雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

言葉のティールーム   第八話

2009-12-26 11:48:59 | 言葉のティールーム

『 達磨さんが転んだ 』


「達磨さんが転んだ」という遊びがあります。ご存知ですか。
大体の遊び方は私も知っていますが、あまり遊んだ記憶はありません。
今回はこの言葉がテーマですが、以前から特別興味があったわけではありません。ところが、最近この言葉を偶然見た時、これは何とも凄い言葉だな、と思ったのです。


達磨さんが転ぶ・・・。
達磨さんというのは、もちろんあの達磨大師のことです。それでは、転ぶというのはどういう意味なのでしょう。おそらく、達磨大師が座禅を組んでいる途中で転んでしまったという意味で、これは笑いの分野です。
しかし、私が凄い言葉だな、と思ったのは、転ぶという言葉には、宗教を放棄するという意味もあるからです。こちらの意味は、キリシタンが弾圧によって改宗させられた悲しい歴史を連想させるものです。
少々ひねくれた見方かもしれませんが、子供たちが「達磨大師が弾圧に負けて改宗したよ」と歌っているとしたら、怖い光景ですよね。


遊びとしての「達磨さんが転んだ」は、単に十を数えるための道具に使っているだけなのでしょう。「一、二、三、四・・・」と数える代わりに、「ダルマサンガコロンダ」と歌っているのでしょう。
私が子供の頃には、「坊さんが屁をこいた」というのもありました。こちらは少々下品ですが、数を数えるための遊び言葉のようなものは、他にもたくさんあるのではないでしょうか。


それにしても、誰が考え出した言葉か知りませんが、「達磨さんが転んだ」にしろ「坊さんが屁をこいた」にしろ、その光景を考えますと可笑しさが込み上げてきます。
達磨さんが難しい顔をして座禅をしている途中で、足の痺れに耐えかねて転んでしまった・・・。お坊さんが、悲しみの絶頂にある遺族の方々の前での読経中に、生理現象には勝てず、プーとやってしまった…。


達磨さんと小さな子供たちを結ぶものに「達磨さん、達磨さん、にらめっこしましょ。笑ったら負けよ・・・」というのもあります。これも、難しい顔で座禅中の達磨さんに、小さな子供が「にらめっこ」を挑むという、何とも微笑ましいものです。
このように、達磨さんという方は、私たちにとってたいへん馴染み深い人物ではないでしょうか。もっとも、私たちは達磨大師という人物としてよりも、人形のダルマさんとしての方が遥かに親しみを感じるというのが実態だと思うのですが。


最近の子供たちや若い人たちにとって、達磨さんはどのような位置付けにあるのでしょうか。すでに古典的な存在になってしまっているのでしょうか。
それでも、もし人物やキャラクターの知名度について、日本人全員にアンケートをすることができると仮定すれば、最近の人気アニメの主人公や世界中の著名人たちに伍して、かなり上位に入ると確信しているのですが、どうでしょうか。


あなたは、達磨さんについてどの程度ご存知ですか。人形のダルマさんではなく、達磨大師という人物についてです。
若い人だけでなく、戦後になってから小学校に入学した世代を含めて、達磨大師について勉強されたという方は少ないようです。学術や宗教関係での専門的な方を別にすれば、教科書の片隅に載っていたとか、絵本や漫画を通じてとか、何よりもダルマ人形として知られているようで、有名な人物の割には詳しくは知られていないようです。



菩提達磨(ぼだいだるま)、おくり名は達磨大師・円覚大師。
実在の人物ですが、伝えられる経歴や業績は伝説化されているものが多いと言われています。生没年も不詳ですが、活躍時期から推定すれば、西暦四百年代後半から五百年代中頃の人であります。
生まれたのは、南インド。インドで修業ののち中国に渡りました。梁の武帝の崇拝を受け、禅宗の始祖とされています。河南省にある少林寺において、壁に面して九年間の座禅を行ったという逸話はあまりにも有名で、達磨大師がダルマ人形として親しまれる所以ともいえます。
なお、この少林寺というのは、少林寺拳法の発祥地としてわが国でもよく知られている名刹です。
以上が、手元にある書籍などで調べることができた、達磨さんの略歴です。


「有求皆苦 無求則楽」
これは、達磨さんの言葉です。
禅を学んだことのない私にとって、禅問答といえば訳の分からないことの代名詞みたいなものです。確か落語にも、禅問答を茶化したような題材があったと覚えていますが、私だけでなく多くの人にとって、禅問答は理解しがたいものとの先入観を持っているのではないでしょうか。
この言葉は禅問答の一部ということではないのですが、難解なことに変わりはありません。


言葉の意味は、「求める心があれば何もかも苦しみである。求める心がなければ直ちに楽になる」といった感じです。
この教えも前回の一行先生の教えと同様、非常に古典的なものといえます。多くの先人たちが異口同音に取り上げて、その重要性について説いています。


もっとも、古典的というのは私たちにとってということで、達磨さんは今から千五百年も昔の人ですから、当時としては新しい教えだったのかもしれません。また、この教えはお釈迦さまの教えの中心になるもののようにも見えますので、宗教上の意味合いも強いのかもしれません。
それに何といっても、達磨さんは元祖禅問答ともいえる存在の方ですから、そんな上っ面だけの話ではないよ、と笑っておられるかもしれません。


しかし、同時に、達磨さんほどの方の残された言葉ですから、特別な教養や思想の持ち主にのみ通じる言葉ではないと思うのです。
日々の小さな出来事や、他人のうわさ話に一喜一憂している私などにも、何らかのヒントを与えてくれていると思うのです。
けれども、この言葉を私たちの日常生活に生かすとなれば、少々難しくなります。


何かを求めれば苦しくなり、何も求めなけれ゛楽になる・・・。言葉の意味はよく分かります。全くその通りだとも思います。前回の「少欲知足」も同様ですが、言葉の表面的な意味が分かっても私たちの生活の中に生かすことは簡単にできそうもありません。そこを、あえて元祖禅問答に挑戦してみたいと思います。


私たちは、大切な人に対して常に何かを要求しているものです。
私たちは、大切な人に対して、その人のために何ができるかということを考えることは極めて少なく、実行することはさらに少ないものです。
例えば、無償の愛というものがあるとすれば、子供に対する親の愛が最も近いものだと思われます。しかし、その親の愛も、完全な無償の愛でしょうか。子供から何かの見返りを考えているとは言わないまでも、成長への期待は明らかに持っているのではないでしょうか。
むしろ、その期待は相手が過大と思うほどに膨らみ、それに十分応えてくれないことが苦しみとなり、憎しみの心さえ育ててしまいます。


