雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  紫衣を羽織る

2012-09-16 08:00:34 | 運命紀行
       運命紀行

          紫衣を羽織る


『 大灯の門弟 残灯を滅す 
  解け難き吟懐(ギンカイ) 一夜の氷
  五十年来 簑笠の客 
  愧慚(キザン)す 紫衣(シエ)の僧 』

これは、文明六年(1474)、一休宗純が大徳寺住持に就いて間もない頃の作品である。
『 吾は僅かに残っていた大灯の法灯を消してしまった  胸に抱いた氷が一晩中解けない  五十年この方  簑笠で過ごしてきたが  今は紫の衣を着て恥じ入っている 』
といった意味の詩であるが、大徳寺の住持となり僧として最高位の象徴ともいえる紫の衣を着ることへの戸惑いが伝わってくる。一休、八十一歳の頃のことである。

一休は、六歳で山城国の安国寺(京都。現存していない)に入り、八十八歳までの生涯を禅僧として生きた。
禅僧としてのただ一筋の生涯ともいえるが、その生き様は、波乱に満ち、激しく、破天荒なものであった。そして、その激しさの向かう先は、現世での栄達を願い、富を求め、権力に尾を振り、世間におもねる高僧たちを徹底的に糾弾するものであった。破天荒さは、一休の代名詞ともいえる風狂であり、酒房や遊郭に入り浸る破滅的な生活に身を置いたものであった。
自らの詩の中で「風狂の狂客」と自身を表現した一休は、僧侶の堕落や表面的な教義を指弾し、形式や常識や、戒律や、権力にさえも囚われず行動することであった。

その一休が、六歳で出家の道に入り、三十五歳で師というものから離れ、ひたすら風狂と現世の栄達を糾弾する生活を続けながら、八十一歳にして紫衣を許された権威の象徴ともいうべき大徳寺の住持を引き受けたのは、何故であろうか。しかも、そのことを恥じている漢詩などが幾つも残されているのである。
凡人が理解することなどとても困難な一休宗純。その中でも、この出来事は、特に分かり難い。


     * * *

一休は、応永元年(1394)一月一日に、京都の民家で誕生した。
母は南朝の高官である藤原氏の娘といわれ、父は未詳であるが、後小松天皇であるという説がある。
この皇胤説は、後の戯作などで盛んに用いられたために定着化した感があるが、生前の一休の足跡を見てみると、あながち否定できない面もある。

六歳で安国寺に入門受戒し、周建と名付けられた。
因みに、一休という号は、二十五歳の時に考案を悟り、師匠である華叟宗曇(カソウソウドン)から与えられたものである。

十二歳で壬生の清叟仁(セイソウジン)の維摩経の講座に加わり、十三歳で建仁寺の慕竜礬(ボテツリュウハン)に漢詩の指導を受け、いずれも非凡さを表していたようである。
二十一歳の時、以前から参禅していた西金寺の謙翁宗為(ケンオウソウイ)が亡くなった頃に、入水未遂事件を起こしている。母の使いに止められたというが、謙翁の死が原因か否かは不明である。ただ、十七歳の頃に、戒名を宗純と改めていることを考えると、謙翁を尊敬していたことは確かであろう。

そして、二十二歳で、近江堅田の華叟宗曇に、師事する。
華叟という人物は、大徳寺派の禅僧で、開山の大灯国師に始まる中国臨済禅の法脈を受け継いでいた。一休に対しても厳しい修業を課したが、同時に一休も生涯の師ともいえる人物に出会ったのである。
ここでの十数年の修業により一休という人物の骨格が出来上がって行ったと考えられ、詩作は世に知られるほどになって行った。
三十四歳の頃、後小松院より度々召されており、院の崩御に際しては宝墨を賜っており、このあたりのことが後小松天皇父親説の出所であり、安易に否定できない理由である。

正長元年(1428)に、一休宗全に多くのものを与えた華叟宗曇が没する。一休、三十五歳のことである。
そして、それは、一休の修業時代の終りを告げる出来事でもあった。
一休は、大徳寺派の高僧の薫陶を受けており、紛れもなく臨済宗大徳寺派の僧である。
しかし、大徳寺はもちろんのこと、京都の大寺には止住していない。小庵を渡り歩きながら、大寺院の威容を求めるのではなく、師とするに相応しい人物を求め歩く修行時代であったといえる。
華叟の葬式を済ませて京に戻り、なお、修業を続けたと思われるが、この後、師を持つことはなかった。

