雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語  第十三部

2015-09-24 14:58:44 | 小さな小さな物語 第十三部
          小さな小さな物語  第十三部  


             No.721 から No.780 までを掲載しています   
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小さな小さな物語  目次

2015-09-24 14:57:00 | 小さな小さな物語 第十三部
          小さな小さな物語  目次

     No.721  地方創生
        722  本物とは何か
        723  近付くことは出来る
        724  憲法違反は恥ずかしい
        725  伝統と改革    


        726  北陸に優勝旗
        727  統一地方選挙
        728  褒められて育つ
        729  隠し味
        730  地方の時代


        731  自由の限界
        732  リベンジ
        733  巨星の最期
        734  初心忘るべからず
        735  ウインウインの関係


        736  花の色は様々
        737  遊び方も様々
        738  火の山
        739  世界遺産
        740  幸せの分量
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地方創成 ・ 小さな小さな物語 ( 721 )

2015-09-24 14:56:11 | 小さな小さな物語 第十三部
地方自治、あるいは地方創成という言葉が聞かれるようになってから久しいですが、実態はどうなのでしょうか。
現内閣も、「地方が元気になるように」と地方の繁栄を重要政策の一つとされています。テレビ報道などでも、村おこしや町おこしなどについて、成功したとされる例が紹介されることが時々あります。
しかし、実際のところはどうなのでしょうか。

三月十七日付の毎日新聞朝刊の一面トップ記事には、「無投票の首長 過半数」ということが大きく報じられていました。
その横には、「バヌアツ壊滅的 支援難航」というサイクロンによる被害報道が、状況を伝える大きな写真があるとはいえ、トップ記事より控え目に載せられていました。
トップ記事の内容は、『 民間の有識者会議「日本創成会議」が昨年推計した「消滅可能性都市」で消滅可能性が高いとされた上位100の市町村のうち、過半数の52市町村で直近の首長選が無投票になっていたことが分かった。地方の衰退が、民主主義の基本である選挙にも影響を及ぼしている。 』
というものです。重要といえば重要ですが、トップにするほどのことなのかとの違和感がありましたが、同新聞社は重要問題と認識したのでしょう。
無投票で選ばれた首長が駄目だということではないのでしょうし、この状況が地方の民主政治を脅かせていることになるのかどうかはともかく、積極的にその市町村のトップになろうという人が少ないということだけは確かなようです。

折から、ある村の村議会が解散になったということがテレビで大きく報道されています。
人口わずか六千人に満たない小さな自治体の村議会の解散が話題にされたのは、首長がセクハラ騒動の渦中の人物であり、それを追及されることから予算審議などを投げ出して議会を解散させたそうです。
セクハラ云々は訴訟になるようですから是非を問うのは避けたいと思いますが、六千人に満たない人口で自治政治を行っていくことが、果たして地方創成に役立つのかどうか疑問を感じました。消滅の可能性が高いとされた市町村が、ほんとうにそのような環境にあるのかどうか、個人的には若干の疑問を抱いておりますが、人口が確実に減っていく時代を迎えているわが国は、人口の減少に先立つ形で地方自治体の数を思い切って整理していく方針を立てることが絶対に必要なのです。
北陸新幹線開通の喜びに満ちた報道がありました。鉄道が地方に活況をもたらす大きな力になることは確かでしょうし、そうなることを切に願っています。
しかし、あらゆる小規模な市町村が頑張って、わが国の人口が一億人を切った段階でも、現在とと同じ数だけの地方自治体が残っていたとすれば、おそらく、そのことだけでも、大きな社会問題となることでしょう。

大都会に生活する人が、地方の都市や村を訪れると、ほっとするという声を聞くことがよくあります。
幾つになっても、「うさぎおいし かのやま・・」という歌を聞けば郷愁を誘われるものですし、小さな漁村の夕陽を見るために遥々と尋ねてくる旅人は後を絶たないという話も耳にします。
美しい国土、豊かな文化・伝統、それらの多くを地方の町や村が支えていることは確かでしょうが、その根本には、しっかりとした地方自治の体制が確立している必要があると思うのです。
予算を地方に回し、女性を多く登用し、農業や漁業を一人前の産業に育成していく・・・、どれもこれも大切なことなのでしょうが、地方自治を担う、しっかりとした人物を養成することも重要な要素のように痛感するのです。

