千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

佐倉市の戦争遺跡3(西志津の戦車壕)

2007-12-05 | 佐倉市の戦争遺跡
明治初年、当時の陸軍はフランスから招聘したルボン砲兵大尉の指導のもと、佐倉藩の「火業所」を拡充し、砲兵の演習場とすることを計画、実施した。それは、射場(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場としたものである。このように、現在の千葉県佐倉市下志津原には1886年(明治19年)に開設された陸軍砲兵射的学校を中心に陸軍演習場(射的場とも呼ばれた)があって、南の四街道市(1897年:明治30年に陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校と改称、移転)とあわせて砲兵のメッカであった。陸軍砲兵射的学校の跡地には、「日本砲兵揺籃の地」という藤江恵輔陸軍大将の立派な揮毫による石碑がある。これは戦争遺跡について書いた書物やHPでも取りあげられ、知るひとぞ知るものになっている。そのかげに隠れているが、下志津原を西にバス通りを進んだ西志津にも戦争遺跡がある。

<陸軍砲兵射的学校の碑>




それは戦車壕の跡。ちょうど西志津小学校の裏手にある公園に、その跡が残っているが、以前はその付近一帯にあったらしい。小生、その場所がなかなか分らず、コンビニの店員さん、付近の主婦の方お二人と、近隣の人に聞きながらたどり着いた。その前に行った陸軍砲兵射的学校の碑についても、タクシーの運転手にテニスコートまでと言ったにも関わらず、離れた場所で下されたため、農作業をしていた農家の方に聞いて、なんとかたどり着いたのだが、それはともかく。
その壕とは、1mほどの高さに土盛され、その頂上から深さ2.5mほどの穴が掘られた長方形の壕であったらしいが、現存するものは穴はふさがれてしまい、ちょうど公園の築山のようになっている。その周辺は「芋窪」という地名で、その名の通り、芋がとれるような農地もあったのか分らないが、現在の西志津8丁目南端の台地上で開発前は山林だったという。しかし、その面影はなく、今では瀟洒な住宅が建ち並んでいる。その公園も、「芋窪」の名を冠しているが、新興住宅地によくある公園にしか見えない。つい最近(2007年12月2日)、この地に来たが、楓の紅葉が美しかった。ここが、戦車壕のあった場所というのも、立札もなく、おそらく住民の方も知らないのではないか。

<戦車壕跡~北から見た>


<戦車壕跡~南から見た>


なお、その戦車壕を使った訓練は、千葉穴川の陸軍戦車学校(元は習志野にあったが移転、1940年には千葉陸軍戦車学校と改称)、あるいは習志野の戦車第二連隊(1933年に千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊が発展改組)が行っていたようである。その戦車第二連隊の母体と成った千葉陸軍歩兵学校はわずかに裏門跡の遺構と記念碑があるが、穴川の千葉陸軍戦車学校は遺構とて残っていない。習志野の戦車第二連隊は、元々騎兵第十四連隊が駐屯していた場所に、騎兵第十四連隊が出て行ってから入ったが、現在は日大生産工学部の敷地になっている。その戦車第二連隊の碑が、日大生産工学部にあり、許可を得て立ち入り、写真も撮らせてもらった。

<日大生産工学部正門>


<日大生産工学部にある戦車第二連隊の碑>


ちなみに、その碑文は以下。連隊の連の字が旧字体になっているが、原文のままとした。開設から終戦にいたる経緯が割合簡潔に書かれている。

「戦車第二聯隊の跡

 戦車第二聯隊は昭和八年八月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第十四聯隊駐屯の跡に移駐した。その教育部に、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
 昭和十二年七月動員下命、聯隊の主力は北支に出動、保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。十三年七月、部隊は戦車第八聯隊に改編され、中原会戦、満州・北支警備等の後、十七年秋、南海のラバウルへ転進した。
 戦車第二聯隊は昭和十三年七月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。十六年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。分遣された第一中隊はビルマ、第四中隊はガタルカナルに於て悪戦苦闘した。聯隊は十七年秋習志野に帰還した。
 この間、習志野で編成した戦車第四大隊は昭和九年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は十一年天津に、戦車第十七聯隊は十七年綏遠省平地泉、独立戦車第七・第八中隊は十九年夏フィリッピンに派遣された。
 河野第七中隊はレイテ島に、岩下第八中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
 戦局緊迫するや、動員令により戦車第二聯隊は昭和十九年相模地区に移動、その補充隊は二十年四月新たに六個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、八月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。

    昭和六十三年八月一日 戦車第二聯隊会 」

戦争遺跡をめぐって困るのは、それが書かれた文献などはあっても、場所を正確に分りやすく書いたものが少ないこと。最近では、タクシーの運転手もよく道を知らず、乗ってから「しまった」と思うこともしばしば。そういう場合は、地元に長年住んでいそうな農家の人や商店の人に聞くしかない。今回、佐倉市志津方面を訪ね、一部その内容は、「佐倉市の戦争遺跡2」に載せたが、結構色々な人に道を聞いたり、お寺では西南戦争の戦死者の墓の場所を教わったりした。皆、親切に教えていただき、大変お世話になった。そういう人たちが、このHPを見ているとも思えないが、改めて感謝申し上げる。


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
素晴らしい (村恵)
2009-06-27 17:51:43
後世へ残る資料と思います
これからの人々のために残さなければならないと思います
中志津 村上
http://www.asahi-net.or.jp/~xc2k-mrkm/
米粒大のスロー人生を歩んでおります
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後世に残すためには (森兵男)
2009-07-01 22:07:59
村恵さん、コメントありがとうございます。

戦争遺跡を後世に残すためには、まず記録し、どういう種類のもので、何のために作られたかを調べ、周知していくことが重要です。なかなか今の開発優先、経済性優先の世の中では受け入れられないことが多いですが、粘り強くやっていくしかありません。

戦争遺跡という性格上、きれいなものではなく、むしろ不気味な感じがするものも多いためなおさらです。
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温故知新 (村恵)
2009-07-12 10:02:44
古い歴史から学んで新しいことにチャレンジすることが良い世の中になると思います
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Unknown (村恵)
2010-05-13 20:47:33
自分はホームページ作れることしかできません
http://www.asahi-net.or.jp/~xc2k-mrkm/
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スロー人生 (森兵男)
2010-06-04 21:42:21
村恵さん、スロー人生も良いじゃないですか。スロー人生も、せわしく飛び回る人生も、同じ人生には変わりありません。

有限であることに変わりありませんので、その人生を有意義に生きたいものです。
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こんにちわ (村恵)
2010-06-24 09:03:59
戦争遺跡拝見しました
歴史等が好きで興味あります
話を聞くのも好きで介護施設の病院で年配の戦争経験者の方々から当時の悲惨さを聞いております
体験話聞いてやはり戦争などの痛めには合いたくありません
お会いできて話が出来ることを願っております
貴重な資料を将来のために残していただきたいと思います
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