千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

流山市の戦争遺跡1(流山糧秣廠)

2007-08-19 | 流山市の戦争遺跡
あまり知られていないが、流山市にも陸軍の大規模な糧秣廠(兵員や軍馬の食糧を保管、供給する軍の施設)があった。場所は、現在の総武流山電鉄の平和台駅の南西にあたる。終戦時の正式名称は陸軍糧秣本廠流山出張所というが、馬糧すなわち軍馬の糧秣を保管、供給することを任務としていた。その敷地は、南北約350m、東西は上底約260m、下底約390mの台形をなしており、終戦後は北側はキッコーマンの倉庫群(現在はイトーヨーカドー)、南側は住宅や学校敷地となって、出張所というイメージと異なる広い敷地を持っていた。

<1974年当時の航空写真にみる流山糧秣廠跡>

(なお航空写真は国土交通省の1974年撮影のもの、着色・字入れは筆者)

もとは陸軍馬糧倉庫として東京本所錦糸堀にあったのだが、付近に人家が増え、火災の危険もあるとのことで、1922年(大正11年)に本所秣倉庫移転が起案され、移転先として流山が選ばれた。なぜ、流山かといえば、千葉・茨城という干草原料の生産地をひかえ、江戸川の水運も利用できるという交通の利便性や、比較的東京に近いという地理的条件もあった。実際に流山で開庁したのは、1925年(大正14年)である。「秣倉庫移転」ということで開設されたが、当初からここで馬糧製造も役割として含まれており、「秣倉庫」という名称の業務の内容は少しく異なっていた。

<キッコーマンが建てた「流山糧秣廠跡」の碑>


なお、1941年(昭和16年)当時の設備は、倉庫が20あったほか、携帯馬糧工場、圧搾梱包工場、事務室、秤貫所、守衛所などがあった。変わったところでは、敷地内に保育所があり、当時としては珍しく福利厚生に対する配慮がみられた。また、水路や、引込線も設けられていた。この引込線については、今でもかすかにその名残をみることができる。さらに、千草稲荷が敷地内にあり、朝礼などの儀式は千草稲荷の前で行われた。

ここで働いていた人員は開庁時33名であったが、終戦当時は513名で、所長以下10名ほどの軍人と技術者、監督者などである少人数の軍属以外は、大多数の民間人からなる職員たちであった。

ここでは馬糧製造、貯蔵や干草の加工などを行ない、糧秣を近衛第一師団隷下の各部隊や宮内省警視庁に供給した。また、1933年(昭和8年)頃には、馬糧に関する各種の試験が行われ、糧秣の研究開発、生産という役割を中心を流山糧秣廠が担っていたことが分かる。

<現在の千草稲荷>


原料である干草の納入元は、関東、中部で、最も遠い納入元は甲府だったという。その運搬には流山鉄道や常磐線だけでなく、江戸川の水運も利用された。糧秣本廠東京出張所(芝浦)への糧秣の供給は、江戸川の水運が用いられたが、各部隊への供給には鉄道が主に用いられたようである。江戸川の水運を使った輸送では、現・流山5丁目地先の江戸川河畔の流山揚水機場が利用され、そこには「ガラガラ」と称される架空輸送機があって、原料である干草を荷揚し、トロッコに載せるなど、舟運の荷役に用いられた。

なお、敗戦後は、残務整理していた80名ほどの職員ともども、流山糧秣廠の設備、敷地は運輸省(国鉄)に移管された。そして鉄道用品庫として利用されていたが、1952年(昭和27年)3月の国鉄改革後は大蔵省の所管となり、キッコーマンといった民間会社などに払い下げられた。
こうして昭和50年代までは、キッコーマンの倉庫などとして、かつての流山糧秣廠の倉庫が残っていたが、キッコーマンなどが移転したあとは大型スーパー(イトーヨカドー)などの建物が建っており、かつての面影はない。

<道路と少しずれているが、引込線跡>


付記:
流山糧秣廠の引込線が柏陸軍飛行場の辺りまで続いていたという話とか、終戦前に糧秣本廠から持ち込まれた「特殊物品」の話、また流山にあったという慰安所などについては、今回調査しきれずに記載していない。もし分れば後日追記したい。

参考文献 『流山糧秣廠』 流山市立博物館 (1996)


