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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

『パラダイム』の急速な移り変わり★…★物事はメルヘンのように想像(創造)していこう!!

2005年10月03日 | 日々の泡
研究会代々木ゼミナールの校舎の一室をお借りして、年に5回ほど開催されている研究会です。守秘義務を課せられている臨床家であることが参加要件となっています。研究会が開催される度毎に、神田橋先生は遠路はるばる九州から上京してくださっています。

先日の「花クリニック神田橋研究会」での、神田橋先生のレクチャーがとても刺激的だったために、私の硬直しきった脳でも、忙しく動き始め、さまざまな啓発を受けましたので、記憶に残った内容を書き記してみたいと思います。①どの世界や分野においても、パラダイムの急激かつ急速な転換が起こっているそうですが、臨床の現場には必ず、【身体】というものの存在が付きまといますので、文学評論等の場合のように言葉や概念だけで、変化を語るわけにはいかない事情が生じるため、臨床におけるパラダイムの変化を概念だけで語ることには何の意味もなく、常に身体との整合性に矛盾がない枠組みや内容が問われることになる…というコメントから一連のお話が始まりました。②「生命体はメスからメスに繋がってきている。オスはその周りを飛び交っている儚い存在に過ぎない。すべてのことはメスが動かしている。」というような内容を詳細に説明している「マザー・ネイチャー」という膨大な研究書があるそうです。個人的には、とても読む気にはなれませんし、そうした研究書には興味もありませんが、(でも、「マザー・ネイチャー」は、とても読み応えのある良書のようです。)何故こうした話題に触れたかについては、次の神田橋先生の珍説をご紹介する際に、前段として、「ヒトの生物学的な特質」というものは通常、このように(男女の結びつきは、種の保存という本能的使命の前提の基に行われている。)理解されていることが一般的な常識であるということを、まず、お伝えする必要があったかったからです。マザー・ネイチャー 
③ここからが、今回の話題の本題です。ヒトにとっても、他の種にとっても、種族を残していくという営みが、これまでは疑う余地もないほどの本能的な至上命令であったわけですが、どうも、そうした特質が、何らかの理由で、常識を超越して(すなわちヒトとしての飛躍的な進化が進み…)きていることの一つの現れが「援助交際」などという現象として起こっているのではないか?という珍説です。文化の発展のために、こうしたことが現象してくることは【進歩】という言い方で考えることも出来るのではないか?【食べ吐き】も精神的安定のために食品が使われている行為だとも言える…などという発想に、次から次へと繋がっていくのです。面白い!などという言い方をしたら、きっと大顰蹙だとは思いますが、ある現象を批判や非難の視点だけで眺めていても、それは単に、【正しいけれど、正しいだけで何の役にも立たない】評論に過ぎなくなってしまう…という気がしますし、神田橋先生も、よく「正しいということは正しいに過ぎないということ以上の何の利得もない。」と言われます。物事の現象面を批判ばかりしていると、そうした態度が習性になってしまいますので、裏に隠されている(潜んでいる)物事の本質を見抜いたり理解したりする能力が徐々に制限されていくような気もするのですが、どうなんでしょうか?顰蹙を買ってでも、視点をずらして、物事を捉え直してみると…見えないものが見えてくることがあると思いました。④そこで、次にこんな質問が出たのです。「最近の青少年には男らしさというものが欠けてきている。男性が中性的になってきている気がするが、先生はどうお考えになりますか?」最近の青少年はもはや「男らしさ」などという特質について、それが自分に欠けているからといって悩んだりはしないそうです。むしろ笑いが取れない!というようなことが悩みの種になったりするのだそうです。先生の説明はこうでした。①のパラダイムの移り変わりのテーマがここで再登場します。もはや「男らしさ・女らしさ」というパラダイムそのものが崩れてきている。男らしさというものを測る尺度自体が古臭くて使えなくなってきている。すなはち、尺度そのものが、すでに、形骸化した過去の遺物になってきてしまっているということです。正しいことばかりを考えているようでは全然ダメ…一つのメルヘンのように、物事を想像(創造)していくようでなければ…との回答でした。今までは、先生のお話しは、私には難しすぎて、気がつくと、内容が一歩も二歩も先に進んでいるというような状況が多かったのですが、今回は、一つ一つのテーマに気持ちが鷲掴みにされるような感覚を覚えながら、脳が忙しく、自分の問題として回転していくことを楽しんでいました。今までの私は、目を開けながら、頭は眠っている…そんな状態にあったのかもしれません。覚醒したとは言いませんが、先生のお話が分かるようになってきていることに、(もちろん自分なりに…という範囲を一歩も出ることは出来ませんが)我ながら驚いていました。

