津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

急航汽船のこと

2012-10-16 | 尼崎汽船部
「此花丸」に関連し、急航汽船について記しておきたい。船名録には、同社所有船として「兒島丸」「玉藻丸」
「此花丸」3隻の船名が見える。

鉄道省「兒島丸」「玉藻丸」は、1923(T12)「山陽丸」「南海丸」の登場により宇高航路から退役した。
『鉄道連絡船100年の航跡』によると、前者は6/15宇野港、後者は6/29高松港に係船された。1924(T13).3月「とも
に瀬戸内海汽船に売却された」とある。(売却先は錯誤)
知れ渡った鉄道連絡船の代替とあって、その売却先については、思惑、憶測が交錯したらしい。1923(T12).12.02付
四国地方版から引用する。

高松宇野間 舊連絡船拂下?
本年七月新造大型連絡船の就航と共に廢鑑となつて岡山縣宇野港内に目下残骸を横たへてゐる宇野
高松間の舊鐵道連絡船玉藻、兒島の兩船は其當時可なり譲受の希望もあつたが鐵道側では思惑の有
つてか相談に應ぜず徒らに憶測の種を作つてゐたに過ぎなかつたが昨今に至り漸くその方針も決定し
たらしく即ち愈拂下と決して目下詳細な價格の調査を行つてゐるが鐵道側の意見では既にお粗末過ぎ
又他に連絡用として用ふべき場所も無いから斷然さう云ふ方針に極めたものだらうと云つてゐる(高松)


尼崎伊三郎は1924(T13)急行汽船株式会社を設立(資本金50万円払込12万5千円)した。1920年代の尼崎家は、
1920(T9).3尼崎造船部を発展解消、法人組織の合名会社尼崎造船所を設立。同年5月尼崎汽船部を尼崎船舶合
名会社に、翌年1月合名会社尼崎汽船部と改組した。船名録に見る所有船数も、1922末30隻から1926末38隻
(急航汽船3隻含)に急増している。



この尼崎汽船部航路図に急航汽船の記載は無い。この図には、1925(T14).8開設の倉橋航路や1928(S3).5新設
の下関支店門司出張所が記され、1933(S8).1開設の飾磨航路は未記載となっている。その間のものと見られる。
急航汽船は、設立当初、鉄道連絡急航汽船という社名だったらしい。「鉄道連絡」は、「海の白鳥東海汽船」や
「船のデパート関西汽船」の類ではないかと考えていたが、どうやら社名の一部のようだ。
1925(T14).3.05「汽船兒島丸汽罐損傷事件」の際は、同船は「尾道宇品両港間ノ定時連絡航海ニ従事シ居タル」
とされ、社名は「鉄道連絡急航汽船株式会社」とある。1928(S3).7.26「汽船兒島丸短艇接触の件」は、「香川県
仲多度郡多度津ヲ発シ各所ヲ経テ広島県佐伯郡厳島ニ至ル航行ノ途」に発生し、社名は「急航汽船株式会社」と
なっている。裁決録が社名を省略・誤記するとは考えにくく、社名変更の裏付けを得たと考えている。
また、「船名録」もT15版(T14.12.31)は「鉄道連絡急航汽船株式会社」で、S2版(S1.12.31)は「急航汽船株式会社」
となっている。社名変更は1926中か。
時刻表によると、宮島・多度津航路は急航汽船と瀬戸内商船の「協定航路」となっている。その航路は、尼崎
汽船部「中国航路」の一部と並行している。何故、別会社を設立したのか、判らない。急航汽船当時の「兒島丸」
「玉藻丸」画像は4点見つかっている。


船名不詳 (多度津港) 「此花丸」と同位置と思われる。


船名不詳 (宇品港)


船名不詳 (宇品港)  両社の煙突マークの対比が面白い。この画像の右手には「菊水丸」の姿がある。


玉藻丸 (三津浜港)  手前は「第十相生丸」。沖合に「第十五相生丸」が停泊する。煙突の地色は黒となっている。

同社は1943(S18)合名会社尼崎汽船部を吸収合併し、尼崎汽船株式会社と改称された。尼崎汽船株式会社の母体と
なったのは、合名会社尼崎汽船部ではなく、急航汽船株式会社であった。

