哀しい方の人生
全十七回の中編小説です
『 哀しい方の人生 』
愛も哀も、切なく重い。
しかし愛は、その対価でもあるかのように多くの人に勇気を与えてくれる。
哀もまた、その試練を乗り越える道筋を用意してくれているのかもしれない。
( 1 )
石川が小林敦子を知ったのは、昭和も終わりに近い頃のことである。
後年、バブルの時代と呼ばれるようになるが、まるで熱病に侵されたかのように煮えたぎった経済が、ピークを打とうとしていた。
当時、石川はA銀行に勤務していて、大阪市内の北部にある支店に配属されていた。
いわゆる中間管理職という立場にあり、主に窓口業務を担当していた。
ちょうど自動支払機や預入機が実用化され始めた頃で、窓口業務にも機械による事務処理体制が進められていた。
しかし、現金の取り扱いはまだ手作業が主体で、閉店後も勘定を合わせるまでは緊張が続くのである。
窓口を担当する社員には、応対やセールスなど幅広い業務が要求されるが、やはり現金の取り扱いが正確なことが一番重要なのだ。
窓口業務の主な戦力は女性社員だが、全員がベテラン社員というわけにはいかず、入社して一年にもならない経験の浅い社員もいた。
高校を卒業して入社してくる社員の場合などには、成人にも達していない若い女性社員が一日に百件を超える現金の取り扱いを一人でするのである。
何百万円という高額な取り扱いは別の部署の社員とチェックし合うようになっていたが、大半が単独での処理である。それも、常に時間に追われている状態での取り扱いで、プロとはいえメンバー全員がすっきりと勘定を合わせることはそれほど簡単なことではない。
自分の懐のお金を数えるように、大体合えば良いというわけではないからである。
その日も、緊張する時間帯を迎えていた。
七人の窓口担当者が次々勘定を合わせていったが、一人の女性社員が「合いません」と担当上司である石川に報告してきた。四千六百八十円、現金が不足しているという報告であった。
ここからが石川の出番となる。
機械の導入やシステムの工夫がなされていたが、いくら経験を積んでも現金の違算を皆無にすることは難しい。単なる計算相違や混入などの場合もあるが、顧客との授受を間違えることも起こる。
勘定不突合が発生した場合のトレース方法はノウハウが出来上がっていて、石川はすでに勘定突合を終えた社員と共にトレースに入った。
ただ、この日の合わない金額は桁を間違えて取り扱った可能性がある額で、最初にその可能性のある取引を調べるのは、数字を取り扱っている者にとってはごく初歩的な常識である。
この日も原因を見つけだすまでに大した時間は必要なかった。
十五万五百二十円の請求に対して、十五万五千二百円の現金を支払っていたのである。
そして、この間違えて支払った顧客が、小林敦子だった。
**
石川は自転車で小林敦子の届けられている住所に向かった。
電話が届けられていないので在宅の確認ができていなかったが、できるだけ早く訪問することが大切だった。時間が経過するほど問題の解決を複雑にする場合があるからだ。
届けられている住所までは二キロ程の距離があるが、道路事情などを考えれば車より自転車の方が便利だと判断したのである。
途中で手土産の菓子を買い、自転車を進めながら、顧客との交渉の手順を頭の中で整理していた。
決して楽しい仕事ではないが、現金を取り扱っている以上避けられないことであるし、石川はこの種の交渉ごとは苦手ではなかった。
今回のことはこちらの一方的なミスなので、交渉することなど何もなく、ひたすら間違いを詫びて過剰に支払った現金を円満に返してもらうだけのことである。大切なことは、顧客に不愉快な思いをさせないことなのだ。
支払われた現金がそのまま保管されていると、交渉は簡単なことで、トラブルになることなどまず考えられない。ただ、一部でも使ったり、手持ちの現金と一緒にしてしまっている場合には、若干の交渉が必要になる。
いずれにしても、たいして大きくない金額なので気が楽なのだが、交渉の拙さや、相手の人柄によっては、小さなミスが大きなトラブルに発展してしまうことも珍しいことではない。
今回のミスも本質的には単純なものだが、気になる部分もあった。
その一つは、届けられている住所のことである。その地番の一画は、三十年以上前に建てられた古い小規模なアパートが密集していて、入れ替わりが激しく入居している人も昼間は不在が多い。
以前にも、今回と同じような単純なミスで、交渉相手となかなか連絡が取れず思わぬトラブルに発展したことがあったからである。
もう一つの気がかりは取引内容である。
このような交渉には、事前に顧客の情報をできるだけ正確に掴んでおくことが大切なので、今回も取引内容や来店した顧客について確認していた。
顧客との取引は普通預金の口座だけで、開設からの日が浅く、支払ったあとの残高は七円だった。以前の取引も、ある役所からの振り込みがあると、その日のうちに十円単位まで引き出されていた。
一つの口座の取引内容だけで推察するのは乱暴ではあるが、決して豊かな生活を想像することはできず、むしろ、あまり余裕のない生活と推察された。
相手の貧富で交渉方法が変わるわけではないが、石川の気持ちを重くしていることは確かだった。
**
その一帯は、アパートや文化住宅と呼ばれた長屋形式の賃貸住宅が雑然と集まっていた。
