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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

二見港の「兵庫丸」

2012-01-29 | 旅行
日本郵船「兵庫丸」の船影が特定された。明治後期、小笠原航路の主船として活躍した同船には
写真が無かった。「バウスプリットの付いた老朽船」と云うのが島側の記録である。
『小笠原海運社史/別冊』には次のとおり記されている。
1899(M32).05 航路補助金増額され、定期船運航回数大幅に増加、年6回が12回となる。主として
         兵庫丸就航。
1910(M43) 定期航路年18航海となる。内6航海は横浜/小笠原間直航。兵庫丸老齢のため売却される。
1912(M45/T01) 8月より芝罘丸が就航。



この画像を見たとき、バウスプリットのある船影から「兵庫丸」ではないかと直感した。日頃よりご教授
賜っているY氏に画像を確認願ったところ、「兵庫丸に相違無かろう」というご回答と共に、その根拠
として『日の丸船隊史話』を挙げておられた。山高五郎著『日の丸船隊史話』には、小菅丸に関し、
次のとおり記載されている。

井上侯御聲がゝりの船
傳ふる處に依れば、此船(小菅丸)は時の工部卿井上馨公が三菱會社の兵庫丸に乗つて
大にお氣に入り、同型の船を長崎工作分局の小菅の船臺で造らせたものであると云ふ。
因に御手本の兵庫丸は後年久しく郵船會社に属し、小笠原嶋通ひをやつて評判がよかつ
た。明治四十三年に至り賣却されて原田商行所属となり、大正二年難破した。


山高五郎著『図説日の丸船隊史話』には「小菅丸」の模型が載っている。確かに二見港で記録された
船影は、同型に見える。その後、別な画像にも巡り会った。





「兵庫丸」は1874(M7)英国Sunderlandで建造の「MIN」の後身で、1411G/T、鉄製汽船。征台の役に際し、
1874.05~1875.03にかけ、政府が香港において購入した外国船13隻の内の一隻である。
1875(M8).09.15政府より13隻の汽船は三菱汽船会社に無償下付された。同社は09.18付で郵便汽船三菱
会社と改名される。
1885(M18)日本郵船会社に継承される。
1894(M27).03月神戸定期船発着一覧には、次のとおり記されている。

凡毎月一回兵庫丸ヲ以テ馬關、長崎、福州、廈門、マニラ等へ往復定航セシム

1910(M43).03.01原田商行に売却される。
1913(T2). 神戸より青島へ向けて航海中、04.26周防灘において濃霧の中「笠間丸」と衝突し、小祝島
付近で沈没。

曾祖父の一人は八丈島出身で、明治三十七八年戦役には父島から出征し、日本海海戦では軍艦「音羽」
に乗り組んでいた。乗艦で父島に凱旋し、二見港に上陸した時の写真が残っている。八丈島から父島への
移住や出征は、「兵庫丸」に乗船したと思われる。その頃は、どの便も八丈島に寄港していた。



同一場所に立ち、「ははじま丸」の出港を眺めてみた。山並みは変わっていない。1970年頃、来航した
自衛隊のLSTは、ここに残っていた戦前の護岸の切れ目の砂浜にビーチングし、重機を揚陸した。

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境浦の浜辺で

2012-01-10 | 旅行
小笠原諸島が返還されたのは1968(S43).06.26。当時のグラフ誌などには、必ずと言って良い程、父島境浦の
沖合に座礁した「濱江丸」の画像を掲載している。甲板室は原形を留めないが、船尾に生えたモクマオウの木が
戦争の悲惨さと時間の経過を象徴するかのような画像であった。

「濱江丸」は遊び場だった。教師や親に隠れ、悪ガキ共はボートで漕ぎ寄っては、船尾の機関室付近からよじ
登った。恐い部分もあったが、何とか船首楼まで伝わって行くことができた。船尾に比べ、船首部分は原形
を保っていた。船名の漢字やアルファベットは、ペン書きでも溶接盛りでもなく、プレートを切り抜いて溶接した、立
派なものであった。船尾付近には、同じマークの付く食器片が集中する場所があり、厨房跡を思わせた。



年末から正月にかけ、久しぶりに父島へ帰省した。昨年、世界自然遺産に登録されてから、初めての渡島と
なった。仕舞ってあった食器片を取り出したところ、彼女に関する様々な事柄が、懐かしく思い出された。

情報の乏しい離島に住む中学生にとって、このマークが大連汽船の社章であると、知る由も無かった。当時、
「濱江丸」の船社名を調べることが、一つの目標になっていた。中野区から転校してきた同級生から「これ
は中野区のマークだ」と聞かされ、半信半疑になったこともある。椿丸で上京の都度、東京湾内ですれ違う貨
物船のファンネルマークを注視したのも、この頃のこと。(実は、全く同じマークの船社が存在した!)
高校生になり『播磨造船所50年史』に接する機会を得、竣工当初の写真を見たり、大連汽船の成立や、その
後の経過を知るところとなった。ただ、戦歴については調べがつかず、新和海運に照会させていただいた。