京に戻った一休がどこに住んだのかは未詳であるが、和泉方面での消息が残されているので、一か所に留まることなく、雲水のような日々を送っていたのかもしれない。
因みに、三十五歳から八十歳頃までの消息を辿ってみると、
四十歳の時、すでに述べたが、後小松院に召されて宝墨などを賜っている。
四十三歳の時、大灯国師の百年遠忌。
四十七歳の時、華叟宗曇の十三回忌を営む。この時大徳寺如意庵に住まうも十日ばかりで辞去している。
五十四歳の時、大徳寺の内紛に激怒、失望もあってか死を決意するも勅命により留まる。
六十三歳の時、現京都府田辺市にあたる薪(タキギ)村の妙勝寺を再興して酬恩庵を構え、以後一休の拠点となる。現在の一休寺である。

以上のような部分だけを列記していくと、並の禅僧ではとても及ばないような足跡を残している。
しかし、その他の膨大な時間の多くは、とても禅僧の行動とも思えない破天荒なものであり、まさに破戒僧というべき生活であったようだ。
居住地そのものが一定せず、小寺の宿坊なども渡り歩いたと考えられるが、檀家の屋敷の納屋のような所や、民家を借り受けたり、檀家や公家の屋敷やその妾宅に居候したりと、京都及びその周辺を動き回っているのである。そして、それらのつなぎの期間の大半は、酒房や遊郭などに入り浸っているのである。

一休は、漢詩を中心に多くの墨跡を残しているが、その多くは、出世や栄華を求める僧侶に対する糾弾であり、艶歌というにはあまりにも直截過ぎる色欲を詠んでいるのである。
そんな一休は、文明六年(1474)、八十一歳の時に、勅命を受けて大徳寺第四十七世住持に就いているのである。寺内には居住しなかったといわれるが、それにしても理解に苦しむ行動ではある。
一休自身が、大徳寺住持に就いたことに忸怩たる思いを吐露していることを考えると、止むに止まれぬ事情があったのであろう。
例えば、大徳寺は応仁の乱により堂塔を焼失して消滅の危機にあり、再興出来るのは自分以外にないとの自負であり、さらに、勅命を拒絶できないほどの皇室との強いつながりがあったのかもしれないということである。

一休は、この後も風狂の生活に身を置き続けている。特に、盲目の女性森女を詠んだ過激なまでの艶歌は、一編の物語になるほどである。しかし、同時に大徳寺の復興に関しては、今日、中興の祖といわれるまでの働きを見せているのである。
そして、文明十三年(1581)七月、大徳寺の正門、偏門を復興し、落慶法要を行っている。
同年十月病に倒れ、一時小康を得るも、十一月二十一日に逝去。享年八十八歳であった。
一休には、辞世の句といわれるものが幾つもあるが、最後に弟子たちに語った言葉は、「死にたくない」であったともいわれている。一休宗純、面目躍如の一言である。

応仁・文明の乱がまだくすぶっている頃、そしてそれは、戦国時代の幕開けでもあるが、一休宗純はこの世を去った。
そして、この時、一休は再び命を得たかのように羽ばたき始める。虚実混合の一休の世界が始まったのである。

一休は、七言絶句を中心とした漢詩や偈(ゲ・仏典中の韻文)を中心に多くの墨跡を残している。
また、一休の著作といわれるものは二十数点あるとされているが、研究者によれば、本当に一休による作品とされるものは四、五点だといわれている。
墨跡は、茶席の掛物として珍重され、多くの著作物はさらに広がりを見せて、一休の世界を作り上げていく。
「一休ばなし」と呼ばれる小話集は早い段階に登場し江戸時代にはさらに広がりを見せている。そこには「頓知」もふんだんに登場している。
さらには、能狂言、俳諧、浄瑠璃、歌舞伎にまで広がりを見せ、草双紙にも多く登場している。
当然、禅僧としての一休も研究対象として飽かれることがない。
さらに昨今では、頓知小僧「一休さん」としての方が、遥かに認知されている。

このように、一休は没後極めて早い段階から、虚実が混同されて広がりを見せている。
もしかすると、生前の段階から、一休自身が虚実の中にあったようにも思われる。そうだとすれば、中途半端な勉強などで、一休宗純の爪の先であっても、理解することなど無理ということなのだろう。
最後に、一休の作品からなじみ深いものをいくつかあげておく。

『 シャカといふ いたずらものが世にいでて おほくの人を まよはすかな 』
『 女をば 法の御蔵と云ふぞ 実に シャカもダルマも ひょいひょいと生む 』
『 世の中は 起きて稼いで寝て食って 後は死ぬのを待つばかりなり 』
『 ナムシャカじゃ 娑婆じゃ地獄じゃ どうじゃこじゃといふが愚かじゃ 』  
『 門松は 冥土の旅の一理塚 めでたくもありめでたくもなし 』

                                    ( 完 )
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