「有求」という意味は、私たちのこのような心理だと考えたのですが、「無求」となると、少々大変です。
何も求めなければ楽になると達磨さんは教えていますが、それはどのような心境を指すのでしょうか。求めるとか求めないとかいうからには、相手のあることだと思うのですが、行きずりの人や無視できる人に対しては「無求」も可能でしょう。しかし、大切な人に対しても何も求めないなどという心境は可能なのでしょうか。


仏教は肉親との情愛が一番の煩悩であると教えています。煩悩を取り除くことが仏教の教えなのかもしれませんし、大切な人たちに対しても何も求めないと割り切れるのなら、確かに楽になるでしょう。
しかし、欲と煩悩を山ほど抱えて生きてゆかねばならない私たちには、実現困難な教えとしか思えません。
達磨さんは、修業者や宗教者の向上のためにこの言葉を残されたのであって、私などがぐずぐず言う問題ではないのでしょうか。


しかし、達磨さんほどの方が、私のような凡人を無視したような教えを残すものでしょうか。
前回の一行先生は達磨大師より百年ほど後の人ですが、彼は「少欲」と説き、無欲とは言っていません。少々乱暴かと思いますが、二人の教えは同じような教えだと思われます。達磨大師は完全を求め、一行先生は少しばかり現実を加味したのでしょうか。
それも、少し違うように思われます。


私たちは、大切な人や愛する人に「何も求めない」ことなど絶対にできません。大切な人や愛する人に対して、健康を願うことも幸せを願うことも、そうあって欲しいという求めだと思うのです。それさえも無くしてしまうことが、大切なことだとは思えないのです。そこまでして楽になる必要などないと思うのです。楽を捨て、苦を甘んじて受け入れれば済むことなのですから。


達磨さんの教えは、きっと、もっと私たちに優しい教えのはずです。
そう確信して何度もこの言葉を読み返しているうちに、求めるというのは、相手から何かを得ようとする心だと思うようになりました。
すなわち、無求とは「与えたものに対して見返りはないものと思いなさい」ということだと思ったのです。


私たちは、大切な人や愛する人に何も求めないことなどできません。大切な人や愛する人の幸せを願い、希望や願いを託すことを、無くしてしまうことなどできません。
大切なことは、自分の努力や願いに対して、相手が応えてくれるものが少なくても許せる心を、少しずつでも育てていくことではないでしょうか。それならば私たちでも、努力することができるのではないでしょうか。


私たちは、自分が何かを得たいという気持などなく、本心から相手のことを願ったことであっても、相手がそれに応えてくれない時には、腹立たしかったり虚しく感じたりするものです。
その心を少しでも抑え、相手を許せる心を、少しずつ少しずつ育ててゆくことが大切だと思うのです。
達磨さんの折角の教えを、とんでもない受け取り方をしているのかもしれませんが、私はこのように考えました。


達磨大師という偉大な聖人は、現在に生きる私たちとは千五百年という時間を隔てています。しかし幸いにも、私たちにとって達磨さんは今もなお身近な存在です。
私たちはこの幸運を大切にして、ダルマ人形に出会うたびに自分の心の中の「人を許せる心」が、少しずつでも育っているかどうか思い起こしたいものです。


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言葉のティールーム   第九話

2009-12-26 11:48:21 | 言葉のティールーム

『 天網恢恢疎にして漏らさず 』


「てんもうかいかい そにしてもらさず」と読みます。
これは「老子」の中にある言葉です。第七十三章の最後の部分です。
老子は中国の春秋時代から戦国時代にかけての頃に実在したとされる思想家で、その著書も同様に呼ばれています。


中国の春秋時代から戦国時代といいますと、紀元前七百七十年頃から紀元前二百二十年頃までの五百五十年程を指します。
王朝名でいえば周王朝にあたりますが、周王朝は紀元前千百年頃に武王により成立したあと三百年程で衰退してしまい、長い長い戦乱の時代に突入していきました。
春秋戦国時代とも呼ばれる戦乱期は五百年以上も続き、やがて、秦の始皇帝により収められるのですが、老子が活躍したとされる時代は、その戦乱期の真っ只中でした。


中国の歴史書や逸話などから孔子とほぼ同世代の人物と推定され、二人が会ったという逸話によると、老子の方が年長のように思われます。一方で、孔子より後の時代に活躍した孟子の頃にも老子が登場するようなので、二百歳位までは生きた人物のようです。
どこまでが真実なのかは別にして、老子が謎の多い人物であることは確かのようです。


私はある時期、老子に少々興味を持ったことがありました。特別に勉強したわけではありませんが、何冊かの解説書を読みました。老子に関する解説書は、古くに発行されたものまで遡りますと以外にたくさんあります。私は、それらの何冊かを読んだ程度で、その解説に寄りかかった程度の知識しか持っていませんので、ご承知下さい。


戦後教育を受けた人にとって、老子はあまり馴染みのない人物です。
その人物像については、髭を生やして生まれてきたとか、たいへん長命であったとか、謎めいていて面白い存在なのですが、何分二千五百年も昔の中国の人ですから、その真偽を確かめるすべなどなく、伝えられている逸話を眉に唾しながら信じるばかりです。


著作物としての「老子」は、全体が八十一章からなるものですが、各一章の量が比較的短く、趣味として勉強するには手頃なものだと思います。
ただ問題は、少々難解なことです。
文字や文章が難しいという意味ではありません。いえ、文字も文章も特別難しいのですが、そのようなことは私とっては当たり前のことで、驚くほどのことではありません。漢字の三分の一は書くことができない文字ですし、私は易しい漢文でも満足に読めないのですから。

難解と言いました理由は、一つは解説書によって解釈がかなり違うということです。原文についても幾種類も伝えられているようですし、和文に読み下していく場合でも研究者によってかなり違う部分が少なくありません。
二つ目は、その考え方といいますか、大きくいえば老子の思想というものが、私たちには少し肌に合わないような感じがすることがあるからです。


一般にいわれています老子の思想は、宇宙といいますか自然といいますか、本来ある絶対的なものの力に逆らわず、無為、自然のままであることが大切だというものです。剛より柔、争いより平和、謀略より無為、といったものを大切にしており、中には明らかに儒教に対抗していると思われる部分もあります。


老子の思想について私などが説明しましても正確なはずがなく無駄なことですが、無駄も必要と老子は教えていますので、その教えに甘えて先人の受け売りを書いてみました。
「老子」に書かれている内容の多くは、むしろ今日的な考え方も多く、私たちの生活の指針の中にもっと取り入れるべきだと思うのですが、それでいて何か馴染めないものを感じてしまうのは、私たちの身体の中にいつの間にか儒教的な考え方が植えつけられているのかもしれません。