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北前船主邸めぐり

2012-10-07 | 旅行
ここのところ内務省曳船が頭から離れない。鮮明な「運輸丸」の画像を眺める度、謎は深まるばかり。
東京の、何処の図書館にも所蔵されない九頭竜川工事記録誌があり、その確認を兼ね、まずは現地に身
を置いてみようと、碓氷を越え、反時計回りで福井に向かった。



東尋坊を訪れたのは5年ぶりとなる。当日就航した遊覧船4隻の一回転する間、断崖上から眺めた。
「第五雄島」(右)と「第六雄島」。三国港に戻り、お雇い外国人によって設計・施工され、1880(M13)に
竣工した三国港突堤に立つ。近代的工法による初の河口改修工事とされ、地元の豪商6名が発起人とな
った。明治10年代に全盛期を迎えた北前船の寄港を支えた突堤で、現在も導流堤兼防波堤としての機能
を果たしている。
山上に見える「みくに龍翔館」を訪れた。エントランスのベザイ船「三国丸」の模型(1/5縮尺)や、三国の
町並みの模型も展示されていた。ここは寄港地のみならず、船主の所在地であった。北前船主を意識した
のは初めてだった。木津川を歩いた際、船囲場跡を訪れていたことも影響した。数カ所あると聞いていた
資料館を訪れてみようと、持参した地図を開いた。この付近においては、北の橋立と南の河野に記載を見
つけた。
目的の永平寺町「九頭竜川資料館」を訪れてから、予定していなかった橋立へと向った。かつて、ここは
「日本一の富豪村」と称され、数軒の船主邸が残っていたことに驚かされた。全く関心無かった世界を知
り、この夏以降二回、北陸入りした。訪れた船主邸を並べてみたい。


角海孫左衛門邸(輪島市門前町)


銭屋五兵衛邸 [移築](金沢市普正寺町)


酒谷長平邸(加賀市橋立町)


酒谷長蔵邸(加賀市橋立町)


大家七平邸 [非公開](加賀市大聖寺瀬越町)


右近権左衛門邸(南越前町河野)

大家家と右近家は徐々に汽船に切換え、社外船主の一翼を担った。「北前船主の館・右近家」には、汽船
の模型や写真も展示されていた。なかでも山荘展示館の「福井丸展」は圧巻だった。「福井丸」には2檣と
3檣の別があり、閉塞船は3檣の1462 / HKDV、2檣は乗替えた8952 / JRPTと見られる。





展示されていた汽船写真の台紙に、見覚えがあった。
手許にあるこの「やはた丸」は、右近権左衛門「八幡丸」ではないかと考えていた。別アングルの船影は、
同館刊の図録「北前船主の館 右近家」に掲載されている。河野村刊の別資料に「旅順攻撃に赴く第三軍の
兵士の輸送にあたった」とある。同船は、日露戦役中に輸入された外国船124隻中の1隻。
7664 / JRCW、4312G/T、1886(英)、ARARA。後に山下汽船に売却され、裁決録によると1915(T4).05.26
エジプトにて大阪商船「馬来丸」と衝突して失われた。

北陸めぐりの帰路、善光寺をお参りしてから、下道を塩田平に向かった。
13代前の先祖の一人は武田信虎、晴信の二代に仕え、相模から甲斐に移り、その頃、小笠原長時の娘を
娶ったとされる。(‥となると、「娘」は小笠原諸島を発見したとされる貞頼の叔母か?! ) 小笠原氏と縁戚
になったことを好まぬ武田晴信から、越後の上杉・村上両将の首級をあげるよう命じられ、果たさず帰国し
たことから放浪。信濃は丸子の地に蟄居し、後に、塩田平周辺に居を構えた。
塩田平は稲の刈り取りの真っ最中であった。塩田平を囲む山々の姿も、秋の実りも変わらなかろう‥と考え
つつ、舞田駅の下り方に立って上田電鉄を撮影。もと東京急行の7200系がやって来た。何の予備知識も無く
レンズを向けたが、残るは2編成らしい。



記録によると、先祖は代を追って真田、青山、松平と仕え、9代前から上田藩医となり、上田市内の寺に墓
所はある。10代の頃、松本運転所の70形電車を追いかけ、幾度となく訪れた上田の街。ルーツの地のひとつ
とは、当時、知るよしもなかった。

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