
主観的な現実は、その個人の思考・感情・情緒・欲望・想像・空想・記憶、最も深い願望として存在しているものだそうです。客観的な現実とは、目に見えるその個人の物理的身体であり、五感で経験する世界のことだそうです。この現実はどちらも、同時に、互いに依存しつつ存在しています。ここからは、私独自の考え方ですので、全く当てにならないものではありますが、主観的現実というものが、その個人を形作っていくものだとしたら、いくら主観が大事だと言っても、「私はこう感じる。」ということを一度は相当に疑ってみてもいいと思っています。というより、疑ってみないと危ないとさえ思っています。「私が感じている」ことの内容の信憑性というものはかなり疑わしいものだからです。私の考えと信じているものが、本当に、私の考えかどうかなんて本当は分かりません。どこかで聞いて来たことを、まるで自分の信念であるかのように信じているだけなのかもしれないのです。私の経験では、思考・感情・情緒・欲望・想像・空想・記憶というようなものは脳のコンピューターの機能不全を通して(あるいは、あまりにも有能すぎる機能を通して)、巧みに捏造・改竄されている危険性に満ち満ちているものだということを知ったからです。(これは観念として知ったのではなく、身を切るような痛みとして体験したのです。)私が、唯一、信じてもいいと思えるものは、心の深い部分に横たわっている願望だけです。「私の願望」に嘘はない。願望には何人たりとも手を加える事は出来ないというのが、私の現段階での考えなのですが、これとても本当のところはよく分かりません。けれど、有能な脳のコンピューターをもってしても心の奥底の願望にまでは手が届かないような気がしています。これは、私の実感なのですが、如何なものでしょうか?主観的現実の何たるかに騙されている限り、身体にも変化は起こってはきません。五感というものを超えた世界も存在するようですが、私はその世界のことにはまだアクセス出来ていません。
事実は、ズバリ事象そのものです。(Rayさんが言うところの客観的な現実と同じような意味だと思います。)
真実は、真意つまり人を介し、人の思惑が加わった、事実をとある角度から分析し得た姿です。(Rayさんの言う主観的な現実と同じようなものでしょうか。)
外界からの情報により影響を受け、主観的現実が歪められてしまっているとしても、それも真実なんだと思います。
だから、そのまま受け止めるべきものだと思うのです。
事実(客観的現実)と大きく異なる真実(主観的現実)が存在するには、何か意味があるはずなのです。
そこを探ってみましょう!お手伝いしますよ。
それと、Rayさんの魂は外界の影響を直接、受けることなく、凛としてそこにあります。
表面の感情や思考や欲望などが影響を受け、常にカタチを変えようとも、変わらずにあるのです。
だから、何も心配することなどないと思います。
>それと、Rayさんの魂は外界の影響を直接、受けることなく、凛としてそこにあります。表面の感情や思考や欲望などが影響を受け、常にカタチを変えようとも、変わらずにあるのです。だから、何も心配することなどないと思います。
このことは、私だけのことではなく、万人に共通の事実および真実を語ってくださっているのですよね。Blissさんの言われることはその通りだと分かってはいるのですが、そして、「本当に有り難う!」とお礼も言いたいのですが、この言葉でほっとするには、私はあまりにも弱すぎます。よくダメになってしまわないと不思議なほど、今日も、昨日も、そして明日も、私はきっと弱いだけの人間なのです。昔から、「強くなりたい!」と願って生きてきました。でもそれはいつまでも、目の前にぶら下がっているだけで、手の届かないお札のようなものなのです。こんな私でも、本当に手を貸してくださいますか?
主観的現実も、長い時間をかけて融かしがたい強度を持ってしまっているのかも知れません。でも、どんなに固くなってしまっていても、融けないことはありません。
頭でっかちになっている人には、経験が必要です。
頭で結果を勝手に予測し、その暗示の網に自らかかり、どうしようもない深みにはまって行くのです。
予測しないこと、或いは予測を裏切られること。そういう経験をすることが必要です。
やはり思考と感情の束縛から解き放たれる必要がありますね・・・作戦を立てましょう。