私が、この「天網恢恢疎にして漏らさず」という呪文のような言葉を知ったのは、小学校の、それもまだ低学年の頃のことです。
その頃、昭和二十年代の中頃までは敗戦後の混乱がまだ色濃く残っておりました。物質的にも精神的にも、多くのものが壊れ、そして失われ、何もかもが足らない時代でした。

子供たちの遊びも、走りまわったり、身体をぶつけ合ったり、要は物を使わずに身体だけを使ってできる遊びが主体でした。多くの地域では、小学校低学年で午前と午後に分かれて登校する体制が取られました。教室が不足し、先生も足らなかったのかもしれません。
給食などは制度としてなく、ごくたまに出されるミルクは、脱脂粉乳から作られたものなのですが、ハラペコの子供たちの中でも飲める子は少数でした。


そんな時代の小さな子供たちにとって、紙芝居はたいへん楽しみなものでした。
自転車の荷台に紙芝居の道具を積んでやって来るのですが、もちろんその小父さんも職業として生活費を稼ぐために巡回しているプロなのです。駄菓子のようなもの、例えば今すぐに思いだせるものとしては、するめを甘辛く煮たものや、大きな酢昆布なのですが、確か五円位で買うと紙芝居を見せて貰える仕組みでした。


その頃の五円というのは、子供たちにとって貴重なお金でした。正確な記憶ではないのですが、私の仲間なのでは一か月の小遣いはせいぜい百円でした。それも、一か月分をまとめて貰える子供など居りませんでした。当時の国鉄(現在のJR各社)の最低運賃が多分十円位で、しかも人々の生活状態は大半の人がその日暮らしに近い状態でした。従って、当時の五円を現在の貨幣価値に換算することには無理があると思うのですが、私の感覚では、紙芝居を見るための駄菓子代は、今の二、三百円にあたるように思います。


私だけでなく、仲間たちの殆んどが親から毎日五円を貰うことなどできませんでしたから、三日に一度くらいだけは、買ったするめをこれ見よがしに食べながら前の方で紙芝居を見るのです。あとの二日は、後ろの方で肩をすぼめながら、ただ見をするのです。たまには紙芝居の小父さんに嫌味を言われることもありましたが、追い払われるようなこともなく黙認してくれていました。


紙芝居の内容もよく覚えていないのですが、鞍馬天狗とか黄金バットなどが登場してきたことは記憶にあります。ストーリーなども忘れてしまっているのですが、今も鮮明に覚えているセリフが二つあります。


その一つは、「いよいよ明日はクライマックス」という言葉です。
せりふというより、紙芝居の小父さんの絶叫するような声を今も覚えているのです。紙芝居は一編が十枚ほどでできていて殆んどが続きものなのですが、その日の場面が終わるところで小父さんは叫ぶのです「いよいよ明日はクライマックス」と。
私たちは、翌日もその物語の行方を楽しみに紙芝居を待つのですが、物語はクライマックスらしきものもなく進み、その日の終わりの場面では、小父さんは再び叫ぶのです。
「いよいよ明日はクライマックス!」


そして、もう一つの言葉が「天網恢恢疎にして漏らさず」でした。
こちらの方は、悪人を懲らしめるために正義の味方の主人公が登場する時に使われる言葉でした。もちろん子供たちには、どんな字を使うのか、どういう意味を持っているのかなど全く分かりません。しかし、小父さんがこの言葉を声高らかに唱える時には、必ず正義の味方が登場してきてかわいそうな少女を助け出してくれるという予感に、身を乗り出したものでした。
あれは、正義の味方のテーマソングであり、私たちを虜にする呪文だったのかもしれません。


「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉の意味は、「天が持っている網は広大でその目は粗いが、決して漏らすことがない」といったものです。つまり、天が持って網はそれとは分からないほど大きく、その目もとても粗いものなので、悪事や不条理を自由にさせているように見えるが、決して逃すことはないというのです。
「天」というのは、老子のいうところの絶対真理とでも訳すのが正しいように思いますが、もっと簡単に、軽い意味での「神さま」と考えていいのではないでしょうか。
紙芝居の小父さんの、あの呪文のような叫びは、正義の味方を登場させるのに実に適切な言葉を選んでいたのです。


冒頭でも述べましたように、この言葉は「老子」の第七十三章の最後の部分です。この章も、解説書によって違うとらえ方がされています。また、「漏らさず」の部分も「失わず」となっている本も多いのですが、私には子供の頃の呪文のような響きが忘れられませんので、「漏らさず」を使わせていただきました。


さて、現実の私たちの日常を考えてみますと、天の網が本当に機能しているのか疑問に思うことが少なくありません。小さな魚は捕えても大きな魚は見逃すのが、天の摂理のように感じてしまうことも少なくありません。
?舟の魚は枝流に游がず(舟を呑み込むような大きな魚は、小さな川には住まない)という言葉がありますが、私たちの社会の現実はこの言葉の方に納得してしまう部分も少なくないように思えます。
悪人の中の大物は、たとえ天が打つ網であっても、遥か離れた安全な場所で、そんな網には掛からないよと、せせら笑われているような気がすることが確かにあります。


しかし、本当はどうなのでしょうか。
老子が教えるように、全てのものを取り逃がすことなく裁く「天の網」など、存在するのでしょうか。老子は、単に凡人を戒めるために言った言葉に過ぎないのか、それとも、私が子供の頃に胸をときめかせたように、「天の網」を持って颯爽と現れる正義の味方が存在しているのでしょうか。


まあ、私としましては、せっかく今まで心に抱いてきた言葉なので、「天の網」を恐れながら生きるようなことは避けたいと思うのですが、目が粗いことをいいことに小ずるく立ち回るのを笑いながら見逃してくれたことが、すでに何度もあるのかもしれません。


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言葉のティールーム   第十話

2009-12-26 11:47:49 | 言葉のティールーム

『 飯と作すに足らざれば則ち粥と作す 』


私は、この言葉の歯切れの良さが好きです。
前回の言葉もそうなのですが、言葉の持つ意味もすばらしいと思うのですが、何か呪文でもとなえているような響きが好きなのです。


この言葉にはずいぶん前に出合っていまして、良い言葉だと思ってノートに書き留めていたのですが、それっきりになっていました。私は好きな言葉に出合った時には、できるだけ書き留めておくようにしているのですが、その殆んどがどこかに埋もれたままになっています。


この言葉も全く同じ状態にありました。
出合った時にはそれなりの感動をもって読んだのですが、その後見直すこともなく書棚の隅に埋もれていました。それでも、これまでに何回かこの言葉を思いだしたことがありました。
正確に覚えていたわけではないのですが、ああいう言葉もあったなあ、という程度の思いだし方なのですが、自分の気持ちを律したことがあったように思っています。