78年生まれの女性と70歳の男性の【何とも…味わい深い!!】★☆とある一日のデート紀行

2005年10月02日 | my favorite・・・
朝日新聞の土曜日の朝刊の『be』に、10月から新しく、山崎ナオコーラさんの【指先からソーダ】というコラムエッセーが連載されることになりました。そこに書かれてあった記事があまりにもステキだったので、このブログを見てくださる方にも、その記事を是非、読んでいただきたくてリンクを貼ってみました。ナオコーラさんが書かれた『人のセックスを笑うな』という小説は、以前に図書館で借りて読んだことがありますが、題名のわりには内容はスタンダードで、私には、おとなしい小説にすら感じられました。でも、『be』の連載記事を読むと、ナオコーラさんはなかなかユニークでステキな女性なんだなぁと実感させられ、改めて、「遠くから観察してみたい!」と思ってしまうほどの興味と関心をかきたてられたのです。川上弘美氏の著作『センセイの鞄』の中に登場する、私の大好きな女性主人公のツキコさんを思い出しています。ナオコーラさんはきっとツキコさんみたいな女性のような気がします。これからの記事がどのように展開していくのかがとても楽しみです。 指先からソーダ

祇園囃子

2005年10月01日 | my favorite・・・
静かな衝撃が今も心を揺さぶっています。倉本聰ドラマスペシャル「祇園囃子」は独特の不思議な切なさに胸が締め付けられるようでもあり、じみじみとした何かが心に深く沁みいるようでもある、そんなドラマでした。喩えてみれば、値段をつけることが不可能な骨董品に出会ったような感じ…とでも表現できるかもしれません。渡哲也・舘ひろし・十朱幸代・神田正輝といった俳優陣の円熟した余裕に満ちた演技が観る者の鑑賞に十二分に耐え得るものであったことは言うまでもありませんが、私の心に強烈な印象を残したのは、藤原紀香・徳重聡・仲村トオルの3人の存在感とそれぞれの個性に応じた演技でした。仲村トオルはバーテンダーとして、ほとんど台詞もなしにそこに居るだけの役柄でしたが、(だからこそ却って、静かな主張を表現するための演技にかなりの難しさが要求されたことと思います。)こんなチョイ役にさえ、主役をはれる役者さんを配しているのですから、いかに贅沢なドラマかが分かっていただけると思います。徳重聡は石原軍団に大事に育てられているだけあって、視線をずらす時の目の動かし方一つで、複雑な心理描写を物語る造形力を身につけていました。役者も言葉では多くを語りませんし、物語自体にもナレーションがつけられているわけでもないのですが、これは確信的な演出だと思いました。このように、余分な説明は排されていますから、語られない余白や説明の省かれている部分は観ている側が想像力を膨らませて、自分で物語を滑らかにつないでいかなければなりません。渋さが目立つドラマ全体の雰囲気の中で、落ち着いた華やかさと共に、節度のきいた清潔感のある若々しさを醸し出すことに成功した点では藤原紀香が出色でした。彼女の京都弁は爽やかな色気を含んでいながらも、さっぱりと凛々しく、京女の立ち姿(立ち居振る舞い)を見事に表現してくれていました。自分の父親が誰かということすらも知らされていない境遇を生きていながらも、真っ直ぐに伸びきった竹のようなすがすがしさをたおやかに美しく演じきってくれていました。このドラマを見逃された方は、せめて、番組のホームページでその雰囲気を味わってみてください。近い将来、必ず再放送があるはずです。祇園囃子