これは、新和海運門川氏から頂戴した予告のお葉書。高校生の問い合わせにかかわらず、便箋4枚にわたり、
「濱江丸」の船歴や戦禍をお知らせ下さった。GAと共に大切に保存してある。
社会に出てから、村の広報紙に「濱江丸」の記録を書く機会を得た。門川氏による調査記録をベースに記述した
ことは、云うまでもない。







今回の帰省の際、久しぶりに境浦の浜辺に降りてみた。「濱江丸」の解説板が建てられていた。内容は広報紙
に書いた経歴の要約になっていた。解説板を前に、門川氏のご厚意に、少しは報いることができたろうか…と、
ふと、そんなことを考えた。
現在は汽機が水面から覗くのみとなっている。門川氏から頂いたお便りには、「機関は排気タービン付三聯成
往復動機関で、公称馬力2800、気缶16気圧、丸缶三缶が設置された」とある。

実家に眠っていた『東邦海運株式会社十五年史』『新和海運三十年史』を携えてきた。社史によると、門川氏
は当時、常務取締役の要職にあった。葉書には「大連汽船時代の人が当社にもう一人二人になっています」と
記されている。また、続いてお送り下さった調査結果の冒頭にも、「当時の同社社員として、非常に懐かしく
調査に当たりました」と書かれている。
会社を再建された方々の苦労は、筆舌に尽くしがたいものがあったことだろう。『東邦海運株式会社十五年史』
の「序」を見てみたい。

満鉄の背景を失った大連汽船――東邦海運は、当時誰か口の悪いのがいみじくもいった如く、全く『戦災
孤児』でありまして、内地にノレンを持たない戦災孤児の苦闘の歴史が、この十五年間だったということ
ができると思います。
…外地に本社を有する大連汽船の再興は、太初混沌の時代における国造りともいうべく、幾度びデット・
ロックにぶつかったかわからないのであります。










濱江丸 HINKO MARU (関東州)588 / JQDG、5418G/T、1936.06.19、播磨造船所(相生)

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木津川を歩く

2011-12-13 | 旅行
かつて、大阪のウォーターフロントには、松が植えられていたらしい。明治期の回顧談や記録には、屡々松並木
が出てくる。「安治川入口」で撮影された画像にも、松が写り込んでいる。



この船影は大阪商船「高阪丸」である。船首部装飾や低い船首楼、ブルワークの形状などから絞り込まれ、
ポールド配置により特定される。土佐商船からの買収船で姉妹船も無く、このクラスの大阪商船スタイルとは、
やはり、趣が異なる。「高阪丸」7708 / JQHR、632G/T、1902(M35).11、小野造船所。





木津川口の古写真と絵葉書を見た。余白に「木津川口千本松」とある。これが有名な千本松か。何とも
清々しい光景である。二葉は、ほぼ同一地点から撮られている。絵葉書(下)は、その仕様から、明治30
年代末期の発行と見られ、写真も同時期と思われる。
1832(天保3)木津川口に石堤が築造され、堤防上に植えられた松並木が「千本松」の地名の由来となる。
松の木は直立せず、陸側へ傾いているのも、海から吹く潮風が原因とか。絵葉書には、帆を張った舟と
共に、石堤の先端にあった木造灯台も写り込んでいる。このカーブは、佐野安と名村の境界辺りである。
画像を見ると、護岸は石積みとなっている。

安土桃山時代、木津川口では二回の海戦があった。一回目は1576年。石山本願寺に兵糧を輸送する
西国船団とそれを守る毛利水軍に、対するは織田方の水軍。この時は織田方の惨敗に終わっている。
二回目は1578年。信長が九鬼水軍に命じて建造した鉄甲船6隻の活躍もあり、織田方は勝利した。
海上補給路を断たれた石山本願寺は、次第に形勢不利となり、1580年に炎上するのである。



千本松渡船「はるかぜ」船上から眺めた木津川のカーブ。渡船は両側がループの千本松大橋(通称「めがね
橋」)下の両岸を結んでいる。

千本松から遡った難波(ナンバ)島の西側、三軒家川には「船囲場」という水面があった。1886(M19)発行
の地図を携えてきたが、現地に立ってみると、今の地図からは読めないことが、地形から見えてくる。
小高くなっている道路が、かつての防潮堤と一致する。船囲場の水域が、目前に広がる光景にも、現在の
地図上にも、浮かび上がってきた。