今になって考えてみますと、この言葉が頭に浮かんだのは、人生の岐路に立った時とか、特別な決断を迫られた時、といった大層な折ではなかったと思われます。
むしろ、比較的順調な日を過ごしている時に、少々調子にのり過ぎたかなと自己嫌悪に陥るような時でした。例えば、自分の力を過信して仲間を押し退けるような仕事をしてしまったあとなどの、何ともほろ苦い思いに襲われるような時でした。その仕事がうまく行った時も、失敗してしまった時も含めて、後味の悪い、惨めな思いをしたことが何度もありました。


私はこの言葉を思いだし、なぜもっと謙虚に行動することができなかったのかと反省したものですが、反省はその時限りのことで、少し時間が経ち、ほろ苦いものが薄れてきた頃には、また同じ過ちを犯してしまう・・・、そのような周期を繰り返してきたように思います。


私が記録している部分を全部書いてみます。
  ハン  ソナ                   ナ
  飯に備わることが出来れば則ち飯と作し、
                  
シャク 
  飯と作すに足らざれば則ち粥と作し、
                  
ベイトウ
  粥と作すに足らざれば則ち米湯と作す。


中国の言葉が続きますが、これも中国宋時代の曹洞宗を代表する指導者である、芙蓉道楷(フヨウドウカイ)という方の言葉だそうです。この言葉を書き抜いた書籍がどのようなものであったのか記憶がないのですが、おそらく名言集のようなものだったと思います。
私は、この言葉以外に芙蓉道楷の文献を読んだことがありませんし、人物について勉強したこともありませんので、この言葉がどのような場面で示されたものなのかは分かりません。
従いまして、この部分だけを独立したものとして話を進めさせていただきます。


言葉の意味は、
   ご飯を作るだけの米が準備できる時は、ご飯を作って食べ、
   ご飯を作るのに米が足らないのなら、粥を作って食べ、
   粥を作るのにも米が足らないのなら、米湯を作って食べる。
といった意味です。

禅僧の教えですから、托鉢で得たものを中心とした生活について教えたものかもしれません。
しかし、禅師が生きた時代から九百年を経て今なお伝えられているということは、私たちが生きてゆくうえでの教訓として多くの人が感じ取っている証左だと思います。


禅師の教えを繰り返しますと、ご飯を作ることができる時は、ご飯を食べられることを感謝しなさい。ご飯にするだけの米がない時は、お粥を作って食べればよろしい。お粥を作るにも米が足らないのなら、米湯 (重湯のようなものでしょう) にすれば、十分飢えは凌げますよ・・・。概ねこのように教えられていると思います。


そして、そのいずれの場合でも、感謝の気持ちで食べなさいと教えられていると思います。さらに、この教えのバックボーンになっているものは、得るものが少なかったことを理由に人減らしをするという発想はなく、たとえお粥や重湯になっても全員を飢えから守ろうとする決意だと思うのです。


禅師の教えに現在の私たちの社会を重ねてみますと、考えさせられることが少なくありません。
私たちは、ご飯を作るだけの米がある時にご飯を食べるのは当たり前のことで、少し足らないからといってお粥になるなどとても許せなく、それが重湯になどなろうものなら、恨みを超えて呪うほどの気持ちになってしまう・・・、のではないでしょうか。


あるいはまた、どんな苦境に陥っても、自分の取り分だけは最後まで守ることに汲々としていて、仲間の欠点や無能さを責め立ててしまう・・・。悲しいけれど、これが私たちの実態ではないでしょうか。
さらに、このような考え方は昨今の世相にも色濃く表れていて、弱者を切り捨てていくような考え方が、まるで社会進歩の一現象だと錯覚している人が少なくないように思えてならないのです。


もっとも、「私たち」という言葉は、便利というかずるいというか、自分の不都合を漠然とさせるために使っていることは認めざるをえませんのですが・・・。
では、私個人のことに限るとすれば、この言葉を思い起こすのは、先にも書きましたように、いささか思いあがった行動のあとの挫折感を味わっている時が殆んどでした。そして、今になって思えば、間違いなく錯覚していたと思います。


私たちは何のために働くのか・・・、などということになると難しくなりますが、仕事に対して正当な評価を得たいという気持ちは誰にでもあることだと思います。
直接的に経済的なものやその他の利益を獲得したいというほどの意識はないとしても、自分の仕事や成果とについて、その努力や苦労を知って欲しいという気持ちはあると思うのです。


「飯」にあたると思う仕事を成し遂げた時に「飯」として評価された時、私たちはどう感じるのでしょうか。感謝の気持ちでしょうか、当然だという気持ちでしょうか、それとも、もう少し評価しろよ、という気持ちでしょうか。
「飯には少し足らないな」と思う仕事をした時はどうでしょうか。「粥」という評価に対して、私たちはどのような気持ちを抱くでしょうか。
「とても飯には無理だ」と思う仕事をしてしまった時はどうでしょうか。
「米湯」という評価を、私たちはどう受け取るのでしょうか。


私たちは、自分に与えられる評価に対して、常に不満を抱いているのではないでしょうか。仲間の無能や不手際が、折角の自分の仕事を台無しにしていると思うことがあるのではないでしょうか。
私たち全てとは申しませんが、大部分の私たちは、自分に対する評価は常に甘くなっているものです。しかし、そのことに気付くことは誠に難しく、自分の評価には不満を持ち、仲間のミスを責め立てているのではないでしょうか。
そして、もしあなたが指導的な立場にあるとしたら、「たとえ米湯となっても仲間を飢えから守る」気概を見失ってはいないでしょうか。


私は、自分の半生を振り返ってみた時、感謝することの少なかったことに驚きを感じます。皆無というわけではありませんが、その少なさに身がすくむ思いです。
感謝らしい言葉は、それこそ数限りなく口にしてきました。
「口では感謝の言葉を言いながら、腹の中では舌を出していた」というほど根性が曲がっていたとは思わないのですが、今になって思えば、口にする感謝の言葉の軽さに、身が縮むほどの恥ずかしさを感じます。


仲間のために良かれと努力したことも少なくなかったとの自負はあります。しかしその努力は、自分は安全な場所に身をおいて、長い竿を差し出していたに過ぎなかったように思われることが殆んどです。

感謝をしたり、恨んでみたり・・・、それぞれの場面を思い浮かべてみて、自分としては真剣な気持ちに偽りはなかったとも思うのですが、感謝すべき多くの機会を当然のように受け取り、米湯どころか粥になることさえ恐れていた自分の姿に、じくじたるものがあるのも事実です。


私たちは、あまりにも感謝する気持ちが少ない日々を送ってしまっているのではないでしょうか。
「私たち」というずるい表現をあえてしますが、あなたも含めた私たちは、感謝する気持ちがあまりにも少ないのではないでしょうか。


