言語空間+備忘録

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司法制度改革は「弁護士に依頼する自由」を実現する

2011-12-03 | 日記
元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記」の「弁護士が「事件」を作る社会

 最近の弁護士のブログで、こんな言葉が書かれていたのが目にとまりました。厳しい修習生の就職状況、過払い事件減少後の弁護士業界への不安について述べたうえで、彼はこう言います。

 「でも、事務所経営維持のために、些細なこと(当事者同士で解決可能なこと)でも、弁護士が介入して事件化させることはあって欲しくないです。弁護士、裁判所をはさんだ解決はあくまで最終手段であって、当事者同士で解決可能であれば、解決した方がいいに決まっています。弁護士費用はかからないし、当事者間にシコリも残らないでしょうから」(「弁護士川浪芳聖の『虎穴に入らず虎子を得る。』」)

 これを読んだ一般の人は、あるいは「当たり前のことじゃないか」と思われるかもしれません。弁護士や裁判所を頼むのは、それこそ「最終手段」であり、まず、当事者同士で解決することを目指すだろうし、まして「些細なこと」を弁護士が「事件化」するなど、もってのほかだと。

(中略)

 「改革」は市民にとっての弁護士とのかかわりを、「社会生活上の医師」という表現でも分かるように、「最終手段」ではなく、社会生活に身近なものとして描き、当然にこれまではご厄介になっていなかった案件、そうした段階ではなかった案件を弁護士や司法に持ち込む世界を目指そうとしています。

 この話をすると、多くの人はびっくりして、「それは息の詰まる社会だ」と言います。まして、「改革」は川浪弁護士が指摘しているような、より費用がかかることや当事者間によりシコリが残る可能性を考慮しているようにも見えません。以前、書きましたが、社会学者の宮台真司氏がいうように、日本は米国のような訴訟社会ではなく、「隣人を訴えただけでもバッシング」されたりする国であり、「できれば自分たちで解決してどうしてもダメなものだけ法の裁きを受けましょうという法文化」があるにもかかわらず、その違いをわきまえず米国のように弁護士増やす方向を選択したととれるのです。


 司法制度改革は、「些細なこと(当事者同士で解決可能なこと)でも、弁護士が介入して事件化させる」社会を目指そうとしている。日本は米国のような訴訟社会ではなく、「隣人を訴えただけでもバッシング」されたりする国であり、「できれば自分たちで解決してどうしてもダメなものだけ法の裁きを受けましょうという法文化」がある。現に多くの人は、改革が目指すものは「息の詰まる社会だ」と言っている、と書かれています。



 この主張は一理ありますが、これは司法制度改革の問題点には「なり得ません」。

 なぜなら、「それは息の詰まる社会だ」と思う人は、改革がなされたあとも、「できれば自分たちで解決してどうしてもダメなものだけ法の裁きを受けましょう」という態度をとればよいからです。

 改革は、このような態度をとりたい人にまで、訴訟を提起することを求めるものではありません。そもそも、弁護士に依頼したり、事件化することを「望まない」人にまで、「無理矢理」弁護士への依頼・訴訟提起を「強制」することは不可能です。



 次のように考えてみてください。

 世の中には、弁護士とのかかわりを「最終手段」としたい人もいれば、「社会生活に身近なもの」としたい人もいるところ、
  1. 改革を行った場合には、
    • 弁護士とのかかわりを「最終手段」としたい人は、これまで通り「できれば自分たちで解決してどうしてもダメなものだけ法の裁きを受けましょう」という態度をとればよいし、
    • 弁護士とのかかわりを「社会生活に身近なもの」としたい人は、改革によって、弁護士とのかかわりを「身近なもの」とすればよい。
  2. もし改革を行わなければ、
    • 弁護士とのかかわりを「最終手段」としたい人は満足かもしれないが、
    • 弁護士とのかかわりを「社会生活に身近なもの」としたい人は、望みをかなえられない。


 さて、どちらがよいでしょうか? 答えは「あきらか」です。改革を行ったほうがよいに決まっています。どちらの人も満足する社会になるからです。





 別の弁護士ブログでは、こんな書き込みもありました。

 「原発被害者を顧客としてホームページで募集する弁護士が出現したそうです。他人の不幸を助ける。他人の不幸を食う。どちらでしょう」
 「いずれにしても、不幸がないと食っていけないのが弁護士。これからの時代、不幸が増えるから弁護士の増員が必要だったのか。あるいは、逆に、弁護士が増えたから、不幸が増えるのか」(「taxMLの紹介」関根稔法律事務所)