後の時代から見れば狂乱とさえ表現されるバブル経済は、この辺りにまで再開発の波が押し寄せていた。表通りやそれに隣接する辺りは、新しいビルが建設されていたり、地上げされたと思われる空き地が目立ったが、その一帯だけは、まるで取り残されたように昭和二十年代後半から三十年代にかけて建築されたと思われる建物が残されていた。
小林敦子の住居も、それらの建物の一つにあった。
そのアパートは木造二階建ての古いもので、共同の玄関を入ると廊下が奥まで通っていて、その両側に部屋が並んでいた。
小林敦子の部屋は二階にあった。部屋の扉には、中央の目の高さの辺りに「小林」と手書きされた名刺大の紙が貼られていて、その下に来訪者を確認するための小さな覗き窓があった。
石川は、扉をそっとノックした。気が重い交渉の始まりである。
「はあーい」という、建物の雰囲気とはまるで不似合な明るい返事が、扉の向こうから返ってきた。
その声は石川をほっとさせるものだった。
「どちらさまですか?」
扉越しに応答が続き、覗き窓で訪問者を確認することもなく扉が開き、若い女性が顔をみせた。
石川は意外な印象に言葉が詰まった。
店舗からここへ来る道すがら、漠然とではあるが交渉方法を頭に描いていたが、交渉相手は中年以上の女性と決め込んでいた。窓口担当者は若い主婦と記憶していたが確かなものではなかった。
しかし、明るい声の持ち主は、まだ十代に見える女性だった。
「失礼します。A銀行のものですが、お母さん、おいでですか?」
石川はなお先入観から抜けきれず、来店したのは目の前の女性の母親だと判断していた。
「誰に、ご用ですか?」
若い女性は、ちょっと首を傾げるようにして尋ねた。
片足だけがサンダルのような履物の上に乗った不安定な姿勢である。
「小林敦子さんを、お訪ねしたのですが・・・」
「それなら、わたしです。わたしが小林敦子ですが、何か?」
「それは、どうも失礼しました。私はA銀行の石川と申します。突然お邪魔して申し訳ありません」
「A銀行さん・・・。駅前のですか?」
「そうです。今日、銀行へおいで下さいましたのは、小林さんご本人でしたか?」
「ええ、わたしが午前中に行きました」
「そうでしたか。実は・・・」
敦子は私が手渡した名刺をじっと見つめていたが、私が言いにくそうに言葉を切ると、小さく頷くように首を動かしながら中に入るように勧めてくれた。
話の内容からして、廊下での立ち話はまずいと、私が思うのと同時だった。
「どうもすみません。では、入らせていただきます」
と、言いながら中に入ったが、当然私は、たたきの部分で話をするつもりだった。
しかし、その部分の広さは、大人の靴がやっと入る程度しかなかった。横幅は九十センチ程あるが奥行きはその三分の一程で、そこに立って扉を閉めるのは難しい状態の広さだった。
「どうぞ上がって下さい。汚くしていますが・・・」
石川は、敦子の言葉に甘えて上がらせてもらうしかなかった。
入った所が台所を兼ねた板間で、その奥が六畳の和室になっていた。和室の真ん中には食卓兼用らしい座卓が置かれていて、石川はその前に案内された。
部屋の隅に、小さな布団が敷かれ赤ん坊が寝かされていた。
部屋の壁も天井も畳も古ぼけていて、お世辞にもきれいといえない部屋だが、不似合いなほど小ざっぱりとした白いカバーの座布団を座卓の前に置いた。
石川に座布団をすすめると、敦子は板の間でお茶の準備を始めた。
「どうぞ、お構い下さらないように・・・」
「本当にお茶しかありませんの」
敦子は少し困ったような表情で、石川の前に湯飲みを置いた。
「実は、大変申し訳ないことですが、今日のお支払いのことでお願いに参りました。私どもの窓口の者が、間違ってお支払いしているのではないかと思われますので、ご確認していただこうと思いまして参りました」
「はい・・・」
敦子は正座した膝の上に両手を揃えて乗せ、その指先辺りをじっと見つめていた。
「大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません。私どものミスで、少し多くお支払いしてしまっていると思われるのです」
石川は息苦しい空気を振り払うように、もう一度確認を求めた。
事務処理の記録などから敦子への支払いを間違えていることは確信できる状態なので、そのことをそれとなく伝え、相手に、気がつかなかったが調べてみると言わせることが、スムーズに解決させるコツだった。
「すみません・・・。多く、いただいていました・・・」
消え入るような声だった。
「そうでしたか。申し訳ありませんでした」
石川は、姿勢を改めて丁重に頭を下げた。
相手に謝らせるようなことになってはまずいのである。現金さえ受け取れば、早々に引きあげるのが正しいのである。相手が気付いていたかどうかなどに関わらないことが、問題を難しくさせない方法なのだ。
しかし敦子は、石川の思惑など全く受け付けないかのように、言葉を続けた。
「許して下さい・・・。気が付いていたのですが・・・、そのまま持って帰ってきてしまったのです。ごめんなさい・・・」
敦子は座卓から離れて、深々と頭を下げた。
石川は、まずいことになったと思った。原因を作ったのはこちらなのである。相手に負担を感じさせてしまっては、たとえ現金を無事回収できたとしても、問題を複雑にしてしまう危険があるのだ。