九百年前の高僧の教えを安易に解釈することは良くないことかもしれませんが、私たちは禅師の言葉を借りて、もう少し感謝する気持ちを持てるように学ぶことが必要だと思うのです。
それは、粥になることを容認する心を育てるということです。
「米湯」まで頑張ることはできなくても、せめて「粥」を受け入れることができる心を育てることが、感謝することができる心を育てることにつながるのです。
感謝することをそれほど難しく考えないで、人の好意や情けに対して、今よりほんの少しだけ素直に受け取ることから始めるのです。


「飯と作すに足らざれば則ち粥と作し」をもって感謝することができる心を育てることは、悠々として豊かな心を育てる指針の一つのように思うのです。


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言葉のティールーム   第十一話

2009-12-26 11:46:56 | 言葉のティールーム

『 虎を描いて猫にも成らず 』


   少年捨父奔他国       少年、父を捨て他国へはしる
    辛苦描虎猫不成   辛苦、虎を描いて猫にも成らず
    箇中意志人初r問   箇中の意志、人もし問わば 
    只是従来栄蔵生   
ただ、これ、従来の栄蔵生


これは、良寛の詩の一部です。
詩はこの後にも続くのですが、この部分の意味は次のようなものです。
「少年は、父を捨てて他国へ行ってしまった。 辛苦を重ねて、虎に成ろうとしたのだが、猫にさえ成ることができなかった。 今の気持ちはどのようなものかと、人が問うなら、 ただ、自分は昔のままの栄蔵にすぎなかったのだと答えるだけだ・・・」
なお、「栄蔵」というのは、良寛の幼名です。


詩の続きの部分に、「四十年前行脚日」とありますから、良寛が出家してから四十年ほど経った頃に書かれた詩であると考えられます。
良寛、すなわち栄蔵少年が出家したのは十八歳の頃とされており、また故郷を離れて備前玉島に向かったのが二十二歳の頃ですから、この詩は六十歳前後の頃の作品ということになります。


波乱の日々を越えて還暦を迎えようとしている良寛は、少年の日に突然出家して厳しい禅の世界に身を投じた栄蔵の姿を想いうかべ、取り返すことのできない日々を悼んで、この詩を詠んだのでしょうか。
禅の道に学び、漢詩や和歌を中心とした文芸の分野で認められ、還暦の頃には多くの人々の尊敬を受け、それ以上に慕われ愛されていたと思われる良寛であっても、少年の日を想うとき、鬱々としたものが限りなく込み上げてくるものだとすれば、人の生きてゆくことの難しさが思い知らされます。



良寛さんという人物は、現代の私たちにもたいへん親しみを感じさせる人物です。
良寛さんにまつわる物語として伝えられているものは、五百に及ぶそうです。当時、良寛に直接接した人たちが、その魅力について伝え、さらにそれらに尾ひれがついて、五百もの逸話になっていったのだと考えられます。

天衣無縫の貧乏な乞食僧 ( コツジキソウ )にすぎない良寛さんに多くの人たちが惹かれたのは、その文学的、あるいは宗教的な才能による部分が大きいのはもちろんですが、それらの才能を超えて人々を惹きつける人物であったということは、伝えられるエピソードの一つ二つを見るだけで想像されます。


ところで、現在の若い人たちは、良寛さんという人物をどのようにイメージしているのでしょうか。
私の場合は、良寛さんといえば、子供たちと手まりやかくれんぼをして遊ぶ姿が浮かんできます。子供の頃に読んだ本などから、私の中に植えつけられている良寛像は、山のお寺で自由気ままな生活を送り、世間の欲得など超越して、子供たちと本気になって遊ぶような日々を過ごしている住職さん・・・、そのような感じでした。
そして、その姿は浮世離れしていて、自分たちが生活している次元とは違うところに存在しているような、そのようなイメージを抱いていました。


数年前、私は良寛さんに関する記事を見る機会がありました。
大人になってからの私は、良寛さんに特別関心を持つようなこともなく、関係する書物などを見る機会がありませんでした。
それでも、良寛さんが漢詩や和歌を残している文学者であることはある程度知っていましたし、伝えられている俳句を読んだこともありました。また、修業を積んだ禅僧であることも知っていました。


しかし、今回良寛さんについて勉強してみたいと思った切っ掛けは、禅僧として過大なほどに評価されている記事を見て驚いたからです。
もっとも、過大というのは、これまで私が描いていた良寛さんに対してということですが・・・。
恥ずかしいことですが、私の良寛像の中には優れた禅僧というイメージは殆んどなく、人の良いお坊さん程度の感覚しかなかったものですから、その記事が大変新鮮なものに感じました。


早速、良寛さんに関する本を何冊か読んでみました。そのいずれからも、私にとっては新しい良寛さんの魅力が読み取れました。同時に、自分なりにであっても、良寛さんという人物を理解することが、そう簡単でないこともよく分かりました。


ただ、その中で、ここに挙げました「虎を描いて猫にも成らず」という一節には強い感動を覚えました。
良寛さんについて語るのは私には荷が重すぎることは承知しているつもりですが、自分が受けた感動を抑えきれず「虎を描いて猫にも成らず」と詠み上げた良寛さんについて考えてみたいと思ったのです。



良寛は西暦1758年(宝暦8年)12月、現在の新潟県出雲崎町に誕生しました。
当時の出雲崎は、江戸幕府の直轄地(天領)であり、かつては佐渡金山への積み出し港として栄えた要衝の地でありました。良寛の生家は、この出雲崎の名主、橘屋山本家という名家でした。


西暦1616年(元和2年)、佐渡金山の重要性を認識していた徳川氏がこの地を直轄地として代官所を設置したことから、出雲崎は新潟、直江津と並んで北越の三津の一つといわれる重要港に発展していったのです。
その後も佐渡金山の開発は、江戸幕府にとって重要プロジェクトでありました。人材や資金が積極的に投入され、産金量は飛躍的に伸び、佐渡相川の人口は爆発的に増えていきました。
その佐渡島との物資の集積地である出雲崎も、さらに重要性を増し発展していきました。


しかし、時代は橘屋山本家にとって不運な方向へ動いていきました。それは、急激な輸送量の増大が、出雲崎を発展させるとともに弱点を露呈させることにもなったのです。
もともと出雲崎港は水深が浅く、周囲に岩礁も多い所でした。小さな船の出入りには大した支障はなく、むしろ利点も多かったのですが、佐渡金山の生産量の増大に比例して増え続ける輸送には、これまでのような小型船だけでは対応できなくなり、大型船の必要性が高まっていったのです。


出雲崎の隣接地である尼瀬は水深が深く、大型船を着けるのに便利な港を有していました。次第に尼瀬に寄港する船が増えていき、西暦1625年(寛永2年)に出雲崎の代官所屋敷が災害で壊れたのを機に、代官所も御金蔵も尼瀬に移されました。
これにより、出雲崎の繁栄は尼瀬に移っていき、尼瀬の名主、京屋野口家の権勢は年ごとに強くなり、一方で、橘屋山本家の家運は傾いていきました。


