対して、藤原氏、特に式家の兄弟である藤原宿奈麻呂と蔵下麻呂は一族の興隆を画策してはやくから忘れ去られたような存在であった白壁王に目を付けていたのではないだろうか。

この勝手な推定が当たっていたとすれば、選定会議は難航し、後継者の選定は手間取り、場合によっては戦乱ということさえ考えられなかったはずである。
しかし、そこへやはり式家の百川が称徳天皇の遺言という乱暴でありながら絶対的な決め手となる詔を持ち込んできたのである。おそらく吉備真備はそのような詔が存在していることなど信じなかったと思われるが、事はすでに出来上がっていることを察知して強い抵抗は示さなかったらしい。藤原永手や石上宅嗣は積極的に反対するほどのことはなかったと思われる。
この三人が強く反対しなかった理由の第一は、すでに白壁王擁立の図面が出来上がっていると察知したことと思われるが、もう一つの大きな理由としては、白壁王には、井上内親王という聖武天皇の皇女が妻になっており、しかも二人の間には他戸王(オサベオウ)という御子がおり、この王(白壁王の即位後は親王)を皇太子に立て次期天皇にすれば天武系の天皇となるとの思惑があったのであろう。

後世になって考えれば、光仁天皇の即位は、いわゆる天武王朝が終焉を迎え、天智系天皇への移行があったと見えるが、水面下での激しい画策はあったと推測されるが、表面的には大きな争乱もなくスムーズに皇位継承が行われたように見えるのは、井上内親王・他戸王の存在があったからと考えるのである。
いずれにしても、いわゆる天武王朝は光仁天皇の即位により消滅することになる。筆者個人は、そもそも天武王朝という考え方には納得しておらず、むしろ、この期間は持統王朝と表現すべきだと考えているが、その過程において、何人もの女性天皇の誕生を見ているが、長い皇統の歴史の中で突出した現象となっている。
そして、また、この時代に限ったことではないが、皇位をめぐる凄惨で悲しい事件も多発している。そうした皇位をめぐる争いの中から誕生したのではないかと考えられるものに、「不改常典」と呼ばれるものがあるので、少々触れておきたい。

不改常典(フカイノジョウテン/あらたむまじき つねののり)と呼ばれるものは、正式な法令とか条令といったものではなく、後世の歴史家によって呼ばれるようになったものである。
最初に登場するのは、元明天皇の即位の詔の中で、「かけまくも かしこき 近江の大津宮に あめのしたしろしめしし 大倭根子天皇(天智天皇)の 天地と共に長く 日月と共に遠く 改まるまじき常の典と 立て賜い 敷き賜える法」という形で登場している。
この、「改まるまじき常の典」という部分から「不改常典」と呼ばれているのであるが、このくだりがあるのは、元明、聖武、孝謙の三天皇の詔だけであるが、桓武天皇以後は、「初めて賜い定め賜える法」といった表現になっているが、これも含めて「不改常典」と呼ばれることが多い。
すべての天皇の即位の詔に使われているわけではなく、全部で十四人の天皇の即位の詔に登場しているらしいので、むしろ一部の詔に登場しているというべきかもしれないが、詔の中で前天皇について述べて場合もあることから、実際にはこの不改常典には相当の意味合いがあると考えるべきかもしれない。しかも、最後にこの表現が見られるのは、1710年に即位した第百十四代中御門天皇の即位の詔であることを考えれば、実に長期に渡って影響を保っていたことになる。

この不改常典の意味する所については、様々な説が唱えられている。皇位継承方法について述べているとか、治世に関するものであるなど多くの学者が研究され意見を述べられているが、今に至るもいずれも定説に至っていない。それに、そもそも、天智天皇が定めた法であるということじたい、果たしてどれほどの信憑性があるのかということも大きな疑問として残されていると思われる。
本稿では、この不改常典たるものが、何故元明天皇の即位の詔の中に登場してきたのかという疑問に絞って考えてみたい。

