『 うつせみ 』
人は生きてゆく中で、予期せぬ出来事を経験してしまう。
夢であって欲しいとか、早く忘れてしまいたいといった思い出の一つや二つは誰にでもあるだろう。それらは、悲しいことや、悔しいことや、恥ずかしいことなどに繋がっていて、嬉しいことや楽しいことに結び付くものなど、おそらく無い。それらの苦い思い出は、今更どうすることも出来ず、まるで、人生の汚点であるかのように重く染みついている。
しかし、それらの思い出は、うつせみに似ている。
蝉の抜け殻であるうつせみは、無味乾燥で無様な姿をさらしているに過ぎないように見えるが、あの時、限りある命を懸命になって大空に羽ばたかせた記念の印でもある。
( 一 )
飯島がその街に足を踏み入れたのは、その夜が初めてだった。
大阪北部の歓楽街として有名だが、関西になじみの薄い飯島は、名前は知っていたが実際に訪れたことはなかった。
「常務、さあ、もう一軒いいでしょう?」
確認する形ではあるが、例によって強引な青山に引率されるようにして「あわじ」と看板の出ている店に入った。そこは、歓楽街の中心からは少し離れていて、新興の住宅地がすぐ近くまで迫ってきているような場所にあった。
「いらっしゃい」
大きな声とともに、三人ばかりのホステスが青山を取り囲んだ。いかにも常連という感じである。
店の中は、間口に比べて奥行きが深く、明るい雰囲気である。
「おいおい、今日はいつもと違うんだぞ。大切なお客様をお連れしているんだから、少しは上品にしてくれないと困るなあ」
「まあ、憎らしいわ。あたしたちは、ね、アオちゃんに合わせるために無理に下品にしているんですゥ」
取り囲んだ中で一番年長と思われるホステスは、青山をぶつような仕草をしながらも、「いらっしゃいませ」と、飯島に対しては丁寧な挨拶をした。鮮やかな接客ぶりである。
「さあ、常務、奥へ行きましょう。こんなお姉さんばっかりじゃないですよ。奥にはもっと淑やかなお嬢さんがいますからね」
青山は相変わらず憎まれ口を叩きながら、わがもの顔に一同を奥に案内した。
もっとも、奥といっても背の低い仕切りがされているだけのコーナーなのだが、それでも落ち着いた感じがする。
全員が席に着きホステスたちも同席したが、ホステス全員が最初に出迎えてくれたメンバーのままである。
別のテーブルにも何組かの客があったが、この店のママである智子がすぐさま挨拶に来たことからしても、青山の勢いのほどがうかがわれた。後にバブルと呼ばれることになるこの頃は、中規模の商社が最も輝いていた時代であり、社員の仕事ぶりも凄まじいものだった。
「ママ、こちらが今度うちの大阪支社長になられた飯島常務だ。これからは時々お連れすることになるので、よろしく頼むよ」
青山が例によって大げさに飯島を紹介した。
「ようこそ、よくおいで下さいました。智子と申します。青山部長さんには大変ひいきにしていただいております。今後ともよろしくお願いいたします。
常務さんのことは、青山さんから、それはそれは自慢の常務さんだと何回も何回もお聞きしておりました。お会いできるのを楽しみにしておりました」
「これは、恐れ入ります。とんでもない悪口を、たっぷりと吹き込まれているんじゃないですか」
「とんでもありません・・・」
智子の応対ぶりは、さすがにこれだけの店を構えているだけあって、如才なく、それでいて嫌みがなかった。
青山に引き連れられてテーブルに着いた五人は、全員が、かつて中部支社時代に飯島の下で仕事をしたメンバーだった。
十年も前のことになるが、当時の中部支社は五つある支社の中で最も成績が悪く、それに加えて、吸収合併した社員との関係もぎくしゃくしたものがあり、かねてから社内で問題視されていた。
飯島はその中部支社で、営業部の次長と部長として丸五年に渡り勤め、収益トップの支社に育て上げた中心人物として高い評価を得たのである。
飯島は、外戚ではあるが創業者の一族だと社内では目されていた。彼にはそのような意識はあまりなかったが、常に先頭で昇進してきたのには、その辺りのことが影響していることは否定できなかった。
実際に、飯島が中部支社の営業部次長として赴任した時には、一族の一人がお飾りのような存在として配属されたように、あからさまに噂されたものである。
当時の中部支社の社員は八十人程だったが、その半分以上が二年前に吸収合併した名古屋を地盤としていた企業から引き継いだ社員だった。合併するとか吸収するとか簡単に言うが、会社の体裁を対応させることは出来るとしても、社員間にある感情やしこりを取り除いていくことは容易なことではない。
大企業同士の合併などでは、人事上の問題を解決させるには十年単位の時間が必要だといわれているが、決して大げさな言い方ではないと思われる。
飯島が着任した中部支社は、勝った側の社員と負けた側の社員とが足を引っ張り合う見本のような職場になっていた。
南東商事は、戦後間もない頃に、財閥系の大手商社であるM社から分離独立した会社である。
現在でも、M社は南東商事の主要株主として名を連ねているが、その持ち株比率は2%台に過ぎず、むしろオーナー一族の影響が強い企業として知られていた。
本来、設立の経緯からすれば直系の子会社であって当然なのだが、分離独立といっても、それほどきれいな話ではなかったようである。
