1910(M43)年6月12日、岡山駅と宇野駅を結ぶ宇野線が開業した。宇野~高松航路は同日開設され「玉藻丸」「兒
島丸」を岡山(三蟠)~高松及び尾道~多度津航路から転用し、就航させた。

この絵葉書の光景は、宇野港の鉄道連絡桟橋を捉えたもので、「並行型浮桟橋」に着桟しているのは「兒島丸」。
左側の島影は葛島、右側の山塊は新浜造船所裏手の中山隧道のある山。この桟橋風景は、『鉄道連絡船細見』P75
の「A図」に一致する。撮影者の後方に宇野駅はある。同書によると、1910(M43).06~1924(T13).04の間の光景。
キャプションは「宇野築港と連絡船」としか記されていないものの、沖合には2隻の国鉄船の姿がある。新たに整
備された宇野港に、初めて入港した大型汽船と連絡船と絡め、意識して3隻を撮影したと思われる。
何と、沖合の2隻の汽船は「阪鶴丸」(左)と「第二阪鶴丸」(右)であり、これは1912(M45)年3月の光景と理
解した。

阪鶴丸 10154 / JWVF 775G/T、鋼、1906(M39).05、大阪鉄工所、187.0尺 [M45版]
「1尺」曲尺=0.3030303m

第二阪鶴丸 11081 / LFKS 864G/T、鋼、1908(M41).04、大阪鉄工所、187.6尺 [M45版]
「1尺」曲尺=0.3030303m
『宇高航路50年史』や『宇高連絡船78年の歩み』には、「阪鶴丸」姉妹の宇高航路助勤の経緯が記されている。
前者より引用する。
明治45年には金比羅宮三百年祭が大々的に催され、このため全国から集まる参拝客はあとをたたず、宇高
航路を通過する団体客は著しい数にのぼった。
この団体客を輸送するため、舞鶴から阪鶴丸・第二阪鶴丸の派遣を受け68回にもおよぶ臨時運航を行ない、
約6万人の団体客を輸送し、航路年間輸送量の4分の1強を占める実績をあげた。
この間の経緯を、鉄道院米子出張所の新聞広告や、『宇高航路50年史』『関釜連絡船史』『青函連絡船50年史』か
ら追ってみたい。
1912(M45)年2月29日に境~舞鶴航路は最終航を迎えた。鉄道院米子出張所による新聞広告は、紙面の破れや活字
潰れがあるものの、二月末日が最終航出港日と判る。
山陰線全通三月一日
濱坂香住間運輸営業開始
仝日ヨリ出雲今市京都間ヲ山陰線ト改稱シ大阪京都ヨリ直通列車ヲ運轉シ各等客車ヲ連結致候尚仝●ニ
阪鶴線、播但線及舞鶴宮津間、舞鶴小濱間連絡汽船●●改正又●來境舞鶴間ニ●航シタル連絡汽船ハ二
月末日限リ廃止致候
詳細ノ時刻ハ各停車場ニ掲示●之候
鉄道院米子出張所
1912(M45).02.25 「第二阪鶴丸」宇野港へ回着。
02.27 「第二阪鶴丸」宇高航路に助勤。03.20まで。
03.18 「阪鶴丸」宇野港へ回着。
03.21 「阪鶴丸」宇高航路に助勤。04月末日まで。
04.08 「第二阪鶴丸」貨物船として関釜航路に就航する。05.27まで。
06.05 「第二阪鶴丸」青函航路に就航する。1914(T03).07.25まで。
07.- 「阪鶴丸」阿波国共同汽船へ売却される。1916(T05).11沈没。
1914(T03).07.- 「第二阪鶴丸」阿波国共同汽船へ売却される。1916(T05).01「第十八共同丸」と改名。
この経緯から、宇野港における記録は「第二阪鶴丸」就航中のところへ「阪鶴丸」が到着した1912(M45)年3月18日
から、二日後の20日までの間と判った。風景を捉えた100年以上前の絵葉書から、撮影日を数日間に絞ることができ
るのは、とても珍しいこと。
もう一点。これは記されていないことだが、境~舞鶴航路の終末期は「阪鶴丸」1隻体制であったと判った。
以前、『「阪鶴丸」のその後』の中で、「阪鶴丸」の総トン数の変化から、改造を1910(M43)年中と記した。「阪鶴
丸」改造後の鮮明画像を掲載する『山陰線写真帖』を手にしたので、前後を対比する。改造前の通路は、カンバスを
張り、飛沫の打ち込みを防いでいるように見える。


