運命紀行
君が袖振る
宴席は最高潮に達していた。
即位したばかりの天智天皇が数多の群臣を率いて、ここ蒲生野の御料地で行われた遊猟は壮大なものであった。
新天皇を取り巻く人々は意気軒昂に語り、歌い、かつ酔い痴れていた。
やがて、指名されたのか立ち上がったのは額田姫王であった。
この時、姫王は三十八歳になっていたが、その容貌はさらに輝きを増していた。
姫王が立ちあがると、あれほどのざわめきが潮が引くかのように静まり、貴人たちも武者たちも手にしていた盃をそっと卓に置いた。
姫王は、朗々と歌い始めた。
『あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る』
一瞬の静寂の後、人々は立ち上がり、再び盃を掲げ、やんやと歓声がこだました。
そして、これもまた、武者たちに押し出されたように立ち上がったのは、皇太子となった大海人皇子であった。皇子は、少しばかりの戸惑いの後、やや低いがよく通る声で歌いあげた。
『紫の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも』
皇子の歌い終わった後には、姫王の時よりさらに長い沈黙があった。
そして人々は、先ほどよりもさらに大きい歓声をあげた。
天皇もすぐ近くの席にあったが、松明の明かりの陰となっていて、その表情は定かに見えなかった・・・。
* * *
「日本書紀」天武天皇の条に、
『天皇、初め鏡王の女(ムスメ)額田姫王(ヌカタノオホキミ)を娶して、十市皇女(トヲチノヒメミコ)を生(ナ)しませり』と、記されている。
若き日の大海人皇子と額田姫王は結ばれ、やはり歴史の重要な一頁を歩くことになる十市皇女が誕生した。二人が十七歳の頃であろうか。
姫王の父は、鏡王という豪族であることから、姫王は宮廷に生まれ育った女性ではなく、おそらく、「采女」として宮廷に送り込まれたと考えられる。
「采女(ウネメ)」というのは、地方豪族の娘で容姿端麗なものから選ばれたもので、天皇の身の回りの世話などを担当したが、その身分は低い。
額田姫王の歴史に伝えられる部分を見る限り、とても「采女」という低い身分とは考えられないが、「額田部姫王」と記されている文献からすれば、出雲系豪族で祭祀に関わりの深い一族の出身者とも考えられる。
神事や祭祀に仕える女性は特別の立場にあり、歌謡は祭祀と密接な関係にあることから、姫王はその道に特に優れた女性であったと考えられる。
わが国の飛鳥と呼ばれる時代における最大のヒロインは、厚い謎のヴェールに包まれている女性であるが、その出身の背景を理解する必要があるかもしれない。
さて、若き二人が結ばれたのは、大化の改新といわれる政変後間もない頃ではなかったか。
その頃、中大兄皇子は皇太子の地位にあったが、弟の大海人皇子は皇族の一人に過ぎず、額田姫王は宮廷に出仕して二、三年が過ぎた頃で、天皇の側近く仕える女官として、それも祭祀や歌謡という特別に地位にあったと考えられ、一皇族が簡単に近づける存在ではなかったのではないか。
そう考えると、この二人の関係は禁断の恋ともいえるものではなかったのか。
やがて二人は別れ、そして、やがて額田姫王は中大兄皇太子と結ばれるのである。十市皇女誕生から十年ほど後のことであろうか。
それぞれの間にどのようなことがあったのか・・・。
中大兄が皇太子として台頭著しく、略奪に近い行為があったとしても当時の大海人に抗する力はなかったという推論も成り立つが、姫王が天智天皇となった中大兄を慕う歌が残されていることをみれば、きっかけはともかく、相思相愛の関係にあった時期があることは確かであろう。
そして、あの有名な額田姫王と大海人皇子の相聞歌が披露されたのは、姫王が中大兄の想い人となってから十年ほど後のことである。
『紫草の白い花が夕映えに染まってる御料地(標野)の中で、薬草を摘んでいる私に袖を振るなんて、野守が見ていますわ』と姫王が意味深長な歌で呼びかければ、
『可憐な紫草が匂い立つようなあなたを、もし憎いと思っているのであれば、人妻となってしまった今も恋しいはずがない』と、大海人も意味深長な歌を返す。
この遊猟後の宴席は、天智天皇即位直後のことであり、大海人も皇太子の地位に着いた直後の頃であり、少なくとも表面的には、両者は蜜月期であった。
群臣数多が参加している宴席であり、天皇も近くにいる中で、二人が相聞歌を交わすとは常識的には考えられず、戯れ歌の部類だという考え方もある。一方で、戯れ歌に見せかけながらも、引き離された愛を必死に確かめ合ってる切ない相聞歌なのだという意見も根強い。
額田姫王をめぐる三角関係が、壬申の乱の主因だという意見さえもある。
ただ、大海人皇子さえが人妻と認識していた額田姫王は、天智天皇の妃としては、公式文書のどこにも記されていない。
やがて、天智天皇が崩じ、後を継いだ近江の大友皇子と吉野に籠った大海人皇子が衝突、壬申の乱である。
吉野軍が勝利し、やがて天武天皇の誕生となる。
近江軍が敗れた時、額田姫王と大友皇子(弘文天皇)の妻となっていた十市皇女は吉野軍に保護され、後は天武天皇の庇護のもとで過ごすことになる。
額田姫王は、六十余歳頃まで存命していたらしい。晩年の頃の消息は少ないが、波乱に満ちた前半生に比べ、穏やかなものであったらしい。
飛鳥と呼ばれる時代には、ロマンあふれる人物が数多く登場する。しかし、やはり、最も鮮やかな光を放っているのは、謎多きこの姫王ではないだろうか。
