『歌伝説:尾崎豊』
~少年のように駆け抜けた男~
*NHK-BS2:2010年11月9日(火)午後9時~午後10時30分(放送終了)
*NHK-BShi:2010年5月13日(木)午後10時~午後11時30分(放送終了)
*NHK-BS2:2010年4月24日(土)午後8時~午後9時30分(放送終了)
尾崎豊20thメモリアルイヤーズ
特別企画『放熱の彼方~尾崎豊 知られざる伝説』
*BSジャパン:2011年4月17日(日) 午後8時~9時55分(放送終了)
ドラマ【風の少年 ~尾崎豊・永遠の伝説~】
*BSジャパン:2011年4月24日(日) 午後8時~9時55分(放送終了)
<ヒーローたちの壮絶人生>
『尾崎豊20年目の真実 ~大人になった君たちへ~』
*NHK-BSP:2013年01月14日(月)午後3時~3時58分
*NHK-BSP:2012年11月16日(金)午後9時~9時58分(放送終了)
『尾崎豊に会える日』
*NHK-BSP:2013年01月18日(金)午前9時~10時
<mimifukuの思い出>
尾崎豊さんは、
日本のロック史に残る類稀なるシンガーだと感じるし、
激しいステージ・パフォーマンスは、
空前絶後のロック・メッセンジャー(使者)として強烈な記憶を残した。
そのカリスマ的な影響力はある世代(主に昭和40年代生まれ)にとって、
神にも似た性質を持っている。
1983年12月1日。
デビュー当時(アルバム発売日)から尾崎豊さんは大きな話題を集めた。
勿論世間一般に周知されたのは、
1985年1月21日に発表された『卒業』(12インチシングル・レコード)。
尾崎豊さんは1965年11月29日生まれ。
1983年のレコード・デビューは高校在学中の18歳。
翌1984年3月15日:1月に退学した高校の卒業式の日に、
名門ライブハウス:新宿ルイードで単独ライブ・デビューを果たす。
新宿ルイードは佐野元春さんや山下久美子さん等の大物アーティストがデビュー。
当時ルイードは若いミュージシャンの登竜門的なライブ・ハウスとして知られた。
尾崎豊さんがデビューした頃に小山卓治さんもデビュー。
敏腕プロデューサー:須藤晃さんやミュージシャン:浜田省吾さんの息のかかった、
大型新人(お互いCBSソニーでデビュー)の登場にロックファンは心躍らせた。
~当時のソニーはブルース・スプリングスティーン色に沿ったサウンドを求めた。
尾崎さん自身はジャクソンブラウンのサウンドに影響を受けたと語っている。
尾崎豊さんのアルバムには浜田省吾さんの盟友ギタリスト:町支寛二さんが参加。
早速に町支ファンの友人がデビューアルバム:『十七歳の地図』を買ってきた。
初めて聴いた私の尾崎豊さんへの感想は正直ピンとこなかった。
「十七歳の地図」、「15の夜」、「僕が僕であるために」等は頷けたが、
当時は現代のような“名作アルバム”としての評価をくだすことはできなかった。
名曲:「I LOVE YOU」にしてもどこか甘ったるい印象を持った。
~今なら艶のあるボイスやブレスの素晴らしさを指摘できるのだが…。
ただライブ・ステージの評判は非常に高く専門誌各誌のレビューで絶賛。
~今のような即日ライブレビューを探索する術はなく只管専門誌に頼った。
尾崎さんについての最大の思い出(後に大後悔)は、
この頃の尾崎豊さんのライブチケットを購入しながら行かなかったこと。
あまりにコンサートの評判が良いので、
1984年12月25日の石川県教育会館に注目。
尾崎さんは私よりも年齢が下なので同級生の友人を誘っても付き合ってくれず、
さらにクリスマスの夜はみんな個々に予定を持っていた。
仕方なくチケット1枚(立見席2800円だったと記憶している)を購入。