改造前の「阪鶴丸」


改造後の「阪鶴丸」
当時より、境水道は埋立てられていると思われるが、ストリートビューで確認すると、阪鶴丸の桟橋は、山の重なり具合
や稜線から、現「境港駅」付近とみられる。
島丸」を岡山(三蟠)~高松及び尾道~多度津航路から転用し、就航させた。

この絵葉書の光景は、宇野港の鉄道連絡桟橋を捉えたもので、「並行型浮桟橋」に着桟しているのは「兒島丸」。
左側の島影は葛島、右側の山塊は新浜造船所裏手の中山隧道のある山。この桟橋風景は、『鉄道連絡船細見』P75
の「A図」に一致する。撮影者の後方に宇野駅はある。同書によると、1910(M43).06~1924(T13).04の間の光景。
キャプションは「宇野築港と連絡船」としか記されていないものの、沖合には2隻の国鉄船の姿がある。新たに整
備された宇野港に、初めて入港した大型汽船と連絡船と絡め、意識して3隻を撮影したと思われる。
何と、沖合の2隻の汽船は「阪鶴丸」(左)と「第二阪鶴丸」(右)であり、これは1912(M45)年3月の光景と理
解した。

阪鶴丸 10154 / JWVF 775G/T、鋼、1906(M39).05、大阪鉄工所、187.0尺 [M45版]
「1尺」曲尺=0.3030303m

第二阪鶴丸 11081 / LFKS 864G/T、鋼、1908(M41).04、大阪鉄工所、187.6尺 [M45版]
「1尺」曲尺=0.3030303m
『宇高航路50年史』や『宇高連絡船78年の歩み』には、「阪鶴丸」姉妹の宇高航路助勤の経緯が記されている。
前者より引用する。
明治45年には金比羅宮三百年祭が大々的に催され、このため全国から集まる参拝客はあとをたたず、宇高
航路を通過する団体客は著しい数にのぼった。
この団体客を輸送するため、舞鶴から阪鶴丸・第二阪鶴丸の派遣を受け68回にもおよぶ臨時運航を行ない、
約6万人の団体客を輸送し、航路年間輸送量の4分の1強を占める実績をあげた。
この間の経緯を、鉄道院米子出張所の新聞広告や、『宇高航路50年史』『関釜連絡船史』『青函連絡船50年史』か
ら追ってみたい。
1912(M45)年2月29日に境~舞鶴航路は最終航を迎えた。鉄道院米子出張所による新聞広告は、紙面の破れや活字
潰れがあるものの、二月末日が最終航出港日と判る。
山陰線全通三月一日
濱坂香住間運輸営業開始
仝日ヨリ出雲今市京都間ヲ山陰線ト改稱シ大阪京都ヨリ直通列車ヲ運轉シ各等客車ヲ連結致候尚仝●ニ
阪鶴線、播但線及舞鶴宮津間、舞鶴小濱間連絡汽船●●改正又●來境舞鶴間ニ●航シタル連絡汽船ハ二
月末日限リ廃止致候
詳細ノ時刻ハ各停車場ニ掲示●之候
鉄道院米子出張所
1912(M45).02.25 「第二阪鶴丸」宇野港へ回着。
02.27 「第二阪鶴丸」宇高航路に助勤。03.20まで。
03.18 「阪鶴丸」宇野港へ回着。
03.21 「阪鶴丸」宇高航路に助勤。04月末日まで。
04.08 「第二阪鶴丸」貨物船として関釜航路に就航する。05.27まで。
06.05 「第二阪鶴丸」青函航路に就航する。1914(T03).07.25まで。
07.- 「阪鶴丸」阿波国共同汽船へ売却される。1916(T05).11沈没。
1914(T03).07.- 「第二阪鶴丸」阿波国共同汽船へ売却される。1916(T05).01「第十八共同丸」と改名。
この経緯から、宇野港における記録は「第二阪鶴丸」就航中のところへ「阪鶴丸」が到着した1912(M45)年3月18日
から、二日後の20日までの間と判った。風景を捉えた100年以上前の絵葉書から、撮影日を数日間に絞ることができ
るのは、とても珍しいこと。
もう一点。これは記されていないことだが、境~舞鶴航路の終末期は「阪鶴丸」1隻体制であったと判った。
以前、『「阪鶴丸」のその後』の中で、「阪鶴丸」の総トン数の変化から、改造を1910(M43)年中と記した。「阪鶴
丸」改造後の鮮明画像を掲載する『山陰線写真帖』を手にしたので、前後を対比する。改造前の通路は、カンバスを
張り、飛沫の打ち込みを防いでいるように見える。


改造前の「阪鶴丸」


改造後の「阪鶴丸」
当時より、境水道は埋立てられていると思われるが、ストリートビューで確認すると、阪鶴丸の桟橋は、山の重なり具合
や稜線から、現「境港駅」付近とみられる。