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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

輪郭の不鮮明さ

2005年10月13日 | 日々の泡
「よく完成された立派な人間は非常に困った存在だ。そういう人は、竹薮の中で過ごしてください。世に出てこられては迷惑だ。」と、こんなアイロニーに満ちたことを冗談で?(本当は本気だと思いますが…)言われる方がありますが、人間の成長というものは、完成された立派な人間になることのように、誰もが思っているものです(?)。完成とか立派とかいう言葉を聞くと、その言葉の内実を簡単に分かったような気にはなりますが、具体的にどういうことが完成なのかとかどういうことが立派なのかは、測る基準がないですし、人それぞれの価値観にもよりますので、意外と想像しにくいものです。何を立派といい、何を完成というのか、さらにさらに詳しく細かく探っていかないと具体的には、実態が何も分からないままで終わってしまいかねません。このように、輪郭が鮮明な言葉の特徴は【固さ】と【イメージの貧困】にあります。もう一つ例を挙げると、【食欲】という言葉は輪郭がハッキリしている代わりに具体性に欠けます。「食べたくない」などといった場合は感情が含まれる代わりに、途端に輪郭は明確ではなくなります。(言葉の輪郭が鮮明・不鮮明ということの比較が、私には、本当のことを言うと、あまりよくは分かっていません。私自身が、十分に理解できていないことなので、説明されても何を言いたいのかが、この文章をお読みになる方にとっては、それこそ不鮮明だと思います。ごめんなさい。)「痛い!」とか「まいったなぁ…」とかの言葉には気分が含まれます。輪郭が明確な言葉は論文用には格調高い感じになりますが、ある状況の中に、具体的にはどんな気分や感情が包まれているのかを生き生きと相手に伝えるためには、【感情を言葉に変換する日本語】を使うことが大事だと教えられました。輪郭が定かではない言葉を使えば、問題は汎化するけれど、輪郭がハッキリした言葉を使うと問題はその範囲にとどまってしまうそうです。問題は汎化させることの方がずっと上等ですし役に立ちますから、すっきりとした言葉は論文の世界だけにとどめておく方が有用です。最後に、こんな例もあります。「あなたとの関係はもうここまででおしまいです。」この言い方だと、輪郭ははっきりくっきりしていて、【未練】が残りませんから、その関係に再び、水が流れるということはないでしょう。これに反して、「また何かあったら、いつでも…ね!」と、【未練】を残した状態に関係をとどめておくと、本当に何かあった時には、【未練】という絆を通して、再度、自然に馥郁【ふくいく】たる水が(水に馥郁などという形容詞を使うことはおかしいでしょうか?おかしくても、何故か馥郁という言葉をどうしても使いたくなってしまったので使ってしまいました。アロマに傾倒しているせいか、水にまで、イメージとしての香りを感じるようになってしまっているようです。)流れていく可能性が高いです…。この話しを聞いた時、以前、あなたに教えてもらった、【ワジ=涸谷】のことを思い出しました。一度、丁寧に耕された関係ならば、再び、時に応じての復活も可能になりそうです。【未練】を残す関係の大切さと同時に、平易な言葉を自在に使えるようになることが、人間としての成長の一つの条件だとのことですが、【未練】を残した関係のことと平易な言葉の問題を並列にして、この両者が、成長の一要素だなどと、いきなり語ってしまうことには、何の脈絡もないので、不自然極まりない、【奇異】な感じを抱かれるかもしれませんが、私の中では、文脈が繋がっているので、こんなへんてこりんなまとめ方になってしまっています。この話を聞いた時には、確かにこの流れで話しがまとめられていました。何となく心に残ったので、忘れないうちに、書き綴っています。自分の中で消化できていないうちに文字にしているので、論旨がめちゃめちゃな感じで申し訳ないのですが、私の気持ちのライブ感を味わってみてください。文章の輪郭がぐちゃぐちゃで、整然としていない代わりに、私の生の思いが随所に散らばっているはずです。最後にもう一度…成長とは、気持ちに素直に、且つ単純平明な人間に戻っていくということなのでしょうか?という問いかけが今日の着地点です。精神分析の真骨頂は【自由連想】にあります。言い訳がましいようですが、今日の私の頭の中は、自由連想的にあちらこちらを駆け巡ってしまっているようです。※【ワジ】の本来の意味は、(辞書にも載っていませんので…)よくは分かりません。涸れた川に見えても、環境の改善次第では再び水流の豊かな川として蘇りうるというような意味として、私は捉えていましたが、そんな生易しい意味合いのものでもないようです。実際に、旅行中に、ワジを体験した方の感想を読んで、ワジの本来の意味を想像してみてください。(道だったところが突然、川になってしまったら、やはり、そこで生活している人にとっては迷惑千万な事態となるだけでしょう→画像にマウスを当てると【道路】になっている時と【川】になってしまった時との違いが、画像の変化でよく分かります。)ワジが川になった日(イエメン)