橘屋山本家の歴代の当主とて家運の傾くに任せていたわけではなく、代官所や京屋野口家などを相手に回し、権益をめぐる確執は延々と続くのです。それは、西暦1810年(文化7年)良寛の弟である由之(ユウシ)が、財産没収のうえ所払いという、名門橘屋山本家にとって誠に悲しい決着を見るまで、実に百七十五年にわたって続きました。
良寛が生まれた時には、代官所が尼瀬に移ってからすでに百三十年程の歳月が過ぎており、まさに没落名主となっていた名家に誕生したのです。


良寛が出家したのは、十八歳の時とされています。
しかし、この頃の良寛は名主見習役として代官所に届けられており、代官所からも届け出に対する許可が出ていましたので、簡単に出家できる状態ではなかったと考えられます。
そのような状況の中を強引に出家の道を選んだらしく、尼瀬にある光勝寺に飛び込んだのです。


光勝寺は永平寺を大本山とする曹洞宗の寺院でした。
橘屋山本家の菩提寺は真言宗であり、越後は親鸞聖人や日蓮上人の遠流の地であり、ともに信者や寺院の数も多い土地柄です。その中で良寛が光勝寺を選んだのは宗教的な理由からではなく、幼い頃から数年間手習いに通ったことと住職が遠縁にあたることが理由であったと思われます。


ともあれ、強引に出家の道を選んだ良寛は光勝寺で四年ばかりを過ごしました。
そして、二十二歳の時、高僧との誉れ高い備中玉島の円通寺住職大忍国仙(タイニンコクセン)和尚と出会うのです。この運命的な出会いにより国仙和尚に弟子入りすることとなり、和尚に付き従って備中玉島に向かいました。
備中玉島は現在の倉敷市にあたりますが、良寛は円通寺で十二年を過ごすことになります。


円通寺は曹洞宗屈指の名刹であり、修業僧は数十人に及ぶ大寺院でありました。
良寛が円通寺に到着したのは、二十二歳の年の十一月頃と思われますが、極めて遅い入門でした。円通寺の修業僧の多くは、幼年期か遅くとも十代半ばまでに入門していたと考えられます。
良寛がそれまでにかなりの修業や学問を積んでいたとしても、また優秀であったということが事実だとしても、飛びぬけて遅い入門からの厳しい禅僧としての修業は、並々ならぬものであったことは想像に難くありません。


良寛はここで、十二年に及ぶ修業を積みます。傑僧、大忍国仙和尚のもとで、曹洞禅について学び、宗祖道元の教えを学んだ時期であります。
そして、良寛三十三歳の年の十二月に師匠より印可が与えられました。卒業証書のようなもので、一寺の住職になってよいという証明でもあります。
良寛を十二年にわたって指導した師匠は、この弟子に、印可を許すにあたって一篇の詩と何の細工もない藤の杖を与えます。


漢詩は「良也如愚道転寛」という言葉で始まっています。
「良や愚の如く、道はうたたひろし・・・」と呼びかける師匠の最後の教えは、良寛の後の半生に少なからぬ影響を与えたことは確かだと思われます。
さらに、師匠が愛用していた一本の杖を与えたことは、円通寺を出よと良寛に諭しているように思えるのです。



大忍国仙和尚は、良寛さんに印可を与えた翌年春に亡くなりました。自分の歩いてきた道を引き継ぐようにと、良寛さんに遺言するかのように、一本の藤の杖を与えてから、僅か四ヶ月ほど後のことでした。
良寛さんは、このあと忽然として円通寺から姿を消しました。


良寛さんが生きた時代は、江戸時代といっても幕末に近い頃です。
多くの漢詩や和歌や俳句を残し、伝えられている書や手紙の数も少ないものではありません。
伝説化されたものも含めた逸話は五百に及ぶといわれ、日本人の郷愁の原点ともいえる人柄に惹かれた多くの人々が、良寛さんについての研究を続けています。
しかし、それでもなお、円通寺を去った後の足跡や行動については多くの謎を秘めたままです。


良寛さんが消えるように円通寺を去ったことについても、様々な推察がなされているようです。
例えば、師匠から印可を受けたことから当然円通寺住職の後継になると思っていたのが、別の人物が指名されたため失望したから、というものがあります。また、後継指名された玄透即中和尚が、考え方の合わない良寛さんを追放したという説も伝えられているようです。


しかし、これらの話は事実とは思えません。それは、円通寺の寺格の高さと、玄透即中和尚の人格を推量すれば、納得性がないことが分かります。
円通寺は、永平寺を大本山とする曹洞宗にとって屈指の名刹です。良寛さんが、仮に出色の才能の持ち主だったとしても、印可を受けたばかりの若い僧に託すような寺院ではないのです。後継人事は本山の意向によるものと考えるのが自然なのです。


さらに、後継者となった玄透即中和尚は、その時すでに六十二歳、名僧の誉れ高い人物でありました。後に永平寺五十世となり、本山ならびに教団の改革をすすめ、永平寺中興の祖と呼ばれるほどの人物です。良寛さんがいくら気に入らないからといって、短期間の間に追放するなど有り得ないことだと思います。
むしろ、良寛さんは、この大和尚に出会うことなく円通寺を去ったのだと思うのです。


良寛さんが円通寺を出たのは、師匠と死別して間もない頃だったのではないでしょうか。
師匠の遺言ともみえる教えは、お前が身を置く場所は大寺院などではなく行脚の中にこそある、と指し示していたのではないでしょうか。
「良や愚の如く・・・」十二年に及ぶ修業の結果良寛さんが得たものは、この師匠の教えだったのではないでしょうか。


大愚良寛 (タイグリョウカン) の誕生であり、一本の藤の杖と鉄鉢がすべての旅立ちでもあったのでしょう。
乞食僧 (コツジキソウ、托鉢により修業を続ける僧) として、旅から旅の行脚の日々は、四年、あるいは五年にも及んだのでしょうか。その行く先は、詩や和歌などに残されていることから、兵庫県の赤穂・明石・須磨、大阪から和歌山、伊勢、高野山などを旅したことは確かと思われ、さらに四国や遠く長崎にまで及んだとの話もあります。


乞食僧といえば、仏の教えに立てば意味あることとはいえ、崇高な教えを知らない大部分の人から見れば、こじき・物もらいと同じに見える生活だったのではないでしょうか。


おそらく、各地の禅寺や他宗の寺院も訪れ、さらに教えを受けたり自ら修業する生活だったのでしょうが、五年にも及ぶとなれば、どのような毎日であったのかと胸に迫ります。
時代はまさに「天明の大飢饉」と呼ばれる大飢饉の真っ只中でありました。田畑を持つ農民でさえ餓死者を出す飢饉の中を、良寛さんは何を想い、何を求めて歩き続けたのでしょうか。