( 2015.03.19 )
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本物とは何か ・ 小さな小さな物語 ( 722 )

2015-09-24 14:55:03 | 小さな小さな物語 第十三部
「本物とは何なんですか?」
と、戦地帰りの青年が、主人公に尋ねるシーンが実に印象的でした。
NHKの朝の連続ドラマの一シーンなのですが、もう少し詳しく場面の説明をした方が分かりやすいと思うのですが、無断で作品の内容を書いて良いのかどうか自信が無いので割愛させていただきます。
ただ、非常に印象的なセリフで、おそらく、このドラマ全体を通してでも重要な意味を持つ青年の必死の訴えだったように思いました。

ドラマでのことはともかく、確かに、「本物とは何か」ということは、難しいテーマのように思われます。
そもそも「本物」というものの正体も、そうそう簡単に説明できないような性格を持っているように思われます。そこで、例によって広辞苑の力を借りてみますと、「本物」とは、「①にせものでないこと。 ②その名に価する本当のもの。 ③もときん。元金。」と説明されています。
つまり、①の意味としては、うがった見方をすれば、「にせもの」でなければ本物だということになり、かなりあやふやな本物も存在するという感じがしないでもないような気がします。 ②の意味は、例えば名人芸などといったものを指すのでしょうが、この場合も評価する人によって差異があり、絶対的な標準を定めることを前提にしていないような気がします。 ③となれば、これは少し難しいような気がします。単純に考えれば、預金などでいう「元金」を指していると考えられ、「いついつになれば利息が付いていくらになる」といった場合の、水増し分を除いたものを指すのだと思うのです。

たかだか「本物」という言葉の意味だけでムキになることもないのですが、最初に述べたドラマの中の「本物とは何なんですか?」という台詞のインパクトがあまりに強かったため考えてしまったわけです。
ふつう私たちが「本物」という言葉を使う場合、それほど厳格な意味で使うことの方が少なくて、「にせものでないこと」という説明にあるように、明らかな偽物以外は「本物」の許容範囲にしているのではないでしょうか。
また、カラオケや素人芸のモノマネなどに対して、「うまいなぁ、あれは本物だよ」などと簡単に言葉にすることがありますが、何もその人を名人上手として評価しているわけでもなく、かなりのお世辞も含んだ社交辞令のようなもので、言う方も聞く方もそのようなことは承知の上で、それだからこそギスギスとなりがちな世間がうまく回っているのかもしれません。

私たちの先人たちは、偽物は偽物として糾弾するとしても、「本物」というものに相当の許容範囲を与えることで、世間の付き合いの潤滑油としていたように思うのです。学問や技芸、あるいは容姿などもそうですし、宗教や哲学に対しても相当広い許容範囲を持っているのが私たちの社会の基本だったような気がします。そして、それは、美徳とも表現したいような誇りだと思うのです。
ただ、まことに残念なことに、このような私たちの社会をあざ笑うかのように、「振り込め詐欺」的な犯罪が後を絶たないのは、何とも辛いことです。

( 2015.03.22 )
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近付くことは出来る ・ 小さな小さな物語 ( 723 )

2015-09-24 14:53:51 | 小さな小さな物語 第十三部
桂米朝さんが亡くなられました。
人間国宝にまでなられたお方ですから、まさに国の宝ともいえる存在の方の逝去は、かなり前から体調は良くないと伝わっておりましたが残念なことでありました。
落語、特に上方落語の世界では、神様のような存在だったようで、多くの方に慕われ、また薫陶を受けた人の数も大変多いと報道されておりました。弟子や孫弟子・ひ孫弟子などは七十人に及ぶそうで、さらには、弟子で有る無しに関わらず、現在著名な落語家たちの多くがその逝去を惜しまれていました。

落語界について詳しいわけではないのですが、報道などによりますと、米朝さんが落語界に入られた頃は、まさに上方落語の灯が消えそうな状態だったそうです。米朝さんなど後に四天王と呼ばれることになる人たちを中心に、懸命の努力があって今日の隆盛に至ったそうです。
特に米朝さんの場合は、落語を演じるばかりでなく、放送業界など幅広い分野で活躍され、いかに後輩落語家達が食べていくことが出来るかということに腐心されたと言われています。それらの活躍の中でも、消えかけていた多くの演目を掘り起こして復活させ、自ら演じ、さらには文献として残されている功績は、後々の世まで後に続く人たちの手本になるのではないでしょうか。