カイロの先生の不思議な体験

2005年10月12日 | 日々の泡
私がアロマテラピーのことをカイロの先生にカイロ治療をうけながら、お話したその日、私の後から、治療を受けに来た人が、「青竹」というアロマ(マッサージの時などに皮膚に塗ることによって痛みなどを緩和させる効果を持つアロマオイル)を持参され、この「青竹」を使って治療をして欲しいとカイロの先生にお願いしたのだそうです。カイロ治療のお部屋は2階にありますが、1階にアロマのお店があるそうで、そこで購入された「青竹」だったと教えていただけたので、カイロの治療の帰りにそのアロマのお店に寄ってみました。そうしたら何と、そこが、私が使っているアロマの製品を売っているお店だったのです。私はそのことをついぞ知りませんでした。さすがに、私は、まだお願いしていませんでしたが、「青竹」を使って治療をして欲しいと秘かに心の中で考えたりはしていたのです。私が心の中で考えていたことをいち早く実現させていた人がいたなんて…何だか不思議な気がして、パラレルワールドという言葉を思い出しました。まるで【世にも不思議な物語】の世界みたいです。もう一人の私が、現実の私よりも、一歩先に夢を実現させていた…そんな感じなのです。もう一つ、ここからが今日のブログの本題です。カイロの先生には、【無】になる瞬間があるのだそうです。すぅ~と、イメージの世界に入っていってしまい、話し声も聞こえなくなる、【無】の瞬間(瞬間ではなく、もっと長い時間なのかもしれません。)ご自分でも何が起こっているのかまったく分からないそうです。【無】の瞬間が終わる時、話し声がはっきり聞こえてくるとのことでした。私の場合、先生と雑談をしながら、治療を受けていることが多いのですが、先生がどこかの世界に行ってしまっていると感じたことはないので、私を治療してくださっている時には、そうしたことは起きていないのかもしれません。だからというわけでもないのですが、カイロの先生の体験が、私には全く想像できないので、すごく悔しくて、残念でたまりません。でも意外に、こうした体験はあちらこちらで、日常茶飯事のこととして起きているのかもしれません。ただ、そのことをあまり、私たちは普段、見聞きしないから、そういうことが起こっていることに気を留めないだけなのではないかと思ってしまいました。

真の自己の発見(根源的な資質)

2005年10月11日 | my favorite・・・
またまた神田橋先生…です。生命体として追い詰められてギリギリの状態になると、その人の一番根源的なものが出てこざるをえなくなるのだそうです。「自分はもう…こうすること以外には何も出来ない!」という状態は、すなはち、【真の自己の発見】がそこに表出したということに他ならないわけ…ということらしいのです。そこを膨らまして全部を立て直していけば、【自己実現】への道のりが完成することになるそうですし、追い詰められた時に出現してきたものが幹となり、あとのものは枝葉末節となるとのことですので、幹がどんどん膨らんでいく状態を【自己実現】の開花と言い換えることも出来るそうです。★ところで、私も、生命体としては、かなりギリギリのところまで追い詰められてはいるのですが、出現してくるものを見極められないでいます。根源的な自分だけの資質がいまだに、日の目を見られない場所でもがいているようなのです。もがき苦しむ時間が長すぎて、疲労困憊状態です。私の幹となるモノは一体どこに潜んでいるのでしょうか?

