『 達磨さんが転んだ 』
「達磨さんが転んだ」という遊びがあります。ご存知ですか。
大体の遊び方は私も知っていますが、あまり遊んだ記憶はありません。
今回はこの言葉がテーマですが、以前から特別興味があったわけではありません。ところが、最近この言葉を偶然見た時、これは何とも凄い言葉だな、と思ったのです。
達磨さんが転ぶ・・・。
達磨さんというのは、もちろんあの達磨大師のことです。それでは、転ぶというのはどういう意味なのでしょう。おそらく、達磨大師が座禅を組んでいる途中で転んでしまったという意味で、これは笑いの分野です。
しかし、私が凄い言葉だな、と思ったのは、転ぶという言葉には、宗教を放棄するという意味もあるからです。こちらの意味は、キリシタンが弾圧によって改宗させられた悲しい歴史を連想させるものです。
少々ひねくれた見方かもしれませんが、子供たちが「達磨大師が弾圧に負けて改宗したよ」と歌っているとしたら、怖い光景ですよね。
遊びとしての「達磨さんが転んだ」は、単に十を数えるための道具に使っているだけなのでしょう。「一、二、三、四・・・」と数える代わりに、「ダルマサンガコロンダ」と歌っているのでしょう。
私が子供の頃には、「坊さんが屁をこいた」というのもありました。こちらは少々下品ですが、数を数えるための遊び言葉のようなものは、他にもたくさんあるのではないでしょうか。
それにしても、誰が考え出した言葉か知りませんが、「達磨さんが転んだ」にしろ「坊さんが屁をこいた」にしろ、その光景を考えますと可笑しさが込み上げてきます。
達磨さんが難しい顔をして座禅をしている途中で、足の痺れに耐えかねて転んでしまった・・・。お坊さんが、悲しみの絶頂にある遺族の方々の前での読経中に、生理現象には勝てず、プーとやってしまった…。
達磨さんと小さな子供たちを結ぶものに「達磨さん、達磨さん、にらめっこしましょ。笑ったら負けよ・・・」というのもあります。これも、難しい顔で座禅中の達磨さんに、小さな子供が「にらめっこ」を挑むという、何とも微笑ましいものです。
このように、達磨さんという方は、私たちにとってたいへん馴染み深い人物ではないでしょうか。もっとも、私たちは達磨大師という人物としてよりも、人形のダルマさんとしての方が遥かに親しみを感じるというのが実態だと思うのですが。
最近の子供たちや若い人たちにとって、達磨さんはどのような位置付けにあるのでしょうか。すでに古典的な存在になってしまっているのでしょうか。
それでも、もし人物やキャラクターの知名度について、日本人全員にアンケートをすることができると仮定すれば、最近の人気アニメの主人公や世界中の著名人たちに伍して、かなり上位に入ると確信しているのですが、どうでしょうか。
あなたは、達磨さんについてどの程度ご存知ですか。人形のダルマさんではなく、達磨大師という人物についてです。
若い人だけでなく、戦後になってから小学校に入学した世代を含めて、達磨大師について勉強されたという方は少ないようです。学術や宗教関係での専門的な方を別にすれば、教科書の片隅に載っていたとか、絵本や漫画を通じてとか、何よりもダルマ人形として知られているようで、有名な人物の割には詳しくは知られていないようです。
菩提達磨(ぼだいだるま)、おくり名は達磨大師・円覚大師。
実在の人物ですが、伝えられる経歴や業績は伝説化されているものが多いと言われています。生没年も不詳ですが、活躍時期から推定すれば、西暦四百年代後半から五百年代中頃の人であります。
生まれたのは、南インド。インドで修業ののち中国に渡りました。梁の武帝の崇拝を受け、禅宗の始祖とされています。河南省にある少林寺において、壁に面して九年間の座禅を行ったという逸話はあまりにも有名で、達磨大師がダルマ人形として親しまれる所以ともいえます。
なお、この少林寺というのは、少林寺拳法の発祥地としてわが国でもよく知られている名刹です。
以上が、手元にある書籍などで調べることができた、達磨さんの略歴です。
「有求皆苦 無求則楽」
これは、達磨さんの言葉です。
禅を学んだことのない私にとって、禅問答といえば訳の分からないことの代名詞みたいなものです。確か落語にも、禅問答を茶化したような題材があったと覚えていますが、私だけでなく多くの人にとって、禅問答は理解しがたいものとの先入観を持っているのではないでしょうか。
この言葉は禅問答の一部ということではないのですが、難解なことに変わりはありません。
言葉の意味は、「求める心があれば何もかも苦しみである。求める心がなければ直ちに楽になる」といった感じです。
この教えも前回の一行先生の教えと同様、非常に古典的なものといえます。多くの先人たちが異口同音に取り上げて、その重要性について説いています。
もっとも、古典的というのは私たちにとってということで、達磨さんは今から千五百年も昔の人ですから、当時としては新しい教えだったのかもしれません。また、この教えはお釈迦さまの教えの中心になるもののようにも見えますので、宗教上の意味合いも強いのかもしれません。