十五歳で米朝師匠の内弟子に入ったという実質的な総領弟子の立場である桂ざこば師匠は、インタビューに答えて、その見事な往生ぶりを、「上手に亡くなられました」と涙を抑えて答えられ、さらに、「師匠を越える落語家はいない。師匠が残してくれた落語の全集などを勉強するとともに、教えを忠実に守りながら、落語の演目を身につけていくことの大切さを弟子たちに伝えていく」と続けられながら、ついに号泣されておりました。

落語に限らず、名人上手と呼ばれるほどの人の芸や技術を継承するということは簡単なことではありません。
それらの多くは、個人の資質に追う部分が大きいだけに、いくら指導を受け、研鑽を積んでも及ばない部分があるでしょうし、やはり、個性というものを消し去ってしまっては、次の名人も上手も誕生しないからだと思うのです。
名人上手とは少し違いますが、それらよりはるかに簡単だと思われる企業の継承者についても、育てることは簡単なことではないようです。
特に、このところ、お家騒動などと騒がれている経営権を廻る争いは、如何に爽やかに次代に引き継ぐのか、いかに伝統と改革を両立させていくのか、などといったことの難しさを示してくれています。
名人上手に追いつくことは簡単なことではありません。多くの実績を挙げた創業経営者や、中興の祖といわれるような経営者の跡を継ぐのも簡単なことではないのでしょう。
しかし、そのどちらにおいても、追いつくことは出来なくても、近付くことは可能だと思うのです。その距離はいくら大きくても、努力によってほんの少しだとしても近付けるはずです。
後に続く者はその努力が必要であり、後を託した者は潔さが必要な気がするのです。

( 2015.03.25 )
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憲法違反は恥ずかしい ・ 小さな小さな物語 ( 724 )

2015-09-24 14:52:39 | 小さな小さな物語 第十三部
たった今のこの時間でも、世界各地では多くの紛争が行われています。
あるいは、およそ人権など全く無視された状態で、人生や生命までも奪われていく地域も少なくないことでしょう。絶望的な飢餓が慢性化している地域も伝えられているだけでも少なくないですし、伝染病に苦しめられ満足どころか治療らしい治療も受けられない地域があることも、私たちは報道で知っています。
それらのどれをとっても、それなりに心は痛むのですが、しょせんは遠い国のこととして、そして、単なるニュースとして見ているに過ぎません。
そして思うことは、つくづく私たちの国はありがたい国だと思うことです。

しかし、本当にそうなのでしょうか。
確かに、個々の事情は様々にあるのでしょうが、総じて言えば、前記したような苦難からは守られている国家だということが出来るでしょう。
けれども、私たちは何か大きな間違いをしていて、歪んだ構造の中にあることに気付かないままに時を過ごしているのではないでしょうか。
厭な言葉ですが、「平和ボケ」といった状態の中に居るのではないでしょうか。

昨年の衆議院選挙を廻る無効訴訟では、各高裁で「合憲」「違憲状態」「違憲」と様々な判決がなされています。
人間の行為を、やはり人間である裁判官が判定するのですから、さまざまな意見が出るのは仕方がないのでしょうが、選挙の度にこのような訴訟が起きることも、民主国家の証だと喜んでいていいのでしょうか。
選挙、それも国権の最高機関の議員を選出する選挙は、民主政治を構築する中で重要な役割を担っているはずです。その選挙制度が、「合憲」とする方が高裁では少数の判決であることを、私たちはどう考えればいいのでしょうか。

憲法は、法治国家における為政者たちの暴走を抑えるためを大きな目的として作られているはずです。
憲法そのものに疑義を唱え、あるいは改憲が必要とする声も少なくありません。それらの意見の是非はともかく、現にあるわが国の憲法は、わが国民である限り、適当に扱ったり、いわんや無視していいものではないはずです。
高裁の多くで出されている「違憲状態」という判決も、何とも無責任な決定のような気がするのですが、前回も前々回もそうであったように、今回の選挙で選ばれた議員は、少なくとも高裁の意見を取るならば、灰色状態で選ばれた議員だということを、少しは認識しているのでしょうか。
そして何よりも、そのような議会や議員のもとで安穏と過ごしている私たちは、「憲法違反は恥ずかしい」ことだと、もっともっと感じなくてはならないのではないでしょうか。
この問題は、国会議員に改善する意志が極めて薄いことは承知の通りですし、裁判所も、「違憲状態」という何とも理解困難な判定が主流という状況のようです。
せめて、主権者たる私たち国民は、「憲法違反は恥ずかしいことだ」ということだけは肝に銘じたいと思うのですが。