主観的な現実と客観的な現実

2005年10月10日 | 日々の泡
主観的な現実は、その個人の思考・感情・情緒・欲望・想像・空想・記憶、最も深い願望として存在しているものだそうです。客観的な現実とは、目に見えるその個人の物理的身体であり、五感で経験する世界のことだそうです。この現実はどちらも、同時に、互いに依存しつつ存在しています。ここからは、私独自の考え方ですので、全く当てにならないものではありますが、主観的現実というものが、その個人を形作っていくものだとしたら、いくら主観が大事だと言っても、「私はこう感じる。」ということを一度は相当に疑ってみてもいいと思っています。というより、疑ってみないと危ないとさえ思っています。「私が感じている」ことの内容の信憑性というものはかなり疑わしいものだからです。私の考えと信じているものが、本当に、私の考えかどうかなんて本当は分かりません。どこかで聞いて来たことを、まるで自分の信念であるかのように信じているだけなのかもしれないのです。私の経験では、思考・感情・情緒・欲望・想像・空想・記憶というようなものは脳のコンピューターの機能不全を通して(あるいは、あまりにも有能すぎる機能を通して)、巧みに捏造・改竄されている危険性に満ち満ちているものだということを知ったからです。(これは観念として知ったのではなく、身を切るような痛みとして体験したのです。)私が、唯一、信じてもいいと思えるものは、心の深い部分に横たわっている願望だけです。「私の願望」に嘘はない。願望には何人たりとも手を加える事は出来ないというのが、私の現段階での考えなのですが、これとても本当のところはよく分かりません。けれど、有能な脳のコンピューターをもってしても心の奥底の願望にまでは手が届かないような気がしています。これは、私の実感なのですが、如何なものでしょうか?主観的現実の何たるかに騙されている限り、身体にも変化は起こってはきません。五感というものを超えた世界も存在するようですが、私はその世界のことにはまだアクセス出来ていません。

自己(self)

2005年10月09日 | 日々の泡
小さい輪の部分は意識の領域です。そのてっぺんにある黒い点が自我です。大きな丸が無意識で、その中央にある黒い点が自己です。自我が意識の中心であるのに対して、自己は意識と無意識を含んだ心の全体性の中心にあります。自己は意識と無意識の統合の機能の中心であり、そのほか、人間の心に存在する対立的な要素、男性的なものと女性的なもの、思考と感情などを統合する中心とも考えられています。ですから、自我よりも自己の方が包括的な存在であるということになります。自我は安定した状態に留まることなく、安定性を崩してまで(さえ)、より高次の統合性へと志向する傾向が人間の心の中には認められるそうです。安定性を突き破ってでも高次の統合性へと導く過程が、私たちの心の中には生じてくるものだそうです。これを個性化の過程(individuation process)あるいは自己実現の過程(self-realization)と呼び、ユングはこれを人生の究極の目的と考えました。このようにして、私たちは苦労を買ってでも成長していこうとする存在なのです。ちなみに、自己実現の欲求とは自らがもつ可能性を最大限に発展させたり、能力や長所を伸ばし、より高みを目指して成長したり、他人の役に立ちたいと欲する欲求のことです。人間の持ちうる欲求の中では、最高次元の欲求となります。(図が分かりづらくて済みません。)

痛みが消失した数分の記憶

2005年10月08日 | 日々の泡
もう5~6年前のことになりますが、数秒間だけ、痛みが一切消失した上に、身体が蕩けてしまうかと思われるほど軽く・楽な時間を、2度ほど体験したことがあって、その感覚が宇宙意識だとの指摘を受けたことがありました。あれ以来、似たような体験が私の身のうちに起こることはまったくありませんでした。ところが、数日前のカイロの治療中に数秒どころか数分間もの間、身体の緊張のすべてが消失するという未知の体感を味わったのです。それを感じたのは私だけなのかと思っていたのですが、施術者である先生の方も、私の身体からすべての余分な力が抜けているのを感じ取られていたそうです。いつも過緊張ぎみの私に、その時、一体何が起こっていたのでしょう?とても不思議な(身体が、何モノにも邪魔されずに、緩んでいるという)感覚でした。普段は常住している首の引きつるような痛みもその時はほとんど消失していたのです。あの数分の間に一体どういう現象が私の身に起こっていたのでしょう?何かが舞い降りてきていたのでしょうか?忘れがたい数分間の記憶です。