難波島に渡ってみた。今は、倉庫や空地が広がる場所となっていた。木津川上流を眺め、左岸(右手)
が「材木置場」で、1890.10佐山芳太郎により「駿豆丸」が建造された地である。右岸(左手)が難波島。
ここで二隻の「太湖丸」は再組立され、外海に旅立った。
三軒家川は船囲場となっていたため、造船所は木津川を向いていたようだ。明治末期のこの界隈には、
炭屋新田の「藤永田造船所」をはじめ、木津川に面し「武本造船所」「永田造船所」「尼崎造船部」「小野
造船所」「小野鐵工造船所」「中村合名会社」が立地した。

八阪神社には、石柵に掘られた社名を読んでから参拝した。現在、社は南向きだが、もとは西向きに建っ
ていたという。宮司さんにお話を伺うことができた。西側を通る小高い道路は、かつての防潮堤とのこと。
石柵にその名のある「向井造船鉄工所」をお尋ねしたら、お忙しい中、1976(S51)発行の住宅地図をお見
せ下さった。
地図から、大正区内にある「(株)神川造船所」「(株)南進造船所」「(株)浅野造船鉄工所」「掘造船所」
「(株)向井造船鉄工所」「大幸船渠(株)」「村井鉄工造船所」「(株)太田商店造船所」「中島造船所」
「浜野造船所」「東洋造船(株)」「(株)三洋造船所」の位置を確認することができた。



船囲場は、1881(M14).12.02付府令で入船が許可され、翌年から料金の徴収が始まった。船囲場について
は、松木哲著「大阪三軒家船囲場」(海事史研究17号)が詳しい。松木氏によると、「北前船の最盛期は
明治十年代と推定されている」とある。
船囲場事務所のあった場所は、三軒家公園となっていた。船は冬季に係船されたが、船乗り達はここで
手続きを終え、故郷へ帰ったことだろう。

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大島から大島へ

2011-12-03 | 旅行
鞆の浦に立ち寄った時のこと。玉津島に渡ろうと、漁港の防波堤に差しかかると、本瓦造船本社工場に
両頭型カーフェリーが見えた。もしや…と歩を進めたら、案の定、もと新居浜市「おおしま」だった。新居浜市
黒島港から沖合の大島へ、2.5㎞を15分で結んだカーフェリーである。
新居浜市が発注した新造船「おおしま7」は、本瓦造船で2011.08.01進水、10.26竣工した。一方、東日本
大震災で被災した大島汽船(気仙沼)は、本瓦造船に新船(カーフェリー)を発注したが、竣工まで日時を要する
ことから、その間のピンチヒッターを探していた。新居浜市「おおしま」は廃船となることから、本瓦造船が大島
汽船へ橋渡しを行い、調整の結果、無償譲渡が決まった経緯がある。11.03新居浜市大島において譲渡式
が行われた。「おおしま」130590 / JL5766、115G/T、Loa27.00m、200名、1989.07、藤原造船所。



本瓦造船本社工場には「第三十五恭海丸」もいた。「おおしま」はマイクの調整をしていて、これは試運転も
近いなと直感したが、14:30になり、エンジン音が響き、排煙が上がった。出港時、何と「おおしま」は「サイレン」
を鳴らしたのである。これには驚いた。「キュキュキュィーーン、キュキュキュィーーン」と、尻上がりに高くなるこのサイレン音、
最後に聞いたのは「父島丸」である。当時、東京・父島とも、出港は夕刻だったため、冬などとっぷり日は
暮れて、夕闇に響くサイレンを物悲しく聞いた覚えがある。現在でも、港則法は「汽笛又はサイレン」としているが、
映画等の効果音にしか聞けない音となっている。



新居浜も気仙沼も、島名は大島。船名の「おおしま」は改名していない。船籍は「新居浜」から「気仙沼市」
に書き換えられていた。
思えば、最初に気仙沼に小型客船を訪ねてから、四半世紀が経過した。当時は、船首部から乗下船する、
特徴的なスタイルの小型客船が多数活躍し、カーフェリーは因島汽船から来た「ちかみ丸」だった。気仙沼湾内に
限ると瀬戸内のような水域で、次には蒲刈フェリー「ななくに」がやって来た。

暦は12月となった。年末に発表される10大ニュースのトップは、東日本大震災となることだろう。私自身、震災
は直接、仕事に影響した。その関係で、被災地にも出掛けている。しかし、しばらくの間、船見で被災地
入りするのは止めておこう…と決めていた。
ゴールデンウィーク前半は新潟県、後半は青森県と計画し、先ずは佐渡航路、粟島航路と歩き、青森に向かう
べく、山形道経由で北上市に入り、宿を取った。天気予報を確認したところ、青森の翌日の予報は雨。
バイクの撮影行は天候に左右され、季節による制約も大きい。東西方向の移動は数日先の天候の見込み
が立つものの、南北方向の移動、特に、東北や北海道方面への遠征は、気流を横断する方向なので、
先々の天候が読めないことも屡々だ。今回も週間予報が急に変わった。進退窮まり、急遽、気仙沼に
向かうことにした。

