雅工房 作品集

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運命紀行  清風は明月を払う

2012-09-04 08:00:31 | 運命紀行
       運命紀行


          清風は明月を払う


『 信長之時代、五年、三年は持たるべく候。明年あたりは公家などに成さるべく候かと見及び申し候。左候て後、高ころびにあおのけに転ばれ候ずると見え申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候 』

これは、安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)の手紙の一部である。
恵瓊は毛利氏の外交僧として、将軍足利義昭をめぐって微妙な関係にある織田信長との関係を調停すべく、信長側の使者である日乗上人、木下藤吉郎らと折衝を重ねていた。
この交渉の主眼は、信長と義昭の和解であったが、この目的は達せられなかったものの、織田・毛利の衝突はとりあえず避けることが出来たのである。

冒頭の手紙は、その交渉後の帰途で、吉川元春の重臣山県越前守と小早川隆景の重臣井上春忠に宛てた、京都の情勢などを伝えたものの一部で、日乗上人などに加え、信長と藤吉郎の人物評価がされているもので、この二人の将来を予言したものとして大変著名な文献である。天正元年の十二月のことである。

この天正元年(1573)の天下の情勢を見てみると、恵瓊が外交僧のような役割を担っていた毛利は、吉川・小早川との連携も進み全盛期を迎えようとしていた。一方の織田信長も、天下に号令をする体制を着々と進めてはいたが、いまだ石山本願寺は健在であり、将軍足利義昭との泥仕合のような状態も続いていた。
だが、この年の四月、戦国の巨星武田信玄が病没、徳川家康の成長もあって信長の東の脅威が少し薄れつつあった。
その結果として、織田と毛利の接点が少しずつ拡大しつつあった。その毛利との交渉役として織田陣営で目覚ましい台頭を見せている木下藤吉郎が抜擢されたのである。

後の豊臣秀吉である藤吉郎は、この歳三十七歳、恵瓊とほぼ同年齢である。
秀吉は何度も名前を変えているが、二十九歳の頃には、木下藤吉郎秀吉と名乗っていたことが文書に残されている。そして、この年に浅井氏の遺領である長浜城主となり、その前後に羽柴秀吉を名乗っている。従って、恵瓊が手紙に書いた頃には、羽柴秀吉となっていたのかもしれない。

それはともかく、毛利氏そのものが信長と対抗しうる領土を確保しており、石山本願寺や足利将軍家との戦いの目処も立っておらず、東には、信玄没したとはいえ武田勝頼があり、上杉謙信も健在であった。
その状況下にあって、今しばらくは信長の天下だと予測し、それにも増して、突然の滅亡を予測しているのである。さらに、まだ若く、しかも面識後日も浅い秀吉を「さりとてはの者」と評価した炯眼は、恵瓊がただならぬ人物であることを示している。

そして、この秀吉との出会いが、恵瓊の将来に大きな影響を与えることになるのである。


     * * *

安国寺恵瓊の生年は未詳である。いくつかの説があるが、天文六年(1537)と仮定する。この場合、豊臣秀吉と同じ年の生まれということになる。
両親も確定されたいない。安芸武田氏の一族である武田信重の遺児であるという説が有力のようであるが、異説もある。
安芸武田氏は甲斐の武田氏と同族で、鎌倉時代以来守護職として安芸一国に君臨してきたが、戦国期に入ると周防・長門から勢力を伸ばしてきた大内氏に圧迫され、さらにその配下にあった毛利氏の台頭が加わり、ついに天文10年(1541)、拠点の銀山(カナヤマ)城は落ちてしまう。恵瓊の父とされる信重は、この時自刃したとされる。

銀山城が落城となった時、恵瓊は五歳くらいであったと考えられる。竹若丸と呼ばれていた幼童は、家臣の戸坂某に守られて城を脱出し、安国寺に助けを求めた。
安芸の安国寺は、開山が平安時代にさかのぼる古刹であるが、足利尊氏・直義兄弟が後醍醐天皇はじめ敵味方の戦死者を弔うため全国に安国寺を設立したが、その時にこの寺が安芸における安国寺に設定されたのである。
当時の安芸安国寺は、京都五山の一つである臨済宗東福寺に属する有力末寺であった。戦乱により荒されていたとはいえ、由緒ある大寺院の威容は保たれており、また歴代の武田氏との繋がりもあって、幼い恵瓊の運命は、ここに託されたのである。

恵瓊は僧侶としての修業に没頭していたが、天文22年(1553)、生涯の師ともなる竺雲恵心(ジクウンエシン)にめぐり会ったのである。
恵心は出雲国の出身で、同じように東福寺の末寺である出雲安国寺で修行し、後には東福寺の二百十三世となり、京都を中心に活躍する当代第一流の禅僧となる人物である。
その恵心が安芸安国寺を訪れたのは三十二歳の頃で、恵瓊も入山して十二年ほどが経っていた。恵心は、恵瓊を一目見てその器量の尋常でないことを見抜き、以後厳しく指導し、取り立てていった。

恵瓊は禅僧として抜群の能力を示し、師となる人物や法兄に恵まれて、禅僧として異例なほどの出世を続けて行く。
恵心と出会って間もなく本山東福寺での修業の機会を得、恵心が庵主を務める東福寺の塔頭退耕庵を拠点として京都での見聞を広げていった。
そして、永禄十二年(1569)には安国寺の住持となるのである。三十三歳の頃である。恵瓊は後に東福寺の住持にまで昇るが、この安国寺住持の職を手放さず、安国寺恵瓊と呼ばれるようになるのである。