まず、元明天皇の前後の天皇について見てみよう。
*40 天武天皇 父・舒明天皇、母・皇極天皇。 壬申の乱において天智天皇の御子、大友皇子(即位していたという説もある。)を破って皇位に就いた。天智天皇と両親とも同じとされる。 
*41 持統天皇 父・天智天皇、母・蘇我遠智娘。 天武天皇の皇后。
*42 文武天皇 父・草壁皇子(父・天武、母・持統)、母・元明天皇。
*43 元明天皇 父・天智天皇、母・蘇我姪娘。 皇位に就くべき立場にあった草壁皇子の未亡人であり、前天皇の実母。
*44 元正天皇 父・草壁皇子、母・元明天皇。 元明の御子であり、文武の姉にあたる。
*45 聖武天皇 父・文武天皇、母・藤原宮子(藤原不比等の娘)。
*46 孝謙天皇 父・聖武天皇、母・藤原安宿媛(光明皇后。藤原不比等の娘)。
*47 淳仁天皇 父・舎人親王(天武の皇子)、母・当麻山背。孝謙天皇から譲位されるも、在位六年で孝謙上皇に廃され、淡路に流される。淡路廃帝と呼ばれる。
*48 称徳天皇 孝謙天皇が復帰(重祚)。 崩御により、天武王朝は消滅。

このような皇位継承の流れを見てみると、いくつかのことが浮かび上がってく。
まず一つは、天武天皇から草壁皇子、文武天皇、聖武天皇と天武の男系天皇を必死になって護っているように見える。その間に怒っている葬り去られた皇子たちの哀しい事件を重ね合わせるとさらにその思いが強くなる。
もう一つは、聖武天皇から藤原氏の血脈が大きく加わっていることが分かる。
そして、これは、本稿を通じての筆者の考え方であるが、上記した期間の皇位継承は、持統天皇、そして元明天皇を通じての天智天皇の血脈を護り通すための王朝であって、持統王朝と呼ぶべき性格の時代であったと思うのである。

その証左として、天武天皇の孫にあたる淳仁天皇に対する厳しい対処もその一つのように思われるが、何よりも、「不改常典」こそがそれを示しているように思われるのである。
「不改常典」にあたる詔は、日本書紀には登場していない。日本書紀は持統天皇統治期までが記されているが、天智天皇の項にも登場していない。つまり、元明天皇の即位の詔に初登場したのが事実だとすれば、この時期に作り出されたものと思われる。似たような伝承があったのかもしれないが、この時代に誰かが定めた法だとするのであれば、それは天武天皇であるべきだと思うのである。壬申の乱という大戦を経ていることを考えれば、万が一にも天智天皇が定めていたとしても、天武王朝下においてそのような定めを用いることはとても理解できない。つまり、元明天皇は、持統も含めた天智の皇女としての血脈こそを重視したのであって、天武の血脈を伝えることなど考えていなかったのである。
この推定を征討と主張する場合、天智天皇と天武天皇は両親が同じの兄弟とされているのに、何故天智と天武の血脈を分けて考えるのかという問題が浮上してくる。それゆえに、筆者は、少なくとも天武天皇の父が舒明天皇ということには疑問を描いているのである。

「不改常典」の意味する所は諸説があり、簡単に歴史を学ぶ場合には、ほとんど時間を割かないと思われるが、少なくとも、継体天皇の時代から桓武天皇が平安京に移るまでの王権について考える場合、無視できない意味を持っているように思うのである。

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歴史散策  平安の都へ ( 7 )

2017-06-10 08:33:20 | 歴史散策
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桓武天皇

称徳天皇が後継者をを定めることなく崩御して、いわゆる天武王朝(筆者個人は持統王朝と考えている)が終焉の危機を迎えた時、後継者の選択は大変な難事と思われたが、意外なほどにすっきりと白壁王(光仁天皇)に決まった。
その経緯などについては前回までに述べてきたが、やはり、白壁王には他戸王(オサベオウ)という御子がいたことが決め手になったように思われる。
つまり、天智天皇の孫とはいえ天武・持統の血脈を護ってきた称徳天皇政権下においては、六十二歳の白壁王は忘れ去られていたといってよいほど注目を浴びない存在だったはずである。一方で候補に挙がった天武天皇の孫たちも、さらに高齢であり、誰を選ぶとしても繋ぎの天皇になると考えていたはずである。

