津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

謎の解けた「効銕丸」

2017-12-17 | 日記
明治初期における汽船導入や造船技術の伝播は、如何に進んだのか。また、市井の人々は、日常生活の近くに
現れた汽船をどう捉え、その視線の先にどんな世界が広がっていたのか、それを知りたいと考えている。

『日の丸船隊史話』は「初期の國産鐵製汽船」として、「新潟丸」「興讃丸」「電信丸」に続き、「効銕丸」について次
のとおり記している。

‥明治14年阿波の徳島では効鐵丸と云う百八噸(登簿噸数)の鐵船が出来た。‥(略)‥但し効鐵丸は
大阪商船會社史中の船舶表には船質を木としてある。或は鐵骨木皮であつたかも知れない。


「効銕丸」を「鉄」製とした記録の内、最も遡れるのは『明治18年汽船表』(M18.01.01現在)。製造年月及び地名を
「明治14年4月、阿波国名東郡福島」と記している。当時の所有者は小川榮五郎(長崎県茂木)、航路は「島原、
博多、鹿児島」とある。果たして当時の徳島に、鉄船建造を可能とした条件は整っていたのか。資材を輸入し、徳
島で組み立てたのか。鉄船を建造する技術者はいたのか。そもそも何故、徳島なのか。長い間の疑問であった。

大阪商船創立の前、瀬戸内海方面における汽船導入の記録は断片的で、謎に満ちている。淡路島沖で発生した
「第三徳島丸」焼失事故を知って以来、折に触れ、徳島地方で発行された新聞を読み進めた。すると、地方史や
海事年表に採り上げられない、阿攝航路史の経過を知った。なかでも嬉しかったのは、「効銕丸」の謎解明に至
ったこと。

明治10年代初め頃、徳島に「徳島舎」はあった。汽船会社より汽船問屋が相応しかろう。徳島舎の発足は詳らか
ではないが、徳島舎の扱った「徳島丸」という汽船は、1875(M8)から記録される。その頃から営業していたのでは
ないか。1878(M11).6月に阿攝航路に就航した船名と船主は次のとおり。
徳島丸 諏訪善作(勝浦郡中田村)
大宮丸 宮崎忠二(名東郡船場町)
通天丸 長尾最平(名東郡助任町)
萬幸丸 日野徳太郎(名東郡南新居村)



徳島舎は、「第三徳島丸」を建造するにあたり、1878(M11).06新聞広告を掲載する。広告は「最早一艘にては御
便利の至りと申し上げ難く」「堅固にして能く走る新艘を製作」すること、及び新船(第三徳島丸)は「今般神戸工
作寮へ依頼」すると記している。新船建造にあたり、「第二第三を相設け」ること、及び「第一号は第三号落成の
後に製作すべし」とあり、広告時点で、旧来の「徳島丸」は「第二徳島丸」と改名している。
ところが「第三徳島丸」は、徳島から大阪へ向かう処女航海の途上、1878(M11).10.28夜、淡路島仮屋沖にて焼
失・沈没事故を起こし、70数名の人命が失われた。船体構造や機器完成度の低い事、また、操作・操船の未熟
さなどから、当時、汽船の爆発、焼失、衝突、座礁事故は頻発した。

新聞報道や風聞により、悲惨な汽船事故は知れ渡り、汽船の信頼は失墜する。この頃、西洋形風帆船を用い、
阿攝航路を開設するという記事や広告も現れる。新聞は「甚ダシキハ汽船ニ乗ルヲ以テ死地ニ就クカ如クニ思ヒ
上坂スル時ハ撫養ヨリ和船ニ乗シテ淡路ニ渡リ淡路ヨリ攝津ニ渡ル者モアリタリ」と記している。これが当時の徳
島の状況である。地域によって差はあろうが、この辺りの市井の人々の感覚に関心を抱いている。

1879(M12)中の新聞保存は少なく、5月の「第三徳島丸」船体引上成功後の、阿攝航路の経過は良く判らない。
「第三徳島丸」を失った徳島舎は、建造記録等から、「第一徳島丸」は登場させられなかった。
しかし、「徳島丸」から「第二徳島丸」への改名は行われたと見られる。新聞には、「第二徳島丸」(もと「徳島丸」)
が大阪へ入港し、先行の「第三徳島丸」が入港していないと判り、その異変(焼失事故)に気付いたと報道される。



大事故の発生や夜間航海の禁止により、個人船主は合同へと動いた。船場会社の明確な創立年月は判らない
が、恐らく1879(M12).8~9月頃。徳島舎は汽船問屋と見られるが、船場会社は株主を募っている。同社は1879
(M12).12.04船名改称広告を掲載した。
徳島丸→末廣丸 (徳島丸は第二徳島丸)
大宮丸→大和丸
萬幸丸→太安丸
続いて1880(M13).01.05には、「巳卯丸」「鵬勢丸」の登場を広告している。

船場会社創立翌年1880(M13)には、阿攝航路を独占した同社への風当たりは強くなる。3月の新聞紙面には「全
く航海の権は船場会社にあるより乗客にも充分満足するの取扱を欠く」と云う、巷間の不満が掲載された。「上等
の切符を購求して乗船しても点燈もなければ火鉢も無く屡々請うて火鉢を借り漸く暖を取る」「船場会社は恰も官
廳の如く役員は宛ながら官吏に優る権ありとの評判」とまで書かれる有様。

それらの記事は伏線だったのか、1880(M13).5月に地元徳島で太陽会社、10月に撫養会社は設立された。一方、
船場会社も体質改善に取り組み、福島において「末廣丸」更新(船体新造)に着手する。以下、新聞記事を引用
する。

