運命紀行
花も花なれ人も人なれ
戦乱の気配は高まっていた。
それは、留守を預かる細川屋敷にも伝わってきていたが、ついに正室に大坂城に入る旨の要請があった。
申し出は拒絶したが、それで穏便に収まるはずもなかった。
すでに屋敷は石田勢に囲まれている気配があり、やがて力ずくでも、たまを拘引するつもりなのであろう。
すでに下男たちには暇を与え、嫡男忠隆の正室も侍女らとともに隣接する浮田屋敷に逃していた。手配に滞りはなく、迎えるべき時はやってきていた。
たまは身を正し、家老小笠原秀清にその命を委ねた。
秀清は、薙刀を構え、凛々しくも哀しい麗人の最後に涙した・・・。
『散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ』
* * *
細川ガラシャとして知られるたま(玉とも珠とも)は、永禄六年(1563)、明智光秀の次女として生まれた。見目麗しく聡明であったと伝えられている。
十五歳の頃、細川幽斎の嫡男忠興に嫁いだ。織田信長の仲介によるものであった。
二人の仲は睦まじく、結婚間もなく次々に子宝にも恵まれ、幸せな日々が続いた。
しかし、天正十年六月、父光秀による本能寺の変が勃発、たまは「逆臣の娘」という立場に追いやられてしまった。
細川家はその処置に苦慮したが、忠興はたまを見限ることは出来ず、さりとて新しい権力者の逆鱗に触れることも懸念され、丹後の奥深い山里に幽閉したのである。
その期間は一年半ほどにも及んだろうか、鬱々たるたまを支えたのは侍女たちであったが、彼女らを通じてキリシタンの教えを知り、それもまた心の支えとなったと考えられる。
天正十二年三月、秀吉の勧めもあって、たまは夫忠興のもとに戻ることが出来、再び幸せな日が戻ったかに見えた。
すぐに子供も生まれ、表面的には幸せな家庭であったが、たまの心の中にはキリシタンの教えが宿っていた。そして、夫忠興が、秀吉の島津討伐に従って九州に出陣している間に、密かに洗礼を受け、「ガラシャ」(神の恵み)という洗礼名を得た。
しかし運悪く、秀吉は九州平定を終えると、突然「伴天連追放令」を発し、各大名にキリシタンとなることを厳しく禁じた。
大坂に凱旋した忠興は、侍女たちにキリシタンがいることを知るとこれを厳しく罰し、追放してしまった。たまは、その事実を夫に知られることはなかったが、その心を閉じた辛い日々を送ることになった。
やがて、秀吉が死に、豊臣政権と徳川家康の対立は激しさを増していった。
そして、慶長五年(1600)七月、家康が上杉討伐のために大坂を離れると、石田三成を中心とした大坂方の動きが激しくなり、家康と共に行動している大名たちの妻女を人質に取る行動に出たのである。
大坂の細川屋敷を預っていた家老小笠原秀清は、主君の正室たまの死を見届けると、かねて用意の火薬に点火し、自らも自刃して果てた。
家康に従っている大名の妻女たちの多くは脱出を果たしていたが、細川たまの壮烈な最期を知った三成は、人質を取る作戦をあきらめ、この事件を知った従軍していた秀吉恩顧の大名たちは、大坂方の非情を恨み徳川に味方することを誓い合った。
美貌にも聡明さにも恵まれ、さらに伴侶や子供たちにも恵まれた女性は、事の是非はともかくも、反逆者の娘という烙印を押されることになり、さらに心の支えとなったキリシタンの教えは心の奥に秘さねばならず、最後はその教えに従って家老の力を得て次の世に旅立って行った。
しかし、その三十八歳での死は、やがて開戦する関ヶ原の戦いに少なからぬ影響を与え、彼女の子供たちは、細川の名を後々までも伝えていっている。
( 完 )
花も花なれ人も人なれ
戦乱の気配は高まっていた。
それは、留守を預かる細川屋敷にも伝わってきていたが、ついに正室に大坂城に入る旨の要請があった。
申し出は拒絶したが、それで穏便に収まるはずもなかった。
すでに屋敷は石田勢に囲まれている気配があり、やがて力ずくでも、たまを拘引するつもりなのであろう。
すでに下男たちには暇を与え、嫡男忠隆の正室も侍女らとともに隣接する浮田屋敷に逃していた。手配に滞りはなく、迎えるべき時はやってきていた。
たまは身を正し、家老小笠原秀清にその命を委ねた。
秀清は、薙刀を構え、凛々しくも哀しい麗人の最後に涙した・・・。
『散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ』
* * *
細川ガラシャとして知られるたま(玉とも珠とも)は、永禄六年(1563)、明智光秀の次女として生まれた。見目麗しく聡明であったと伝えられている。
十五歳の頃、細川幽斎の嫡男忠興に嫁いだ。織田信長の仲介によるものであった。
二人の仲は睦まじく、結婚間もなく次々に子宝にも恵まれ、幸せな日々が続いた。
しかし、天正十年六月、父光秀による本能寺の変が勃発、たまは「逆臣の娘」という立場に追いやられてしまった。
細川家はその処置に苦慮したが、忠興はたまを見限ることは出来ず、さりとて新しい権力者の逆鱗に触れることも懸念され、丹後の奥深い山里に幽閉したのである。
その期間は一年半ほどにも及んだろうか、鬱々たるたまを支えたのは侍女たちであったが、彼女らを通じてキリシタンの教えを知り、それもまた心の支えとなったと考えられる。
天正十二年三月、秀吉の勧めもあって、たまは夫忠興のもとに戻ることが出来、再び幸せな日が戻ったかに見えた。
すぐに子供も生まれ、表面的には幸せな家庭であったが、たまの心の中にはキリシタンの教えが宿っていた。そして、夫忠興が、秀吉の島津討伐に従って九州に出陣している間に、密かに洗礼を受け、「ガラシャ」(神の恵み)という洗礼名を得た。
しかし運悪く、秀吉は九州平定を終えると、突然「伴天連追放令」を発し、各大名にキリシタンとなることを厳しく禁じた。
大坂に凱旋した忠興は、侍女たちにキリシタンがいることを知るとこれを厳しく罰し、追放してしまった。たまは、その事実を夫に知られることはなかったが、その心を閉じた辛い日々を送ることになった。
やがて、秀吉が死に、豊臣政権と徳川家康の対立は激しさを増していった。
そして、慶長五年(1600)七月、家康が上杉討伐のために大坂を離れると、石田三成を中心とした大坂方の動きが激しくなり、家康と共に行動している大名たちの妻女を人質に取る行動に出たのである。
大坂の細川屋敷を預っていた家老小笠原秀清は、主君の正室たまの死を見届けると、かねて用意の火薬に点火し、自らも自刃して果てた。
家康に従っている大名の妻女たちの多くは脱出を果たしていたが、細川たまの壮烈な最期を知った三成は、人質を取る作戦をあきらめ、この事件を知った従軍していた秀吉恩顧の大名たちは、大坂方の非情を恨み徳川に味方することを誓い合った。
美貌にも聡明さにも恵まれ、さらに伴侶や子供たちにも恵まれた女性は、事の是非はともかくも、反逆者の娘という烙印を押されることになり、さらに心の支えとなったキリシタンの教えは心の奥に秘さねばならず、最後はその教えに従って家老の力を得て次の世に旅立って行った。
しかし、その三十八歳での死は、やがて開戦する関ヶ原の戦いに少なからぬ影響を与え、彼女の子供たちは、細川の名を後々までも伝えていっている。
( 完 )