作家・村上春樹氏の手法

2005年10月07日 | my favorite・・・
来春までボストン郊外で生活する予定の村上春樹氏が一時帰国していた時のインタビュー記事を目にしました。最新刊の『東京奇譚集』を書き上げる際の手法について語っているくだりを読んで、ブログに投稿する記事を仕上げる時の、私のやり方と同じだと知り、妙に納得するものを感じてしまいました。氏は、今回のこの短編をまとめるについては、「最初、思いつくままに20のキーワードを挙げ、そこから3つずつ選んで」話を作られたそうです。人からもらったキーワードはモノにはならず、(自分自身の中から)自然に浮かんできた言葉から、話はするすると出てくるとのことですが、私の場合は村上氏とは違い、ただの素人ですから、キーワードから、テーマを肉付けしていく方法は同じだとしても、文章全体をするすると書き上げられるなどということはありません。けれど、キーワードから入っていくという方法は、意外なことに、私だけのやり方ではなかったのですネ!私の場合は、キーワードが浮かんでこないと、文章を書き出すことも出来ません。しかも、自分の内部から湧き上がってきたキーワードでなければ使い物にならないという点も一緒です。熟練者にも初心者にも「基本のキの字」においては類似点が多いものなのでしょうね。

たんとうこう(站粧功)の実践

2005年10月06日 | 羅漢気功
瞑想よりももっと自由で形式ばらなくてもいい(と、気功の先生が言われる)「入静」は移動の電車の中などでも、心して行うようにはしています。けれど、極めつけの「たんとうこう」は実際問題として、実践することがなかなか出来ないでいました。何故ならば、続けられないからです。身体がどうしても、その気になれないし、情けないことに、苦しくて続けられないのです。ということは、すなわち心も全くその気になれないということで、気功教室に通い始めて半年以上も経つというのに…手付かずの状態のまま放置していました。けれど、ふと思いついて、数日前に、やってみたら、何と!(まぁ、まだまだ15分がやっとですが…)何とか遣り通すことができたのです。あとは継続ですネ!1日15分を目標に、頑張ろうとしないで…投げ出さずに、続けてみようと思っています。でも、本当に辛いのです。 たんとうこう(站粧功)」に関する以前の記事