第二次世界大戦の敗戦により大手財閥は解体されていったが、M社も組織の分割再編が避けられなくなっていた。その過程で、それまで軍部との交渉窓口として複雑で微妙な問題の処理を担当していた部署の処置に困った当時の経営トップが、その部門の管理職だった大沢恵一郎に残務の整理と三十人ばかりの社員を託したのが、南東商事設立の発端だった。
初代社長はM社の旧経営陣の一人だったが、一年足らずで大沢敬一郎に引き継がれ、同時に大幅な増資を実施してM社との関係を薄めていったのである。
その後、目覚ましい発展を遂げてきたが、その陰には表に出せない資産をかなり移管されていたことも大きな原動力になったようである。その中でも、現在でも南東商事の最大の資産である副都心に位置する本社ビルの用地は、まさしく訳ありの物件で、移籍する社員の退職金代わりとして移されたものだった。
このように非常に恵まれた条件と思われるものもあるにはあったが、それらが役立つのはかなり後年のことで、新会社立ち上げ当初は、譲られたわずかな商権で三十人の社員を養うという厳しいものだった。
その後、大沢恵一郎の積極方針と、石炭という基幹産業がすべて財閥系に押さえられていたため、その代わりのように入り込んだセメント業界の急成長が大きな力となって、経営は安定していった。
大沢社長の強いリーダーシップと、M社が直系企業に加えたくない事情もあって、南東商事はオーナー企業へと変貌し、その後は中小商社の吸収なども進め、M社など大手商社には遠く及ばないものの、今や一部上場の中堅商社に成長しているのである。
飯島が活躍することとなった中部支社は、二年前に吸収した会社の商権と社員を一本化させることに苦しんでいる最中だった。
支社長は南東商事生え抜きの取締役だったが、営業部の部長は吸収した会社から引き継いだ社員で、その下に飯島が次長として補佐する体制だった。中部支社全体がこのようなたすき掛けのような人員配置がされていて、営業部にいる四人の課長のうちの三人が引き継いだ会社出身者であり、一人だけいる南東商事生え抜きの課長が青山だった。
飯島は着任後間もなく、青山の率いる営業三課を自動車業界に特化していった。それまで三課が担当していた産業機械分野のほとんどを他の課に移し、同時に自動車に関連する分野のものはすべて三課に集中させていった。そして、青山の課を当時の中堅商社としては珍しい自動車業界専門の部署にしたのである。
この思い切った配置は、自動車産業の将来に期待が持てたことと、東海地区がわが国の自動車産業の中心になることを予測したことが大きな理由であるが、もう一つは、伝統的な産業の分野では大手商社やその系列企業の力が強く、南東商事の力では大きな成長は期待しにくかったが、進取の気質にあふれた自動車業界なら勝機があると判断したからである。
飯島たちが最も力を注いだ部品メーカーが驚異的な成長を遂げたことや、自動車業界全体が急速に発展し、特に東海地区の自動車業界の発展は目を見張るものがあり、営業三課は南東商事全社の中で最強と言われるまでに育っていったのである。
そして、この中部支社での驚異的な業績成果が、今日の飯島の地位を築いたのであるが、営業三課で苦労を共にしたメンバーはそれぞれ順調な昇進を続けていた。
特に青山は、上司と衝突したため中部支社に飛ばされた状態だったので、飯島との出会いを喜んでおり、互いに所属が変わってからも親密な交際が続いていたのである。
その後も飯島は順調な昇進を続け、このほど常務取締役に就任し、同時に大阪支社長を拝命することになったのである。
そこで、飯島の引継業務が一段落するのを待って、青山が音頭を取ってかつての中部支社で共に苦労したメンバーのうち大阪支社に属している者で歓迎会を開いてくれたのである。
幹事役の青山は、現在は大阪支社の営業部長であり、その辣腕ぶりは全社に知られていたし、他の三人もそれぞれの部署で順調に昇進して来ていた。
大阪支社は、南東商事の中で一番規模の大きな支社であり、飯島の支社長就任を機にかつての中部支社の再現を期待する声は大きかったが、今日集まっているメンバーは特に張り切っている社員たちでもあった。そして、その勢いが三軒目の「あわじ」になったわけである。
青山は飯島より二歳若く、他のメンバーは少し離れていて四十歳前後だった。商社マンとして最も脂の乗っている世代であり、かなり飲んでいるのだがいささかの疲れも見せず、常務、常務を連発させながら中部支社時代の思い出を繰り返し語り合っていた。
飯島は、この二週間ばかりの引継事務の疲れもあって、かなりの酔いを感じながらも十年昔に帰ったような、まるで夢の中にいるような気持になっていた。
その時、飯島は、あの人の姿を見た。夢を見ているような気持の中だったが、間違いなくあの人だと思った。
しかし、現実として、そのようなことがあるわけがなかった。
「酔っているかな・・・」
と、自分自身に言い聞かせるように首を振った。
この一、二年、何故だかしきりに思いだされるあの人の姿を、今、この目で見ている・・・。
だが、そのようなことがあるはずがなかった。あの人が、あの頃の姿のままでここにいることなど、あるはずがなかった。