「此花丸」に関連し、急航汽船について記しておきたい。船名録には、同社所有船として「兒島丸」「玉藻丸」
「此花丸」3隻の船名が見える。
鉄道省「兒島丸」「玉藻丸」は、1923(T12)「山陽丸」「南海丸」の登場により宇高航路から退役した。
『鉄道連絡船100年の航跡』によると、前者は6/15宇野港、後者は6/29高松港に係船された。1924(T13).3月「とも
に瀬戸内海汽船に売却された」とある。(売却先は錯誤)
知れ渡った鉄道連絡船の代替とあって、その売却先については、思惑、憶測が交錯したらしい。1923(T12).12.02付
四国地方版から引用する。
高松宇野間 舊連絡船拂下?
本年七月新造大型連絡船の就航と共に廢鑑となつて岡山縣宇野港内に目下残骸を横たへてゐる宇野
高松間の舊鐵道連絡船玉藻、兒島の兩船は其當時可なり譲受の希望もあつたが鐵道側では思惑の有
つてか相談に應ぜず徒らに憶測の種を作つてゐたに過ぎなかつたが昨今に至り漸くその方針も決定し
たらしく即ち愈拂下と決して目下詳細な價格の調査を行つてゐるが鐵道側の意見では既にお粗末過ぎ
又他に連絡用として用ふべき場所も無いから斷然さう云ふ方針に極めたものだらうと云つてゐる(高松)
尼崎伊三郎は1924(T13)急行汽船株式会社を設立(資本金50万円払込12万5千円)した。1920年代の尼崎家は、
1920(T9).3尼崎造船部を発展解消、法人組織の合名会社尼崎造船所を設立。同年5月尼崎汽船部を尼崎船舶合
名会社に、翌年1月合名会社尼崎汽船部と改組した。船名録に見る所有船数も、1922末30隻から1926末38隻
(急航汽船3隻含)に急増している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/e5/8f4c360e12c182ea09306f4fe17cac24.jpg)
この尼崎汽船部航路図に急航汽船の記載は無い。この図には、1925(T14).8開設の倉橋航路や1928(S3).5新設
の下関支店門司出張所が記され、1933(S8).1開設の飾磨航路は未記載となっている。その間のものと見られる。
急航汽船は、設立当初、鉄道連絡急航汽船という社名だったらしい。「鉄道連絡」は、「海の白鳥東海汽船」や
「船のデパート関西汽船」の類ではないかと考えていたが、どうやら社名の一部のようだ。
1925(T14).3.05「汽船兒島丸汽罐損傷事件」の際は、同船は「尾道宇品両港間ノ定時連絡航海ニ従事シ居タル」
とされ、社名は「鉄道連絡急航汽船株式会社」とある。1928(S3).7.26「汽船兒島丸短艇接触の件」は、「香川県
仲多度郡多度津ヲ発シ各所ヲ経テ広島県佐伯郡厳島ニ至ル航行ノ途」に発生し、社名は「急航汽船株式会社」と
なっている。裁決録が社名を省略・誤記するとは考えにくく、社名変更の裏付けを得たと考えている。
また、「船名録」もT15版(T14.12.31)は「鉄道連絡急航汽船株式会社」で、S2版(S1.12.31)は「急航汽船株式会社」
となっている。社名変更は1926中か。
時刻表によると、宮島・多度津航路は急航汽船と瀬戸内商船の「協定航路」となっている。その航路は、尼崎
汽船部「中国航路」の一部と並行している。何故、別会社を設立したのか、判らない。急航汽船当時の「兒島丸」
「玉藻丸」画像は4点見つかっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/16/3e9fc33f08dcdad98bbb8e5e71742224.jpg)
船名不詳 (多度津港) 「此花丸」と同位置と思われる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/d2/671c24fe922f5e11d079c00aeff5c2df.jpg)
船名不詳 (宇品港)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/58/73ea83458e911fd99913212b1b53c103.jpg)
船名不詳 (宇品港) 両社の煙突マークの対比が面白い。この画像の右手には「菊水丸」の姿がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/e3/16eddd15ea75810b6e355dbf2d0355e6.jpg)
玉藻丸 (三津浜港) 手前は「第十相生丸」。沖合に「第十五相生丸」が停泊する。煙突の地色は黒となっている。
同社は1943(S18)合名会社尼崎汽船部を吸収合併し、尼崎汽船株式会社と改称された。尼崎汽船株式会社の母体と
なったのは、合名会社尼崎汽船部ではなく、急航汽船株式会社であった。
「此花丸」3隻の船名が見える。
鉄道省「兒島丸」「玉藻丸」は、1923(T12)「山陽丸」「南海丸」の登場により宇高航路から退役した。
『鉄道連絡船100年の航跡』によると、前者は6/15宇野港、後者は6/29高松港に係船された。1924(T13).3月「とも
に瀬戸内海汽船に売却された」とある。(売却先は錯誤)
知れ渡った鉄道連絡船の代替とあって、その売却先については、思惑、憶測が交錯したらしい。1923(T12).12.02付
四国地方版から引用する。
高松宇野間 舊連絡船拂下?