が当日別の予定が入ってしまい結果としてコンサートを見逃した。
後日地方版の月刊情報誌にレビューが紹介されており、
“失神者がでる盛り上がり”との情報に溜息。
私にとっての尾崎さんとの最初で最後の接点だった。
その翌年の1月。
尾崎さんのその後の運命を変える大曲:『卒業』を発表。
この曲を最初に聴いて連想したのが1980年~81年に放送された、
3年B組金八先生の第2シリーズ“腐ったミカン”。
恐らくその放送を見ていたと思われる尾崎豊さんと近い世代にとって、
“尾崎豊は待ち焦がれたヒーロー”として象徴化(アイコン)されていく。
~尾崎さん自身も沖田浩之さんの髪型を真似するなどファンだったようだ。
1985年3月21日に発表された、
2ndアルバム『回帰線』は耳の肥えた年長のロック・ファンの心をも貫いた。
名曲:「シェリー」の熱唱(叫び)は日本版:ジャニス・ジョプリンを髣髴とさせ、
このアルバムの発表によって新たなヒーローの誕生は予言され、
“あれよあれよ”とトップ・シンガーの位置に登りつめていくスピードは、
まさに若者達誰もが憧れるサクセス・ストーリー(そのもの)だった。
また『回帰線』は、
「ダンスホール」や「存在」などの佳曲も多く、
尾崎豊さんを知らない世代に最もお薦めできる1枚である。
~尾崎さんの父の記憶では尾崎さんにとっての最大のヒーローはジャニスであり、
“飼い犬にジャニスの名を付けるほどの惚れ込みようだった”と記されている。
また「シェリー」について交わされる命題は自分自身への覚悟ではないか?
メロディを排除し歌詞の“シェリー”の部分を“豊(ゆたか)”に置き換えることで、
自分を戒める内面の自分の声“ボクが僕であるため”の覚悟が見えてくる。
さらに“支えてくれる総ての人達”とすれば詩の内容はさらにリアリティを増す。
私にとって尾崎さんの最重要曲は今でも「シェリー」に変わりはない。
アルバム:『回帰線』発売後のファンの高揚は留まる所を知らず、
1985年以後のコンサート・チケットは入手するのは困難を極めた。
ルイードでのデビューから僅か1年5ヶ月。
1985年8月25日:大阪球場を札止め。
サクセス・ストーリーは頂点を迎える。
~この模様は過去にBS2でも放送されている。
同じ年の1985年11月28日。
3rdアルバム『壊れた扉から』を発表。
~私にとっての尾崎豊さんはこのアルバムで一度終わっている。
アルバム発表当時に“急ぎすぎ”を感じたしアレンジの失敗や駄作も多く閉口。
勿論総べてのアルバムを耳にして入るのだが初期2枚(学生時代の楽曲)を、
自らが越えることは困難だったしサポートメンバー能力にもバラツキを感じた。
単体では後期にも素晴らしい楽曲が多いだけに残念な気がする。
1986年1月1日。
福岡国際センターのライブを最後に活動を休止。
沈黙のニューヨーク生活を送る。
<尾崎豊の生と死>
沈黙のニューヨーク。
“大人の世界の争い”に巻き込まれた尾崎さんはニューヨークで薬に溺れた。
私もつい最近まで知らなかったし世間でもあまり多くは語られていない。
尾崎豊さんの兄である、
尾崎康氏の著書『弟尾崎豊の愛と死』
その内容は誰もが衝撃を受けるだろう。
~特に麻薬中毒の実証は決して犯してはならない怖さがある。
著作の内容について詳しくは書かない。
図書館やWebの中古本等を探せば容易に見つかる筈なので、
機会があれば是非多くの人達に読んで欲しい。
早稲田大学法学部を卒業し地方裁判所の事務官に就職した、
兄の康氏(現弁護士?)の分析と家族の心情は胸を打たれる。
アーティストの死は様々だ。
伝説の死として今尚神話を残す、
・ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスの死(さらにシド・ビシャスの死)。