それに何といっても、達磨さんは元祖禅問答ともいえる存在の方ですから、そんな上っ面だけの話ではないよ、と笑っておられるかもしれません。
しかし、同時に、達磨さんほどの方の残された言葉ですから、特別な教養や思想の持ち主にのみ通じる言葉ではないと思うのです。
日々の小さな出来事や、他人のうわさ話に一喜一憂している私などにも、何らかのヒントを与えてくれていると思うのです。
けれども、この言葉を私たちの日常生活に生かすとなれば、少々難しくなります。
何かを求めれば苦しくなり、何も求めなけれ゛楽になる・・・。言葉の意味はよく分かります。全くその通りだとも思います。前回の「少欲知足」も同様ですが、言葉の表面的な意味が分かっても私たちの生活の中に生かすことは簡単にできそうもありません。そこを、あえて元祖禅問答に挑戦してみたいと思います。
私たちは、大切な人に対して常に何かを要求しているものです。
私たちは、大切な人に対して、その人のために何ができるかということを考えることは極めて少なく、実行することはさらに少ないものです。
例えば、無償の愛というものがあるとすれば、子供に対する親の愛が最も近いものだと思われます。しかし、その親の愛も、完全な無償の愛でしょうか。子供から何かの見返りを考えているとは言わないまでも、成長への期待は明らかに持っているのではないでしょうか。
むしろ、その期待は相手が過大と思うほどに膨らみ、それに十分応えてくれないことが苦しみとなり、憎しみの心さえ育ててしまいます。
「有求」という意味は、私たちのこのような心理だと考えたのですが、「無求」となると、少々大変です。
何も求めなければ楽になると達磨さんは教えていますが、それはどのような心境を指すのでしょうか。求めるとか求めないとかいうからには、相手のあることだと思うのですが、行きずりの人や無視できる人に対しては「無求」も可能でしょう。しかし、大切な人に対しても何も求めないなどという心境は可能なのでしょうか。
仏教は肉親との情愛が一番の煩悩であると教えています。煩悩を取り除くことが仏教の教えなのかもしれませんし、大切な人たちに対しても何も求めないと割り切れるのなら、確かに楽になるでしょう。
しかし、欲と煩悩を山ほど抱えて生きてゆかねばならない私たちには、実現困難な教えとしか思えません。
達磨さんは、修業者や宗教者の向上のためにこの言葉を残されたのであって、私などがぐずぐず言う問題ではないのでしょうか。
しかし、達磨さんほどの方が、私のような凡人を無視したような教えを残すものでしょうか。
前回の一行先生は達磨大師より百年ほど後の人ですが、彼は「少欲」と説き、無欲とは言っていません。少々乱暴かと思いますが、二人の教えは同じような教えだと思われます。達磨大師は完全を求め、一行先生は少しばかり現実を加味したのでしょうか。
それも、少し違うように思われます。
私たちは、大切な人や愛する人に「何も求めない」ことなど絶対にできません。大切な人や愛する人に対して、健康を願うことも幸せを願うことも、そうあって欲しいという求めだと思うのです。それさえも無くしてしまうことが、大切なことだとは思えないのです。そこまでして楽になる必要などないと思うのです。楽を捨て、苦を甘んじて受け入れれば済むことなのですから。
達磨さんの教えは、きっと、もっと私たちに優しい教えのはずです。
そう確信して何度もこの言葉を読み返しているうちに、求めるというのは、相手から何かを得ようとする心だと思うようになりました。
すなわち、無求とは「与えたものに対して見返りはないものと思いなさい」ということだと思ったのです。
私たちは、大切な人や愛する人に何も求めないことなどできません。大切な人や愛する人の幸せを願い、希望や願いを託すことを、無くしてしまうことなどできません。
大切なことは、自分の努力や願いに対して、相手が応えてくれるものが少なくても許せる心を、少しずつでも育てていくことではないでしょうか。それならば私たちでも、努力することができるのではないでしょうか。
私たちは、自分が何かを得たいという気持などなく、本心から相手のことを願ったことであっても、相手がそれに応えてくれない時には、腹立たしかったり虚しく感じたりするものです。
その心を少しでも抑え、相手を許せる心を、少しずつ少しずつ育ててゆくことが大切だと思うのです。
達磨さんの折角の教えを、とんでもない受け取り方をしているのかもしれませんが、私はこのように考えました。
達磨大師という偉大な聖人は、現在に生きる私たちとは千五百年という時間を隔てています。しかし幸いにも、私たちにとって達磨さんは今もなお身近な存在です。
私たちはこの幸運を大切にして、ダルマ人形に出会うたびに自分の心の中の「人を許せる心」が、少しずつでも育っているかどうか思い起こしたいものです。
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