「小林さん、間違えたのは私どもの方なのですから、どうぞ頭を上げて下さい。謝るのは私の方なのですから・・・」
石川も同じように食卓から少し離れて、再度頭を下げた。
しかし頭を下げながら石川は、敦子のあまりに大げさな謝り方に、何か裏があるのではないかとの思いを巡らせていた。予期していたものとは違う展開に戸惑いながらも石川は、危険な罠のようなものはないかと敦子の詫びる姿を冷静に分析していたのである。
かつて、必要以上に下手にでてくる人物が、とんでもないトラブルメーカーだったことを経験したことがあったのだ。
後になって、この時の敦子の心境を思うたびに、石川は自己嫌悪に陥った。
職業上の必要性から身についたものなのか、あるいはもともと自分が持っている資質なのかはともかく、あの必死な敦子の姿から、自己保身のことしか考えられない自分がやり切れなかった。
石川は、一瞬心の奥をよぎった疑惑のようなものを振り払うように、敦子に詫びる必要などないことを繰り返し繰り返し訴えた。
石川の熱心な言葉を聞きいれたのかどうか分からなかったが、ようやく立ち上がった敦子は板間の部屋の方へ行った。そして、現金に白い封筒を添えて持ってきて、改めて深々と頭を下げた。
食卓に置かれた現金は、きっちり四千六百八十円だった。
「すみませんでした。すぐにご連絡すべきだったのですが・・・、つい、そのまま・・・。本当に、、ごめんなさい・・・」
敦子は、視線を落したままつぶやくように繰り返した。
「小林さん、ありがとうございました。確かに四千六百八十円いただきました。私たちの不手際のため、大変ご迷惑をかけてしまいました。申し訳ありませんでした」
石川は敦子のつぶやくような言葉を無視するように、一方的に銀行側の落ち度を詫びて、持参した菓子折を食卓の上に置いた。
「困ります・・・。わたしが悪いことをしてしまったのに、いただくわけにはいきません」
「そんなことありませんよ。ミスしたのは私どもの方ですから、小林さんに落ち度はありませんよ。どうぞ、この件は、これでお互いにおしまいということにさせて下さい・・・。
それから、このお菓子は駅前のお店のものですが、あそこのモナカ、なかなか評判が良いようですよ。お詫びのしるしにお受け取り下さい」
「いえ、わたしが悪いことをしたのですから、とてもいただけません・・・。このことを、許していただけるだけでありがたいのです・・・。わたしは、いま警察に捕まるわけにいかないんです・・・」
この敦子の言葉に、石川は愕然とした。敦子は、そのようなことを考えていたのである。
石川は、再び敦子に罪がないことを何度も繰り返した。
人間はミスするものだという考え方は、仕事場での石川の持論だった。プロといえどもミスの発生を完全に防ぐことはできない、ということを確信していた。その上で、如何にミスを防ぎ、発生したミスにどう対処するかが重要だと考えていた。
しかし、不用意なミスが、全く関係のない人を罪人にしてしまうことがあることも事実なのだ。
何度か同じような言葉が交わされた結果、「それでは、一緒に食べましょう」ということになった。
石川が持参した菓子折りを開き、敦子はお茶を入れ替えた。
開かれた菓子折は、二種類のモナカがセットされているもので、それほど高級なものではないが地元では有名な老舗のものだった。
敦子は、開けられた菓子折を前にしてもなお躊躇していたが、石川が手に取るのを見てようやくモナカを手にした。
部屋の隅に寝かされている赤ん坊は、大人たちのやりとりとは別世界に居るように規則正しい寝息をたてていた。
「男の子ですか?」
「そうなんです・・・。あの子の靴が欲しくって…。すみませんでした・・・」
話題がまた現金授受のことに戻ろうとしていた。避けなくてはならないと、石川は慌てた。
「もう、歩くんですか?」
「いえ、まだなんです。いま十ヶ月なんです」
「じゃあ、もうすぐですね。かわいい盛りですね」
「ええ・・・。でも、わたしが何もしてやれないものだから・・・」
「そんなことはいでしょう。とっても、お元気そうじゃないですか」
「ええ、その点はありがたいのですが・・・」
重苦しい会話だった。
面識の浅い人とは、子供のことを話題にするくらい無難なことはないのだが、とても和やかなどという雰囲気ではなかった。
その重い空気を押し退けるように、敦子が小さな声で語りかけてきた。
「このお菓子、もう一ついただいてもいいでしょうか? あの子に食べさせてやりたいので・・・」
「もちろんですよ。このモナカ、結構いけるでしょう?」
「とっても美味しいです」
「そうでしょう。小林さんも、もっと食べて下さいよ。でも、正直申しますと、私は甘いのはあまり得意ではないので、この一つがちょうど適量です。残りは、どうぞ後で食べて下さい」
「でも・・・」
「いえ、わたしはどちらかといえばお酒の方ですので・・・」
「そうですか・・・。では、遠慮なく頂戴します・・・」
石川は、子供のためにモナカが一つ欲しいと、恥ずかしさに耐えるようにして申しでた敦子の気持ちを考えると、胸が詰まった。
石川は、長居を詫びて立ち上がった。
この時は、一刻も早くその場から立ち去りたい思いだったので、このあと行き来することになるなど考えてもいなかった。
( 2 )
その夜、石川は妻に小林敦子のことを話した。