・ジェームス・ディーンやオーティス・レディングの死。
・ジョン・レノンやボブ・マリーの死。
そして、
・カート・コバーンの死。
以前にも記述した歌手の宇多田ヒカルさんが
~宇多田さんが尾崎さんをリスペクトしていることは広く知られている。
文藝春秋2000年1月号:最後の証言集/私たちが出会った20世紀の巨人。
対談:もうひとりの私『ダニエル・キイス×宇多田ヒカル』の中で
“今死んでしまえば伝説の人ととして永遠に人々の心に残る。”
の件は強く印象的だし、
尾崎さんの存在が10代の宇多田さんの脳裏を過ぎったのかも知れない。
*対談内容→ http://www.bunshun.co.jp/bikkuri85/rank01_06.htm
10代にしてミュージシャンの誰もが目指す高みに登りつめ、
“尾崎を崇高する信者を獲得”してしまった自らの責任と戸惑い。
尾崎とは違った形ではあるが“メッセージ・フォークの神様”と崇められた、
岡林信康氏は現状から逃げ出したと後述している。
尾崎はなぜニューヨークでドラッグに手を染めたのか。
想像の域を出ないが、
創作活動ができない苦しみだったかも知れないし、
自己責任の重圧からの逃避だったかもしれないし、
憧れであったジャニスを(好奇心で)追いかけたのかも知れない。
尾崎さんが巻き込まれたビジネス・トラブルは、
『明日なき暴走』発表後のブルース・スプリングスティーンや、
キャロル時代(独立時)の矢沢永吉さんを連想させる。
ただし、
尾崎さん自身の(若さからくる)未熟さや焦りも感じ、
一概に何が正しかったかは闇の中だ(それで良いと思う)。
自己主張の強いナルシストは多くの敵もつくった。
尾崎豊を語る時、
決して美談だけで済まされないストーリーがある。
それはそれで伝説に付き物のストーリー。
ただしドラッグの使用を許容してはならない。
尾崎豊の死を語る時、
尾崎は自分との戦いに敗れたのだろうと感じる。
自分をコントロールできないほどに自分を追い詰める性格。
尾崎の伝説はジャニスにも似た自己破壊があるのかも知れない。
兄:尾崎康さんの著書によると、
迷惑を掛けっぱなしだった最愛に母の死の約4ヵ月後。
1992年4月25日午後0時06分:尾崎豊は永眠した。
記述によると“七転八倒の壮絶な死”に事件性はない。
私は番組を見る前にそんなことを予習した。
<番組感想>
“歌伝説”らしい真面目な作り方だった。
3年生を送る会でDJ(司会)を務める14歳の肉声は明るく陽気。
エヘへと笑いながらカミカミの素人らしい司会はその後を想像できない。
中学生時代の友人達が集まり尾崎さんの少年時代を回想。
尾崎さんの父の著書『少年時代』の中でも越境入学の件が記されているが、
素の自分を出せる仲間達が集まる中学校に行きたかった理由も分かる。
中学時代から曲を創る度に友達達に聴かせていたエピソード。
学校の規則から逃れ10人の仲間達と家出したエピソードなど、
尾崎さんの曲以上に語り(MCを中心に)もクローズアップされ、
これまでのNHK-BSでの放送(コアなファンには不評だったみたい)とは違った、
尾崎豊さんのルーツを探る番組作りは“歌伝説”らしい編集だったと思う。
ただし、
特定の仲間達の情報(回想)に終始することで番組の速度(スピード)感が鈍り、
コアなファンでなければ気恥ずかしいと感じるMC(語り)の編集など、
初めて尾崎豊さんを見る若いファン達がどのように感じたかは微妙だ。
見慣れたパフォーマーとしての尾崎の激しさは相変わらず。
返す返すもニューヨークでの転機(分岐点)が悔やまれてならない。
尾崎豊さんが亡くなって18年。
いつまでも尾崎豊のヒストリーを美談として語り継ぐことが良いのか?