そう考えた場合、白壁王が天智天皇の孫であるとしても、その御子である他戸王の生母は聖武天皇の皇女である井上内親王であり、母系を通じてであるが天武・持統の血統を護ることになり、むしろ母系で繋ぎ護られることの方が良いとまで考えた人たちもいたように思うのである。この部分は、筆者の個人的な見解であるが。
そして、白壁王の次に他戸王を即位させて行けば、かつて、継体天皇が大和入りするにあたって、旧ヤマト王朝の血を受け継いでいる手白香皇女を皇后に迎え、その後曲折はあったが欽明天皇によって王権が安定したことを思い浮かべたものと考えられる。
しかし、白壁王擁立に動いた藤原氏の思惑は、さらに先を見据えていたのである。

白壁王が光仁天皇として即位し、やがてその御子である他戸王が皇太子となり次期天皇になるのであれば、この天皇は父方は天智天皇のひ孫であり、母方は聖武天皇の皇女であり天武天皇の流れを受け継ぐことになるので、藤原氏一族の専横を懸念しながらも、納得できる皇位継承だと多くの皇族や豪族たちは考えたと想像される。
だが、白壁王擁立の中心人物である藤原百川らの思惑は全く違うものであったのである。その狙いは、天武系天皇の排除であり、それに繋がる豪族など有力者たちからの王権奪取だったのである。

光仁天皇を誕生させた時の朝廷政治の首座は左大臣藤原永手であったが、光仁天皇即位の翌年に薨去し、右大臣吉備真備も辞任した。その後、首座の地位に就いたのは右大臣大中臣清麻呂(オオナカトミノキヨマロ)であった。
この人物は、藤原仲麻呂の乱で功績あげ孝徳上皇に認められ昇進してきているが、温厚で敵の少ない人物であったようだ。また、その時の功績により大中臣の姓を与えられ中臣姓から改名している。聖武天皇の御代から桓武天皇までの六代の朝廷に仕えて八十七歳で天寿を全うしているが、失脚らしい経験はほとんどなかったらしい。
また、他戸皇太子の東宮傅(トウグウノフ・皇太子の教育機関の一つ。大臣や大納言が兼務することが多かった。)を務めていたが廃されたため免ぜられたが、山部親王(後の桓武天皇)が皇太子になると、その東宮傅に任じられている。
このように、政争に巻き込まれることなく高官の地位を守り続けているが、同時に政権の行方を主導するようなこともなかったようだ。

光仁天皇の御代の朝廷を実質的にリードしたのは、内臣(後に内大臣)の藤原良継(宿奈麻呂から改名)や光仁天皇擁立に功があった新参議の藤原百川らであった。
そして、完全な天武系天皇を拒絶しながらも、その支持勢力との融和を図る切り札として他戸皇太子が誕生したと見えたが、彼らの真の狙いは、その程度の事ではなかったのである。
光仁天皇の即位の翌月には井上内親王が皇后となり、三か月後には他戸皇太子が誕生した。ここまでは光仁天皇誕生に賛成でなかった勢力も納得できる流れであった。
ところが、即位から一年余りたった772年3月、井上皇后は光仁天皇を呪詛したとしてその地位を追われ、他戸皇太子まで廃されてしまったのである。皇后が天皇を何の目的で呪詛したのか伝えられていないようであるが、もしあるとすれば、他戸皇太子の安全を願っての事としか考えられない。この時代、呪詛という問題がよく登場するが、実際にそのような事がよく行われていたらしいし、同時に冤罪というより仕組まれて陥れられるという事件も多かったと考えられる。
本件も、おそらくは他戸皇太子を失脚させるための計略であったと思われる。

翌773年1月、空席となっていた皇太子に山部親王(後の桓武天皇)が就いた。
山部親王は光仁天皇の皇子であるが、生母は高野新笠(タカノニイガサ)という百済系渡来人の出自である。当時の伝統として、天皇の位に就くためには父親の出自が重要であったが、母親の出自も同じように条件があった。皇族であることが一番であるが、蘇我氏など限られた有力豪族の娘がそれに準じていたようだ。光明皇后が誕生してからはその有力豪族の中に藤原氏も加えられたようであるが、高野新笠の出自の皇子か皇太子に就くなどとても考えられることではなかった。
余談になるが、壬申の乱を天武天皇と戦った天智天皇の皇子である大友皇子の母親は、伊賀采女宅子娘という地方豪族の出自である。大友皇子は即位していたという説があり、現に皇統では三十九代弘文天皇として認知されているが、当時、多くの皇族や有力豪族たちに支持されての即位であったととても考えられないのである。