名前や仕事に関わる部分は伏せていたが、子供に靴を買ってやれない様子や、何よりも、モナカをもう一つ欲しいと、本当に言いだしにくそうに話す敦子の姿が切なくて、誰かに話さずにはいられなかった。
ひとり胸のうちに収めておくのは、石川には重すぎた。
石川には二人の子供がいた。下の子はまだ保育園である。
住居は自分のものだが、気が遠くなるようなローンを抱えていたし、給料で家族四人が生活していくのは決して楽な状態ではなかった。
しかし、子供の靴を買うことにそれほどの負担はなかったし、足るとか足らないとか言いながらも日常の生活に困ることはなかった。
敦子の生活状態や家族構成も知らなかったが、子供のためにモナカを一つ欲しいと言った彼女の必死さの中には、子供を守ろうとする真剣さが溢れていて、切なくて仕方がなかったのだ。
聞かされる妻は迷惑かも知れないが、石川としては、自分の重苦しい気持ちを薄めるためには、少しばかり分担してもらうしかなかった。
石川の一方的な話が一段落するのを待っていたかのように、妻が席を立った。
話から逃げだしたという様子ではなかったが、石川は理解されていないような不満を感じながらテレビをつけた。
子供たちはすでに寝ていたし、妻も部屋を出ていったままである。
石川は、何かもやもやとしたものを抱えたまま、筋書きがよく分からないドラマを観ていた。
二十分程も経ったと思われる頃、妻が戻ってきた。紙箱をいくつも抱えていた。
それらを食卓の上に置くと、無言のまま再び出ていった。二階へ上がる足音が聞こえ、すぐに戻ってきたが今度も紙箱などを抱えていた。
「どうしたの?」
呆気にとられている石川に、妻はしたり顔で大きくうなずいた。
「いえ、ね。先ほどの若い奥さんのお話、大変だと思うけど、わたしたちには、どうしてあげることもできないわ。それでね、これ、今度の子供会のバザーに出そうと思っていたものなのよ。これを、ね、その奥さんに貰ってもらえないかしら・・・。
うまくお話ししないと、失礼ねって、叱られるかもしれないけど、それは、あなたの仕事よ、ね」
「バザーに出すものだって? ということは、うちでは要らないものばかりなの?」
「そうよ。使えるものもあるけれど、殆どが子供用のものなのよ。先程のお話を聞いて、ちょうどいい靴があると思ったの。本当は明彦に履かせたかった素敵な靴よ。でも、お父様にいただいたのがあったでしょ。他にもいただいたのがあって、ついつい先延ばしにしているうちに、明彦には履けなくなってしまったのよ。でも惜しくって仕舞ってたんだけど、ぼつぼつ整理しようと思って、バザーに出すことに決めてたの。少しぐらいは流行があると思うけど、大丈夫だと思うわ。
ほら、素敵でしょう?」
妻は箱の一つを石川の前に置いた。小さな可愛い靴は、彼にもかすかな見覚えがあった。
「ほら、見て、この靴もいいでしょう? もちろん全然使っていないわよ。それより少し大きいけれど、二歳くらいのものよ。すぐ履けるようになるわ」
「これ、全部が靴なの?」
石川は、妻が運んできたニ十近い紙箱を見回しながら尋ねた。
「まさか・・・。靴はこの二つだけよ。あとは、服とかタオルケットなどよ。こんな大きな箱に入っている靴なんて見たことないわ」
と、妻は笑いながら大きめの箱を開けた。
それは子供用の上着であった。他にも、肌着やタオル地の服やタオルケットなどである。
「タオルなどはうちでも使えるけれど、小さな子供さんにはタオル類はいくらあってもいいはずよ」
「これ、全部あげていいのかい?」
「そのつもりで出してきたのよ。うちで使えるものもあるけど、喜んでもらえるなら全部でもいいわよ」
「バザーはどうするの? 何か出さなくてはいけないんだろう?」
「ええ、何か持って行くわ。石鹸か、シーツなんかで余分なものがあると思うの」
「そう、それなら、これ、持って行ってあげようかな」
「そうして下さいな。バザーも大切だけど、その方のお役立てればうれしいわ。でも・・・、よほどうまく話してくれないと駄目よ。物を貰うって、やはり、抵抗あると思うの」
「そうだね。モナカでもあれだけ受け取らなかった人だもんね。よく考えて、うまくやってみるよ」
**
次の日の夕方、業務の終了を待ちかねて石川は敦子のアパートを訪ねた。
昨日に続く訪問に警戒する様子だったが、昨日の件ではないことが分かると気持ちよく中に入れてくれた。
十か月になるという男の子も、食事の後だということで、玩具を振り回して元気に遊んでいた。赤ん坊が動き回っているだけで、部屋の雰囲気は昨日とは様変わりのように温かく感じられた。
石川が持参した少しばかりの子供用の菓子に対して、敦子は丁寧な挨拶をし、昨日と同じように彼を座卓の前に案内した。
「昨日いただいたお菓子しかないんです・・・」
敦子は、ばつが悪そうに、モナカを二つ乗せた小皿をお茶に添えた。
「どうぞ、お気を使わないで下さい。昨日も申し上げましたように、私は甘いものはあまり得意ではないのですよ。お茶を頂戴します」
石川は、甘いものが特に駄目ということではないが、このモナカを手にすることはできなかった。
そして、持参した大きな紙袋を手元に寄せた。昨夜、妻が出してきた品物のうちの一部だが、紙袋はいっぱいになっていた。
「うまく話さないと失礼になるわよ」と今朝も妻に何度も念を押されたことを思いだしながら、石川は話を切り出すタイミングをはかっていた。
