雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

うつせみ   第五回

2010-08-04 08:00:40 | うつせみ
          ( 五 )

飯島は強引なまでにして真沙子に近づきはしたが、交際が始まった後は一転して慎重な行動ぶりだった。会うのは夕食を共にする時にほぼ限られていて、休日に食事に誘うこともあったが、真沙子に他の予定がありそうな気配を感じると即座に誘いを取り消した。

二人が特別な意識をもって交際するようになってから三か月の間、ごくたまに真沙子の手を取るようなことはあったが、それ以上体に触れるようなことはなかった。飯島にとって、真沙子は特別な存在であって、強引には誘ったがそれ以上のことは彼女の意思に反して行動するつもりはなかった。
もちろん、全く冷静に対応したわけではなく、自らの欲望に誘惑されそうになることも再三あったが、飯島は厳しく自制を続けていた。

しかし、飯島はその三か月を無為には過ごしていなかった。
あまり自分のことを語らない真沙子だが、以前には踊りによく行ったという話をしたことがあった。飯島はダンスが出来なかったので、恥ずかしさに耐えてダンス教室に通っていた。
三か月を過ぎた頃から、二人のデートにダンスが加わった。

それでも、依然食事をすることが主体で、あとで喫茶店に寄るのがせいぜいで、真沙子の時間の許す限り話し合ったが、相変わらず話題を提供するのは殆ど飯島だった。
しかし、ダンスの時だけは違った。真沙子は生き生きとフロアーを動き回った。踊っているというより、泳いでいるようにと表現できるほどすばらしかった。飯島は、真沙子と組んで踊れるという目的が果たし、夢のような時間を過ごせるようになったが、ダンスの腕は真沙子の方が遥かに上だった。

その頃でも正式にダンスを踊れる人はそう多くはなかったが、タンゴとなるとなおさら少なかった。
二人がよく通ったホールは規模の大きい所で、その大勢の中でタンゴをそれなりに踊るには、かなりの年期を必要とした。飯島の即席の腕前では荷が重かった。真沙子の踊りをサポートすることなどとても無理で、ついて踊ることも難しかった。

踊る時の真沙子の姿はまるで別人のように見えた。二人で会っている時の真沙子ではなく、仕事をしている時のようにオーラのようなものを発しているように見えた。いつも普段と変わらぬ服装であり、周囲の女性よりどちらかといえば地味な身なりだったと思うのだが、飯島の欲目があったとしても、踊っている時には一人スポットライトを浴びているかのように輝いていた。
飯島は、真沙子をもっと自由に踊らせてやりたいと思い、別のパートナーを勧めたことがあったが、

「あなたとだから、踊れるのよ。他の人と踊る気持ちなどないわ」
と答え、「辛抱して踊って下さいね」と、飯島が自分のためにダンスを習ってくれたことに礼を言った。
真沙子とは、そのような女性だった。

真沙子は、自分のことを主張したり望んだりすることがなかった。飯島の話には熱心に聞き入るが、自分のことについてはあまり話すことがなかった。特に、生まれ故郷のこととか子供の頃のことについては話したがらない様子で、むしろ避けているように飯島には感じられた。
それでも、話の流れの中で、真沙子の生い立ちに話題が移った時があった。
真沙子は、自分が生まれ育ったのが信州の八ヶ岳が間近に見える村であること、そして両親とは早くに死別したことを淡々と語った。特別に悲しげでもなく、感情的でもなく、物語を話すかのように、まさに淡々と語った。

兄と二人で生きてきたという話をしていたが、それであればおそらくかなり厳しい環境での生活だったと思われたが、いま目の前にいる真沙子が持っている雰囲気とは、飯島には結び付けることが出来なかった。
しかし、作り話をしているはずはなく、触れてはならない領域に入ってしまったのではないかと飯島は懸念した。

沈黙が二人を包み、会話が途絶えた。
この人を絶対に失ってはならないと、この時飯島は確信した。自分がこの人を護り、幸せにしなくてはならないと強く思い、真沙子の存在が、敬慕から愛情に変わった。

二人はいつもより早く帰路に着いた。いつの間にか包まれてしまった重い雰囲気を、どちらもが振り払うことが出来なくなっていた。
いつものように真沙子のアパートの近くまで送ってきた飯島は、不自然なまでに明るい声を出して挨拶し踵を返そうとした。
真沙子は、寂しげな笑顔を見せて頷いた。そして、飯島の腕を取った。不意のことに戸惑い気味な飯島の言葉を聞くこともなく、何事でもないように歩きだした。

その夜、飯島は初めて真沙子の部屋に入った。そして、二人は結ばれた。

     **

二人の交際は、一段進んだものとなった。
週に二度ばかり夕食を共にするというペースは同じだったが、その内の何度かに一度は真沙子の部屋で過ごすようになった。週末には、飯島に仕事が入っていない時には泊まることもあった。
体の関係を重ねることに比例して飯島の思いは深まり、真沙子なしの生活など考えられないような状態になっていった。

飯島は結婚を意識して、将来について語ることが多くなった。真沙子は嬉しそうな表情で、二人の将来について語る飯島の顔を見つめていた。
飯島が自分の語る二人の将来像に酔ったように熱弁を奮う時には、目を輝かせていつまでも飽きることなく聞き入っていた。しかし、真沙子が自分自身夢を語ることは殆どなかった。

ある時、飯島が真沙子にも二人の将来のことを話すように強く求めた時、「本当に、わたしで良いの?」と、ひとり言のように呟いたことがあった。
「何を言ってるの、当たり前じゃないか。あなたでなければ駄目だよ」
飯島は、真沙子の言葉にうろたえて、その手を取って叫ぶように訴えた。

真沙子は飯島の言葉に大きく頷いたが、その顔は無理に作ったような寂しげな笑顔だった。そして、静かな口調で応えた。
「ありがとう・・・。でも、無理はしないで・・・。わたしは、今のままでも幸せなんだから・・・」

飯島は、真沙子の言葉にどう答えればよいのか分からず、肩を抱き寄せ力を込めた。その肩は、泣いているように震えていた。

このことがあった後も、真沙子の飯島に対する接し方にはなんの変化も無かった。常に飯島の気持ちを大切に考えてくれて、自分の要求を強く表に出すことは一度もなかった。
飯島は出来るだけ早く正式に結婚したいと考えていたが、その考えが真沙子に強要しているように伝わらないか躊躇し、二人の仲は足踏み状態となった。

しかし、二人が初めて結ばれた時からの三か月余りは、飯島にとって最も幸せな時だったのかもしれなかった。
早く結婚したいという気持ちが、真沙子の気持ちとうまく噛み合わないもどかしさはあったが、飯島が身を焦がすほどに人を愛することが出来たのは、生涯において、この頃の数か月だけだったのかもしれない。



 

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