しかし、当時としてはとても天皇候補として挙がるはずがない山部親王を密かに手中にし守り育てていた人物がいたのである。それは、藤原式家の兄弟たちで、一家の長は藤原良継であるが、良継は早くから政権の中心にあったことから天武系の皇族や豪族たちへの遠慮もあったと考えられ、中心に動いたのはむしろ藤原百川あたりではなかったろうか。
おそらく、山部親王を皇太子に就かせることは、光仁天皇を実現させる時からの筋書きであったと考えられるが、藤原氏の長老である藤原北家の左大臣藤原永手が薨去したことが実行への契機になったのであろう。
山部皇太子が実現し、やがて桓武天皇として即位することによって、藤原氏の中でも式家が抜きん出た存在になっていくのである。
その証左として、桓武天皇に続く平城天皇と嵯峨天皇の生母は良継の娘であり、その次の淳和天皇の生母は百川の娘なのである。もちろん父親はいずれも桓武天皇である。

桓武天皇が誕生したのは737年であるから、聖武天皇の御代にあたる。いわゆる天武王朝が絶頂期を迎えていた頃であり、天智天皇の孫にあたる白壁王(光仁天皇)の存在感は極めて薄く、たとえ最初の男の子とはいえ、母親の出自が低いこともあって、山部王と呼ばれることになる御子の誕生は、朝廷においてはほとんど話題にもならなかったのではないだろうか。その誕生の正確な月日が記録されていないことがそれを物語っている。
成長した後も、山部王は皇族としての手厚い待遇はされなかったらしく、官僚としての昇進を目指していたらしい。
やがて、朝廷を中心とした上流階級の多くが予想もしていなかった光仁天皇が誕生したことによって、山部王は山部親王となり、皇族としての待遇を受けるようになったが、その時点でも山部王が皇太子になり天皇に就くなどと予測した者はいなかったと考えられる。
但し、藤原式家の一部の野心家たちを除いてであるが。

このように見てくると、歴史のいたずらと言っていいほどの偶然と、多くの人たちの想像を超えるほどの野心家たちの綿密で強引な策謀とが見事な結晶となって、桓武天皇は誕生したと思えるのである。
こうして生まれた天皇は、歴史の流れに逆らうように、あるいは歴史の期待に応えるように、新しい時代を見据えて行動していくのである。

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歴史散策  平安の都へ ( 8 )

2017-06-10 08:32:14 | 歴史散策
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平安の都を求めて

桓武天皇は、なぜ長年の王城の地である大和を棄てて新しい都を求めたのであろうか。
これについては、古くから色々な理由が述べられてきている。その理由の多くは納得性があり、桓武天皇に少なからず影響を与えたものと考えられる。しかし、天皇といえども一人の人間だとすれば、様々な理由の集積の上に立って物事を決断したとされる場合、どの要因もがその原因というのは必ずしも正しくなく、最後に決断への背中を押したものがあると思うのである。
つまり、平城京を捨てることを決断するに至ったのには様々な要因が考えられるが、実際に行動を起こさせたものが何か一つあったような気がするのである。

それでは、桓武天皇が平城京を棄てるに至った原因らしものを挙げてみよう。
まず一つは、王朝の交代を広く喧伝するためということが考えられる。
天武あるいは持統王朝と考えれる王朝が断絶して新しい王朝が誕生したということを世間に認知させるためには、新都建設ということが最も効果的と考えることは納得性がある。天武系天皇が天智系天皇への移行は、桓武天皇の父・光仁天皇の時に起こっているが、光仁天皇が即位する時点においては、明らかに旧王朝との融合体と考えられていたはずである。
しかし、桓武天皇の即位は、旧王朝との決別であり、それを世間に認知させることが必要だったと考えられる。この世間とは、もちろん地方の有力豪族たちも入るとしても、最も認知させたかったのは、多くの皇族や王たちであり、平城京を守ってきた有力豪族や寺社勢力であったと考えられる。