「実は、小林さん。昨日初めてお会いしただけなのに、こんなことをするのは失礼かもしれないんですが・・・、ええ、私の家内なんかも、失礼にならないようにと何度も何度も言うんですよね・・・」
「どうされましたの?」
石川の歯切れの悪い話し方に、敦子は微笑みながら少し首を傾けた。昨日のお金の話をしていた時とは別人のように明るい笑顔である。
昨日も若い母親だとは感じていたが、今日の表情は二十歳そこそこに見えた。それに、大阪の下町というか庶民的なというか、そのような土地柄に似合わない丁寧な言葉遣いの女性だった。
石川は、敦子の明るさに圧倒されるようなものを感じていた。
「小林さん、もし、私が気に入らないことを申し上げましたら、はっきりと失礼だと言って下さいね。決して、小林さんを困らせるつもりはないんですから・・・」
「ますます分かりにくいお話ですね」
と、今度は小さな声を出して笑った。そして、笑顔のまま、石川に話の続きを促した。
「どうぞ、何でもおっしゃって下さい。失礼なことでしたら、失礼ですとはっきりと申しあげますから」
「そうですね。ぜひ、そうして下さい、ね」
石川は合点するかのようにうなずきながら、持参した紙袋から紙箱を取りだした。子供用の靴が入っているものである。
「見て下さい、この靴。少し前のものですが、一度も使っていません。流行があるのでしょうが、十分素敵だと思うんですよね」
「どうされましたの、この靴?」
「出来れば、あの坊やに履いてもらいたいと思って持ってきたんですよ」
石川は、時々奇声を発しながら、大人たちの会話を無視するように遊んでいる赤ん坊に視線を向けた。
「まあ・・・。わざわざ買ってきて下さったのですか?」
「いえ、違いますよ。お話したように、三年程前のものなんです。実は、私の子供にお祝いとしていただいたものなんです。たまたま重なってしまって、履かせる機会を外してしまったんです。子供の足って、あっという間に大きくなってしまうでしょう。使うあてがないまま仕舞っていたんですが、置いておく場所の問題もあって、次のバザーに出すことにしていたんですよ。でも、誰だか分からない人に渡してしまうことに躊躇していまして、出来ればどなたか知っている方に使ってもらえたらと考えていた時に、小林さんにお会いしたんです。
ぜひとも、あの坊やに使ってもらえるようお願いしようと思って、持参したんですよ」
小林は、昨夜から考えていたストーリーを一気に語り終えた。
「まあ・・・」
敦子は、紅潮した頬を両手で押さえて、石川の顔と靴とを交互に見つめていた。そして、突然に、涙をあふれさせた。
石川は、その涙の意味が分からず、慌てた。
「三年前のものといっても、そんなに悪くないと思うんですよ」
石川は少し口ごもりながら、同じような説明を繰り返した。
「いいえ、とってもいい靴ですわ。でも、高価なものだわ・・・。頂戴してもいいんでしょうか?」
「もちろんですよ。バザーに出すつもりだったんですから。この靴だって、あの坊やが履いてくれれば、きっと喜びますよ・・・。靴が喜ぶなんて、変ですよね・・・」
敦子は濡れた頬を拭おうともせず、はにかんだような笑顔で石川に向かって深々と頭を下げた。そして、立ち上がると一人で遊んでいた子供を抱きかかえてきた。
「正夫といいます。ありがとうございます。この靴を頂戴して、この子に履かせていただきます・・・」
正夫くんは、若い母親の膝の上で勢いよく跳ねた。何度も何度も跳ねる動作は、まるで靴をねだっているように見えた。
「すごく元気ですね。すぐにでも歩きそうですよ。この靴、履かせてみて下さいよ」
「よろしいですか・・・。では、頂戴します・・・。正夫、素敵な靴をいただきましたよ」
敦子は母親の顔になって、正夫くんに靴を履かせにかかった。
正夫くんは靴を履くのが初めてのことらしく、嫌がって全身を使って拒もうとしたが、若い母親は巧みにあやしながら両足に履かせることに成功した。
すると正夫くんは、それ以上は嫌がる様子もなく、再び母親の膝の上で跳ね始めた。
「とっても、いい靴だわ・・・。ありがとうございます。今度の日曜日に、この靴を履かせて近くの公園に行くことができます・・・」
そして、その時になって初めて気がついたかのように、、手の甲で頬の涙を拭った。
「私の方こそうれしいですよ、そう言っていただけて・・・。いただいたものなので捨てるわけにはいきませんし、品物としていくら良いものでも、使う人がいなくてはどうにもなりませんものね」
「石川さんって、優しいんですね」
「私がですか? 靴を持ってきたからですか?」
「いいえ。それもありますが、それより、下さるのに、こんなに気遣った言い方をされるんですもの・・・。本当に、ありがとうございます」
「いえ、そう言われますと恥ずかしいんですよ。でも、うちで不要なものだから差し上げるというのは、失礼にあたるかもしれませんからね。確かに今となってはわが家では不要なものですが、それは使う機会がなかったというだけのことで、品物が悪いわけではないですよ、ね。いただいた時は私たちもとてもうれしかったですし、先方さんもいろいろ考えて下さったと思うんです。どれも、私たちには大切な品物なのです。でも、使わないことには、贈って下さった方にも悪いし、何よりも品物に申し訳ないですよ・・・。
それでね、他の品物も見ていただきたいんです」
石川は、敦子が素直に喜んでくれていることを感じ取ると、次の品物を取りだした。子供用のタオルケットや肌着である。小さな靴下や涎掛けもあった。