本年七月新造大型連絡船の就航と共に廢鑑となつて岡山縣宇野港内に目下残骸を横たへてゐる宇野
高松間の舊鐵道連絡船玉藻、兒島の兩船は其當時可なり譲受の希望もあつたが鐵道側では思惑の有
つてか相談に應ぜず徒らに憶測の種を作つてゐたに過ぎなかつたが昨今に至り漸くその方針も決定し
たらしく即ち愈拂下と決して目下詳細な價格の調査を行つてゐるが鐵道側の意見では既にお粗末過ぎ
又他に連絡用として用ふべき場所も無いから斷然さう云ふ方針に極めたものだらうと云つてゐる(高松)
尼崎伊三郎は1924(T13)急行汽船株式会社を設立(資本金50万円払込12万5千円)した。1920年代の尼崎家は、
1920(T9).3尼崎造船部を発展解消、法人組織の合名会社尼崎造船所を設立。同年5月尼崎汽船部を尼崎船舶合
名会社に、翌年1月合名会社尼崎汽船部と改組した。船名録に見る所有船数も、1922末30隻から1926末38隻
(急航汽船3隻含)に急増している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/e5/8f4c360e12c182ea09306f4fe17cac24.jpg)
この尼崎汽船部航路図に急航汽船の記載は無い。この図には、1925(T14).8開設の倉橋航路や1928(S3).5新設
の下関支店門司出張所が記され、1933(S8).1開設の飾磨航路は未記載となっている。その間のものと見られる。
急航汽船は、設立当初、鉄道連絡急航汽船という社名だったらしい。「鉄道連絡」は、「海の白鳥東海汽船」や
「船のデパート関西汽船」の類ではないかと考えていたが、どうやら社名の一部のようだ。
1925(T14).3.05「汽船兒島丸汽罐損傷事件」の際は、同船は「尾道宇品両港間ノ定時連絡航海ニ従事シ居タル」
とされ、社名は「鉄道連絡急航汽船株式会社」とある。1928(S3).7.26「汽船兒島丸短艇接触の件」は、「香川県
仲多度郡多度津ヲ発シ各所ヲ経テ広島県佐伯郡厳島ニ至ル航行ノ途」に発生し、社名は「急航汽船株式会社」と
なっている。裁決録が社名を省略・誤記するとは考えにくく、社名変更の裏付けを得たと考えている。
また、「船名録」もT15版(T14.12.31)は「鉄道連絡急航汽船株式会社」で、S2版(S1.12.31)は「急航汽船株式会社」
となっている。社名変更は1926中か。
時刻表によると、宮島・多度津航路は急航汽船と瀬戸内商船の「協定航路」となっている。その航路は、尼崎
汽船部「中国航路」の一部と並行している。何故、別会社を設立したのか、判らない。急航汽船当時の「兒島丸」
「玉藻丸」画像は4点見つかっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/16/3e9fc33f08dcdad98bbb8e5e71742224.jpg)
船名不詳 (多度津港) 「此花丸」と同位置と思われる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/d2/671c24fe922f5e11d079c00aeff5c2df.jpg)
船名不詳 (宇品港)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/58/73ea83458e911fd99913212b1b53c103.jpg)
船名不詳 (宇品港) 両社の煙突マークの対比が面白い。この画像の右手には「菊水丸」の姿がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/e3/16eddd15ea75810b6e355dbf2d0355e6.jpg)
玉藻丸 (三津浜港) 手前は「第十相生丸」。沖合に「第十五相生丸」が停泊する。煙突の地色は黒となっている。
同社は1943(S18)合名会社尼崎汽船部を吸収合併し、尼崎汽船株式会社と改称された。尼崎汽船株式会社の母体と
なったのは、合名会社尼崎汽船部ではなく、急航汽船株式会社であった。