05.04朝、一関市まで戻り、国道284号気仙沼街道を東進した。途中、幾度も自衛隊車両とすれ違った。
被災後55日目の気仙沼は、貯木場のような、湿った木の匂いが充満していた。被災地のことを細々書く
のは控えたいが、まずは「フェリー大島」の姿を探し求めた。揉まれるまま流されるその姿は、TVで
幾度も放映され、衝撃的であった。他の船含め、無事を祈らずにはいられなかった。
大川河口方面に打ち上げられたのかもしれないと、一本しか通行出来ない道を、山越えした。そこに
広がっていた光景には、息を飲んだ。家屋の残骸の中、ようやく、車が通れる道が開かれたばかりの
ようで、山を下った先は、立ち入り禁止になっていた。そこにも「フェリー大島」の姿はなかった。
季刊「しま No.226」(日本離島センター)によると、船舶の被害は次のとおり。

大島汽船所有船7隻のうち5隻が島に乗り上げ(うち1隻が炎上)、2隻沈没。
使用可能船舶なし。定期船が発着する港が壊滅的被害。


船名は次のとおり。
■島に乗り上げた5隻
 「フェリー亀山」「海来」「はつかり」「はやぶさ」 大島浦の浜に打ち上げれられる。
 「フェリー大島」 漂流後に炎上し大島瀬戸に入り、亀山から見下ろせる位置に座礁。
■沈没した2隻
 「海王」「カメリアキッス」



大島浦の浜の「フェリー亀山」と「海来」。係留されていたポンツーンごと打上げられた。背景は亀山。



江田島市から無償貸与を受けた「ドリームのうみ」。後に「海来」と「フェリー亀山」が見える。
奇しくも、「ドリームのうみ」と「フェリー亀山」は、共に本瓦造船で誕生している。

被災後の大島航路。
03.13 「ひまわり」が1日3便の運航再開。
03.30 「はやぶさ」(丸文松島汽船)を用船し1日8便。所有船とは同名異船。
04.27  無償貸与を受けた「ドリームのうみ」(江田島市)で、カーフェリー運航再開。
GW頃 「はつかり」「はやぶさ」を海へ下ろす。
GW頃「しまなぎ」(シーパル女川汽船)を用船。
08.17 「フェリー亀山」海へ下ろす。
08.19 「海来」を海へ下ろす。
08.21 浦の浜のポンツーンを海へ下ろす。
09.27 「海来」が航路復帰。
10.05 「ドリームのうみ」(江田島市)無償貸与期間延長の契約締結。(10.15→03.15)
10.31 「フェリー亀山」航路復帰。カーフェリー2隻体制となる。
11.03 新居浜市より「おおしま」の無償譲渡を受ける。





新居浜市「大島」を後に、黒島港へ向かう「おおしま」。工業団地の護岸に立つと、一瞬、水平線を
背景に、のどかに航行する姿を捉えることができる。

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ひと目あなたに会いたくて

2011-11-24 | 旅行
大阪府下に白鳥がいるらしい。
道路沿いの駐車場にて、トレーラーに載せられた白鳥が、捉えられている。今もいるのか。場所はどこだろう。
東条湖の「デキシークイーン」は、現地解体の様子が雑誌に載った。「ひめはくちょう」が湖から降りて来たのか。
はたまた池田湖から「スワン」が渡ってきたのか。この謎解きは、数ヶ月楽しんだ。

親しくしている船社の社長氏と話をしていた時、ひょんなことから白鳥型遊覧船の話となった。大阪府下
の目撃情報を話したところ、関西出身の氏、「阪神高速の下にいる」と即答された。それも、長野からや
って来たらしい。これには驚いた。
漢な船を扱っている氏から、白鳥型遊覧船の消息がもたらされたのも、不思議なこと。長野から姿を消し
た船は、白樺湖の「はくちょう」しかいない。諏訪湖の「すわん」と同い年の、大丸生まれだ。大阪入り
し、真っ先に現地に向かった。







「はくちょう」は、話を伺った道路沿いに鎮座していた。船名も船籍も消されず、引退時のままのようだ。
売船待ちではなく、静態保存、もしくはモニュメントとして扱われている様子。新造時には雑誌『旅客船』に
紹介されている。船主は「池の平土地改良区」。19.71G/T、FRP、1982.06、大丸造船所。