( 2015.03.28 )
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伝統と改革 ・ 小さな小さな物語 ( 725 )

2015-09-24 14:51:08 | 小さな小さな物語 第十三部
世間の注目を浴びていた家具販売会社の主導権争いは、株主総会で決着させるというドラマチックな形で一応の終演となりました。
経営の実権者や経営方針などを株主総会で決着させるというのは、ごくごく当たり前のことですが、実際にはめったにお目にかかることがないようです。
これまでにも世間の注目を浴びた経営権争いが、株主総会での決着が注目されたことがありますが、それらのほとんどは、外部からの買収や、外部勢力の支援を受けて社内が対立した場合などがほとんどで、創業者一族による争いが株主総会まで流れ込むというのは大変珍しく、大いに興味がありました。

その対立の中心点が、経営方針にあるのか、肉親間の軋轢なのかは微妙に思われますが、これだけ大きく報道されてしまったことは、今後に様々な影響を与える可能性は否定できないでしょう。
テレビなどのコメントやインタビューなどでは、「家族がもめている店で家具など買いたくない」という声がかなり多く報道されていましたが、人の心理はそれほど単純なものではないはずです。
今回の騒動のテレビなどの報道が、同社の知名度を格段に高めたことは確かで、もし広告としてこれだけの報道媒体を使えば数十億円になるそうですが、実際はその視聴率や関心度の高さを加味すれば、百億円を超えるのではないでしょうか。
いくら世間の注目を浴びても、マイナスイメージが定着したという意見もあるようですが、そうとは限らないと思われます。
無事株主総会を乗り切った女性経営者の凛とした姿は、少なからぬファンを誕生させたのではないでしょうか。不祥事などで登場してくる、企業や官公庁の責任者などと比べてみて、その魅力の差は多くの人が感じたのではないでしょうか。
しかし、経営は、人気投票で決まるものではありませんから、注目度が高くなった分、これからのハードルは高いものになるでしょう。真価を発揮するのは今後の経営力次第といえましょう。
健闘を大いに期待しています。

ところで、わが国には長寿企業といわれる会社が多いそうです。その数は、世界的に見た場合突出しているそうです。
創業100年を越える会社は2万社ともいわれ、200年、300年という企業も相当あり、創業1000年を超える企業も数社存在しているそうです。
簡単に創業100年といっても、それらのどの企業にも、存続の危機といわれるような時が一度や二度はあったはずです。三百年、四百年となれば、社内事情による危機ばかりでなく、第二次世界大戦ばかりでなく明治維新という大きな社会変革を乗り越えてきていることになります。
今回の家具販売会社のお家騒動も、同社にとっては小さな事件ではないでしょうが、100年、200年の歴史を刻むのだとすれば、当然経験しなければならない試練だったのではないでしょうか。

わが国に長寿企業が多い最大の理由は、家族による経営が重視され、お家大事、お店大事の精神が引き継がれてきたことだそうです。もちろん、全くなかったわけではありませんが、ヨーロッパなどに比べて、内戦や外国からの侵略が少なかったことも大きな要因になっているのでしょうが、例えば、大阪船場の老舗の家訓などを見れば、営々と家業を引き継いでいく知恵が熱く伝えられているように思われます。
しかし、特に近代ともなれば、伝統を重んじるばかりで企業を存続させることなど難しく、常に改善・改革が求められるのでしょう。そして、伝統と改革が衝突し、御すことが出来なかった企業はその姿を消していったのでしょう。
伝統を守ること、新しい知恵を加えていくこと、このバランスはなかなか難しいようです。

( 2015.03.31 )
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北陸に優勝旗 ・ 小さな小さな物語 (726)