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28 コメント

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柏飛行場の鉄道計画 (伊 謄)
2008-01-27 10:13:06
 森さん、はじめまして。
 文末に記されていた「流山糧秣廠の引込線が柏陸軍飛行場の辺りまで続いていたという話」なんですが、『柏のむかし』に東武野田線の運河駅から柏陸軍飛行場の間に敷こうとした専用線の話はあるので、それが間違って伝わっているのではないでしょうか。
 糧秣廠と飛行場では何ら関係ありませんし、線形が悪すぎます。運河からなら比較的平坦ですが、流山からは勾配や距離もあります。
 あるいは、これも『柏のむかし』にありますが、筑波高速度電気鉄道の計画が話を混乱させているのかもしれません。昭和初期の話ですから、地元に鉄道の話が残っていてもおかしくはなく、鉄道を敷こうとした話が軍用鉄道を敷こうとした話にすりかわってしまうこともあり得るでしょう。
 ともかくも、この部分にはあまりエネルギーを割かれずにいいと思います。
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Unknown (森兵男)
2008-02-03 17:55:19
伊謄さん、コメントありがとうございます。
本件、ある柏の人から聞いた情報だったのですが、その人も確証はないようでした。
仰るとおりなのかもしれません。
柏市の学芸員さんにも聞いたのですが、もともとその方は考古学がご専門ということもあり、はっきりしませんでした。ただし、高射砲陣地のある辺りには、学校の敷地内ですが、線路跡らしきものがあったと言っていました。
また何か分かれば、記事にしていきたいと思います。
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線路跡=トロッコでは (伊 謄)
2008-02-04 23:18:59
 森さん、こんにちは。
 高射砲陣地で線路跡とすればトロッコの可能性が大でしょうね。
 柏飛行場への専用線計画ですが、一部は土地の買収が行われたかもしれません。そうすると地籍図には鉄道用地のような区切りが見られるかもしれません。この地籍図の利用は、鉄道連隊演習線の痕跡を探ったときに使ったことがあり、その時は効果がありました。

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Unknown (森兵男)
2008-02-07 07:16:33
コメントありがとうございます。
そういえば、柏の学芸員の人は陸軍飛行場と高射砲陣地のあった高野台では土地の高低差があるので、つながっていたかどうか分からないと言っていました。陸軍飛行場のあった柏の葉には何度も行っていますが、高射砲のほうは、2,3回しか行っておらず、また調べてみます。
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Unknown (Unknown)
2008-06-06 00:32:27
糧秣廠後の片隅、又現流山街道沿いに、不可思議な「場所」「物」があることをご存知でしょうか。
「特別」な「物品」とは何だったのでしょうか。
因みに、柏飛行場跡の近くに、「過酸化水素」の地下貯蔵庫跡のコンクリート製のパイプが、現在も残されています。
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糧秣廠跡 (森兵男)
2008-06-10 06:02:50
糧秣廠跡、流山街道沿いにの不可思議な「場所」「物」とは引き込み線の線路跡でしょうか。現存する遺構としては千草稲荷くらいしか、思い浮かびません。
終戦間際に糧秣廠に持ち込まれた「特殊物品」は貴金属ですが、それがどうなったか調べようとしています。この辺はなかなか難しいです。慰安所は朝鮮の人の強制連行の一覧のなかにあるので、本当にあったのでしょうが、知る人が殆どおらず、よく分かりません。
それから、柏飛行場跡の近くに、「過酸化水素」の地下貯蔵庫跡のコンクリート製のパイプが現存するとはどこのことでしょうか。大室、花野井には今の地下燃料貯蔵庫跡があります。十余二にもあったらしいのですが、そのことでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2008-08-03 22:45:15
改めて調べたところ、現在人の目に顕現化しているのは花野井の東急ニュータウン内の更地を中心に残るものだけになっているようです。十余二のもの未だに未発見なので、ガセ、かも知れません。この点、お詫び申し上げます。現状で「過酸化水素貯蔵庫跡」とされているのは、花野井のものが一番確実です。私が足で稼ぐより、氏の方が事実に近かった。素直に感銘いたすところです。さて、花野井に過酸化水素貯蔵庫はあった、これは他の複数の方が証言しているところですが、今ひとつの「水化ヒドラジン」なる危険物は、一体何処に貯蔵されていたのでしょうか。
流山街道を「木」の交差点から現イトーヨーカドー辺りまで、線路の存在する側のみに、「野田方面に向かって右側」のみに点在する不思議な土地と装置。トロッコ説もある柏飛行場への糧秣省からのダイレクト・ライン説。共に扱い難い両主液長期貯蔵は、当然近くに貯蔵する筈はない。少なくとも、B-29編隊の3~4航過の爆撃程度なら耐えうる距離は保たれた、と考えるべきでしょう。
因みに、「水化ヒドラジン」は、過酸化水素と異なり、生成されると「極めて安定した物質」であるそうです。そのため、残ってしまった物質は機械的に制御され、定期的に点検やメンテナンスを受けていると思われます。第一波出撃後、第3波出撃までに間に合う量を山中に隠れて輸送する…。戦時下ならば、無茶も発案されそうな気がするのですが…。
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流山と柏飛行場の間 (森兵男)
2008-08-09 08:25:28
森兵男です。

