真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

12月26日

2010年12月26日 22時31分38秒 | Weblog
8,108位 / 1,513,166
昨日   :11984歩
起床時間 :7時00分
血圧   :108    68
脈拍   :68
体温   :35.4℃
体重   :67.0㎏
晴れ
下に行くが、誰もいない日曜日、歯を磨いただけで、部屋に戻り、布団に潜り込む。
見るとは無しにテレビを点けている。
 9時50分下に行くと妻が洗濯をしている。顔を洗って、体重を量り、8枚切りの朝食は新聞を見ながら済ませる。
 部屋に戻りテレビの将棋、最後の方を見る。部屋が寒いのでエアコンのスイッチを入れる。設定温度は25度。12時、パソコンの電源を入れる。予定表の確認と修正、メールのチェックなど。12時30分昼食だと呼ばれる。長男の分も支度してあったが、来なかった。
13時30分パソコンの電源を切る。着替えをし、資料をりっくに詰め、45分家を出る。「小説手塚治虫」の2を読みながら中央図書館へ行く。
今日の会議は、白石議員と、秩父さんがお見えであった。
 17時まで会議をして17時10分家に戻る。妻も帰ってきたところで、友人に貸してあげていた資料を返却してもらい、お礼だと、お菓子を貰ってきていた。妻がコーヒーを入れてくれ、一緒においしいお菓子を頂き、コーヒーブレーク。
17時20分部屋に戻り、部屋着に(一度かっこよく書いてみたかった、実は外に規定枯れないようなぼろ)着替えをして、パソコンの電源を入れ、メールのチェックなど、17時40分ブログを少し書いておく。19時50分夕食に呼ばれる、少し遅れて降りていくと、久しぶりに家族全員が揃う。テレビを見ながら夕食、鍋。例によって、私だけ別鍋、キムチ味で野菜(白菜ねぎなど、シメジと、しいたけ、そしてカキがたぶん、一つ。たぶんとは、ほかに確認できなかったから、そこにあまったからと、餃子が6つばかり入っていた。
 この餃子が事件を引き起こす、大きい鍋にも、この餃子を入れたのだが、長男がその餃子らしい形をつまもうとした所、溶けてしまった、のだ。
 それを見ていたので、私は上手に5つばかり食べてしまう。湖畔は50gひいてもらって100gにしておいたがたぶん食べすぎであろう。気持ち、餃子を一つ残しておいた。
20時50分部屋に戻り、メインパソコンを入れる。RealPlayerのアップデートを促される。インストールする。終わると登録が表示される、前も表示されたっけ。登録はYahooのメールのセフティーアドレスでして有る。既に登録、そして例によって、有料ページ、此処であわてるとまた面倒な事に、わからない英文を見て、値段が書いてない一番下をクリック。これが無料の登録で、ビンゴする。
 最近PCを起動すると、いつも画面右下にrealplayerメッセージセンターというものが、表示されるようになり、メモリーが弱いので、随分の期間気になっていた、たぶん前にアップデートしたときから表示され始めた。ついでに法事しないよう設定した。
 まず右下の「realplayerメッセージセンターオプション」小さなウインドー、ばーの環境設定をクリック、設定画面が表示されるので、新着メッセージをチェックやメッセージヘッドラインを表示のチェックをはずす。  [OK]をクリックすると、警告文が表示されます。
「メッセージのチェックはオフにしないことをお勧めします」と出るが。メッセージが嫌なので続行するには「はい」をクリックしてください。と有るので、「はい」をクリックして終了。念のため、全てのプログラムを終了させ、再起動させる。
 メッセージは、出なくなった。
realplayerは一寸した動画をコピーしておきたいとき、とても便利だ、その上拡張子の変換まで出来る。注意すべきは念のためチェックしておくほうが良い。音声が割れてしまうときがあった。
Yhooのメールをチェック。
21時35分風呂に呼ばれる。55分部屋に戻る。ブログもう少し書いておこうと、書き始め、22時30分此処までにする、寒いので今日こそ早く寝てしまおう。
 おまけMemo
「小説手塚学校を」読んで。