名東郡福島町築地にて新製に取掛り居りし船場会社の汽船は末廣丸と名付け最早船體出来上りたれば
舊末廣丸の機械を据へ近日に落成を告くるよし (M13.07.25)

末廣丸の造船長は名東郡安宅村士族岡田六郎氏にして造船の術に長け壮年の頃より其業に従事し曾て
職を東京赤羽根工作局に奉し其後神戸工作分局へ出張し其道を究めたるゆへ該社の依頼を受け此工事
を為せしとぞ (M13.07.30)

船場会社の鉄艦末廣丸は今度木製に改造し其機関の据入れ出来たれば巳前の船体を船場町富強社に
て千円に購ひ入れ帆前船に造り換へ北海道より干鰯運送の用に供せん (M13.08.25)


新末廣丸の機器は、旧船の流用であった。また、末廣丸の旧船は鉄船、新船は木船となったと判る。船殻は売
却され、当初は干鰯運搬の貨物船と計画した模様だが、最終的には肥物商四宮廣二の所有となり、阿攝航路に
使用されることになった。

其巳前の船体を肥物商の四宮廣二氏が買い受けて此頃頻りに造作し神戸より極上等の機関を買入れ之
れを用いて阿攝間の航海をなさんと目論見居らるるよしなれど前にもいつる如き古船の殻に如何程結構
な器械を入れるとも指したる功はあるまじく歯落ちて唇寒しの歎あるに至るならんか (M13.12.02)


ひどい書かれようである。しかし、こう書いた記者も、翌年の1881(M14).05.11徳島大工町長酡楼で開催された同
船祝賀会に招待され、ちゃっかりと「社員両名席末に列し」、紙面には「船体は至極堅牢」「実地の航海をするに
至らば他船に優るあるも決して劣るとあるまじ」とまで書いている。



四宮廣二の購入した船殻は、1880(M13).12末に「効銕丸」と命名された。新聞には「船場町五丁目四宮廣二氏が
所有船効鉄丸は旧の徳島丸に大修繕(おおつくろい)を加へ殆ど新造同様のものにて鉄船に仕立て」とある。

1881(M14).02.12「効銕丸」は機器据付けのため、船場会社「巳卯丸」に曳航されて大阪へ向かった。同じ福島に
て建造された阿波国共同汽船「徳丸」が、1887(M20).12「阿津丸」に曳航されて神戸へ向かったことと同様、当時、
徳島にて機器を取付け、汽船を完成させることは不可能だった。

「効銕丸」は1881(M14).05.11船内縦覧と祝宴を終え、翌々日の13日大阪へ向けて処女航海の途に就いた。広告
や記事によると、航海路線は「阿攝間及び大阪より広島へも航海する序で神戸、岡山、高松、丸亀、多度津、鞆
浦、尾道等へ立ち寄り時宜によりては九州地方へも行くよしなり」。

船舶番号579「効銕丸」を初めて掲載する船名録は、『M15版』(M15.05刊)。大阪の平瀬藤太所有となっている。
同版は船舶番号136「末廣丸」も掲載している。抹消手続きが遅れたのか。また、船舶番号385新「末廣丸」さえ
重複掲載している。
1884(M17).05創立の大阪商船社史によると、「効鉄丸」は南方一郎より出資され、配船表に「後備船」とある。
ところが、船名録『M18版』(M18.10刊)には小川榮五郎(長崎)所有として掲載され、冒頭に記した『明治18年汽
船表』(M18.01.01現在)及び船名録『M20版』(M18.12.31現在)も同様。この点をどう考えたら良いのか。
東京湾汽船も、創立後の船名録『M24版』(M22.12.31現在)において、東京湾汽船名義船と合同前船主名義船
が混在する。その謎は解明したが、大阪商船に関しても、何らかの理由が存在すると考えている。



これは大阪商船1884(M17)10.01配船表。『大阪商船社史』によると、「効銕丸」は1887(M20).05水谷孫左衛門に
売却される。同年06.15付新聞には「四日市武豊間の航海」として、次の記事がある。

三重県下伊勢国四日市の人水谷孫左衛門といへるは此度大坂商船會社より汽船効鉄丸を買入れ四日市
武豊間即ち伊勢の内海に一航路を開くといふ


『船名録』に見る「効銕丸」の所有者の変化は次のとおり。
船名録『M21版』(M19.12.31現在)大阪商船会社
船名録『M22版』(M20.12.31現在)前田利助(熱田)
船名録『M23版』(M21.12.31現在)共立汽船会社(熱田)
船名録『M24版』(M22.12.31現在)から抹消される。

では一体、鉄船「効銕丸」の最前身にあたる「徳島丸」の素性は何だったのか。
当時の記録を確認したところ、何と、「徳島丸」は熊本藩の購入した「奮迅丸」の後身と判った。同船は『日の丸船
隊史話』巻末の「幕府並ニ諸藩艦船要目表」にも掲載されている。熊本藩「奮迅丸」の前身は、1865英国建造の
「Fairy」(鉄製暗車船)、熊本藩の購入は翌1866(慶応2)であった。

1865Fairy → 1866奮迅丸 → 1875徳島丸 → 1878第二徳島丸 → 1879末廣丸1880(廃船)
(船殻再生)1881効銕丸1889(廃船)                       

「効銕丸」は幕末輸入船の1隻であったという記憶は、大阪商船創立時には、既に失われていたと思われる。

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