次は池田湖を確認するべく、岡山からは下道を宇野へ向かい、出港間際の「たかまつ丸」に滑り込む。
「マンガ喫茶」のある船。1時間500円は安いのか高いのか。利用状況はどうなのか興味が湧く。未明に
高松を発ち、高松道から高知道、徳島道へと入る。国内の高速道路は、その殆どを走破しているが、徳島
道は全線未走行区間となっていた。全線走破は果たせず、井川池田I.Cで降りる。
グーグルアースで確認すると、池田湖には雲がかかり、判然としない。実はここの白鳥も、2隻並んだ後ろ姿
の写る画像を掲載したHPがある。いつ撮影されたものか判らないし、背景の一部として、偶然に捉えられ
たもの。姿を消した可能性もあり、気になっていた。
白鳥を探しながら湖岸を走行するも、地形が急峻で見渡せない。「ダム湖」と侮ることなかれ。上流まで
遡ってしまった。GSに立ち寄り、給油がてら白鳥型の所在を訪ねたら、お客さんまで話に加わり、情報を
提供して下さった。目指す場所は判ったが、今度は湖岸に降りる道が判らない。
ようやく湖岸に降り立ち、遊歩道の行く手に、白鳥の首が浮かび上がってきた。遂に会えた! しかし、
一羽の首しか見えてこない。期待と不安に、思わず、小走りに歩を進めたが、そこに見えたのは、この
光景だった。



何とも悲しい姿に言葉を失った。一瞬、「来なければ良かった」という思いも、頭を過ぎったが、気を取
り直し、記録に務めた。首が折れてしまっている方が「スワン」である。「スワン」の操舵室は五枚窓、
「スワン2世」は三枚窓となっている。



「スワン2世」は緑色の蝶ネクタイ。14.00G/T、FRP、1987.04、大丸造船所。





「スワン」は赤色の蝶ネクタイ。19.00G/T、FRP、1986.08、大丸造船所。
2隻とも合併前の池田町(現:三好市)が所有し、第三セクターの四国中央観光開発が運航した。

「スワン」の口の中にホーンが見えた。下嘴は付け根に蝶番がある。下嘴の内側に柄があり、喉奥の柄の端
に付けたワイヤー?で、操舵室から開閉出来るようになっているようだ。目は自動車用フォグランプを用いている。
これで、16隻建造された白鳥型遊覧船の、13隻に会うことができた。彼女らが、再び湖水に航跡を描く日
の来ることを願いつつ、池田湖を後にした。

アップの際、9.04付リストも訂正を行った。今回の探索も、多くの方々にご協力を頂いた。お礼申し上げます。

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「大衆丸」登場の頃

2011-11-19 | 旅行
巻末に書き込んである日付を見ると、高校2年の時である。古書店で購入した『残存・帝国艦艇』は、
一晩で読了した覚えがある。この本に巡り会ったことで、船溜まりの小型船や遊覧船に目を向けるよう
になり、小型船への接し方が変わった。
著者の木俣滋郎氏は、後書きに「正直なところ、私はこの本に精も根も尽き果ててしまった」と記され
ている。情報の乏しかった時代、全国へ取材旅行を敢行して調査・撮影を進め、船歴を纏められたご苦
労は、筆舌に尽くし難いものがあったことだろう。
実は、先生にも懐かしい思い出がある。教育委員会事務局の仕事をしていた時である。回ってきた電話
は、地域の戦跡に関する照会であった。「木俣です」と名乗られた方に、思わず「残存帝国艦艇の木俣
先生でしょうか?」と、お尋ねしてしまった。その後数日間、先生と行動を共にし、砲台跡や赤錆びた兵器
の残骸の前で、実地にご教授いただくことになった。
先年、先生は鬼籍に入られた。今でも著作を拝読すると、にこやかに話される、先生の語り口調まで思
い出す。心よりご冥福をお祈りいたします。

ES船という上陸艦が陸軍にあって、戦後、その数隻が商船に転用されたことや、その後身に、「大衆丸」
という不思議な外観の貨客船があったことも、『残存・帝国艦艇』で知った。
小学生の頃のことだ。返還直後の父島には、米軍から貸与された自衛隊揚陸艦「しもきた」「しれとこ」
が度々来航した。集落内の狭い砂浜にビーチングし、バウドアを開いてランプを渡し、大型重機を陸揚げする様子
を、学校帰りに眺めた覚えがある。そんなバウドア付上陸艦が、太平洋戦争中、国内で建造されていたこと
や、戦後は商船に転用されたことに、興味をかき立てられたものだった。



九州郵船は太平洋戦争の前後に、大型貨客船二隻を始め、多くの所有船を失った。
画像の中央右側は「睦丸」で、1940.10.29壱岐湯本浦沖で座礁、沈没。左側の「珠丸」は、1945.10.14
壱岐勝本浦沖で触雷、沈没した。「睦丸」「珠丸」が並ぶこの画像は、社名が北九州商船時代の1929~
1934に撮影されたものである。