意識の7段階

2005年10月05日 | 日々の泡
ヴェーダンタ哲学によると意識には7つのステージがあるのだそうです。私がとてもびっくりしたのは、【熟睡】【夢】【覚醒】が意識の最初の3つの状態だという、(19世紀インドのスリ・オーロビンドという人の)見解をある本で読んだ時です。人類はまだ進化の入り口に立ったばかりなので、この3つの意識状態しか体験していない人間がほとんどだという説には度肝を抜かれました。【睡眠】や【夢】も意識のある段階として認識するという知見には初めて触れたように思います。これら3つの意識の基本状態からさらに進化していける人はほとんどいないそうです。こうした考え方を前提とした7つの意識ステージについてご紹介していきたいと思います。意識の第1ステージは熟睡状態です。熟睡している瞬間も、人間は何かしら知覚を働かせていて、音、明るい光、接触のような刺激には必ず反応するのだそうです。しかし、大抵は感覚は鈍くなり、認識したり、知覚したりすることはほとんどないようです。意識の第2ステージは夢を見ている状態です。夢を見ている間は、熟睡中より眠りが浅くなり、身体も敏感になっています。夢を見ている最中は、夢を現実だと思ったりしていますが、目を覚ませば、夢での出来事が奇妙だと気づきます。意識の第3ステージは覚醒状態です。大多数の人がもっとも多くの時間を過ごしているのがこの段階です。目を覚ましている時の脳の活動は、熟睡中や夢を見ているときとはかなり異なっているとのことです。さあ!これからの段階は私には未知のステージです。意識の第4ステージは魂の姿を垣間見る瞬間に訪れるそうです。日常の意識を超越した時、ほんの一瞬、穏やかで静寂な状態が訪れ、【内面に住む観察者】に気づくのだそうです。瞑想中に訪れるのがこの意識ステージだそうですので、瞑想や気功の訓練を受けたことのない方には、アクセスすることが難しい意識段階なのかもしれません。けれど、瞑想や気功の入り口にいる私でさえも、この意識状態には、例え一瞬であっても到達することが不可能に思えるほど困難な意識状態です。この意識のステージは、一度でもアクセスすることが可能であって、次第に度々、この意識状態を獲得することが習慣となるようであれば、アクセスする度毎にこの意識状態はどんどん拡大していくという特徴があるようです。この段階に入ることが叶うようになれば、生理にも影響が及ぶそうで、コルチゾールやアドレナリンが減少し、ストレスも減っていくそうです。血圧は下がり、免疫機能の向上も見られるようになります。脳の活動も、起きている間の敏感な状態とはかなり異なってくることが証明されています。魂の姿を垣間見ることで、脳と身体のどちらにも生理的な変化が起こるからだそうなのです。(生理的な変化というものは、魂の姿を垣間見る=魂に触れることで起こるものなのですね!知りませんでした!)この意識状態になると、直感が鋭くなり、創造力や洞察力も増すようになります。宇宙意識に到達した時には、たとえサッカーをしていても、脳波は瞑想をしている時と同じ状態になっているそうです。(気功教室ではこのような意識状態を目指しているのかもしれません。)意識の第5ステージは【私がしばしば話題に出す】宇宙意識と呼ばれるものです。【そうだったのですね。宇宙意識とは第5ステージの意識のことだったとは!私が勝手に、宇宙意識と呼んでいた意識段階は実は、第4ステージのことだったので、私の認識が長い間、間違っていたことが、今になっては分かります。←以前、湖南さんにその点をご指摘いただいたことがありました。】この段階になると、自分で【自分のスピリットが】自分の身体を観察出来るようになるのだそうです。自らの状態に気づき、敏感になり、眠っている時でも、熟睡中の自分の身体を眺めることができ、自分が自分のスピリットと一体になると、(私には、これが具体的にはどういう状態になることを指しているのか、まだまったく掴めていないのですが…)熟睡中や夢を見ている時間だけでなく、目覚めている時でも知覚が鋭くなるそうです。どんな行動をしている時でも、その間中ずっと自分のスピリットは自分の精神と身体を観察出来ているのだそうですから、すごい状態に入っているということになりますね。これから次の段階のことに至っては、今までそんな意識状態があるということすら(私などはまったく)知らないできた領域のことです。意識の第6ステージは神の意識と呼ばれているステージのことです。今までの段階よりもさらに意識は覚醒していきます。自分だけではなく、他のすべての存在の中にスピリットを感じられるようになるそうです。動植物の中に感じられるようになるという事実には「まぁ、そうだろうなぁ」と思えますが、岩の中にもだそうです!(だんだん神がかってきました。)宇宙に存在するあらゆるもの、観察者も観察される者も、見る者も見られる者のどちらにも、生命力が表現されていることに気づくのだそうですから、やはり普通の生活者の意識からは程遠いように思えます。この神の意識を持つようになれば、あらゆるものの内面に宿る神の姿が見えてくるのだそうですが、この意識を体現できたのは、キリスト・ブッダのような人(?)たちだけだとのことですから、まず常人が獲得できる意識ではないでしょう!究極の目的である意識の第7ステージは統一意識と呼ばれるものです。(統一教会を連想してしまいますね!)これがいわゆる悟りの境地です。ここでは、生と死を超越した存在になるそうです。けれど、この世界は恐らく、紙一重でどちらに転ぶかは予想もつかない神がかった未知の世界なので、私たち凡人は、こうした世界のことは考えなくていいと、(むしろ考えない方がいい…と)私は思っています。せめて、宇宙意識を時々感じることが出来れば、もうそれだけで十分なのではないでしょうか?とても難しい意識状態のお話でした。本当にそんな意識の状態がありうるのかどうかは私には分かりませんし、とても恐くて、そうした意識状態に到達したいと考えていいのかどうかさえも分かりません。(考えてみても実際にそんな境地には至れっこないから安心ですけれど…)ただ、自分で自分の心身の状態を静かに見つめられるような意識状態をは是非とも獲得したというのは偽らざる悲願です。せめて、意識の第4ステージ位は目指したいからこそ、私は今日も、気功に励んでいるのだと思います。