もう一つは、早くから有力動機とされてきたものであるが、寺社勢力からの脱却である。
この時代の寺社勢力の本当の力を理解することは、現代人にとっては難解な部分が多いと思われるが、あらゆる部分で国家権力あるいは権力者に大きな影響力を持っていたようである。
真偽はともかく、桓武天皇自身が見聞きしたであろう現実として、法王にまで上り詰めた弓削道鏡の影響力の大きさがあったかもしれない。道鏡の事は特別な例としても、当時の貴人が病気になれば、医師にあたる人物が治療にあたったが、むしろ頼りになるのは祈祷であった。その祈祷も誰が行うものでも良いというわけでなく、身分が高くなれば高くなるほど、高名の禅師や祈祷師を求めたことは当然のことである。
そしてこれは、病気に限らず、精神的な悩み事や、一家の大事や時には国家の大事までも相談することもあったかもしれない。そういうこともあって有力寺社と宮廷や有力豪族との間には利害を共有したり相反したりすることが多くなっていった。それに何よりも、桓武天皇が表舞台に立ち始めた頃には、有力寺社の財政力や軍事力は、朝廷といえども無視できない力を持っており、国家運営上の障害になってきていた。
桓武天皇が、この勢力を朝廷から遠ざけようと考えたらしいことは、新設の都に平城京にある寺社の移転を認めていないことから推察できる。

また、桓武天皇が即位することについての抵抗も小さくなかったようだ。
桓武天皇は781年4月に病気となった光仁天皇から譲位されて即位した。相当強引な手段を経たとしても、皇太子の地位にある山部皇太子が即位するのは当然のことと思われるが、それでもなお反対する勢力は存在していた。
即位の翌年には、「氷上川継(ヒカミノカワツグ)の変」という事件が起きている。氷上川継という人物は、天武天皇の曽孫にあたり、母は聖武天皇の皇女・不破内親王という血統的には桓武天皇と何ら遜色なく、その従者が武器を持って宮中に侵入し、桓武を廃して川継を皇位に就けようとしたとされる大事件であった。
この事件の当事者である氷上川継は先帝光仁の崩御直後であることから罪を減じて伊豆への流罪となっているが、これに関連して多くの人物が地位を追われている。この事件も信憑性を疑いたくなる面を持っているが、天武系勢力がまだ健在であることを示すものであり、桓武勢力がせん滅を狙っていた可能性も考えられる。

さらに、桓武天皇を終生悩まされることになる早良親王(サワラシンノウ)の存在がある。
早良親王は桓武天皇の同母弟であるが、早くに出家していた。皇族とはいえ天智系であり、生母が帰化人の子孫であることなどから、桓武・早良の兄弟が皇族として生きていくことは困難と判断した白壁王(光仁天皇)は、桓武を官僚として生きることを模索し、早良を僧侶としての生涯を送らせようと考えていた。早良は、有力寺院である大安寺や東大寺で修業し、東大寺の次期別当という立場にまで上っていたようである。
病を得ていた光仁天皇は、桓武に譲位するとともに早良を還俗させて皇太子としたのである。正しくは皇太弟ということになるのであろうが、桓武にはすでに男の子がいることから不自然な形であるが、早良のバックにある東大寺の力を頼りにしたようで、適当な時期に、それもかなり早い時期に早良への譲位を考えていた可能性がある。それでなければ、決して良好な関係でなかった天智と天武の例を踏襲するかのような皇太弟という例外的な形は行わなかったと思うのである。
早良皇太子が壮絶な死を遂げるのは、桓武天皇が遷都を決意した後の事であるが、早良の存在が有力寺社、特に東大寺と距離を置きたいと考えた可能性を否定できない。

その早良皇太子をめぐる悲劇は、長岡京建設が実施された直後に発生している。
長岡京建設が始まった翌年、785年9月に建設の陣頭指揮にあたっていた中納言藤原種継(タネツグ)が矢で射殺されるという事件か起こった。藤原式家の種継は桓武天皇の信頼が厚く、遷都に反対する勢力の仕業であることは当然考えられる。
犯行の中心人物として大伴継人(ツグヒト)や佐伯高成らが捕えられ、その自白から春宮大夫(トウグウノダイブ・東宮職の長官)を務めていた中納言大伴家持が一族や佐伯氏などと結束して、早良皇太子の了解のもとに皇位を奪おうとしたものと結論付けられた。
家持は事件発覚の直前に亡くなっていたが、連座して死後除名(シゴジョミョウ・官僚としての名誉を剥奪する罪)を受け、春宮職にあった官僚も多く逮捕された。当然、早良皇太子にも累が及び、春宮宮殿から乙訓寺(オトクニジ)に移され幽閉されたが、自ら食を断って抵抗を示し、十余日後に淡路に移送される途中で憤死してしまった。それでもなお遺骸はそのまま淡路に送られて葬られた。
この為早良親王は怨霊となり、この後桓武天皇を悩まし続けるのである。