子供服は少し大きそうだが、「すぐに着られるようになりますよ」と、セールスマンのような口調で次々と品物を広げた。
敦子は一つ一つに対して、「いいのですか? いいのですか?」を繰り返しながら、次々と出てくる品物に目を輝かせた。
「こんなにいただいて・・・、明日からは、この子は大変な衣装持ちになりますわ。石川さん、本当にありがとうございます。奥さまにも、くれぐれもよろしくお伝え下さい」
「いえいえ、喜んでいただけると、持ってきた甲斐がありますよ。実は、今日持ってきたのは一部だけで、まだ他にもあるんです。また持ってきますので、ぜひ使って下さい」
「助かります・・・。厚かましいですが、石川さんのご親切に甘えさせていただきます・・・。
正夫くん、きみは大丈夫だよ。きみは、いろいろな人に助けられているのよ。だから、きみは、絶対に悲しい方の人生じゃないからね」
敦子は、石川に何度目かの頭を下げた後、正夫くんに頬を合わせて、歌うように話しかけた。
その言葉は、不思議な響きを持って伝わってきた。
敦子がまるで呪文のようにわが子に話しかける「哀しい方の人生じゃないからね」という言葉が、石川に衝撃のようなものを与え、この後敦子の生きてきた道を垣間見ることになったのである。
「哀しい方の人生じゃないからね」という言葉が、まるで呪文のように聞き取れたことが不思議に思ったきっかけだが、まだ乳離れさえし切れていない子供と交わす言葉としては、あまりにも似合わないものだと思えたことにもあった。
まだ赤ん坊に過ぎないわが子に、「哀しい方の人生じゃないからね」などと話しかけることに不思議なものを感じるだけでなく、母親とはいえ、まだ二十歳そこそこにしか見えない女性と「人生」などという言葉には、違和感があるように石川には感じられたのである。
「哀しい方の人生じゃない・・・、ですか・・・」
石川は、質問するというほどの気持ではなかったが、若い母親の言葉を繰り返していた。
「えっ? ああ、この子のことですね。そう、この子は大丈夫です。石川さんに、こんなに親切にしていただいたし、他にもいろいろな人に親切にしていただいています。ですから、大丈夫なんです。この子は、大丈夫なんです」
「・・・。何が・・・、何が、大丈夫なんですか?」
「この子は、わたしと違って、哀しい方の人生なんかじゃありませんわ」
「わたしと違って? 小林さん、あなたは、どうだと言うんですか?」
「わたしですか・・・。わたしは、哀しい方の人生を歩いています」
「哀しい方の人生? 苦労されているということですか?」
「いいえ。わたしの苦労など、たいしたことではありません。ただ、哀しい方の人生を歩く運命に生まれてきているだけです・・・。ただ、この子には、哀しい方の人生を背負って欲しくないのです」
「もちろんですよ。こんなに元気で可愛い坊やが、哀しい人生を背負うことなどありませんよ。それより・・・、それよりも、あなたのことですよ。あなただって、哀しい人生を背負うことなどありませんよ。もし、今が哀しい状態にあるのでしたら、頑張って、そんなもの跳ねのけて下さいよ」
「ありがとうございます。でも、哀しい方の人生を歩くのは、決まってしまっているのですから、どうにもなりません。そういう運命に生まれてきたのですから、仕方がないんです・・・」
「仕方がないって・・・」
石川は、これ以上会話を続けることができなかった。
この時には、石川には敦子の言う「哀しい方の人生を歩く」という意味を理解することができなかった。不幸な状態にあるとか、苦労しているとか、ということではなかった。生まれてからずっと哀しい日々を過ごしてきたということとも、少し違うニュアンスであった。
人は生まれながらにして「哀しい方の人生を歩く人」と「そうでない人」とがいて、敦子は「哀しい方の人生を歩く」ように生まれてきている、という意味のようであった。
何の疑問も気負いもなく語る若い母親の様子から、石川はそのように感じ取ったのだが、何が敦子にこのようなことを言わせるのか、憤りのようなものがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。
その憤りのよう気持ちをうまく表現できないことにいらだつている石川に、何事でもないかのように「哀しい方の人生を歩くように生まれてきています」と繰り返す敦子の言葉は、哀しい響きを持って彼に迫ってきたのである。
( 3 )
小林敦子は両親の顔を知らなかった。
母は敦子が一歳の誕生を迎える直前に亡くなっていた。祖母からは、心臓の病気で急死したと聞かされていた。
父はまだ生存していると思われるが、一度も会ったことがなかった。音信はもちろんのこと、父の名前さえ教えられないままである。
母と父は、一年ばかり一緒に生活したようだが、敦子が誕生する前に別れていた。入籍はされておらず、敦子の戸籍に父親の名前はなかった。
父については、母と同じように早くに亡くなったのだと教えられてきていたが、敦子が中学生になった時に祖父から本当のことを教えられた。
祖父は、敦子の父親は生きているかもしれないと教えてくれたが、その後の消息や名前さえ教えてくれなかった。それは、隠しているというより、本当に知らないようなのが中学生の敦子にさえ感じられた。
父のことについて祖父から聞かされても、敦子にそれほどの驚きはなかった。