現在の混迷の世の中で“尾崎の負の真実”をも織り交ぜながらのエピソード。
まったく違った形のドキュメンタリーの制作が待たれる。
<追記:幻の少年>
尾崎さんのこと調べているうち新たに湧き上がる疑問を埋めるべく、
尾崎さんの後期作品(音源)や手に入る資料(著作)を読んでみた。
尾崎豊さんが書いたとされる1999年発行の『幻の少年』。
その冒頭“はじめに…”と前置きし次のように述べている。
「この小説は僕の痛みからの財産だろう。
この小説を読んで覚醒剤や麻薬に溺れ精神病の苦痛が、
いかに困難なものであるかを示したい。
そして同じような痛みを背負う人が一人でも減ることを、
僕は希望する。
新しきパラダイム(規範)が創造されるまで、
この痛みを忘れてはならないだろう。」
小説は散文形式で読み辛い内容だが、
FILE 001-01-06(story1&2)は精神の不安定な状態での院内生活。
~特にstory1に示される症状は死の状況(証言による)に酷似し予言めいている。
FILE 001-03-09(story11)で読み取れる尾崎さんの日常の苦悩と苛立ち。
FILE 001-03-39(story12-1~3)では痛々しいドラックの恐怖(特にstory3)を記入。
『幻の少年』の主文を見つけることは困難だが、
“はじめに…”の序文とは違った無機質に進むストーリーに、
何か言いようのない不安定さを感じる。
何冊かの著作を読み後期作品を聴きなおしてみると、
これまで見えなかった歌詞のストーリーが見えてきた。
アルバム『誕生』の楽曲:「禁猟区」に示されたドラックへの考え。
アルバム『誕生』の楽曲:「COLD JAIL NIGHT」に示された拘留生活。
そしてなにより楽曲:「誕生」に秘められる新しい覚悟。
~シェリーで示された“愛するものすべて”から“家族の絆”への変化。
後期作品を再評価する上で欠かせないNY以後のストーリー。
尾崎さんを調べる過程で様々なことが頭を過ぎった。
日本に於ける薬物中毒の救済は主として精神科で治療されるようだ。
→ http://kokoro-osaka.jp/clinic/yakubutsu_doc.html
『幻の少年』で示された治療では主人公の心に深いキズを残す。
2010年5月のNHK-BS2では、
薬物中毒に侵された2人の偉人の映画が放送されます。
映画『バード』はジャズの巨人:チャーリー・パーカー。
~2010年5月12日(水) 午前0:55~午前3:37(11日深夜)
映画『ローズ』では本文に紹介したジャニス・ジョプリン。
~2010年5月27日(木) 午前0:45~午前3:00(26日深夜)
尾崎さんが置かれた環境を知りたいと思う時、
薬物の怖さが如実に示される2つの映画の視聴をお薦めします。
~以下NHKホームページより記事転載。
尾崎豊が26歳の若さで急逝して今年4月25日で18年になる。
彼の中学時代の仲間の証言などによって名曲の数々と共に、
多感で意外な素顔を描いていく。
【放送が予定されている曲目】
「街の風景」
「15の夜」
「十七歳の地図」
「卒業」
「Scrap Alley」
「ハイスクールRock’n Roll」
「僕が僕であるために」
「I LOVE YOU」
【語り】 :加藤登紀子
【ゲスト】:天野ひろゆき
沢山の貴重な情報をありがとうございます。
昭和40年代生まれな為、彼の落ちていく姿も見ているので、生前を知らない若者達の間で美談として語り継ぐには…と私も少々思う所があります。
彼の人生は美談ではすまされないですよね…
コメントありがとうございます。
番組はご覧になられましたか?