 弁護士が乗り出すことは、紛争が生まれ、そして不幸もまた生まれるのではいか、という声を、実は弁護士から聞くことがあります。「事件化」の恐れを含めた肌感覚ともいうべきものがあるのかもしれません。同法律事務所のブログはこんな言葉で締めくくっています。

 「サラ金が悪く、詐欺師が悪く、東電が悪いのであって、弁護士は救済者である。それは弁護士が正しい仕事をする場合に限り、言えることだろう。しかし、食い物が無く、飢えているオオカミに、子羊を食ってはならないと教えても、それを守るゆとりがあるだろうか」


 弁護士が増えると、弁護士が収入を得るために、ささいなことを「事件化」する恐れがある、と書かれています。



 これは要するに、
弁護士に「収入を保障」しなければ、弁護士が「ささいなことを事件化する恐れ」がある。したがって弁護士には、「収入を保障」すべきである。つまり弁護士の増員を行うべきではない。
と言っているわけですが、

 顧客たる市民が望まなければ、いかに弁護士が「ささいなことを事件化」しようとしたところで、事件化されることはありません。

 また、いかに弁護士にとって「ささいなこと」に見えようとも、顧客たる市民が「私のケースはささいなことではない。弁護士に依頼したい」という場合もあり得ます。この場合には、司法制度改革によって弁護士が増えることは、市民にとって好ましいことになります。

 したがって、弁護士が「ささいなことを事件化する恐れ」など、問題にするにはあたりません。弁護士が「ささいなことを事件化する恐れ」を根拠として、弁護士増員に反対する主張は成り立ちません。



 司法制度改革は、弁護士に依頼したくても依頼できなかった人には、依頼できる社会を、弁護士に依頼したくない人には、これまで通り依頼しなければよい社会をもたらします。

 したがって、私は司法制度改革を進めるべきだと思います。



■関連記事
 「弁護士増員反対論に対する反論

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お久しぶりです (peko)
2012-01-19 12:31:44
お元気そうで何よりです。

原告側にとってはいいのでしょうね。
ただ、今までより気軽に訴訟がされるとなると、被告側になるリスクも高まるという怖さがあるように思います。
この巻き込まれリスクはどう評価されますか?
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Unknown (memo26)
2012-01-29 15:46:03
おひさしぶりです。

被告として訴えられるリスクが高まる、という点についてですが、それは「やむを得ない」のではないでしょうか? 自分が訴えられる危険を避けるために、他人に訴える自由を(実質的に)与えるな、という主張は、どこか「おかしい」のではないかと思います。

そもそも本人訴訟でなはく、訴訟代理人を立てた訴訟であれば、「おかしな」主張をされる可能性も少ないのではないでしょうか。
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Unknown (peko)
2012-02-08 13:33:32
お返事有り難うございます。
いろんな考え方がありますね。

自分なら被告側には出来れば立ちたくないですね。

いきなり訴えられても、欠席すれば敗け→強制執行で悲しいことになりますし。
しかも、毎回裁判の日は出席しなければいけないなんて、仕事を持っていれば不可能に近いですし。

じゃぁ弁護士に頼もうか、と思っても、被告側はなかなか弁護士に依頼しにくいですしね。
なにしろ相手方からお金が取れるわけではありませんから、弁護士費用は完全に自腹で、しかも先払いですから。

このような具体的負担を考えた上で、それでも、「やむを得ない」とお考えなのでしょうか?


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Unknown (memo26)
2012-02-26 13:23:49
 ご返事遅くなりました。

 あなたの考えかたは、「金持ちに訴えられたら我慢するが、庶民に訴えられるのは我慢ならない」と同じではないでしょうか? 弁護士費用が高くとも、金持ちは訴えてきます。それに対応するには、「高い弁護士費用を」払って(あなたも)弁護士に依頼するしかありません。

 弁護士の人数が増え、弁護士費用が安くなれば、たしかに「金持ちではない庶民」に訴えられる可能性は高くなるかもしれませんが、あなたも、「比較的安い費用で」弁護士に依頼できます。

 どちらが「よりよい」社会でしょうか? 私は、後者(弁護士の人数が多い社会)のほうがよいと思います。
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