敦子の生い立ちの中に父親という存在が希薄であることがその理由だったが、すでに大体のことを知っていたからである。具体的に誰かが教えてくれたわけではないが、複数の人の思わせ振りな話から、父に関する大体のことを早くから承知していた。
改めて祖父から父のことを聞かされても、驚きも感慨もなかったのはそのためである。同時に、父のことを祖父に聞きただしてはならないと、本能的に感じ取っていた。
敦子は、物心ついた頃にはすでに祖父母に育てられていた。母の両親に引き取られていたのである。
父や母がある程度記憶に残る状態で失ったのではなく、もともと敦子の中には、父も母も存在していなかったのである。母親もまた、敦子の生い立ちの中では希薄な存在であることに違いはなかった。
敦子の保護者は祖父であり祖母であった。友達の親に比べて自分の親が年寄りだと折々に感じられることもあったが、それによって特別な不都合はなく、不自由のない幼年期を過ごすことができていた。
しかし、敦子が小学三年の時に祖母が亡くなり、この時から周囲の同世代の子供とは違う生活が始まった。
祖母は敦子にとって母親そのものだったが、躾に厳しい人であった。炊事や掃除の手伝いは幼い頃からしていたし、買い物なども一人で行くことが多かった。機会あるごとに、一人で生きて行けるようにならないといけないと敦子に言い聞かせた。
そして、「おまえは、哀しい方の人生を歩く運命なのだから、他の人より強くならなくては駄目だ」と、口癖のように幼い敦子に話した。
祖母の言葉にどれほどの意味があるのか理解できなかったが、敦子は、辛抱強く滅多なことでは泣かない少女に育っていった。
祖母が亡くなってからは、家事のかなりの部分が敦子の仕事になった。さらに、祖父も敦子が中学一年の時に倒れ、二か月ほどの入院の後退院することができたが、体の自由を相当失った状態になった。
敦子の仕事に、家事の他に祖父の世話が加わった。
祖父の長男夫婦、敦子からいえば叔父夫婦になるが、彼ら一家はすぐ近くに住んでいて、祖父に関する手続きや難しいことなどをしてくれたが、家事や祖父の世話のほとんどが敦子の仕事となった。
生活に必要なお金は、祖父から毎週敦子が預かり、それで食事に必要なものや日用品などを買った。
学校関係の費用やまとまったお金が必要な時などは、祖父が不自由な体を動かして、ベッドの頭もとの棚から古ぼけた大きな財布を取り出して、お札と硬貨を丹念に数えて渡してくれた。
祖父の世話と家事が主な仕事で、その合間に中学校へ通っているようなものだったが、敦子にとっては充実した日々だった。
敦子が中学三年になり、卒業後の進路を決める頃に祖父は再び入院し、間もなくこの世を去った。
いくら体が不自由でも、祖父が自分を守ってくれる大きな存在だったことを敦子は強く感じた。それは、祖母を亡くした時より遥かに大きな衝撃であった。
とうとう一人ぽっちになってしまったと、中学三年生の敦子は誰に話すこともできず、一人思った。
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祖父の葬儀などは、叔父夫婦がすべてを取り仕切ってくれた。
そして、四十九日の法要が終わり人の出入りが落ち着いた頃、叔父一家が移ってきた。
小林家の長男である叔父は、結婚の時に家を出て近くの借家で一家を構えていたが、いずれ実家に戻ることになっていた。
叔父の家族は、夫婦と小学生の子供二人の四人だった。
近くのことなので、特に祖父が体を壊してからは叔父家族の全員が頻繁に出入りしていたので、叔父たちと一緒に暮らすことに、それほどの違和感はなかった。
しかし、実際に生活を始めてみると、自分のいる場所のないことに敦子は気付いた。
子供たちとはこれまでもよく一緒になっていたし、「お姉ちゃん、お姉ちゃん」となついてくれた。叔父も叔母も、薄幸だった姉の子供に対して気遣いをしてくれた。
高校進学に関しても、学校の成績があまり良くない敦子の進路を大変心配もしてくれた。けれども、親切な振る舞いを受けるたびに、自分がこの家には必要のない存在であることを、敏感に感じ取っていた。
敦子が育ったのは兵庫県の内陸部の都市であるが、その頃でも高校へ進学する者の比率はかなり高くなっていた。
敦子のクラスでも、家業を継ぐ者とか特殊な専門学校を志望している者以外は、大半が高校進学を希望していた。彼らのほとんどは受験可能ないくつかの公立高校の中から志望校を選ぶのだが、敦子の場合は、学校の成績も良くなかったし、受験に備えた勉強も全くしていなかったので、公立高校への進学はかなり難しいというのが担任教師の意見だった。
その中学の卒業生たちも多数通っているのだが、かなり通学時間のかかる神戸市の学校を選ぶ必要があった。
叔母は、受験までにまだ時間があるから、これから勉強を頑張って公立高校を受験することにしておいて、神戸市の私立高校をいくつか受験するようにと親身な相談にのってくれた。
しかし、敦子には高校への進学は選択肢になかった。就職することに決めていたのだ。
一日も早くこの家を出なくては、親切な叔父の家族に迷惑をかけてしまうと考えていた。
まだ中学三年生に過ぎない少女の、たった一人での決断だったが、それには、厳しく育てられた祖母の教えが影響していた。
贅沢さえ言わなければ就職のしやすい時代だった。