2015-09-24 14:49:14 | 小さな小さな物語 第十三部
春の高校野球は、福井県の敦賀氣比高校の優勝で幕を閉じました。
春・夏を通じて北陸勢初の優勝だそうで、同校関係者はもちろん、北陸地方の方々の喜びも大きいようで、晴れやかな報道が見られました。
全国から選抜された高校が甲子園球場に集まって戦うわけですから、郷土の代表としての誇りや責任もあるのはよく分かりますが、「北陸地方に初の優勝旗」と大きく報じられることに若干の違和感がありましたが、春の大会の場合は、地域ごとに選抜されることを考えると、関係者の間では今回の快挙は大きなニュースであったようです。

それにしても、敦賀氣比高校の猛打には驚かされました。
準決勝で記録された、「二打席連続の満塁ホームラン」などというのは、そうそう簡単にお目にかかれる記録ではないと思われます。一試合に一人で五本のホームランを打つより難しい記録ではないでしょうか。
おそらく、マンガやドラマなどで主人公に二打席連続で満塁ホームランを打たせても、感動を呼ぶどころかバカバカしいと思われてしまう可能性が高いのではないでしょうか。
まさに、奇跡的と言っていいホームランだったと思います。

高校野球に限らず、スポーツで活躍している選手のドキュメンタリーなどを見ていますと、必ずと言っていいほど奇跡的な出来事が一つや二つは含まれています。
テニスで活躍している人も、スケートで活躍している人も、陸上で活躍している人も、どの競技であれ、一流とされるほどの選手が登場してくる背景には、本人の血の滲むような努力が大きいとはいえ、周囲の支援や偶然に見えるチャンスなど、天の配剤のように見える一瞬が含まれているような気がするのです。
そのような絶妙とでも表現したいような「一瞬」は、スポーツなどは比較的分かり易いのですが、それ以外の分野でも、芸能や技術に関わる人や、一般的には平凡なサラリーマンと一括りにされがちな人たちにも、きっと、そのような「一瞬」があるのではないでしょうか。

「偶然が二度続けば奇跡的で、奇跡的なことが二度続けば、それはもう奇跡そのものだ」というのが私の持論なのですが、このように感じられたり、意識することもない中で、私たちは、そのような「一瞬」に出合っている可能性があるように思うのです。
折から、関東より西の地域では、桜が満開の時を迎えようとしています。
古来、私たち日本人は特に桜を愛でてきたようですが、大宮人たちが歌に詠んだ桜は山桜だと思われます。現在私たちが花見の対象としている桜は、ソメイヨシノが主流です。この桜は、交配によって生まれた桜ですが、まだその歴史は新しく、樹の寿命も比較的短いそうです。
人工的に誕生し、決して長くない寿命の中で、今満開の花を咲かせているソメイヨシノを眺められるのも、もしかすると、そのような「一瞬」の一つかもしれません。
お天気が心配ですが、近くの公園でお花見などいかがですか。

( 2015.04.03 )
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統一地方選挙 ・ 小さな小さな物語 ( 727 )

2015-09-24 14:47:49 | 小さな小さな物語 第十三部
統一地方選挙がスタートしました。
地域により選挙の有無や日程などに差があるようですが、広い範囲で地方政治を見直す機会が訪れたといえます。
道府県議選でいえば、41の道府県で選挙が行われますので、統一と言われるようにかなり集中しています。この他にも、市町村議会の議員選挙や、首長選挙が加わる地域もあり、選挙管理に携わる人はもちろん、選挙民にとっても何とはなく気ぜわしい日が続くことになります。

その道府県議会の議員選挙に関して、少々気になる報道がありました。
今回選挙が実施される41道府県議会の定数は、2284人だそうですが、そのうちの501人については無投票で当選が決まったそうです。定数の22%に当たるそうです。
今後告示されて行く市町村議会選においても、おそらく幾ばくかの無投票による当選者が生まれる可能性があります。
私たちは、この傾向をどう考えればいいのでしょうか。

市長などの首長選挙でさえ多くの無投票当選が出ていますが、その原因にはいくつかのことが考えられます。
立候補予定者がずば抜けて優秀なため対立候補が出現しなかったということもあるでしょうが、どうも極めて稀な例のような気がします。
多くは、人的関係や権益などが固定化していて新人やよそ者が割り込む隙がなかったり、選挙を戦うための準備を含めた資金が相当にのぼること、あるいは、相当知恵がなければ、そのような資金や体力を費やしても元が取れないといった辺りに大きな原因があるように思うのは、下種の勘繰りでしょうか。
視点を変えれば、無投票当選者が多く生まれるという背景は、若者を中心として多くの選挙の投票率が低下しているというのと同根だと考えられます。つまり、選挙そのものに興味も魅力も感じられない人が多くなっているということではないでしょうか。