1947(S22).10.04、参議院運輸及び交通委員会は「博多、壱岐及び対馬間の國営航路実現促進に関する
請願」を審議している。この議事録は、戦後の壱岐対馬航路を検証する上で、重要なものとなっている。
戦後、博多を起点とする壱岐対馬航路は、戦火をくぐり抜けた「功丸」一隻で隔日運航したが、1947になり
航空機救難艇を改造した「阿多田丸」を投入。交互運航を開始し、一日一便となった。1947.08九州郵船は
「功丸」を命令航路の長崎~壱岐~対馬に転配し、博多~壱岐~対馬航路は「阿多田丸」一隻で、一日一
往復させるという運航に改めたのである。
議事録には「かくの如き小型船では、海上風波に際して、五日乃至一週間の欠航を見ること屡々であつて、
島民の不便困難は言語に絶するものあり」「これら小型船舶を以て貴重なる島民の生命財産を托し、名にし
負う玄海の荒波を乘り切るには、極めて危險不安を感ずる次第」と記されている。
また、「非常に無理なスケジユールでありまして、船員に対する労働状態も非常に苛酷」「又定員も僅か二
百四十名程度の船でございまして、これでは來るべき冬に対しまして到底航路が維持できない」とある。



この解決策として、博多港で隔離病棟になっていた「菊丸」に白羽の矢が立ち、1947.10.02に就航したので
ある。九州郵船のファンネルマークを付けた「菊丸」は『日本商船明細画報(1955刊)』に掲載されている。
しかしながら、あくまでも用船であり、航路の安定を図るためES船の導入が検討された。議事録を引用する。

上陸用舟艇でございまするが、SSという型の船が一時使用の許可をされるということに
なつておりましたので、同社にこれも斡旋いたしまして、一年間だけの一應一時使用を許
可いたした‥
このSSと申しますのは八百八十トンの船でございまして、上陸用舟艇に設計されており
ます。汽罐が九百馬力でございまして、大体十一海里の航海速力がございます。而もこれ
は帰還運送に從事しておりました当事に約七百人の旅客を運んでおいつた実績を持つてお
ります。併しこれは帰還輸送で何分相当の無理をいたしておると思いますが、これを適当
に改装いたしますならば、さした経費もかからないで、相当程度の旅客の收容が可能にな
るのでございます。これを菊丸の就航中に目下改装いたしまして、いつでも配給できるよ
うな態勢に置くように努力されております。大体三ヶ月くらいで改装ができ上る予定にな
つております。






「大衆丸」は大阪の占部造船所で「ES12」として建造された。終戦時は佐世保に居たようだ。
61955 / JPCA、830.89G/T、1943年、船客529名。船舶明細書には「ES改造貨客船(上陸用舟艇)」とある。
主機はディーゼル550HP×2なのだが、「右:日立櫻島、左:神戸發動機」とある。左右の主機メーカーが異なるのだ!
これには唸らされてしまった。この絵葉書はとても紙質の悪いタトウに入っていた。S24.07.22付スタンプが押され
ている。



一方、壱岐対馬航路に大阪商船が参入する計画が浮上する。議事録によると関係方面とのトラブルもあった
が、許可を得て、S22末竣工見込みの新造船(藤丸)計画が進んでいるとある。大阪商船の航路参入が成っ
たのも、「この冬は絶対に島民に御心配をかけることはない、かように確信をいたしておる次第」という、冬に
向けて、安定した航路を確保せねばならないと云う課題があった。藤丸は、藤永田造船所で1948.01.27進水、
05.10竣工している。「この冬」には、間に合わなかったようである。

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白鳥の湖 Part2

2011-09-04 | 旅行
1966年(S41)に相模湖に登場した白鳥型遊覧船の第一船「スワン丸」。大丸造船所(小田原)の
アイデアが詰め込まれた遊覧船の登場であった。建造された16隻を概観すると、船質も木造から
FRPを経て鋼船となり、100G/Tを越える船も建造された。
白鳥型遊覧船がニュースになったのは、1988.05.28に猪苗代湖で発生した「はくちょう丸」への
落雷による、焼失事故であった。当時も白鳥型遊覧船に興味を持っていたため、「首に落雷し客室
に延焼した」という報道を悲しく聞いたことを覚えている。夜間係留中の事故で、幸いにも人命に
は影響しなかった。以後、FRP製白鳥型遊覧船は建造されていない。

最近再び、白鳥型遊覧船がマイブームとなり、各地の「白鳥の湖」を歩いている。出会えた船を
建造順に並べてみたい。


はくちょう丸 諏訪湖園(諏訪湖)


ひめはくちょう 東条湖観光(東条湖)


白鳥丸 野尻湖汽船(野尻湖)


すわん 諏訪湖ロイヤルホテル(諏訪湖)


ニュースワン丸 勝瀬観光(相模湖)


はくちょう丸二世号 榛名商事(榛名湖)