学校への求人情報も多く、自宅から通える企業からの募集もあったが、敦子の希望は、寮か住み込みで働ける所だった。出来るだけ早くこの土地を離れる方がいいと考えていた。
敦子の希望を聞いていた担任教師から、お手伝いの話を紹介された。
その町の近くにある工場の人事担当者から中学に来た話で、その会社の会長宅でお手伝いを求めていた。
会長宅が奈良であることを聞くと、敦子は即座に応募したいと申し出た。担当教師と工場の偉い人に連れられて、その会長の自宅へ面接に行き、その場で話が決められた。
最初の木枯らしが吹いた日のことである。
春になり、中学卒業と同時に、敦子は育った家を離れた。
母が亡くなったため引き取られた祖父の家だが、敦子の記憶にある唯一の自宅だった。
叔父夫婦は、当座の服や着替えなどを準備してくれた。
そして、敦子名義の貯金通帳と印鑑を渡してくれた。
「これは、お祖父さんが敦子のために残してくれたお金だよ」
と言って渡してくれた通帳には、二百万円の残高があった。
「これで全部なので、お嫁に行く時まで絶対に手を付けないように大切に持っているんだよ」
と、叔父は念を押した。
中学を卒業したばかりの少女には、途方もなく大きな金額だったが、同時に、もうこの家には帰ってこれないのだと伝えられていることも、敦子には分かっていた。
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敦子がお手伝いとして勤めることになった家は、近鉄沿線の高級住宅地にあった。
一度連れてこられた時には、その家がどの辺りに位置しているのか分からなかったが、奈良県ではあるが、いわゆる古都としての奈良とは全くイメージの違う、新しく開発された住宅地であった。
大阪市のベッドタウンとして大規模な開発が進められてきた一画で、その家の周囲はひときわ立派な住宅が並んでいた。
その家は関西では知られた企業の会長宅で、家族は会長夫妻だけで、他に古くから住み込んでいるお手伝いの女性がいた。
会長は八十歳位で、足が不自由なため家の中でも車椅子を使うことが多かったが、車椅子を含めて身の回りのことはすべて奥さまがつきっきりで世話をされていた。
それ以外の家事一切を長くこの家にいるお手伝いの女性が取り仕切っていた。
このお手伝いの人は「ふみさん」と呼ばれていたが、この人も六十歳を過ぎていて、一人で家事など全てをするのが負担になってきたため若いお手伝いを増やすことになったようである。
会社の経営は、会長の長男が社長になっていて、次男、三男も役員に就任していた。
敦子が勤めるようになった頃は、会長は週に二日ほど出社していたが、その時は会社から迎えの車が来て奥さまともども出かけていた。
敦子の仕事は、掃除や買物や洗濯や賄いの手伝いなどである。
ほとんどが古参のふみさんの指示に従うもので、一日が慌ただしく過ぎて行ったが、敦子にとっては楽しい日々だった。
お手伝いという仕事が、どのようなことをするのか知らないままにこの家に来たのだが、大変恵まれた仕事場と感謝していた。
敦子が一番嬉しかったのは、与えられた部屋が素晴らしかったことである。
八畳ほどもある洋間には立派な家具が付いていて、敦子が持ってきた衣服などは片隅に収まってしまった。そして、敦子のベッドは今まで見たこともないふかふかの素晴らしいもので、本当に自分が使っていいのか何度も何度もふみさんに尋ねた。
ふみさんは、その代わり一生懸命働いてね、と祖母を思い出すような優しさで言ってくれた。
部屋にはテレビがあり、自由に操作できるエアコンも設置されていた。
食事は、ふみさんの好みなのか老夫妻の好みなのか淡白なものが多かったが、これまで食べていた食事からすれば、御馳走の毎日だった。それに、頂き物のお菓子や果物は、いつも敦子に一番多く分けられた。
さらにありがたいことに、夕食が六時で、風呂に入っても八時頃には自分の部屋でくつろぐことができた。朝は六時に玄関前の掃除を始めるように指示されていたが、家にいた時よりも遥かに楽な起床だった。
洗濯も、大きなものや洋服類はクリーニングに出していたし、来客の食事が必要な時はたいてい外から取っていた。三度に一度くらいは敦子たちにも同じものを取ってくれたりした。
もっとも、何もかもが良いことづくめということではなかった。
掃除はともかく、広い庭は雑草が抜いても抜いても追いつかなかった。月に二回は庭師が来てくれていたが、真夏の雑草抜きは重労働だった。
しかし、敦子が一番戸惑ったのは、ふみさんの厳しい指導だった。
主人や奥さまが敦子を叱るようなことは一度もなかったが、ふみさんからは厳しくしつけられた。
特に挨拶や言葉遣いについて厳しく、最初はかなり負担だったが、敦子にとっては掛け替えのないほどの教育を受けたことになった。
肉親の情ということを別にすれば、敦子にとって最も恵まれた日々だったが、それは二年余りで終わった。
会長の病状が悪化し、阪神間にある病院に入院したからである。
そこの病室はホテルに近いほどの設備を持っていて、奥さまが付き添うことになり病院の近くに新しくマンションを借りることになった。
ふみさんは付いて行くことになったが、敦子は辞めねばならなくなったのである。
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