


先日の「花クリニック神田橋研究会」での、神田橋先生のレクチャーがとても刺激的だったために、私の硬直しきった脳でも、忙しく動き始め、さまざまな啓発を受けましたので、記憶に残った内容を書き記してみたいと思います。①どの世界や分野においても、パラダイムの急激かつ急速な転換が起こっているそうですが、臨床の現場には必ず、【身体】というものの存在が付きまといますので、文学評論等の場合のように言葉や概念だけで、変化を語るわけにはいかない事情が生じるため、臨床におけるパラダイムの変化を概念だけで語ることには何の意味もなく、常に身体との整合性に矛盾がない枠組みや内容が問われることになる…というコメントから一連のお話が始まりました。②「生命体はメスからメスに繋がってきている。オスはその周りを飛び交っている儚い存在に過ぎない。すべてのことはメスが動かしている。」というような内容を詳細に説明している「マザー・ネイチャー」という膨大な研究書があるそうです。個人的には、とても読む気にはなれませんし、そうした研究書には興味もありませんが、(でも、「マザー・ネイチャー」は、とても読み応えのある良書のようです。)何故こうした話題に触れたかについては、次の神田橋先生の珍説をご紹介する際に、前段として、「ヒトの生物学的な特質」というものは通常、このように(男女の結びつきは、種の保存という本能的使命の前提の基に行われている。)理解されていることが一般的な常識であるということを、まず、お伝えする必要があったかったからです。マザー・ネイチャー
③ここからが、今回の話題の本題です。ヒトにとっても、他の種にとっても、種族を残していくという営みが、これまでは疑う余地もないほどの本能的な至上命令であったわけですが、どうも、そうした特質が、何らかの理由で、常識を超越して(すなわちヒトとしての飛躍的な進化が進み…)きていることの一つの現れが「援助交際」などという現象として起こっているのではないか?という珍説です。文化の発展のために、こうしたことが現象してくることは【進歩】という言い方で考えることも出来るのではないか?【食べ吐き】も精神的安定のために食品が使われている行為だとも言える…などという発想に、次から次へと繋がっていくのです。面白い!などという言い方をしたら、きっと大顰蹙だとは思いますが、ある現象を批判や非難の視点だけで眺めていても、それは単に、【正しいけれど、正しいだけで何の役にも立たない】評論に過ぎなくなってしまう…という気がしますし、神田橋先生も、よく「正しいということは正しいに過ぎないということ以上の何の利得もない。」と言われます。物事の現象面を批判ばかりしていると、そうした態度が習性になってしまいますので、裏に隠されている(潜んでいる)物事の本質を見抜いたり理解したりする能力が徐々に制限されていくような気もするのですが、どうなんでしょうか?顰蹙を買ってでも、視点をずらして、物事を捉え直してみると…見えないものが見えてくることがあると思いました。④そこで、次にこんな質問が出たのです。「最近の青少年には男らしさというものが欠けてきている。男性が中性的になってきている気がするが、先生はどうお考えになりますか?」最近の青少年はもはや「男らしさ」などという特質について、それが自分に欠けているからといって悩んだりはしないそうです。むしろ笑いが取れない!というようなことが悩みの種になったりするのだそうです。先生の説明はこうでした。①のパラダイムの移り変わりのテーマがここで再登場します。もはや「男らしさ・女らしさ」というパラダイムそのものが崩れてきている。男らしさというものを測る尺度自体が古臭くて使えなくなってきている。すなはち、尺度そのものが、すでに、形骸化した過去の遺物になってきてしまっているということです。正しいことばかりを考えているようでは全然ダメ…一つのメルヘンのように、物事を想像(創造)していくようでなければ…との回答でした。今までは、先生のお話しは、私には難しすぎて、気がつくと、内容が一歩も二歩も先に進んでいるというような状況が多かったのですが、今回は、一つ一つのテーマに気持ちが鷲掴みにされるような感覚を覚えながら、脳が忙しく、自分の問題として回転していくことを楽しんでいました。今までの私は、目を開けながら、頭は眠っている…そんな状態にあったのかもしれません。覚醒したとは言いませんが、先生のお話が分かるようになってきていることに、(もちろん自分なりに…という範囲を一歩も出ることは出来ませんが)我ながら驚いていました。