ニューはくちょう 白樺湖観光センター(白樺湖)


はくちょう丸 磐梯観光船(猪苗代湖)


はくちょう丸 しぶさき(諏訪湖)


プリンセスオデット 富士汽船(山中湖)

現況 船名       運航       G/T 船質 建造年  建造所    備考
× スワン丸      勝瀬観光     18.58 木  1966.04  大丸造船所 第1船
○ はくちょう丸    諏訪湖園     27.20 木  1969.05  大丸造船所 現事務室
× はくちょう丸    榛名商事     19.03 木  1973.06  ?     第3船
? ひめはくちょう   東条湖観光    18.92 FRP 1976.04  大丸造船所
○ 白鳥丸       野尻湖汽船    36.03 FRP 1977.05  大丸造船所
× はくちょう丸    磐梯観光船    36.91 FRP 1977.06  砂賀造船所 1988.05.28全損
◎ すわん       諏訪湖ロイヤルホテル   101.00 FRP 1982.04  大丸造船所
○ はくちょう     池の平土地改良区 19.71 FRP 1982.06  大丸造船所 大阪府下に保管
◎ ニュースワン丸   勝瀬観光     16.00 FRP 1984.03  大丸造船所
◎ はくちょう丸二世号 榛名商事     17.00 FRP 1986.03  砂賀造船所
○ スワン       四国中央観光開発 19.00 FRP 1986.08  大丸造船所 池田町有
○ スワン2世     四国中央観光開発 14.00 FRP 1987.04  大丸造船所 池田町有
○ ニューはくちょう  白樺湖観光センター  19.00 FRP 1988.06  砂賀?
◎ はくちょう丸    磐梯観光船    68.00 鋼  1990.07  横浜ヨット 共有船
◎ はくちょう丸    しぶさき     82.00 鋼  1991.05  横浜ヨット 共有船
◎ プリンセスオデット 富士汽船     89.00 鋼  1992.06  横浜ヨット
   ◎:今夏の運航あり
   ○:船体残存
   ?:現状不明
   ×:船体解体済

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太湖汽船と病院船

2011-08-25 | 旅行
1882年(M15)に設立された太湖汽船(旧)は、翌年には「第一太湖丸」「第二太湖丸」を登場させ、
1884.05.15浜大津~長浜の鉄道連絡を開始した。両船は我が国造船史上、黎明期に建造された
鉄船で、興味は尽きない。東海道線の開通により、早くも1889.07に鉄道連絡は終焉を迎えている。
二隻の太湖丸は解体され、海に降ろされた。そこに太湖汽船が「外海営業」を行った端緒がある。
社史は「湖上営業」「外海営業」と区分しているところが面白い。
明治末期には、太湖汽船(旧)も1886年に設立の湖南汽船も、観光航路に軸足を移し、今も多くの
パンフレット類が残っている。



太湖汽船発行のデフォルメされた案内地図には、中央部に沖島が見える。
図にはスキー船(1930.01~)と水泳船(1931.07~)が描かれ、裏面のフリートリストに辯天丸(1935~)
が見当たらないことから、1932~34年に発行されたものと考えられる。



京阪丸に乗り込むスキー客。この画像は戦後のものだが、戦前においても、一晩で2000人を集客し、
浜大津から海津へ向け、7隻もの大型客船が続々出港したという。
社史は次のように記している。

遊覧季節が終了すると、昔ならば全く冬眠する太湖汽船にとって、
却って「冬来りなば」と待望せしめるものこそスキー船である。
何と云っても暖い船室に楽々と横臥して行くことの出来る所謂ス
キー・ホテル船の魅力を忘れてはならない。


戦前の時刻表では、往航は浜大津発0時、復航は海津発17時となっている。今、23:55に浅草駅を
発車する東武鉄道のスキー夜行列車「スノーパル」を思わせる。



『太湖汽船の50年』を見ていると、病院船として活躍した所有船があったことに気付く。病院船と
なったのは「吉生丸」(きっしょうまる)。1881年に英国で建造された「カッサン」が前身。2478G/T。
日露戦争勃発の前年、1903年(M36)に輸入され、太湖汽船は同年12.17原田十次郎より購入した。
一方、同日付で「第一太湖丸」「第二太湖丸」を尼崎伊三郎に売却している。
本船により、太湖汽船は朝鮮・北海道航路を開始。1904.02.18御用船を命じられ、1905.01病院船
となり、同年12.27御用船を解任された。この姿はその間のものである。
1912.04.01樋爪譲太郎へ売却され、樋爪商会を経て、1916堤清六、1917神戸東和汽船の所有となり、
1925頃抹消されている。