以上、桓武天皇が平城京を棄てた理由について、その原因らしいものを列記してみた。
この他にも、今日では知りえないような状況や心理的な圧迫があったのかもしれない。また、桓武天皇が即位して八か月後に父光仁が崩御しているが、山部親王(桓武天皇)を策謀を以て皇太子に押し上げた張本人ともいうべき藤原良継・藤原百川は桓武天皇が即位する以前に没している。つまり、熱烈な支援基盤を失ったともいえるし、自らの暗部を熟知している人物たちが消えて行ったといえるかもしれない。
おそらく、桓武天皇が遷都を決意した理由は、幾つかの要因が重なった結果だと思われるが、筆者個人としては、あまりにも汚れきった過去からの脱出だったのではないかという気がしている。重過ぎるしらがみに堪えかねて、「もう、こんな所でやっていられるか」と思ったというのは、さすがに乱暴すぎる言い方であろうか。

桓武天皇が平城京を棄てようとした本当の理由を見つけ出すことは難しいが、遷都先を長岡京とした理由は比較的分かりやすい。
水運の便や地形なども理由の一つに上がるかもしれないが、この地は秦氏の勢力圏であり、渡来系豪族の力が強い地位であったことが何よりの理由であることは間違いあるまい。
桓武天皇の生母の高野新笠は渡来系の出自であり、当然桓武天皇自身に対する渡来系豪族たちの期待は大きく、手厚い支援があることは想像に難くない。また、長岡京は本格的な王城を求めるための仮の都であったという説もあるが、現在推定されている規模からすれば、本格的な都建設に向かっていたと考えるべきだと思われる。

では、その希望の新宮城を着工から五年ほどで次の地を求めたのは何故であろうか。
一般的に言われていることは、長岡京着工後に次々と不吉な出来事が発生したことがその理由とされている。大きな水害が続いたこと。早良親王を死に追いやってまで就任させた安殿(アテ)皇太子が病床に着くようになったこと。蝦夷との戦いで大敗したことなどである。そして、それらの多くは、早良親王の怨霊のなせる業だと考えられたらしい。そればかりでなく、桓武天皇本人が、早良親王の怨霊に苦しめられたらしのである。
これは推定ではなく、792年には、安殿皇太子の病気が早良親王の祟りだとして遥々淡路まで使者を遣わして祀らせている。その後も再三僧侶などを遣わし、800年には崇道天皇の尊号を追贈し、その後もたびたび慰留にあたっている。そして、末期に当たって桓武天皇は大伴家持など早良親王事件に連座した人たちを復権させている。よほど心の重荷になっていたようで、やはりこの事件には冤罪の臭いがする。

皇位を獲得するまでの汚れた過去を平城京に棄ててきたはずが、我が子を皇太子に就けるための強引な策略が再び桓武天皇を悩ませていたのかもしれない。それも、早良親王の怨霊という強大な祟りまで加わってである。もしかすると、井上皇后や他戸親王の怨霊も加わっていたのかもしれない。
桓武天皇が怨霊に悩まされていたらしいことは歴史上の常識ともいえるが、怨霊により歴史が動いたというのは私たちには納得しがたい面はある。しかし、桓武天皇の御代のほんの五十年ほど前には、権力の頂点にあった藤原氏の四兄弟が長屋王の祟りによって次々と死んで行ったと広く信じられていたようであるから、桓武天皇の心労は決して小さな物でなかったはずである。

789年には、再び新しい地を求め、794年には、新しい都が平安京と命名された。
この地が選ばれたのには、風水上極めて優れた土地であるなどとも言われているが、選定された一番の理由は、やはり秦氏の本拠地であったことが大きな理由と考えられる。
いずれにしても平安京は、千年を超える王城の地として繁栄して行くことになる。
私たちは、平安京の生みの親は桓武天皇だと考えがちであるが、もしかすると、早良親王、あるいは井上皇后や他戸親王の怨霊に導かれて、大和王権が平安の都に辿り着いたのではないかと思ったりするのである。

                                        ( 完 )

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