書き込みをなされた方、小生も流山糧秣廠と柏飛行場との間で何らかの輸送経路があったかどうか興味があります。いろいろ分からないことが多く、なんともコメント致しかねるのですが、ぼつぼつ調査していこうと思っています。
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運河からの引き込み線 (『流山糧秣廠』関係者)
2008-08-30 06:14:44
昭和23年頃に アメリカ軍が撮影した航空写真に その痕跡らしきものを見ることができます。
この航空写真は 国土地理院の基礎ともなっている 測量用の航空写真ですので 信憑性は高いですよ
その写真に寄れば 江戸川台東4丁目の7号公園付近で 明らかに鉄道の曲線的に 道が造られています。
この道は 後年の航空写真と比較することによって ある程度の位置が特定できます
具体的には 江戸川台東4丁目の7号公園から 東へ一直線に 柏市のみどり台へ向かう道で、 7号公園付近と野田線を結ぶように 曲線的な道が写っています
その規模から見ると トロッコではなく 普通鉄道のようです

航空基地に輸送するには 同じ鉄道規格で貨車毎引き込むのが普通ですし 野田線との分岐点付近には 貨車を滞留するヤードが見られません
トロッコとすれば 線路規格が全く異なりますから 当時の駅である運河か初石から 別線を敷設しなければ なりません しかし、航空写真には野田線の線路以外には見られません(写真解析をした結果です)

防衛庁戦史部の古文書群を精査した結果、少なくても昭和18年までは 糧秣廠と柏飛行場での輸送連絡は存在していません

昭和19年になって 錦糸町の糧秣本廠の一部が 流山糧秣廠へ業務疎開してきますが 当時の庶務主任をしていた方々からの聞き取りでも 柏飛行場への直接搬入は無かった旨の証言を得ています。
さらに軍の命令系統からすれば 錦糸町の糧秣本廠の命令以外、流山糧秣廠は行動することができませんし、流山糧秣廠への搬出入の経路は流鉄からの引き込み線と 江戸川舟運、一部地域でのトラックと定められていますので 恒常的な柏飛行場との連絡経路は無かったことになります。
軍の記録は無いようでいて 膨大な量が残されており そのほとんどが法令ですので 先ずはその法令を精査することによって 陸軍航空隊と 糧秣補給とが直接結びつくことが明快に理解できます。
軍事史研究では 法令を理解していることが出発点になりますので 先ずは各施設毎に定められた法令を確認することから始めて下さいね
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『流山糧秣廠』関係者 (糧秣廠の倉庫)
2008-08-30 06:41:40
上記とは別に 流山糧秣廠の倉庫の話です
『流山糧秣廠』の刊行後の調査で 大正14年(開設当初)の倉庫と、昭和20年(業務疎開のために増築)した倉庫が 各1棟づつ残っていることを確認しました

場所は このページのトップにある写真で言うと 流山南高校の南側で キッコーマンの配送倉庫になっているところです

勿論倉庫は 多くが緑色のビニールテント形式なのですが その中で当時の建物が移築されていたのです

倉庫の大きさは 1棟 300坪 無柱で 外側から見るとつっかえ棒が 多数刺さっているように見えますが これは柱を斜めにして 屋内に柱を立てない建築方法でした

現在は敷地の南側にあるため 斜め柱を切り取り、屋内に鉄柱を立てて使用していますが 外板のトタンや 屋内の壁板 明かり取りの天窓などは 建築当初のモノに間違いないようです

具体的な場所は 県道松戸・野田線から東へ入る細道の際で 流山南高校敷地(糧秣廠の南端)道路より 南側(松戸より)の道ですので 確認してみて下さい

なお、敷地外からは自由に見ることができますが 敷地内に入るには守衛室に申し出ますが 場合によっては キッコーマンの許可が必要になるかも知れません
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