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沖島へ

2011-08-22 | 旅行
数年前になるが、「遺伝子が解く! 万世一系のひみつ 」(文春文庫)を読んだ。
「あなたと私のご先祖様は‥‥」という章に、ごく普通の日本人同士なら、江戸時代には
共通の先祖がいる可能性があり、戦国時代、室町時代まで遡れば、ほぼ確実にいる‥とあった。
以前にも、知人から同様の話を聞かされていて、なるほどなぁと、納得しつつ読了した。

船社史、造船史を調べる際、人物誌をもとに、船主や技術者の簡単な系図をメモしておくと、
それが思わぬヒントになることがある。自らの系図など、考えたこともなかったが、母方の
叔父宅に巻物の「兵法書」や「誓約書」「家系図」があったことを思い出し、国会図書館や
ネットで調べてみた。

計算上、8代溯ると父方、母方合わせて256人ものご先祖様がいることになるが、その一人は
沼田藩士で、江戸は下谷で剣術道場をやっていたらしい。江戸切絵図にその所在を確認できる。
下って5~3代前になると、墓所は滋賀県になる。なぜ、滋賀県なのか? 今ひとつ理解できず、
お参りする機会もなかった。

この夏、お袋を連れて滋賀県入りした。深夜に東京を発ち、早朝に琵琶湖畔に着いたため、
お参り前に沖島に渡ってみた。これまで3回ほど、長命寺港から堀切港にかけ、湖上の連絡船を
撮影するも、渡島は初めてとなる。



「おきしま」
沖島は近江八幡市の行政区域内にあり、国内淡水湖上、唯一の有人離島。定住者のいる湖上の
離島は、世界的にも珍しいという。シマダス(2007版)によると定住人口は483人。
堀切港7:15発の「おきしま」に乗船。本船は2009.02.01に沖島港で進水式、02.02に就航した。
建造費の一部を「バリアフリー施設整備」として、日本財団が支援している。
全長17.50m、幅4.00m、19G/T。10分ほどで沖島港に到着。漁港なのに潮の香りはなく、川魚の
においに満ちていた。



先代「おきしま」
沖島港には、先代の連絡船が係留されていた。操舵室脇に「おきしま」と読めるも、船尾には
「第二寿丸」とあった。1999年にエビ運搬船を改造して客船化した船という。



通学船「わかば」
沖島小学校前には通学船「わかば」が係留されていた。使われている様子はない。軽合金船で、
14.00×4.00×1.83、18G/T。1992.02に杢兵衛造船所建造。2代目通学船である。島内にあるのは
小学校のみで、中学生は本土へ通学しているとか。



島を離れる前、機材を積んだ車両を乗せた台船を引き、「おくむら丸」というタグが入港して
きた。鉄板を渡して車両は上陸。尤も、港の周辺を除き、集落内に自動車の通行できる道は無い。



初めて訪れたお寺では、90歳を越えるご住職にお話を伺えた。藩の剣術指南役として、5代前は
江戸から滋賀へ来たようだ。山門も本堂も江戸時代の建築という。
見ず知らずの地へ来た5代前。故郷を後にした3代前。先祖は、何を考えながらこの山門を
くぐったのか。遙か昔の先祖の生き様に思いを馳せるのも、時には必要なことかもしれない。
西日本各地に船を訪ね、いく度となく名神や新名神を行き来したが、その近くに先祖は眠ってる。

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白鳥の湖

2011-08-20 | 旅行
先日、一泊二日のツーリングで、榛名湖~野尻湖~猪苗代湖と一周してきた。
単なるツーリングではなく、白鳥の生息地めぐりでもある。

東北道を北上し、先頃全通した北関東自動車道を経由して榛名湖に入った。
夏の湖水を渡る風は、木々の緑まで溶かし込んでいるようで心地よい。幼い頃、
祖母から聞かされた「ひともっこ山」伝説を思い出しながら、「はくちょう丸二世号」
の出港を待っていた時である。
桟橋修理を監督されていた方と、ふとしたことから会話が始まった。
榛名湖への白鳥型遊覧船導入は、相模湖、諏訪湖に次いで三番目であったことや、
バランスの良い安定した船を造る砂賀造船所のことなど、お聞かせ下さった。
話の端々から、「はくちょう丸二世号」への愛情が感じられ、船好きにとっては
たまらないひと時であった。

白鳥型遊覧船の嚆矢は昭和41年に相模湖に登場した「スワン丸」であることは
有名だが、その全貌となると、まとまった資料は見当たらない。
ここ数年間に出会った白鳥型遊覧船は10隻。資料をあたってみると、JG船7隻、
JCI船9隻の、計16隻が建造されたと思われる。最後に建造されたのは平成4年。
ここのところ運航隻数は減る一方で、今夏は6隻となっている。

出会った10隻の白鳥の顔を並べてみたい。飼い主(オーナー)さんなら、一発で
ご自身の白鳥を見当てることだろう。




















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