雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  雪原の戦い

2011-09-16 08:00:59 | 運命紀行
       運命紀行

          雪原の戦い


降り続いていた雪は止んでいた。
東の空が微かな朱の色を生みだしていた。やがて、その色は、次第に広がりを見せ、空を水色に変えていきつつあった。千切られたような雲が北から南へ流れていたが、雪の気配はなかった。

軍勢は、すでに体制を整え終えていた。
数百の騎馬武者と数千の徒武者や農民兵たちは、出陣の合図を待ちかねていた。
騎馬武者たちの中から、二人の武者が進み出た。
一人は、この軍勢の御大将、八幡太郎義家その人であった。そして、今一人は、清原一族の一方の旗頭である清原清衡であった。

向かう相手は、秋から包囲している金沢柵に立て籠もる清原家衡、同じく武衡らの一党である。
戦力的には圧倒的に優勢な義家軍であるが、その主力部隊は関東からの遠征部隊であった。地の利の不利があり、何よりも寒さと雪という自然の障害が敵に味方していた。
数か月に及ぶ戦いと包囲網の中で、敵軍の糧食は不足し、戦意が落ちてきているのは明らかだが、味方も奥羽の厳しい寒さに倒れる者が出てきており、大雪に見舞われると糧食の心配もされ始めていた。
持久戦の限界が来ており、決戦の時は今しかなかった。

義家は、長刀を大きく振りかざした。
鯨波の声は禁じられていたが、低い声が沸き起こり、数十の騎馬武者と数百の徒武者からなる第一陣が出立した。
世に、後三年の役と呼ばれる戦いの最後の合戦が始まろうとしていた。


     * * *

清和天皇の第六皇子を祖とする清和源氏が、武家としての存在が広く知られるようになった発端は、おそらく河内源氏の棟梁と位置付けされる源頼信ではなかったか。それ以前にも、多田満仲や源頼光など武勇で名を残す人物が登場しているが、朝廷の組織下にある武威の域を大きく出ていなかった。
長元元年(1028)南関東で起きた平忠常の乱において、頼信は甲斐守に任じられ忠常追討の命を受けた。この三年にも及んだ戦乱は、ほとんど戦うこともなく忠常が降伏したようであるが、これにより頼信の武将としての名は高まり、特に関東への足がかりを作ったと考えられる。

そして、頼信の嫡男頼義は、永承六年(1051)陸奥守に任じられ、さらに鎮守府将軍を兼ね、奥羽の豪族安倍一族の制圧に向かった。いわゆる前九年の役である。
この勝利により、頼義の武勇は広く知られるところとなり、源氏を武士集団として強く印象付けたことになる。特に、関東や奥羽における武将としての名声を得たのである。
石清水八幡宮の申し子と噂される源義家は、この頼義の嫡男である。

義家は、幼くしてその武勇は抜きん出ていたが、父と共に戦った前九年の役でその存在感は関東奥羽はもちろん、京においても広く認知されることになった。
この戦いが終息をみた頃、義家は二十四歳頃と考えられるが、武人としてはすでに伝説的な存在に達していた。その武技は衆人に勝り、特に弓矢を持てば百発放って的を外すことがなかったという。
敵将安倍貞任との伝説が生まれたのもこの頃のことである。

衣川の戦いにおいて、敗走する安倍貞任を追った義家が、射程距離内に捉えた貞任に向かって、『衣のたては綻びにけり』と大声で呼びかけると、
貞任は『年を経し糸のみだれのくるしさに』と、上の句を返したという。
義家は、乱戦の中にあってもなお和歌をたしなむ奥床しさに感じて、矢を収めて引き返したという。
少々出来すぎた説話ではあるが。

さて、後三年の役最後の戦いは、義家が支援する清衡の圧勝により終わる。
この戦いは、清原一族の跡目争いといえる戦いであった。
清衡は、藤原の血を引く旦理(ワタリ)経清と安倍一族の棟梁である頼時の娘との子供である。経清は、前九年の役では安倍軍の参謀役として働き、戦いは敗れ貞任らと共に処刑された。嫡男である清衡も殺害される運命にあったが、母が清衡を連れて敵将清原武貞に嫁すことで一命を助けられたのである。
この戦いの敗将となった家衡は、清衡の母と武貞の間に生まれた子であり、二人は異父同母の兄弟であった。

この戦いの結果、八幡太郎義家の武名はさらに高まった。しかし、それは、白河院を中心とする朝廷に警戒感を与えることになり、義家の晩年を苦境へと導くことになる。
しかし、その一方で、源氏の武威は万民の知る所となり、特に関東奥羽における源氏の影響力を強めたことは確かである。その後紆余曲折を経るとしても、やがて源頼朝を登場させる下地になったと考えることもできる。
そして今一つ、源義家という強大な勢力を得た清衡は、その後藤原氏を名乗り奥州藤原氏の繁栄を築くのであるが、彼にとってこの戦を抜きに後の繁栄はなかったことであろう。

今日なお多くの伝説を残す英雄八幡太郎義家と、絢爛豪華な一時代を築く藤原清衡が、雪原の中を轡を並べて戦ったのは、何か大きな意思が働いてのものであったのか、それとも、単なる歴史の気まぐれに過ぎなかったのか・・・。
                                     ( 完 )

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