1.陸軍工兵学校跡の周辺
松戸に残る戦争遺跡は、一つは陸軍工兵学校で既に紹介したが、松戸中央公園にある隊門以外に、周辺にはその名残りともいうべき遺跡の類が散在している。工兵学校跡の南西、相模台の台地とJR松戸駅のある低地との間にある通称「地獄坂」にも、「陸軍用地」と書かれた境界標石がある。
<「地獄坂」途中にある「陸軍用地」の境界標石>
さらに、イトーヨーカドーの出入口のある公園北側には、かつて工兵学校の通用路であったと思われる石段があり、その途中に四枚の扉のついた倉庫跡がある。倉庫跡の扉は本来鉄製で、二枚は現存しているが、二枚は破損した模様で、コンクリートで塞いである。また、この石段の途中にも、「陸軍用地」と書かれた境界標石がある。石段の下の低地には、雑草が茂った窪地があり、かつてその場所に工兵学校の給水井があった。その給水井跡近くには、木造の古い建物があるが、工兵学校当時の建物であろうか。
なお、「陸軍用地」の境界標石は、上記以外にも松戸一中の周辺にもある。
<工兵学校跡地裏の石段~左側石段脇に境界標石がある>
<石段途中にある倉庫>
<工兵学校の給水井跡>
2.逓信省松戸高等航空機乗員養成所
通称は、「松戸飛行場」である。現在の陸上自衛隊松戸駐屯地とその北側、西側の土地が、かつての逓信省中央航空機乗員養成所、のちに改称された松戸高等航空機乗員養成所である。1940年(昭和15年)に民間の操縦士や整備員を養成する目的で設立されたが、戦局が進み、日本の敗色も濃くなってくると軍の管轄となった。そもそも、帝都防空のための「陸軍基地」である飛行場としても位置づけられ、建設時から陸軍が関与し、その所長も陸軍少将が務めていた。1944年(昭和19年)9月には、陸軍第10飛行師団指揮下の飛行第五十三連隊が所沢基地から移ってきた。そのなかから、11月には4名の特攻要員が指名されている。熟練した飛行兵が戦死していくなか、未熟なパイロットも出撃せざるをえず、この「飛行場」でも訓練中の事故が相当数起こっている。
<現在の陸上自衛隊松戸駐屯地>
基地は八柱霊園辺りまで広がり、墓地にも飛行機を隠す壕があった。ちなみに、現在の松飛台は、陸上自衛隊松戸駐屯地の西側にあたり、「飛行場」のあった場所という意味を込めて名付けられたものである。
遺跡としては、陸上自衛隊松戸駐屯地の敷地内にある飛行機の格納庫跡、木造の隊舎などがある。
かつての格納庫は現在も倉庫として使用されており、現在の自衛隊松戸駐屯地の正門から西へグラウンドに行く途中に、まさにハンガーというべき大きなものが残っている。
<大きな格納庫跡>
<古い隊舎らしき建物>
3.八柱駅周辺の境界標石
新京成電鉄八柱駅周辺には、何本か陸軍の境界標石がある。目立つのは八柱2号踏切付近のものである。地表1m程度突き出たものがあるが、もともと畑地に埋っていたものを宅地にするため、地表をさらって削ったためである。標石の頭の部分が、赤くペンキが塗られているが、これは現在も使用されている証しかと思いきや、現在は使用されていないそうだ。確かに赤く塗られた標石が今の線路や道から外れた場所にも散在している。
しかし、こうした境界標石がなぜあるのかが、今もって分からない。八柱駅周辺に陸軍鉄道連隊の引き込み線があったからか、陸軍八柱演習場が近くにあったためか。
<八柱駅周辺踏切近くの境界標石>
参考文献:
『鎌ヶ谷市史研究』第14号「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)
『鎌ヶ谷市史研究』第19号「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)
松戸に残る戦争遺跡は、一つは陸軍工兵学校で既に紹介したが、松戸中央公園にある隊門以外に、周辺にはその名残りともいうべき遺跡の類が散在している。工兵学校跡の南西、相模台の台地とJR松戸駅のある低地との間にある通称「地獄坂」にも、「陸軍用地」と書かれた境界標石がある。
<「地獄坂」途中にある「陸軍用地」の境界標石>
さらに、イトーヨーカドーの出入口のある公園北側には、かつて工兵学校の通用路であったと思われる石段があり、その途中に四枚の扉のついた倉庫跡がある。倉庫跡の扉は本来鉄製で、二枚は現存しているが、二枚は破損した模様で、コンクリートで塞いである。また、この石段の途中にも、「陸軍用地」と書かれた境界標石がある。石段の下の低地には、雑草が茂った窪地があり、かつてその場所に工兵学校の給水井があった。その給水井跡近くには、木造の古い建物があるが、工兵学校当時の建物であろうか。
なお、「陸軍用地」の境界標石は、上記以外にも松戸一中の周辺にもある。
<工兵学校跡地裏の石段~左側石段脇に境界標石がある>
<石段途中にある倉庫>
<工兵学校の給水井跡>
2.逓信省松戸高等航空機乗員養成所
通称は、「松戸飛行場」である。現在の陸上自衛隊松戸駐屯地とその北側、西側の土地が、かつての逓信省中央航空機乗員養成所、のちに改称された松戸高等航空機乗員養成所である。1940年(昭和15年)に民間の操縦士や整備員を養成する目的で設立されたが、戦局が進み、日本の敗色も濃くなってくると軍の管轄となった。そもそも、帝都防空のための「陸軍基地」である飛行場としても位置づけられ、建設時から陸軍が関与し、その所長も陸軍少将が務めていた。1944年(昭和19年)9月には、陸軍第10飛行師団指揮下の飛行第五十三連隊が所沢基地から移ってきた。そのなかから、11月には4名の特攻要員が指名されている。熟練した飛行兵が戦死していくなか、未熟なパイロットも出撃せざるをえず、この「飛行場」でも訓練中の事故が相当数起こっている。
<現在の陸上自衛隊松戸駐屯地>
基地は八柱霊園辺りまで広がり、墓地にも飛行機を隠す壕があった。ちなみに、現在の松飛台は、陸上自衛隊松戸駐屯地の西側にあたり、「飛行場」のあった場所という意味を込めて名付けられたものである。
遺跡としては、陸上自衛隊松戸駐屯地の敷地内にある飛行機の格納庫跡、木造の隊舎などがある。
かつての格納庫は現在も倉庫として使用されており、現在の自衛隊松戸駐屯地の正門から西へグラウンドに行く途中に、まさにハンガーというべき大きなものが残っている。
<大きな格納庫跡>
<古い隊舎らしき建物>
3.八柱駅周辺の境界標石
新京成電鉄八柱駅周辺には、何本か陸軍の境界標石がある。目立つのは八柱2号踏切付近のものである。地表1m程度突き出たものがあるが、もともと畑地に埋っていたものを宅地にするため、地表をさらって削ったためである。標石の頭の部分が、赤くペンキが塗られているが、これは現在も使用されている証しかと思いきや、現在は使用されていないそうだ。確かに赤く塗られた標石が今の線路や道から外れた場所にも散在している。
しかし、こうした境界標石がなぜあるのかが、今もって分からない。八柱駅周辺に陸軍鉄道連隊の引き込み線があったからか、陸軍八柱演習場が近くにあったためか。
<八柱駅周辺踏切近くの境界標石>
参考文献:
『鎌ヶ谷市史研究』第14号「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)
『鎌ヶ谷市史研究』第19号「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)