動画机について、すりガラスの下に蛍光灯が入っていて、と有るが私が入社した当時、蛍光灯では無くまだ電球であった。その後新しい動画机になると蛍光灯に変わった。鎌田家具さんのハンドメードと記憶している。何故そんな事を覚えているかと言うと、すぐに、蛍光灯だと疲れると言う苦情が出たからだ。
 アニメーターはと言うか虫プロで漫画映画に携わっているものは、一秒を24で割った世界に居る。
 蛍光灯と言うのは、ボーリング中継でスローを見たことが有る人ならご存知の様に、付いたり消えたり点滅を繰り返している光源なのである。東京の場合1秒に50回、関西なら60回、つまり50サイクル(当時で今はHz(ヘルツ))静岡を堺に関西は60サイクルなのであった。
 ラッシュのとき、一コマ入っている(1秒は24コマ)NGを見極める眼を持っているだから、チカチカを敏感に感じて疲れてしまうと言う苦情が出たのであった。
 私の自慢は良く一コマの利テークカットを発見する事だった。よくあったのが撮影さんの指先が写っていたなんていうのが多かった。
 ちなみに、私の頃は1スタの3階、屋根裏部屋(畳がひいてあり夜具が押入れに入っていて寝泊りが出来たが、(当時は消防法に違反していて、監査が入るまえに畳を片付けた経験も有る。)そこに追うプロジェクター(16mm映写機)が置いてあり、スクリーンはまいて吊るしてあったので、そこで試写をした。
 壁には暗幕があったが、いつも真夜中の作業となるので、暗幕を閉める必要が無かった。映写機のまわる音が、とても良い、子守唄となって、寝ていない日が続いた後のラッシュはほとんどの人は居眠りしてしまっていた。
 母屋、手塚邸の先生の仕事場所。
螺旋階段であがる二階殻の手塚先生が、原稿を吊り下げている写真が、有名になっているため、そこの二階が先生の仕事場だと思われているが、実は、下の部屋が主な仕事場所であった。後ろにはピアノも置いてあり、壁、庭側のドアからは、家庭の、食道の部屋につながっていた。
 2階は何の部屋だったかと言うとそこはオーディオルームであった。お金に糸目をつけず、贅沢なオーディオセット(ハンドメード、ソニー製が多かった)がセットされていた部屋で本来ゆっくりと音楽を聞くための部屋であった。対面の壁には、その部屋で聞くのに都合良いように、大きなスピーカーが埋め込まれていた。スピーカー一つが当時庶民の家1件(150万円ぐらいで買えた)が買えるほどの値段であったと聞いた。
 疲れると巣篭もりの好きな先生にとっては、布団を引いて横になると、下からはまったく見えなくなるので、石膏の避難場所であったのだ。
よく言われる、秘密のドアがあったという話は、その部屋には2階の廊下へ出るドアが付いていた、これ当たり前と思っていたが、いつも魔にか秘密のになっていた。そして赤い部屋。そのゴアから廊下に出ると正面にドアがあり、その部屋の事。そこはホームバーの部屋であった。泥酔して倒れてもと言う配慮から、赤いビロードが壁一面に鋲を打ちつけ留めてあった、私がその部屋に行った頃には、各種のお酒類はもとよりカクテルのセットがそれって居た。
 なぜ覚えているかと言うと、サントリーのカクテルセットのパンフレットを貰ったからで今でも持っている。
 富士見台の時の手塚邸はとても豪華な邸宅であった。玄関を入ると眼に入るのは、「パパは何でも知っている」と言う、テレビドラマが流行っていたが、その世界がそこにあった。大きな階段が、左にカーブして2階の廊下に続いている。その手すりはまた豪華な彫刻がなされていた。吹き抜けとなっている天井からは、これまた豪華なシャンデリアが下がっており右の壁には、椛島画伯の大きな水車小屋の絵が架かっていた。上がりかまちには大きな、下駄箱があり、ホテルを思わせるほどの、来客用スリッパが入っていた。右すぐわきには部屋があったが、これは明らかに、運転手用の部屋で、その証拠に部屋の中に外に出るドアがあり、3台も入る車庫に出られたのであった。部屋には電話も引いてあった。
 私の頃は、手狭になり、編集者の控え室となっていたので車庫の2階に新たな部屋が作られていた。2階からも行けたが、土から出て、垂直な鉄のはしごが付いていた、その裏に手塚家のお稲荷さんが祭られ、そこで山伏さんを呼んで、お祓いをしてもらっているのを同席している。
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