時代は、応仁の乱から百年が過ぎ、今や武士の台頭を止めることなど出来ず、中世封建社会から近代封建社会へと動いていく最中であった。
天皇を中心とした公家勢力や足利将軍家は領地を失い急速に衰えを見せていたが、武家たちも武力だけで領地を治める限界を知り、また、拡大を続けてきた各地の戦国大名たちが直接衝突し始めた時代でもあった。
そうした軋轢の中で、広い人脈を持つ高僧たちが、折衝役として重要視されてきていた。
竺雲恵心は、まさにそのような活躍を見せていた人物であり、安国寺恵瓊の外交僧としての活躍も、師匠の影響と時代の要請の産物ともいえる。

毛利氏の勢力拡大と共に、恵瓊は毛利氏の外交僧のような立場を確立していったが、さらに、軍師的な役割さえ担っていた感がある。
そして、天正十年(1582)六月二日、本能寺の変が勃発。恵瓊の予言が現実となったのである。
この時秀吉は織田軍の大将として、恵瓊も毛利軍の陣中にあって備中高松城を挟んで向き合っていた。
三日に信長の死を知った秀吉は急ぎ毛利との講和をまとめ、全軍で上方に向かう。歴史上名高い「中国大返し」である。
毛利方が信長の死を知ったのは秀吉が東に向かった直後のことであるが、誓約を破ってでも秀吉軍を追撃すべしという強硬論も強かったが、結局、誓約を守って動かなかった。

このあたりのことは、多くの小説などでも描かれている場面であるが、秀吉の機略に毛利方がうまく乗せられたと描いているものも少なくない。
秀吉やその参謀たちの決断や行動の素晴らしさは否定できないが、毛利方がまるで騙されたかのような見方はあまりにも単純なようにも思われる。
備中高松城を挟んで膠着状態にあった戦いを、和議によって打開を図ろうとしていたのは毛利方であったという見方もあり、この時動かなかったことにより、秀吉が天下を掌握していくにつれ、毛利家の存在が高まって行ったことも確かである。
この時の毛利軍の決断の正否を論ずることは難しいが、秀吉の器量を高く評価していた、恵瓊や小早川隆景が毛利首脳陣に誓約を守らせたことは確かであろう。

この後、秀吉はさらに速度を増して天下人へと進んでいった。
恵瓊もまた、さらに活動の範囲を広げていった。毛利氏の外交僧あるいは軍師的な位置は生涯変わらなかったが、秀吉の信任が厚くその活動は広がって行った。
しかも、禅僧としての活躍も滞ることがなく、多くの寺院の再建などに関わり、慶長三年には、東福寺の第二百二十四世の住持に就くのである。
外交僧としての活躍は、むしろ大毛利家の軍師ともいえる立場となり、多くの戦陣に加わり、朝鮮の役では蔚山城の工事監督にまであたっている。これは、毛利秀元に従っていたと考えられるが、恵瓊は天正十三年(1585)の四国討伐の後、秀吉より伊予国内で二万三千石(後に六万石まで加増される)の知行を与えられており、大名としての出陣だったともいえる。

やがて、大毛利家の重鎮ともいえる小早川隆景が没する。隆景は恵瓊と思想が近く、毛利家内での恵瓊の一番の理解者であった。反対に吉川の後継者である広家とは何かと衝突することが多かった。恵瓊自身も、単なる毛利家の外交僧という立場は超えて、秀吉との距離を縮めていたともいえる。
やがて、その秀吉も没する。
時代は徳川家康の時代へと動き、関ヶ原の合戦となる。

恵瓊は、明確に豊臣政権を守ろうとする立場に身を置いた。若くして魅せられた秀吉の器量に殉ずるつもりだったのかもしれない。
天下分け目といわれる合戦は、西軍から離反者が出て、東軍の大勝利となる。離反者が毛利一族からであることが、恵瓊にとって何とも痛ましい。
関ヶ原敗戦後、恵瓊は戦場を脱出、各地を経て京都まで逃れるが、関ヶ原の合戦から一週間後の九月二十二日に捕らえられ、十月一日に京都六条河原で処刑された。享年六十四歳であったか。

後世の安国寺恵瓊に対する評価は、残酷なまでに悪い。
悪僧といわれ、侫僧といわれ、妖僧といわれ、さらに、秀吉没後の晩年においては、時代の流れを読むことが出来ず、関ヶ原の合戦では、戦場を脱出して逃げまどい無様な最期であったとまで評されることさえある。
しかし、それらの論評や記録は、その後の時代背景を考えてみる必要もある。時代は徳川政権となり、西軍の知的柱の一人であった恵瓊を否定するのは当然のことであり、擁護すべき毛利一族にしても、徳川の世で生き延びていくためには、恵瓊一人を悪者に仕立てざるを得なかったのであろう。

『 清風払明月 明月払清風 』
稀代の英傑安国寺恵瓊は、死に臨んで、この詩を唱したと伝えられている。
彼は、自らを「清風」に喩えようとしたのか、あるいは「明月」に喩えようとしたのか、それとも・・・。

                                        (完)

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