母は円通寺での修業中に亡くなっており、少年が捨てたという父も、この行脚の日々の間に亡くなっています。
少年に捨てたといわれた父もまた、悲しい人生を背負った人のようでした。名門の名主の家に養子として迎えられ、激しく没落してゆく運命の中で、世俗の争いに抗しきれず俳諧の世界に逃れ、子に捨てたと詠まれる父親の足跡は、哀れではありますが触れてみたいような温もりを感じてならないのです。


良寛さんが父の死をどこで知ったのかは分かっておりません。少年の日に父を捨て他国へ行ってしまってから、一度でも父と再会することがあったのかどうか、これも分かっておりません。
しかし、良寛さんにいくら固い決意があったとしても、俗世間を捨て禅一筋の十数年を送ったからといって、父の全てを捨て去ることなどできるものなのでしょうか。


良寛さんの果てしない行脚は、ついに曹洞宗の大本山永平寺に達します。その肉体も、おそらくその魂までもがさ迷い歩く旅を通して得たものは、曹洞宗に対する失望だったのです。
大忍国仙和尚から教えられたものや宗祖である道元禅師の教えと、現実にみる宗門の姿とのあまりにも大きな乖離に落胆したのです。


良寛さんは、再び出家します。
十八歳の時に捨てた家は、父がおり母がいる家でした。そして今、再び捨てる家は、曹洞宗という全てを託したはずの宗門でした。


良寛さんは曹洞宗団という唯一の拠り所からも離れ、まさに身一つで故郷を望む丘に立ちます。僅かに身に着けているものは、身を覆う襤褸 (ランル、ぼろぎれ) と鉄鉢と師匠から譲り受けた藤の杖だけでした。
良寛さんは、眼下に広がる故郷の村を、どんな思いで見たのでしょうか。


   少年、父を捨て他国へはしる
   辛苦、虎を描いて猫にも成らず
   ・ ・ ・ ・


良寛さんの胸に去来するものは何だったのでしょうか。
良寛さんにとって、描こうとした虎とは何だったのでしょうか。
描こうとしても猫にも成らなかったという、その虎とは何だったのでしょうか。
修業から得た悟りのようなものが言わせるものだったのでしょうか。それとも、挫折感が言わせるものだったのでしょうか。


良寛さんは、故郷へと足を踏み入れます。
そして、この日から三十五年に渡って、後世の人の多くが最も良寛らしいと評価するであろう日々を生きます。
故郷を望む丘に血を吐く思いで立った良寛さんが、多くの人たちから慕われる良寛さんに変わっていくのですが、還暦に至ってなお掲題の詩を詠むことを想えば、その心境が胸に迫ってきます。
最後に蛇足ながら、私がずっと持っていた良寛像と違い、良寛さんは生涯住職になることはありませんでした。


 


 


 

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言葉のティールーム   第十二話

2009-12-26 11:44:53 | 言葉のティールーム

『 拈華微笑 』


拈華微笑・・・「ねんげ みしょう」と読みます。
日常使われる言葉ではありませんが、言葉の意味は、以心伝心と同意語とされているようです。


この言葉は仏教の経文の中に出てくる言葉です。釈迦歎偈 (シャカタンゲ) といって、お釈迦さまを称える経文の中の一つに出てくるそうです。仏教の教えを伝えるにあたって、文字や言葉ではとうてい表現できない部分を伝える手段という意味のようです。
そして、この言葉には、たいへん有名な仏教説話があるのです。


ある日、お釈迦さまが霊鷲山 (リョウジュセン) で説教をした時のことです。
霊鷲山といいますのは、インドのマガダ国の都にある山で、お釈迦さまが法華経など多くの教えを説いたといわれる山です。
そこで大勢のお弟子さんなどに説法されていた時、お釈迦さまが、はすのはな (華) をつま (拈) んで、お弟子さんたちに示されました。お弟子さんたちは、お釈迦さまの意中をはかりかねて、誰もが呆気にとられてただ黙っていました。
しかし、ただ一人、高弟の一人である摩訶迦葉 (マカカショウ) だけがその意を悟り、にっこりと微笑んだのだそうです。これによって、その時のお釈迦さまの正しい教えは摩訶迦葉に伝えられ、その後連綿として多くの人に伝えられて行くことができたのです。


私たち日本人にとって、仏教の教えは極めて大きなものです。宗教としての仏教を考えるのは、それぞれの立場により考え方も変わってくるのでしょうが、文化としての仏教が持つ私たちへの影響力の大きさは、否定できないのではないでしょうか。
せっかく、摩訶迦葉はじめ多くの聖人が、お釈迦さまから正しい教えを授かり後世に伝えて下さいましたが、私たちがどれだけ正確に受け取れているのか少々疑問です・・・。


この摩訶迦葉といわれる方は、お釈迦さまの十大弟子の一人で、お釈迦さまが亡くなられたあと、教団の中心となってお釈迦さまの教えの集大成を取りまとめた人物でもあります。


さて、私がこの「拈華微笑」という言葉を初めて知りました時は、いわゆる四字熟語の仲間としての認識しかありませんでした。
その後、年齢を重ねたことと、他の切っ掛けもあったのですが、再びこの言葉と出合った時には、最初とは全く違うイメージの言葉として感じるものがありました。

その再会した書物には、この言葉の出典や説話について詳しく述べられていたのですが、私の心の中に広がっているものは少し違うものでした。
私の心の中で広がってゆく「拈華微笑」という言葉が持つ光景は、限りない優しさを秘めて微笑を浮かべている方の姿でした。お釈迦さまと摩訶迦葉さまとの師弟愛に包まれた感動的な場面は浮かんで来ず、ただひたすらに優しく微笑む方の姿を思い浮かべていました。

その方とは、「弥勒菩薩半跏思惟像」 (ミロクボサツ ハンカシユイゾウ) という仏像のことで、冠を戴いていることから「宝冠弥勒菩薩」とも呼ばれている有名な仏さまです。
仏さまのことを、気安く「その方」などと言うのは誠に不謹慎なことは十分承知していますが、「拈華微笑」という言葉と直接結びついているように私の心に浮かんできたのが、この仏さまの姿だったものですから、自分の正直な気持ちとしてこのような表現になってしまったのです。


この仏さまは、京都の洛西、太秦の地にある広隆寺に祭られています。
広隆寺は、古い歴史を持つ京都にあっても、最も古い歴史を有する寺院であります。聖徳太子とのゆかりは深く、建立されたのは推古朝の頃とされています。その後、幾度も災害や大火にあっていますが、そのつど不死鳥のように再建されてきたことをみれば、いかに多くの人々の信仰を受けてきたかが偲ばれます。
さらに、度々の大火にあいながら多くの仏像が今日まで守られてきているのです。