中学生時代の尾崎豊さんに焦点を絞った番組制作。
スカートめくりが大好きでとっても不潔なんだけど、
クラスの人気者だった尾崎少年のストーリー。
代表曲のひとつである「15の夜」の頃の物語。
しかし今回もニューヨーク以後の物語が語られることはありませんでした。
尾崎豊さんの最後の曲となった「Mama,say good-by」。
尾崎豊さんのお母さんは尾崎さんが亡くなる4ヶ月前の1991年12月29日に急逝しています。
1990年11月に発表された「誕生」。
10分近い大曲は長男の誕生と自らの人生をオーバーラップさせ、
ひとつの物語のように進みます。
後期の作品に秘められた私小説のような歌詞の数々。
尾崎豊さんの三面性。
・友人が語る明るく陽気な尾崎。
・ファンが抱くクールで正義感溢れる尾崎。
・関係者が語る攻撃的で身勝手な尾崎。
特にニューヨーク以後の尾崎を巡る業界内での人間関係は、
一箇所に定住することを拒んでいるかのように伝えられています。
そうした中で友人達の前では何時もと変わらぬ尾崎豊を、
亡くなる間際まで貫いたことへの驚き(今回の放送)。
尾崎豊さんの本質を探る上で必要なショービジネスの世界内での悪評の検証。
それは後期作品の評価を意味付ける上でも必要な作業になるでしょう。
また尾崎さんが手に染めたドラッグの恐怖。
人格が破壊されていく肯定。
尾崎康氏の著書『弟尾崎豊の愛と死』で読み取ることができる、
“尾崎豊さんの死”はアルコール中毒では片付けられない症状が記述されています。
テレビでは尾崎さんの死の検証まで紹介する必要がないと感じますが、
ドラッグがその後の尾崎さんの対人関係を悪化させた要因であることは伝えるべきです。
尾崎豊さんを日本のジェームス・ディーンとされる方もいますが、
私はジャニスの死に近いものがあったと感じていました。
ただし今回の番組で、
ジャニスとは違う支え(仲間)が尾崎さんには存在したことを知り、
ではなぜ業界内で尾崎豊さんが孤立と孤独を経験していったのか?
兄・尾崎康氏が指摘する最愛の母の死と豊さんの死期の関連性。
尾崎さんが死ぬ間際に所持していたとされる母の遺品である切符が持つ意味。
尾崎豊さんの子供も成人になられることで、
そんな物語も語られる時期に来ていると感じます。
尾崎豊に対する評価で、常に引っかかりを覚えるのは、ドラッグ=犯罪者との烙印を押されていることです。麻薬が日常とはかけ離れた存在である日本のような環境では、想像が及ばないことかもしれませんが、麻薬中毒は病気であるということです。病気の人に刑事罰を下したところで病気が治るわけもない。本人の更生(治癒)が目的なのか、社会的制裁が目的(刑事罰を殊更に強調)なのか、どちらに焦点を当てることが重要なのか。むやみに社会的制裁を加えた場合、さらに麻薬に走る可能性があるという悪循環。ドラックが本来許容されるべきでないという意見には、まったく異論の余地はありませんが、ドラッグ中毒は病気であるとの認識が無い限り、精神論や、本人の弱さで片づけられてしまう危惧があります。”現行法”を犯したという一点では、確かに犯罪かもしれませんが、その現行法ですら、普遍性に欠けるものであることは否めません(オランダでソフトドラッグが許容されているのは周知の事実)。麻薬中毒は病気であり、犯罪者との烙印を押されるのではなく、治療されるべきものである、との認識が、いつか尾崎豊に対してもなされることを願っています。
長文のコメントありがとうございます。
尾崎豊さんを犯罪者だと思っている人は、
音楽ファンの間では少ないと思います。
トップ・アイコンで活躍する多くのミュージシャンに、
ドラック経験者が多いことは誰もが知っています。
また、
“麻薬が日常とはかけ離れた存在である日本のような環境”
も認識違いで多くの一般庶民の手にドラッグが容易に入る環境。
尾崎さんが活躍した20数年前とは違ったドラッグ汚染を耳にします。
以前に当ブログ内で記述した文書を再掲載。
*久しぶりに『完本:マイルス・デイビス自叙伝』に目を通した。
1950年代のヘロイン中毒。
1970年代のコカイン中毒。
麻薬から足を洗うことのできない苦しみや自分の弱さに触れている。
ヘロインの常習癖を直すために親父の別宅に1人部屋へ籠った。