選挙は激しいほど良いというわけではありませんが、立候補した人の全員、あるいはそのほとんどが当選するという選挙が続けば、資質の低下は避けられないのではないでしょうか。
昨今の地方議会議員による目に余るような行動や言動は、その証左の一つかもしれませんし、最近だけで言っても、地方議会議員などの状態は全く分かりませんが、国会議員の中からも、「勘弁してよ」というような行動がちらちら伝えられています。
結局、国会議員であれ、地方議会議員であれ、さらには組長を含めても、数が多すぎるということではないでしょうか。
ただ、こんなことを無責任に叫んでいるだけでは、わが国の政治、つまりは民度はどんどん低下して行くだけだということも、確かなことなのでしょう。
選挙をしたくても、無投票当選のためその機会も与えられない人には気の毒ですが、その機会を与えられた人は真剣に一票を投票しましょうよ。
その一票がどれほどの働きをするのか極めて頼りないのですが、私たちの多くは、この機会にしか民主政治に参画する機会などないのですから。

( 2015.04.06 )
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褒められて育つ ・ 小さな小さな物語 ( 728 )

2015-09-24 14:46:05 | 小さな小さな物語 第十三部
「褒められて育つタイプだ」という言葉を、テレビなどで自分を指して言うのにお目にかかったことがあります。
もちろん、冗談半分で、あまり真剣な気持ちや深刻な意味などないことを前提に話されていることがほとんどなのですが、なかなか考えさせられる言葉だと思います。
テレビに限らず、自分を指していう場合には冗談が混じっていることが多いと思うのですが、本気で自分のことを「褒められて育つタイプ」だと考えている人は意外に多いのではないでしょうか。もっとも、そういう人の大半は、褒められても大して育ってないような気もするのですが。

「褒めて育てる」の反対は「叱って育てる」ということなのでしょうが、つまり、「厳しく育てるか優しく育てるか」ということの議論になると思うのですが、これは遠い昔から行われてきたような議論だと思われます。
勉学であれスポーツであれ技術などの伝承であれ、「教える」ということは簡単なことでないことは、厳然たる真理でしょう。古来、さまざまな手法や接し方が議論され、あるいは伝えられていく中で、オーバーな言い方をすれば、「褒めて育てる」と「叱って育てる」は、典型的な対局軸として浮かび上がってきたのではないでしょうか。

ただ、「褒めて育てる」ということは有力な教育方針の一つなのでしょうが、「褒めること」と「甘やかすこと」とが混同されていたり、単に、接するのが恐いために厳しく出来ないことを「褒めて育てているのだ」と勘違いしているように見受けられることが多々あるように思われます。
「叱って育てる」という場合も同様です。自分の指導力の不足を、圧倒的に弱者の立場にある者に対して暴力・暴言まがいの力によって従わせようとすることを、「厳しい指導を行っている」などと本気で思っている指導者が少なくないことは、報道などでもよく見かけることです。
「理想的な教育者などそうそういるものではない」ということは事実でしょうが、とんでもない勘違いをしている指導者によって育てられていった人々の不幸を考えると、何らかの対策が必要な気がします。
そして、これは、単に個々の指導者の問題だけでなく、例えば、昨今の国政から地方政治に至るまでの選出された人の中から、人格さえ疑いたくなる人物が次々と登場しているのを見ますと、選挙民たる私たちこそが、甘やかすだけ甘やかせて、問題が出てくれば、ただただ厳しく叱りつけている、といった最悪の指導者と同然に振る舞っているような気がするのです。

かつて、相当古い話になりますが、すでに故人となられた、ある大経営者と呼ばれた方は幼児教育にも注力されていて、その著書の中で、「甘やかすのは良くない。厳しすぎるのも良くない。しかし、最も良くないのは、無関心であることだ」と述べておられました。(記憶で書いていますので、正しい文章ではないかもしれません)
折から、地方統一選挙が展開されています。私たちが選挙に無関心であることが、政治を志す人を育てる上で、最も大きな弊害になっているのではないでしょうか。

( 2015.04.09 )
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