広隆寺は広大な境内を持つ寺院ですが、京都の中にあっては特筆するほどではありません。建物群も、国宝や重文に指定されているものも含まれていますが、京都という所は街全体が国宝みたいなものですから、特別に目立つものはありません。
私のような観光目的の者にとって、この寺院の最大の魅力は、安置されている仏像群ではないでしょうか。


正面にあたる仁王門から入って、一番奥まった辺りに位置する霊宝殿には、たくさんの仏像が安置されています。
仏像の数は多く、圧倒されるほど巨大なものから、等身大のもの、さらにはもっと小ぶりなものまでさまざまです。その表情も、おどろおどろしいものから慈愛に満ちたものまで、これもまたさまざまです。


その数多の仏像群の中で、、ひときわ注目を浴びているのは三体の弥勒菩薩像であります。そして、その中央で、静かな微笑をたたえておられるのが宝冠弥勒菩薩像です。
私たちの悲しみや苦しみの叫び声を、欲望や自棄が渦巻く心を、ただ静かに受け取って下さって、なお変わらぬ微笑をたたえておられる仏さまなのです。そして、私たちの心が壊れそうな時には、この弥勒菩薩さまは限りない微笑みでもって話しかけてくれるはずです。


私がこの仏さまを最初に拝観したのは随分昔のことです。その時のことを正確に覚えていませんし、それほどの感激はなかったと思います。それから後にも、教科書や旅行案内書などでも写真を見る機会が何度もあったはずですが、やはり特別の感慨を抱くことはありませんでした。

そして、ある切っ掛けで広隆寺を訪れる機会があり、この仏さまに再会しました。その頃は、大変苦しい出来事の直後で自棄になりそうな気持を辛くも支えているような状態でした。
私は、その時宝冠弥勒菩薩さまに再会して救われました。私が「拈華微笑」という言葉と「宝冠弥勒菩薩さま」とが連動するようになったのはこの時からなのです。



さて、あなたには、限りなく優しい表情を見せてくれる方はいますか。
それは、必ずしも人間である必要はないと思うのです。もちろん仏さまである必要もありません。
私たちが、多かれ少なかれ旅にあこがれるのも、ペットを飼ってみたいと思うのも、そのような存在を求めているからではないでしょうか。
打算や感情を超越して、ただ静かに優しく微笑みかけてくれる存在・・・。肩肘張って生きてゆくことの多い私たちには、そのような存在が必要なのではないでしょうか。


幸い私は宝冠弥勒菩薩さまに出会いました。
その後、弥勒菩薩という仏さまがどのような仏さまなのか勉強もしました。しかし、私にとって必要なのは、本に書かれているような功徳ではなく、あの深い微笑みなのです。「拈華微笑」という言葉に連動する、あの仏さまの表情そのものが何より大切なのです。


私たちは合理性を何より重視する社会に生きています。
生きてゆくために、心ならずも人を傷つけたり押し退けたりしています。もっと悠々と、もっと優しく生きてゆきたいと思いながら、あさましい行動に出てしまうことが少なくありません。
そして、自己嫌悪に陥り反省もするのですが、また同じような過ちを犯してしまいます。


哀しいことですが、その繰り返しのように思われるのです。その哀しみを癒すために、ひたすら私たちを見つめてくれていて、それでいて利害や打算が起こり得ない何かを、私たちは必要としているのではないでしょうか。


周囲の人を傷つけてばかりいて、そのくせ最も傷つきやすい私たちには、ひたすら優しく接してくれる存在が絶対に必要なのです。
そして、そのような限りなく優しい存在に接している時は、私たちも、ほんの少しばかり、いつもより優しい心や優しい表情になれているかもしれないと思うのです。


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言葉のティールーム   エピローグ

2009-12-26 11:42:40 | 言葉のティールーム

『 裏を見せ おもてを見せて 散るもみぢ 』


この句は、良寛の辞世とされているものの一つです。

貞心尼による「はちすの露」の最後の部分に、辞世として和歌一首、俳句二句が示されていますが、その中の一つです。
また、同書の中に、「こは、御みずからのにはあらねど」とありますから、自作でないか、あるいは類似の句があったのかもしれません。
ただ、晩年の良寛を最も知る一人である貞心尼が記していることからすれば、折につけ良寛はこの句を口ずさんでいたのかもしれません。


本著、第十一話で良寛について書かせていただきましたが、円通寺から故郷に辿りつくまでの流浪の旅の後に、私たちに馴染み深い良寛らしい日々があったと思われます。
その中でも、貞心尼との出会いは、良寛の生涯を一回り大きく彩るものであったことは想像に難くありません。


しかし、同時に、故郷の土を踏んでからの三十五年に及ぶ生活も、子供たちと手まりをついて過ごすばかりの日々であるはずもありません。
第十一話のテーマである「虎を描いて猫にも成らず」と絶唱したのが、故郷での暮らしに入って二十年ほど経った頃のこと、そして、辞世としてこの句を残すことを合わせてみますと、何とも切ない気がしてきます。


「裏を見せ おもてを見せて 散るもみぢ」・・・、この、まるで、何もかも分かったよ、と言わんばかりの句を見るたびに、良寛の苦しみの影のようなものを感じてしまうのです。そして、それだからこそ私は良寛が好きなのです。


私などが良寛和尚の心境を推し量ったとて何の意味もないのでしょうが、人がその生涯を生き抜くことは、それが真剣であればあるほど簡単なことでは無いように思われるのです。
それは、歴史上に名を残すほどの人物に限られたことではありますまい。名もなく生まれ、後世に記憶されることなく消えていった人々であっても、それは同じだと思うのです。


それは、現在に生きる私たちとて違うはずがありません。
真剣に生きれば生きるほど難しく、どうと言うこともないといえばその通りなのですが・・・、はてさて、難しいものです。
そのような迷いの中の指針の一つとして、先人が残してくれた文化があります。絵画や彫刻もしかり、華道や茶道もしかり、音楽や舞踊なども同様でしょう。宗教を文化とひとくくりにすることには無理があるかもしれませんが、一つの柱であることは確かでしょう。


そして、言葉もまた私たちに少なからぬ呼びかけをしてくれることでしょう。私たちはそれぞれに違う背景のもとで様々な言葉に出合います。私の感動があなたの感動に単純につながるとは思っていませんが、この拙い「言葉のティールーム」が、あなたにとって大切な言葉に出合う切っ掛けに、少しでもなることができればと思い発表させていただきました。
ご愛読ありがとうございました。
                                   ( 完 )

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