とにかく具合が悪かった。
叫びたかったが1人で我慢するしかなかった。
ただ暗闇で横になって滅茶苦茶汗をかいた。
体中の節々がゴチゴチになってひどいインフルエンザのもっとひどい状態。
関節の痛みを触りたいのだが触ると叫び狂う激痛で触ることもできない。
もし誰かが2秒で死なせてくれると言えばそちらを選ぶだろう。
こんな調子が7~8日間続いた。
何も喰えなかった。
オレンジ・ジュースを飲んだがすべて吐き出した。
そんな状態がさらに2~3日続いた。
*同じく『エリック・クラプトン自伝』にも薬物中毒の記述が多い。
<失われた数年間>のタイトルの記述の中で1970年代の、
自らのヘロイン中毒について語っている。
“コールド・ターキー(禁断症状)”の最初の24時間は地獄だった。
全身の神経と筋肉が痙攣を起こし私は胎児のように丸まりながら、
苦痛に喘ぎ苦しんだ。
その苦しみは丸3日間続き一睡もできなかった。
最悪なことはドラッグが抜けてキレイになった身体は、
肌がヒリヒリし、神経が昂ぶり、楽な状態に戻りたくて、
またドラッグを求めた。
いずれもドラッグ後の苦しみについて書かれている。
しかし偉大な音楽であり多くのファンに神と尊敬を受ける2人は、
そんな苦しみを経験しながらも再び麻薬やアルコールに手を出している。
違法薬物の常習癖が持つ恐ろしさ。
また幻覚症状が生み出す異常な興奮と攻撃性についても、
マイルスの著書では記述されている。
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/d/20090814
ドラッグを犯罪と認定するのはドラッグが持つ怖さ。
自己を崩壊させ他者にも危害を与える危険性。
その認識を失くしてはいけません。
中国で何故日本人が中国法の下に死刑にされたのか?
中国にとってのアヘン戦争の経験。
尾崎豊さんは立ち直ろうとしていた。
しかし…。
尾崎豊に犯罪者の烙印を押すつもりはありません。
尾崎さんの言葉。
「この小説は僕の痛みからの財産だろう。
この小説を読んで覚醒剤や麻薬に溺れ精神病の苦痛が、
いかに困難なものであるかを示したい。
そして同じような痛みを背負う人が一人でも減ることを、
僕は希望する。
新しきパラダイム(規範)が創造されるまで、
この痛みを忘れてはならないだろう。」
彼のメッセージをもう一度考えてみて下さい。
ドラッグ使用は病気ではなく日本国法において犯罪です。
とのもう一人の通りすがりさんの意見。
私は、
ドラッグ使用は日本の法律下で犯罪であることに疑いを持ちません。
ただし、
ドラッグ中毒の症状やドラッグ依存症の精神状態を病気と捉える。
それは間違っていないと感じます。
例えばアルコールはどうでしょうか?
よく耳にするのがアルコールが入ると人が変わったように豹変。
家庭内でのDVや地域での迷惑行為。
特にアルコール依存による家庭内暴力は後を絶ちません。
例えばタバコはどうでしょうか?
タバコによって性格が豹変する話を聞いたことがありませんが、
タバコが自身(本人)や社会(他者)に与える害の大きさ。
発癌性を高め血管の収縮を誘引し心臓や脳へのリスクを高める。
“オランダでの線引きと中国での線引き”
犯罪を決めるのはその国の立法府(日本は国会)であり、
日本においてはアルコールとタバコは許可されています。
犯罪者とは立法府によって決められたルールを守らなかった者。
すなわち犯罪者=堕落者ではありません。
犯罪を犯しても更生する要素もありますし、
犯罪そのものが10年前は許されていたもの、
時に、
検察庁の暴走がニュースになっていますが、
犯罪事態が操作されることもあるようです。
社会では、
何らかの要因で意志とは異なり強制的に、
違法ドラッグを摂取される事もあります。
その場合は被害者として扱われ、
犯罪者とはなりません。
再度言いますが、
依存や中毒は病気の内に含まれます。
それは当然のこととして、
専門機関での治療が必要です。
ただし、
自身の意志で違法ドラッグに手を染める事。
それを病気と認識すれば社会は混乱します。
http://www.up-down.com/020chabo/02150news/hotnews.html#KOR