韓流ブームの終焉

2005年10月04日 | my favorite・・・
私が「冬のソナタ」を始めて観たのは、(2年前のことでしょうか?)クリスマスから暮れにかけての遅い時間帯を選んでの、地上波でのアンコール放送の時でした。だからこそ、冬景色をふんだんに使いつつ盛り上がっていくドラマの内容と冬の季節感が無理なく自然にリンクして、ドラマを観る者の気持ちも、いやがうえにも盛り上がっていったのだと思っています。もちろん、チェ・ジウやペ・ヨンジュンの東洋的で清潔な魅力と共に、初めて観る韓国ドラマの斬新さに釘付けになったことは言うでもありません。期せずして、数々の(?)影の演出が大きく機能していたのだと思います。もう一つ、忘れてはならないものに心に染み入る数々のテーマ曲の存在があります。今や「冬のソナタ」のテーマ曲を知らない人はいないほどに、あの曲が流れると共に、私たちはユジンやチュンサンの人を思う心根の深さを心の映像に重ね合わせるほどになっています。けれども、「冬のソナタ」をきかっけに、あれほどまでに日本中を席巻した韓流ブームも、夏の終わりと共に、一部の熱狂的なファンの声援を除いては、ブームの終わりが忍び寄ってきている最近の気配です。少なくとも移り変わりや乗り降りの激しいテレビ界では、もう名だたる韓国ドラマの放送は一通り終了してしまったようで、一部の放送を除いては、韓流も、一挙にひとまずは撤退…ということになりそうです。いくら人気が突然、沸騰したからといって、民放では、朝やお昼の時間帯に毎日、しかも二話連続放送という出血大売出しのようなやり方で、一挙大放出の放送をしていましたが、私は、そのあまりあからさまなやり方に気分の悪くなるような、腹立たしい思いしか抱けませんでした。そんな時間帯に一体誰が、それらの作品を観るというのでしょうか?例え、ビデオに録画しておいても、そんなに膨大な映像を、毎日毎日、繰り返しビデオ鑑賞するなどということは、ごく一部の人にとっても、なかなか出来ない相談です。そんなやり方は文化への冒涜だと思ってしまいました。それでも、ニーズがあったのか?名の売れた作品は毎日毎日、有り難味もなく流され続けて、挙句の果てには、あらかたの、有名な韓国ドラマは放送され尽してしまうという結末を迎えました。いくら韓流ブームが過熱気味だったとはいえ、メディアが作品や俳優たちを大切にする態度を忘れて、人気に乗じて、作品を消費することだけにあくせくするとしたら、どんなブームもたちどころに使い古されて、忘れられたものとなってしまうでしょう。私にはそうとしか思えませんでした。本当に大切にしたいものなら、欲にかられる態度を排して、大事に扱う姿勢を持たなければ嘘だと思います。終わるブームなら終わるのが宿命ですから、それはそれで仕方のないことですが、マスコミの開き直り方には本当にびっくりしてしまいます。これからは、韓流は奔流のようなブームの終焉と共に、マニアックな世界のものになっていくのかもしれません。だからこそ、来年1月から、TBSで始まるチェ・ジウ主演のドラマを本当に期待したいし、チェ・ジウには是非、本物の女優として本国はもちろんのこと、日本においても、これからもますます素敵に輝きながら、生き残っていって欲しいと思っています。★話題は突然変わって恐縮ですが、ヨン様の最新映画について、(実際のところは分かりませんが)随分辛口の記事も載っていました。ヨン様の記事はこちら…