( 完 )
君が袖振る
宴席は最高潮に達していた。
即位したばかりの天智天皇が数多の群臣を率いて、ここ蒲生野の御料地で行われた遊猟は壮大なものであった。
新天皇を取り巻く人々は意気軒昂に語り、歌い、かつ酔い痴れていた。
やがて、指名されたのか立ち上がったのは額田姫王であった。
この時、姫王は三十八歳になっていたが、その容貌はさらに輝きを増していた。
姫王が立ちあがると、あれほどのざわめきが潮が引くかのように静まり、貴人たちも武者たちも手にしていた盃をそっと卓に置いた。
姫王は、朗々と歌い始めた。
『あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る』
一瞬の静寂の後、人々は立ち上がり、再び盃を掲げ、やんやと歓声がこだました。
そして、これもまた、武者たちに押し出されたように立ち上がったのは、皇太子となった大海人皇子であった。皇子は、少しばかりの戸惑いの後、やや低いがよく通る声で歌いあげた。
『紫の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも』
皇子の歌い終わった後には、姫王の時よりさらに長い沈黙があった。
そして人々は、先ほどよりもさらに大きい歓声をあげた。
天皇もすぐ近くの席にあったが、松明の明かりの陰となっていて、その表情は定かに見えなかった・・・。
* * *
「日本書紀」天武天皇の条に、
『天皇、初め鏡王の女(ムスメ)額田姫王(ヌカタノオホキミ)を娶して、十市皇女(トヲチノヒメミコ)を生(ナ)しませり』と、記されている。
若き日の大海人皇子と額田姫王は結ばれ、やはり歴史の重要な一頁を歩くことになる十市皇女が誕生した。二人が十七歳の頃であろうか。
姫王の父は、鏡王という豪族であることから、姫王は宮廷に生まれ育った女性ではなく、おそらく、「采女」として宮廷に送り込まれたと考えられる。
「采女(ウネメ)」というのは、地方豪族の娘で容姿端麗なものから選ばれたもので、天皇の身の回りの世話などを担当したが、その身分は低い。
額田姫王の歴史に伝えられる部分を見る限り、とても「采女」という低い身分とは考えられないが、「額田部姫王」と記されている文献からすれば、出雲系豪族で祭祀に関わりの深い一族の出身者とも考えられる。
神事や祭祀に仕える女性は特別の立場にあり、歌謡は祭祀と密接な関係にあることから、姫王はその道に特に優れた女性であったと考えられる。
わが国の飛鳥と呼ばれる時代における最大のヒロインは、厚い謎のヴェールに包まれている女性であるが、その出身の背景を理解する必要があるかもしれない。
さて、若き二人が結ばれたのは、大化の改新といわれる政変後間もない頃ではなかったか。
その頃、中大兄皇子は皇太子の地位にあったが、弟の大海人皇子は皇族の一人に過ぎず、額田姫王は宮廷に出仕して二、三年が過ぎた頃で、天皇の側近く仕える女官として、それも祭祀や歌謡という特別に地位にあったと考えられ、一皇族が簡単に近づける存在ではなかったのではないか。
そう考えると、この二人の関係は禁断の恋ともいえるものではなかったのか。
やがて二人は別れ、そして、やがて額田姫王は中大兄皇太子と結ばれるのである。十市皇女誕生から十年ほど後のことであろうか。
それぞれの間にどのようなことがあったのか・・・。
中大兄が皇太子として台頭著しく、略奪に近い行為があったとしても当時の大海人に抗する力はなかったという推論も成り立つが、姫王が天智天皇となった中大兄を慕う歌が残されていることをみれば、きっかけはともかく、相思相愛の関係にあった時期があることは確かであろう。
そして、あの有名な額田姫王と大海人皇子の相聞歌が披露されたのは、姫王が中大兄の想い人となってから十年ほど後のことである。
『紫草の白い花が夕映えに染まってる御料地(標野)の中で、薬草を摘んでいる私に袖を振るなんて、野守が見ていますわ』と姫王が意味深長な歌で呼びかければ、
『可憐な紫草が匂い立つようなあなたを、もし憎いと思っているのであれば、人妻となってしまった今も恋しいはずがない』と、大海人も意味深長な歌を返す。
この遊猟後の宴席は、天智天皇即位直後のことであり、大海人も皇太子の地位に着いた直後の頃であり、少なくとも表面的には、両者は蜜月期であった。
群臣数多が参加している宴席であり、天皇も近くにいる中で、二人が相聞歌を交わすとは常識的には考えられず、戯れ歌の部類だという考え方もある。一方で、戯れ歌に見せかけながらも、引き離された愛を必死に確かめ合ってる切ない相聞歌なのだという意見も根強い。
額田姫王をめぐる三角関係が、壬申の乱の主因だという意見さえもある。
ただ、大海人皇子さえが人妻と認識していた額田姫王は、天智天皇の妃としては、公式文書のどこにも記されていない。
やがて、天智天皇が崩じ、後を継いだ近江の大友皇子と吉野に籠った大海人皇子が衝突、壬申の乱である。
吉野軍が勝利し、やがて天武天皇の誕生となる。
近江軍が敗れた時、額田姫王と大友皇子(弘文天皇)の妻となっていた十市皇女は吉野軍に保護され、後は天武天皇の庇護のもとで過ごすことになる。
額田姫王は、六十余歳頃まで存命していたらしい。晩年の頃の消息は少ないが、波乱に満ちた前半生に比べ、穏やかなものであったらしい。
飛鳥と呼ばれる時代には、ロマンあふれる人物が数多く登場する。しかし、やはり、最も鮮やかな光を放っているのは、謎多きこの姫王ではないだろうか。
( 完 )